ステイヒア







ボクはまっすぐ歩いて行って、ここはいつもの通学路。今は夏休み、なのに学校に向かって行ってるから、何か用事があったはず。それを思い出そうと少しのあいだ考えて。そうだ、なんでこんな大事な事一瞬でも忘れていたんだろう……。ボクは校門の前で待ち合わせ。真上から照りつける太陽がじりじりと、服から露出したボクの腕を焼く。君は待っている。遠くからでも見間違える事の無い、その立ち姿。ボクは走り出したい気持ちを我慢してゆっくり君の元へ。君が手を振るからボクも振り返す。君の前までようやく辿りついて、深呼吸してから。

「お待たせ。随分待たせちゃった?」

それなのに……。
君の瞳はボクを映してないんだ。君の視線の先を振りかえる。そこには大輔くんが居て、そして君は名前を呼ぶ。

「大輔!遅かったじゃないか」

とても嬉しそうに名前を呼び、君は手を差し出す。大輔くんがその手を取って、そして二人は通りを横切って歩いて行ってしまう。ボクはそれを見送るだけしか出来ずに、ただ突っ立っている。ボクに気が付かなかったのかな。いいや、気付いてる。君の視線がボクを確かに捉えて、それでも、つと顔を背けるのを見てしまったから。喉元まで何かがせり上がってきて、ボクはこのままじゃ吐いてしまう。その辺一面にぶちまけて、立っているのもままならず、その中に倒れ込んでしまう。





「うわあぁぁぁっ!!!」

自分の叫び声で目が覚めた。後味のなんと悪い夢。しばらく手の震えが収まらない。時計を見たら、午前2時。このまま眠るなんて到底無理。だって眠ったら、さっきの夢の続きを見てしまう。ボクはベッドから這い出して、ベランダに出た。夜の海を見る。黒くて暗い、静かな海。こんな時間だからか誰も居やしない。いや、居ないと思っていたけど居た。物好きな人間なんてどこにでもいるもので、浜辺に座って音楽聴いたりしてるのが。ぼんやりと漂ってくる物憂い歌声。あんな歌を、こんな夜に眠れずに聴いているなんて、なんてぴったり嵌まるのだろう。べランダの柵越しに、ボクはその夏の終わりを告げるような音に耳を傾ける。こんな時、泣いてしまえたら楽なんだろうけど。目の奥は乾いたままで、凭れてぼーっとしてるのも何だか疲れたんで、ボクは部屋に戻る。喉の渇きを癒すために、キッチンで水でも飲んでから寝直すことにする。





夢の続きを見たい時は、パジャマを裏返してから眠るといいんだよ。そんな雑学知っててどうするんだか。現にボクは夢見が悪くて、こうして眠れず連想ゲーム。暗い海、暗い空、黒い砂浜、気だるいメロディ。一頃とは違う、冴えてきた空気。その風景の中に、俯き加減の白い頬が浮かぶ。ボクは君の瞳が見たい。まるで暗い海みたいに凪いでいる、静かな黒い瞳。いつもこうして連想してて、行きつく先は君の立ち姿。もし君があの浜辺に立って、暗い海を眺めているのだとしたら。今も罪の意識に苛まれているのだとしたら。ボクは今すぐ駆けて行って、君を救ってあげたい。抱きしめて、もうそんなに自分を追い込むのはやめるんだって諭してあげたい。でも、いつもそこまで考えて、おかしくなって自分に言い聞かせる。彼を救ってあげられるのはボクじゃない。そして救いは、いつも彼の側に居る。今更何を期待してるんだろう。ボクは愚かだ。




朝が来て、ボクはいつもの時間に目を覚ます。何事も無くやり過ごす日々。仕事が忙しくなると母さんは、何日か家を空ける。その度に、石田の家へ行きなさいと言う。はーいと返事をすると安心する。この頃じゃ家に居ても物騒だしって言うけど、それを言い出したら切りが無いよ。第一石田家だって、あんまり当てにならないんだから。父さんは、いつもかなり遅くならないと帰ってこない。お兄ちゃんだって、バンドの練習とか、打ち上げとか、いろいろ忙しいみたいだし。だからボクは学校の友達を呼んじゃったからとか、お兄ちゃんが来てくれたからとか、あの家に行かなかった理由をでっち上げる。真実に薄々気付いてる母さんは、事後承諾なんだからって言って、いつも苦笑いをする。でもやましいから怒らない、怒ればボクの行き場が無くなるって分ってるから。そしてボクは段々と無口になる。一人、部屋で歌を口ずさむ。あの夜に聴いた歌は、その後、偶然題名を知ることが出来て、ボクはお小遣いでCDを買った。夏の終わりに、魂の空虚を歌う歌。その歌を聴く度、寂寥感でボクの胸は一杯になる。ここで涙でも零せれば、ボクも夜の海で波と戯れながら、叶わなかった夏の夢を暗い海に手放す事が出来るのかな。その思いつきはあんまり陳腐で、ボクは少だけ笑った。そしてCDはクローゼットの奥に押し込んでしまった。




ボクは小さな頃、一人っ子になったことになかなか慣れなくて、子犬をねだった事がある。ボクの後を付いて来る、丸々肥った暖かい生き物が欲しかった。マンション住まいだったから、それは叶わなくて、変わりに縫いぐるみとオモチャが与えられたけど、体温のないそれらのモノはボクの慰めにはならなかった。今も犬を連れて散歩している人を見ると、あの頃の郷愁を思い出してじっと見つめてしまう。飼えなかった子犬、ボクは空想の中で犬を育てた。今でもふらふらとこうしてさ迷い歩く癖は、頭の中に犬を飼ってるせいなんだ。つぶらな黒い目を思い浮かべて、ボクは幸せな気持ちに包まれる。

『come on!』

人気の無く寒々しい色の浜辺、ボクは見えない犬に呼びかける。犬は転げそうになりながら、ボクに向かって走ってくる。犬に夢中になってたから、後ろから名前を呼ばれて飛びあがるほど驚いてしまう。

「なにそんな吃驚してんだよ」

「お兄ちゃん……」

心の中で『Stay!』と声を掛ける。犬はボク以外には見えないんで、一人ぽつんと立ってるのはかなり怪しく見える筈。素早く頭の中でぐるぐると言葉を探す。

「最近家に来ないよなあ、たまには顔見せに来いよな?親父も寂しがってる」

相変わらずぶっきら棒に聞こえる言い方に、ボクはちょっと微笑んでみせる。素直にボクは頷いて、わかったとだけ答える。肩にギターケース抱えて、バンドの仲間と連れ立って。少し傾いだ背中が遠ざかるのを、ボクはいつまでも見送っていた。気付いたら、犬はいつのまにか消えていた。





犬が居ない時の散歩は切ない。家に帰ろう。元来た道を戻りかける。ちょうどボクから死角になる樹々の奥まった所、きゃんきゃん聞こえる喧騒。子犬達がじゃれてる。見なくてもそれがわかる、全然可愛げの無い、でかい子犬。犬を連れてないボクが彼等に会うなんてかなり珍しい。一般的な区分では仲間と言える間柄の、ボクを苦しくさせる存在。自然足が重くなる。それでもボクは、意を決して声を掛ける

「なに痴話げんかしてんのさ、みっともないよ?」

「あっ!タケル。だってよう、賢のヤツ……」

まんまるの目を余計に丸くして、大輔くんは早口でボクに。それに耳を傾けてる振りをして、ボクは一乗寺くんの様子を盗み見る。突然の部外者の登場に憮然として、まだ赤いままの頬。しょっちゅう君はこうしてこの辺に来てるんだというのに、こうして出会う確率はほんの僅か。これはほんの偶然。なのに胸が熱くなる。

「ねえ……それって……犬も食わないって」

「へっ?」

大輔くんが呆気に取られてボクを凝視する。一瞬の後に一乗寺くんが抗議の声を上げる。赤い頬に余計に色が差す。大輔くんに教えてあげなよ、まだわからなくてぼんやりしてるから。大輔くんの足元に転がるサッカーボール。ボクはほんの少し、意地の悪い気持ち。

「大輔くん!」

言うが早いか、ボールを明後日の方向に蹴り飛ばす。あっという間にボールは見えなくなった。

「走って取っておいで!」

「てめー!タケル!覚えてろよっ!」

大輔くんが弾かれたように走って、ボールの後を追いかけて行く。栗毛色の子犬は脚が早くて、あっという間に見えなくなった。

「あははっ!大輔の慌てた顔ったら」

朗らかに笑う一乗寺くんに驚いて、ボクは振りかえる。お腹を抱えて大笑い、その拍子に黒くて艶やかな髪が撥ねる。

「怒らないの?」

「なんで僕が怒らなくちゃならないんだ?」

「へーぇ、なんか驚いた……」

そう?って一乗寺くんはさっさと歩いて行ってしまうから、ボクは後を追いかけて行く。振りかえっても、大輔くんの姿はまだ見えない。

「待ってなくていいの?」

「だって喧嘩してたんだぜ?」

犬も食わないってヤツ?君はそう言って、瞳の中を悪戯っぽく煌めかせた。ボクはふいに、そこから目が離せなくなった。知らないよ?って返したら、なんで君がそんな風に言うんだって、急に立ち止まってボクを見つめるものだから、隠してた筈の本音が思わず口をついて出る。

「君と大輔くんて、喧嘩なんかしないかと思ってた」

「まさか!いくら仲良くたって意見の相違くらいあるだろ?ましてや大輔は……」

僕をとことん甘やかすから……。君の声が段々と霞む。度を越したあまりにも寛大な親友の態度に、君が大いなるジレンマを感じてるであろう事に、ボクは薄々気付いてた。少し胸が痛む。この痛みの正体が分って、少し苛ついた。

「君を一人前に扱ってくれない?」

君の目がボクを真っ直ぐ捉える。なんで驚いてるんだろう、君と大輔くんをずっと見てれば、そんな事。居たたまれないじゃない、そんな風に。無言の数秒、目を逸らしたのはボクの方で、そこで向こうから近付いて来る影を見つけた。ボクの犬が戻って来る。砂の上を、こけつまろびつ駆けて来る。近くなるにつれて、犬は大輔くんの姿に重なり、影となり。ボクはポケットの中のビスケットを握り締めた。大輔くんは雲の隙間から覗く夕日を照り返して、ボク等の元に戻って来る。手の中のざらついた感触、横を見たら、一乗寺くんが眩しそうに目をそばめていた。ボクの視線に気が付いて一乗寺くんは微笑むと、その黒い瞳が柔らいだ。大輔くんの声が、静かな浜辺に響く。ボクはゆっくり目を閉じて、見えない犬に別れを告げた。










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