「色ガラス」
倉庫の片隅、入口からはちょうど死角のところに
色褪せた茶色の2人掛けのソファが埋もれるようにそっと置いてあったのを偶然見つけて以来、
疲れが溜まった時に舞は誰にも告げずにその場所を訪れていた。
権力を持つ芝村一族にいることで陰口を叩かれるのはいつものこと。
世間から色眼鏡で見られることは珍しくないけれど、ふと疲れてしまう事がある。
心の中に影が差すそんな時に、この秘密の場所は舞にとって
かけがえのない休息を取れるところだったから
今日は好きな世界史の授業をサボってまでここに来たのだった。
堅苦しいほど結ばれた胸のリボンを解きそっとソファにもたれる。
バネが緩めになっているクッションの具合が、身体ごと包まれるようで決して悪くない。
――近頃はほぼ隔日、運が悪いときは毎日の割合で出撃が続いている。
皆が疲労の色を隠せない日々を送っていた。
授業中や仕事中に倒れる者も出ている毎日の中で
体が少々弱い自分はむしろ上手くやっている方なのだろう。
誉められても良いほど舞は努力していた。
負けん気の強い性格だから、そんなことは決して表に出さないけれど。
ちょうど良い加減に暑くもなく、寒くもない春の日だまりが射す場所。
ひどく混乱した世界からここだけ切り離されているみたいだ、と彼女は思う。
光の間から雪のようにこぼれ落ちる埃さえ穏やかだ。
いつか本で読んだ海の底の様子がちょうどこんな風だった気がする。
リアリストの自分に海の底、などと非現実的なことを考えさせるほどの力を持つ場所なのか。
……それとも、これは私があまりにも疲れているせいか?
澱のような思いと緩い日差しのせいでぼおっとした舞の頭にはその区別は付かなかった。
「おや、先客がいましたか」
ボンヤリとした眼差しで舞は声の主を見た。一瞬誰か分からなかったのは
焦点のずれと逆光のせいだけではなく、
その声の主、善行忠孝司令がいつも掛けているトレードマークの色付き眼鏡を外していたからだろう。
彼の存在に気づいて直ぐに舞は頭を通常モードに切り替えた。
リボンを解いている自分を恥ずかしいと思った。
◆
5121部隊・善行忠孝上級万翼長。
「冷静で優秀な司令」として九州の学兵の中では知る人ぞ知る存在である。
その手腕は、この不利な戦況の中で誰一人としてこの小隊から戦死者が出ていない事から
明らかだった。
しかし、冷徹なやり方を取るが故に一部の隊員からは嫌われていることもまた確かである。
自分が司令ならああする、こうすると彼らが批判しているのを
隊内の世情に疎い舞ですら何回も耳にした。
司令を批判する者は誰のせいでこの部隊がここまで順調に動いていると思っているのだろうか?
戦力も物資も発言力も不足しているこの小隊で、これほどの成果を上げていることが
むしろ奇跡なのだ。…と彼女は反発者に対して怒りに近い感情を抱いていた。
◆
その怒りが遂に爆発したことがある。3日前の昼休みの話だ。
「最初の戦闘の時にさあ、善行司令の『子供が逃げ遅れている』ってヤツ、
あれ嘘だったって話だぜ?あの時は弱い幻獣しか居なかったから良かったけどさ、
俺たち嘘で殺されそうになったってワケだ。たまんねえよー」
何処から仕入れてきたのか、滝川がそんなことをクラスメイトに話していた。
普段なら滝川などハナから相手にしないけれど、その日に限って舞は間を割って会話に入った。
「嘘を付くことが必要なこともある。
そなたが言う通りあれが嘘だとしても、善行は我々を鼓舞するために仕方なかったのであろう」
滝川は芝村の物言いにカチンときたらしく舞に突っかかってきた。
「それで俺たちが死んでもいいって事かよ?」
「軍人だから仕方ないであろう。我々は駒にしか過ぎぬ」
「でも、程度ってモノがあるじゃねーか」
舞はやれやれ……といった風情で首を振り、滝川をキッと見据えた。
「……表に出るか、滝川。そなた物事が分かっておらんようだ」
「何だとぉ!」
滝川は激高して舞の襟元を掴む。
「キャー、2人ともやめてぇーな!」
加藤の悲鳴が教室に響いた。
喧嘩した2人が狭い小隊隊長室に呼び出されたのはその日の授業後すぐのことだった。
「経緯は全て聞きました。2人とも、何やってるんですか。隊内の規律をきちんと守って下さい」
書類で一杯の机の上の僅かな空間で長い指を綺麗に組んだ善行が
あきれたように眼鏡を光らせた。
「先に喧嘩を売ってきたのは芝村の方です」
口元に絆創膏を貼った滝川がきっぱりと反論する。
「言い訳は聞きません、滝川十翼長」
善行はピシャリと言い放ち、冷静に続けた。
「幻獣との戦争中に、味方である小隊の中で戦争してどうするんです。…さ、仕事に戻りなさい」
ふてくされた滝川に続いて舞が隊長室を出ていこうとしたとき、
書類の山の中から善行はひとことだけ呟いた。
「芝村さん、私をかばう必要はないですよ。士官は嫌われるのも仕事のうちですからね」
善行の視線は、薄い色ガラスのレンズの反射のせいで舞の方からは見えない。
「私は、私の正しいと思うことをしたまでだ!そなたをかばった訳ではない」
舞は振り返って善行の方を向き、叫びに近い大声を放つとさっときびすを返してハンガーの方角へ走った。
胸にもやもやしたものを抱えながら。
その気持ちはどれだけ仕事に打ち込んでも、訓練で邪念を払おうとしても消えなかった。
「善行の言う通りだ。私が冷静で無かっただけだ…そう、分かっている。それなら、私はなぜこんなに胸が苦しい?」
狭いシャワールームで、頭から水を被りながら舞は必死で不明な感情をうち消そうとした。
無意識に咬んだ薄い唇から血が滲むのにも気づかずに。
◆
目の前の男を見て舞は「そんなこともあったな」と戦いの日々の中の出来事を思い出した。
他人に恩を売るつもりなどない。ましてや、それで何か返して貰おうなんてことは卑怯だ。
でも、どうしてあの日だけは違ったのだろう?何故悲しいと思ったのだろう。
その原因は舞には未だ分からなかった。
「芝村さん、横に座ってもいいですか?」
舞は善行の声で我に返った。
「ここは私個人の場所ではないのだから、私に認可を得る必要はないぞ」
「そういう訳じゃないんですけど……ま、いいか」
善行は呟いて頭をかくと舞のすぐ隣にひょいと座った。クッションが僅かに撥ねた。
二人は狭いソファに並んで座った。しばらく沈黙が場を仕切った。
その中で、先に切り出したのは善行の方だった。
「実はあなたに一つ言いたいことがありました。私が今日ここに来たのは偶然ですが、
ちょうど来て良かったです」
「何だ」
舞は訝しげに訊ねる。それがいつもの彼女の調子だが。
「先日の喧嘩の件です…芝村さん、あの時は、どうもありがとうございました」
善行のその台詞に舞は「?」という表情を取った。
(……お礼を言われるようなことはしていない。むしろ、あの時私は注意されたのに、何だ)
彼の口から発せられた言葉を舞は疑問に思い、反論する。
「善行、そなたは『士官は嫌われることが仕事だ』と言った。
あれは単に、短気な私が喧嘩を売っただけのことだ。そなたは何も気にするでない。
私の思慮の浅さが問題だったのだ……」
舞は俯いて両手の拳をぎゅっと握りしめ、再び沈黙した。
善行は胸ポケットからいつもの眼鏡を取り出すと、ふっ、と薄茶色のガラスのレンズに息を吹きかけ、
今度は腰のポケットから取りだした小綺麗な白色のハンカチを使い
慣れた手つきでキュッと軽く拭って再び胸ポケットに仕舞った。
そして言った。
「自分が嫌われることは諦めてます、仕事ですから。」
善行は少し寂しげな、陰のある表情を浮かべた。
眼鏡を外しているせいか、それともすぐ隣にいるせいなのか。
彼の感情の揺れがじかに舞に伝わってきた。
「ですが。あなたは私のことを気に掛けて、滝川くんにあのように言ってくれたんでしょう。
あなたの、その『心遣い』に対して私は礼をするのを忘れていました。本当にすみません」
「………。」 舞は何も言わない。
その隙を縫って善行は言葉を続ける。
「喧嘩することはもちろんいけません。ですが、
それ以前に、他人が自分を思ってしてくれた事には感謝しなければいけません。
どうも私は忙しくてそこまで頭が回らなかったようです。後で気づいて、とても後悔しました。
『後』で気づくから『後』悔。って言うんですけど…なんてね」
つまらないですか?私の冗談はいつも受けないんですよ。とひとりで善行は苦笑する。
部屋の微妙な暖かさのせいだろうか、体温が少し高いな。動悸もする。と舞は感じた。
それとも、私は風邪をひいたのか?それならしっかり休まねば…
「でも今日、私の気持ちを伝えることが出来てよかったです。授業をサボった甲斐がありました」
善行は舞の方を見て、両頬でにっこり笑った。
「あ、顔が赤いですよ。どうかしましたか?」
「い、いや、なんでもない。なんでも…」
舞は明らかに照れていた。
◆
善行は両指を組んで、腕と足を「うーん」と軽く伸ばした。
「この場所は、ちょっと休むのに最高なんですよ。
司令はあまり大っぴらにサボれないので…適度に休息をとらないと仕事の効率に響くんですが、
立場が高いとそれもなかなか難しくてね。
だから、ここで少し寝てもいいですか?どうもここの所疲れ気味……で……」
舞が返事をするより前に、善行はすぅすぅと寝息を立てはじめた。
「こら、そなたっ、私はまだ返事しておらんぞ…」
舞は少しムスッとしたが、眼鏡のない善行の顔をはじめて間近で見て
普段は色ガラスで隠されている彼の目元に自然と視線が行った。
――少しやつれ気味のそこには、はっきりと隈が出来ていた。
帰り際に何時も目に入る、明かりの漏れた小隊長室のことを舞は連想する。
それはパイロットやスカウトや整備員だけでなく、司令もまた戦っているのだということを彼女に改めて思い起こさせた。
司令の血の出るような陰の尽力があるからこそパイロットは安心して戦いに集中できるのだ。
冷徹だと言われようが批判されようが、善行の決定と判断は良い結果を確実にこの部隊にもたらしている。
それこそが小隊の皆が善行司令を慕う理由だった。
「善行め…。そなたのせいで休む隙を逃してしまったではないか…」
その口調は厳しいが、舞の口元は心なしかゆるんでいる。
(まあ、たまには恵まれたこの場所を誰かと共有するのも良いであろう)
舞はリボンを軽く結び直すと、そっと目を伏せて隣の男と同じ眠りの時間に自分を任せた。
END. |