伍
さすがに夕方頃になると、女神達もスサノオを捜すのを諦め、各々、家に帰っていった。
その様子を木の陰から見ていたスサノオは、やっと一息ついて、隠れ家である森の中から出てくる。
もう夕闇が高天原を包みこんでおり、多くの家々に明かりが灯っていた。皆、食事の準備を始めているのだろう。かまどの煙も見える。
その家々の間をかいくぐりながら、スサノオはある場所を目指す。しかしそれはイザナギたちのいる宮殿ではない。
イザナギたちの宮殿(つまりスサノオの住居でもある)は小高い山の頂上に作られている。
が、スサノオの向かった先は頂上の宮殿ではなく、ふもとの宮殿(外宮)であった(伊勢神宮の上宮、下宮を思い出してもらいたい)。
「大気都、大気都比売はいるかーっ!?」
「はい、只今。」
スサノオが玄関から呼ぶと、いそいそと一人の女性が彼の前に現れる。スサノオよりニ、三歳は上だろうか、高貴さはないが、美しい大人の女性だ。
「あら、スサノオ様。こんな時間にどういたしました?」
大気都はそう言いながらも笑顔を見せる。全てわかっていて聞いているのだろう。
「夕飯、食わせてくれない?腹減ってるんだ。それから、酒も。」
スサノオはちょっと気まずそうな顔で大気都を見つめる。
「あら、そんな畏まらなくてもいいじゃないですか。いつものことですし。」
彼女は笑ってそう言うと、すぐさま奥へと引っ込む。彼女の手際のよさを見れば、誰にでもスサノオが、この宮殿にいつも通っていることがわかるだろう。
夜道を帰りながら、スサノオは考えた。自分の今日の所業は全て、姉の元にも届いているだろう。ヒルメの怒った顔が浮かぶ。彼女は外面はいいけど、身内に対しては厳しいからな、とスサノオは思う。ならば、今日も夕食にありつけることはできないだろう。
ではどうすればいいのか?
夕食を作った本人に貰えば良いのである。
大気都比売はイザナギの食物から生まれた蚕と穀物の女神だ。彼女は生まれてからずっと、イザナギ達の食事の世話をしているのである。
幸いにも、大気都の住む食物殿はイザナギたちの宮殿から少し離れた麓に建てられている(火事災害防止の為と思われる)。よってヒルメ達が訪れることは少ないのである。
以前、スサノオにはイザナギと月読の他にもう一人、味方がいると書いた。それが彼女、大気都である。
彼女はスサノオが、ヒルメの罰によって食事を食べさせてもらえない時であっても、「ヒルメさまには内緒ですよ。」と言って食べ物を届けに来てくれたりしたのである。
だからスサノオはある意味、ヒルメよりも大気都を姉のように慕っていた。
「もう粗方片付けてしまったので、残りものしかありませんが・・・。」
そう言いながら大気都が出してくれたものは、量は少ないながらも海の幸、山の幸を取り揃えており、味は格別だった。
「はい、これをどうぞ。」
更に彼女は、器に白く濁った液体を注ぎ、スサノオに渡す。この時代における酒(濁り酒)である。
スサノオはそれほど酒は強くないが、飲むのは大好きなのだ。彼に何回か酌をしながら、大気都はおずおずと話しはじめる。
「あの、スサノオ様。もう明日には成人の儀でございます。高天原の政治を行なうかもしれないのです。
だから、もうこれ以上周りの方々に迷惑をかけるような行為は、お慎みになられた方が・・・。」
「わかって・・・いるよ・・・。でも・・・もう田畑を・・・開墾する必要はないんだ。田んぼのために木を切り倒し・・・、泉から・・・水を引き、動物達の住処を奪う・・・。そんなことは・・・。」
そう言いかけたまま、スサノオは後ろに倒れ、寝てしまった。酒がまわってきたのであろう。昼に逃げ回った疲れもあるのかもしれない。
くうくうという寝息を聞きながら、大気都はスサノオを見つめていた。
(この方は・・・。)
初めて彼女は、スサノオの本当の心を聞いたような気がしたのだ。そのとき、
「やっぱり、ここに居たのね。」
「あ、ヒルメさま!?」
大気都はすぐにその場で頭を下げて控える。
外でスサノオと大気都の話し声を聞いたのであろうか、部屋の入り口には、怒りとも困惑とも違う、一種安堵の表情にも似たヒルメが、腕を組んでじっと立っていたのである。
「まったく、周りに心配かけるだけかけておいて、自分は酒飲んで寝ているなんていい身分だわ。もう。」
ヒルメはそう言うと、スサノオの前に座り、彼を引っ張り上げる。
「じゃあ、スサノオつれて帰るね。」
「あの、ヒルメさま。スサノオさまは今、寝についてしまったばっかりです。少しの間そっとしてあげた方がよろしいかと。」
「でも、これ以上大気都に迷惑はかけられないわ。」
「私は大丈夫です。スサノオさまを起こしてしまう方が可哀想ですわ。」
「そうかしら?」
「そうですよ。」
「なら・・・もう少し待ちましょう。」
ヒルメの言葉を聞いて、大気都は嬉しそうに「ありがとうございます。」と言うと、膳の上の食器類をさっさと片付ける。
奥からヒルメのためにお茶を持ってきたときには、ヒルメはスサノオの寝顔をじっと覗き込んでいる最中だった。
「どうしたのですか?」
「ん?いや、こいつ、寝顔だけは可愛いのにねって思って。」
「くすっ。」
「な、なによ?」
「いえ、ヒルメさまがスサノオさまのことを可愛いなんて言うの、初めて聞きましたから。」
大気都比売の耳にも、いろいろな噂は入ってきている。
曰く、ヒルメとスサノオは、イザナギの次の高天原の支配権を巡って、日夜抗争を繰り返しているだとか、お互いを憎しみ、罵倒しあっているだとか、喧嘩しているだとか、逆に口もきいていないだとか・・・。
そんな噂を、ヒルメは悉く否定した。
「そんなことないわ。そりゃ確かに、スサノオが周りに迷惑かけるたびに、こいつなんていなけりゃいいのに、なんて思うこともあるわよ。
でも、憎んでなんかいない。だって、スサノオは私の大事な弟なんだもの。」
そう言って、スサノオを見るヒルメの顔は、確かに穏やかだった。それは、いつも毅然としていた彼女には似合わないほどであったが、逆にそれが、二十歳の娘の本当の顔ではないか、とも大気都は思った。
「でも、ひょっとしたら明日、ヒルメさまはそのスサノオさまに仕えなければいけなくなるのかもしれないのですよ。」
「それは・・・お父さまがそう決めたのであれば、逆らう理由はありませんわ。私、それほど政権に興味はありませんし、多分スサノオもそうでしょうしね。」
ヒルメは一旦そこで話を終らせたが、ふと政権のことである神のことを思い出し、こう付け加えた。
「でも、今一番政権の座を欲しがっているのは、私でもスサノオでもなく・・・“オモイカネ”でしょうね・・・。」
と・・・。