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場所は北部ウェールズ・レクサム。競技場以外何もない。こんなところに観客がほんとに来るのかとちょっと不安にもなった。しかも朝からどんよりと曇り、時折大雨強風。サモアの鉄人達は雨でも風でも関係ないが、ジャパンに雨はまずい。 「初戦ですべてが決まる」とジャパンの選手、関係者すべてが口をそろえ、この試合にすべてをかけた。グランドでウォーミングアップをしている声が聞こえたので、腹ごしらえをして、スタンドに早々と座わった。ジャパン、雨と寒さのせいもあるのかちょっと硬い感じがしたが、相当気合は入っている。(そうかこれがワールドカップかあ。)試合前の緊張感をほんの少し(久々?)に味わった気がした。 しかし、すべてをかけたのはサモアも同様であった。後から聞いた話だが、サモアの監督ブライアン・ウィリアムスは選手達のアップ中(もちろん大雨強風であったのだが)、ブレザー姿にネクタイをレインコートに包み、わざわざ革靴をトレーニングシューズに履き替えて、グランドに立っていたそうだ。選手達と同じ空気を吸いたかったに違いない。 それがなんだと言われるかもしれないが、すべてを掛けたときの人間の振る舞いと言うものに、僕はたいへん興味がある。次ぎにまた目をひく光景が見られた。バックスタンドにいたため、国歌斉唱での選手達の整列具合がうしろからよく分かった。日本選手ひとりひとりの背中に、高ぶる緊張感が漂っていた。顔は見えなかったが、最高の顔に違いない。しかし、サモアはジャパンとは全く違った緊張感を発していた。サモアの国歌が始まると、サモアの選手は全員肩を組みひとつに繋がったのだ。 ここで言いたいのは、個人の気合の高い低いではなく、チームであるひとつの集団があるものにすべてを掛けたときに見られる光景をサモアは自然に作り上げたとことである。では、肩を組めばよいのか?ここではどっちが集団としてふさわしいかを問うているのではなく、単にサモアの背中からの方が「チーム」という姿を見せられた気がしたのだ。 立ち上がり、ジャパンの個人の気迫はサモアのFWかBKか分からないサイド攻撃を低いタックルでしのいだ。SO・広瀬も一歩でも前でタックルを試みる。メシっという音が聞こえる度に彼の体を心配した。しかし、すぐに立ち上がりポジショニングをし、またタックル。厳しい顔は一瞬もひるまない。頼もしい。もう一人、心動かすプレーヤーがいた。ロバートゴードン。どう見ても、体はきつそうである。フィジカルな面だけで言えば、若き全盛期のころよりはるかにスピードも持久力も落ちているはずである。しかし、この試合での彼のボールへの働きかけは、その体力面とスキル面を超えたところにある気がした。ゲームではいかに自分の持っているスキルを生み出すか勝負である。よってその場面を多く持つ選手ほど、よいプレーヤーである。ゴードンのディフェンスに注目すると、ディフェンスと言うひとつの仕事が終わるまで、自分の体を殺さないことである。ここではあえて、タックルとディフェンスという意味を分けた。タックルはボールキャリアを倒す為の行為。ディフェンスは敵の攻撃を防ぐ為の行為、いわばボールを奪う為の行為。よって、ディフェンスの一手段としてタックルが含まれることであり、ディフェンスはタックルとは限らない。ゴードンは、どんなにいいタックルが決まっても、それがディフェンスとして効果がなければ、直ちに起きあがりボールを追い、時にタックルではなく敵が持っているボール自体に飛び込む。 先に体力面とスキル面を超えると書いたが、これは精神面を言いたいのではない。これは人間力と言うか人間としての総合力がグランドの上にプレーとして表現されることである。それは気合の声や顔、激しいコンタクトにあらわれるというよりも、むしろ激しいコンタクト後の(倒れながらの)最後のあがきやもがきの方が感じ取りやすい。もっとも僕が刺激を受けるのは、選手の「指先」である。事実、指先だけが何とか引っかかったタックルもしくはボールへの絡みがビッグゲームでの分かれ目だったりする。 この試合、ゴードンの指先には魂が感じられた。 前半、しのぎにしのいだサモアの攻撃を、後半、突き放されたのは、もちろん体力的問題もあるが、指先がちぎれてはずされるタックルミスが大きな原因であろう。タックルは前半と同じ様に低く行っていた。体力が消耗するのは当たり前である。握力も落ちる。今回サモア戦で後半ジャパンが切れた原因はいろいろあるだろう。しかし、個人の指先にある緊張の切れが、チームの切れを引き起こしてしまったのだと思った。今後この指先に注目したい。 |