第一部 須佐之男命I ―叢雲の剣 誕生篇―
第一章 誓約
壱
「きゃぁぁぁぁぁっっ!!」
大きな悲鳴と共に、一糸纏わぬ女神達が泉から逃げてくる。
彼女達が気持ち良く水浴びをしていたところ、突然、何十匹もの蝦蟇蛙が上空から降ってきたからだ。
同じ頃、男神達は唖然としていた。昨日までに作っていた新田の畦道が悉く壊されていたからだ。
「またか・・・。」
彼女達の姿を鑑賞しつつ、ある男神は嬉しそうにそう呟き、又ある神は畦道を見て、ため息混じりにそう言った。
あれほどの多くの蛙をばら撒き、一夜にして畦道を壊せるほどの素早さと力を持つ神は、たった一人しか存在しなかった。
いや、そんな悪戯をするのは奴は彼だけだ。
この天津神達の住む雲の上の美しく神聖な世界「高天原」で「別天津神五柱」の次に現れた「神代七代」の一人にして「国津神」や魔物達が生息する「豊葦原千秋長五百秋瑞穂国」(豊葦原中国)を創り、現在、高天原を治める最高にして最古の神「高天豊地 明著 千国根凝 大地根凝 神伊耶那岐命」(イザナギ)の三貴子唯一の男神「天開 国開 天津霊隆 猛速須佐之男命」(スサノオ)しか・・・。
「本当に申し訳ありませんっ!弟がまたまた迷惑をかけまして・・・。ちゃんと言って聞かせますから・・・。」
イザナギの宮殿には連日、何人もの神々がスサノオの悪戯に対して苦情を訴えてくる。
が、イザナギはそんな文句や怒鳴り声を全く気にする気配が無い。
しかたなく、スサノオの姉である「斎基栄気 厳之大神霊 天疎 日向津霊女命」(ヒルメ)がいつも弟や父に代わって謝るのだが、この高天原一と言われるヒルメ、月読姉妹の美しさに大抵の神は怒る気も失せ、満足して帰っていくのだ(男神限定)。その姉妹に会う為だけに来る神も多い。
ただ、帰る時に神々は、皆同じことを考えるらしい。
「なぜあれほど高貴な親子の中に、あんな落ちこぼれができるのだろうか・・・。」
と・・・。
弐
「おいおい、これから高天原を統治しようっていう奴が、そんなに腰を低くしてどうする。もっと堂々としなきゃあ。」
神々が帰って一段落すると、奥からイザナギが眠そうな顔をしながらヒルメのもとへやってきた。
「もうっ、高天原を統治している人が、そんな偉そうにしてどうするんですかっ!それでは他の神々に信頼されなくなってしまいます。少しはお父様からもスサノオに何か言ってやってくださいっ!」
ヒルメは今まで、一回でもイザナギがスサノオを叱ったところを見たことがなかった。
確かに自分達も叱られることは無かったが、それは別に叱られるようなことをしなかったからであって、スサノオとはわけが違う。
イザナギは、
「三人とも素晴らしく貴い神なのだから、怒らなければならないところなんてひとつもない。」
と言っているが、どうしてもヒルメには納得できなかった。
今日にしたって、
「泉に蛙を入れたのは、この頃の日照りで蛙達の沼が干上がったから、水浴びをさせてあげたかったからだろうし、新田の畦道を壊したのは、これ以上神の手で自然を破壊し、作り変えるのを嫌がったからだろう。」
と、弁護こそすれ、全く怒る気配が無い。
だから結局、長女のヒルメが弟と父の代わりに謝るのだ。しかも毎日・・・。
これでは彼女でなくとも気が滅入ってしまう。実際彼女は毎日不機嫌だ。今は理性でじっと我慢しているが、いつ切れるかわからない。
現に、今度の大事件はそれに起因しているのだが、それはまた後の話である。
「ま・・・またお兄様が何か・・・何かなさったのですか・・・?」
奥の方からか細い声が聞こえてくる。見ると、奥の柱にもたれかかりながら、今にも倒れそうな美少女がこっちを見つめていた。
彼女が三貴子の末っ娘「真夜耀火澄 厳之明津霊 月読之女命」(月読)である。
「あなたには関係の無いことよ。これ以上病が悪くならないように今は寝ていなさい。」
ヒルメはなだめるように月読に言う。彼女はもともと生まれた時から病弱で、生活のほとんどが布団の中なのだ。だからヒルメは月読に余計な心配をさせないように、できるだけ悪いこと(特にスサノオの悪さ)を話さないことにしているのだが、月読はどこからともなくスサノオの噂を聞き、心を痛めているらしい。
誰かしら皆、スサノオに迷惑しているのである。