人体星月夜
初夏だというのに、もう本格的な夏を思わせる蒸し暑い昼下がり。日差しを避けて木陰を辿りながら、僕達は海沿いの道を歩く。足元から立ち上る陽炎。彼方のマンション群が揺らいで見える。映画館の効きすぎたクーラーに慣れた身体には、少しきつい。どちらからともなく、綺麗に舗装された道を外れて、木陰の下に並ぶベンチへと芝生を突っ切って行く。イヤホン片方ずつ分け合ってるから、僕達の距離はコードの長さ分。付かず離れずのんびり歩く。
「少し不便だな」
「文句言わないの」
この暑さなのに、コードのせいでくっついて座る。流石にこの時間に外に出ている奇特な人間は、僕達以外にはほとんど居ない。稀に見かけたにしても、誰もが足早に通り過ぎる。暫くすると汗も引いて、木陰を吹きぬけていく心地よい風に僕の瞼は重くなる。昨夜もっと早く寝ておくんだった。柔らかい後悔を覚えながらも、睡魔の甘美な誘惑に絡めとられて僕は実体をなくし風になり、遠い記憶の底に潜る。いつも特別に意識はしていないけれど、それは胸の奥に横たわっていて、何かの拍子に顔を覗かせる。僕の隣には治兄さんが居て、あの頃の僕達はいつも手を繋いでいた。
車が停まった瞬間に、僕ははっと気付く。いつの間に眠っていたんだろうか?後部座席で、僕は治兄さんと並んで座ってる。ドアが開く。すると、車に駆け寄ってくる子ども。僕より少し小さいみたいだ。その子は、僕達を見て建物の方に駆け戻って行く。そこには、少し年嵩の少年が立っていた。
「可愛い子が来たよ、お兄ちゃん!」
その子が自分の兄に向かってそう言うのを聞き、僕は苦笑いをする。この頃の僕は、いつも女の子に間違われていたんだ。兄さんはくすくす笑ってる。僕は言い返したいのに、何も言えないもどかしさを覚える。ここの家の子も二人兄弟。ここは海の近くの伯父さんの家。パパとママが玄関のところでずっと話し込んでるから、僕と兄さんは、この家の兄弟の視線に晒されっぱなしだ。僕は不安になって兄さんを見上げる。兄さんは僕の顔を見て、にこっと笑った。それだけで僕は安心する。
「好きなのをあげるよ」
僕達は居間に通されて、珍しい貝を見せてもらっていた。細長いコップの中にいくつもの貝が飾られている。その家の兄弟の手によって、僕の目の前のテーブルにいくつかの貝が並べられた。触ると痛そうな、繊細な棘のあるもの。壊れてしまいそうに透明感のあるもの。鮮やかで艶やかな光沢のあるもの。僕は目を見張った。そのうちの一つに手を伸ばした。僕がその貝に触れるより早く、横から手が伸びてくる。兄さんの手の中に隠れてしまう小さな貝。
「賢、これはとても脆い貝なんだよ。見ててごらん」
そして、ぎゅうっと握り閉める手の中で、かしゃっと乾いた音がする。ゆっくり開かれた掌の上で、無数の破片が虹色に輝いている。キラキラと光る欠片が、僕の胸のどこかをチクチク刺激する。ごめんなさいって言わなくちゃ。唖然となってるあの子たちに僕は謝ろうとするのだけど、声が出ない。僕は堪らずに、ぎゅうっと目を瞑った
目を開けたら、さっきの居間は消え失せていて、僕はどこだか分からない道の真ん中に立っていた。兄さんは何も言わずに、ただ僕に手を差し出した。説明のつかない微かな違和感に戸惑いを覚えながらも、僕はその手を掴んだ。足元が頼りない。ふわふわした浮遊感。兄さんと手を繋いで歩くなんて、何年ぶりだろう?歩きながら、記憶の中をゆっくりと僕は辿る。隣を歩く兄さんを見上げて、必死に歩いていたあの頃。今なら同じ歩幅で歩く事が出来る。僕と兄さんは、今はほとんど同じ身長なんだ。むしろ、僕のほうが少し高い。そうだ、兄さんの時間はあの時に止まったままだから。不思議な感じが付き纏っていたのは、そのせいだったんだ。きっとこれは夢じゃない。夢であって欲しくない。兄さんが僕のところに帰ってきてくれたんだと思いたい。
「ねえ、どこに行くの?」
おかしいな、僕の口調はまるで幼いあの頃のままみたいだ。
「賢。僕と一緒ならどこにでも行けるよね?」
行くってどこへ?このまま手を繋いでいたら、僕は兄さんとどこまで行けるんだろう?兄さんは僕とどこに行くつもりなんだろう。曖昧に頷きながら、僕は兄さんの横顔を見つめる。視線に気付いた兄さんは、僕を見て微笑んだ。その途端、胸の奥で説明のつかない何かが、一気に膨れ上がった。
『どうしてあの時、貝を壊してしまったの?』
今なら聞ける。今こうして僕の右手を掴んでる兄さんになら。僕が口を開きかけたその時。
「急がないと」
そう呟くと、今までよりも兄さんの歩くスピードは早くなる。兄さんと手を繋いで歩いている真っ直ぐな道。道の先は暗く霞んで見えない。まるで夜に向かって続いてるようだ。足が重い。何故だか僕は先に進めなくなる。そんな僕に構わず、兄さんはどんどん歩いていってしまうから、繋いでいた手は自然と離れてしまう。
『置いていかないで、治兄さん!』
叫びたいのに、声が出ない。どんどん遠ざかる後ろ姿に向かって、僕は心の中で必死に呼び掛けた。頭の中が真っ白になる。握り締めた拳に力を入れる。
「お……兄さ……お兄ちゃん!!!」
僕は、久しく呼んでなかったその言葉を、とうとう口にすることが出来た。……果たして、兄さんは僕を振り向いてくれた。不思議そうな視線が僕を捕えて、一瞬のちに何もかも全て納得したというように頷いて、兄さんは僕の所まで戻って来てくれた。兄さんの手が僕の頭にそっと置かれる。
「そうか……。見ない内にお前の背は随分伸びてたんだな」
だってあれから何年経ったと思っているの?背丈だけじゃなく、僕は兄さんの年齢だって追い越してしまった。
「賢、お前はこの先も僕を越えていくね」
少し寂しそうな兄さんの声、僕ははっとなる。また会いに来るよと言って、兄さんは霞んで見える道の先に目を向けた。さっきまでその先には何も見えず、ただ闇が広がっているばかりだと思えたのに。眼前に広がるのは、数えきれないほどの星が散りばめられた空。てっぺんには一際輝く大きな星と、それを取り巻くいくつかの惑星状星雲。肉眼でここまで鮮明に見える筈のないガスの塊と濃い塵が作り出す雲状の輝きが、手を伸ばせば届くのではないかと思われるほどに近く見える。そうそれはまるで、先日手に取った本の中にあった、ハッブル望遠鏡が捉える自然の織り成す人智を超えた美しさそのもの。
「どんなに変わっても、僕はきっと賢を見付けられると思うよ」
「待って、お兄ちゃん!僕も一緒に行くよ!!」
なのに、僕の足は重くて動かない。そうしているまにも兄さんはどんどん行ってしまう。その道はどこへ続いているの?星の光に照らされながらも、後姿は段々遠くなる。僕の声は届かない。兄さんは、もう振り向かない。今にもその背中は掻き消えてしまいそうになって。行かないで、行かないで、置いていかないで。
「一乗寺!!!一乗寺!!!……一乗寺!?」
何度も呼ぶ声に僕は唐突に意識を引き戻された。すごく近くに高石の焦った顔があるのに驚く。
「僕は一体……」
僕は慌てて半身起こす。そこは、先ほどと寸分違わぬ一面芝生に覆われた公園。何故だろう、頭がグラグラする。僕は目を閉じ深呼吸して、混沌とした記憶を整理する。僕は、夢を見ていたんだ。懐かしく胸を締め付けてくる、思い出の中にだけ生きる兄さんの夢を。
「急に眠り込んじゃって、何度呼んでも起きないんだもん。熱中症かなんかかと思って慌てたよ!!」
「え?!」
高石は一気にそれだけ言うと、力が抜けちゃったみたいになって、へなへなと芝生の上に座り込んだ。その手の中に、携帯電話が握られてる。
「僕はどれくらい寝てた?」
「えっと……あ、15分てとこ。もう流石に救急車?とかって……。ほんと焦ったー!!」
「そうか……。って、まさか呼んでないよね?」
僕を見て高石が笑った。朗らかな笑い声と共に差し出される右手。僕はその手を見つめて、それから高石の顔を見る。青い瞳
は少しだけ不思議そうに、僕を見つめ返す。胸の奥に大切にしまい直したこの記憶を、いつか君に話して聞かせる日が来るかもしれないと、僕は漠然と思う。その時には言葉は要らないから、どうか今みたいに微笑んでいて欲しい。これからも僕の隣で同じ物を見て何かを感じ、共に成長し、生き続けていく僕の大切な人。さっきまで繋いでた筈の手の温もりは、今は消えう
せていて少し寂しい。だから僕は、差し出されたその手を躊躇することなく握り返した。僕達は伸び上がって、空を見上げる。青々と茂る芝生の上を吹き抜ける海風が、繋いだ手の長さ分だけ近づいた二人の間をすり抜け、僕の髪を撫ぜていった。
END