センター・コート

〜新しいスタート!〜

 

:逃げ馬

 




 
あの試合から、4ヶ月が経った。
 世界選手権女子シングルスで、無敗の女王、キャサリン・クルーズを破って優勝を果たした高原明日香は、一躍マスコミの寵児になってしまった。
 世界選手権に出場するまでは、明日香を“元は男”ということでパッシングを続けていたマスコミも、いざ、世界選手権に出場した明日香が優勝すると、手のひらを返したように明日香をスポーツ界のヒロインとして扱い始めた。
 しかし、明日香自身は、マスコミに出ることを極力避けていた。たくさんのメディアが明日香に出演を依頼していたが、彼女が取材に応じたのは、ニュースとスポーツ関係の雑誌やテレビだけだった。

 そして・・・年も押し迫ったある日・・・。

 年末の関西国際空港に、一人の外国人が降り立った。濃い色のサングラスをかけた長身の外国人女性だ。ブロンドの綺麗な長い髪を靡かせながらターミナルを出ると、大阪まで行く電車に乗り込んだ。
 「久しぶりの日本ね」
 座席に座ると、彼女は呟いた。通路を若い二人連れの男性が歩いて行く。
 「おい・・・今の外人だけど?」
 「何だよ・・・」
 「どっかで見たことないか?」
 「おまえ、何言ってんだよ」
 そんな声を背中で聞きながら、女性が微笑んだ。彼女は、女子テニス界の女王、キャサリン・クルーズ。明日香に、あることを伝えるためにわざわざ日本までやってきたのだ。
 「明日香は・・・どうしてるかしら」
 動き出した電車の中で、クルーズは窓の外を見ながら呟いた。

 大阪の、城南大学付属高校。
 3年生の冬。既にクラブを引退した明日香達だったが、毎日の練習には、先輩として参加していた。コートには、ラケットがボールを打つ軽快な音が響いている。
 「明日香!」
 西田が、コートでボールを追う明日香に声をかけた。
 「頑張っているな! 世界選手権の女子シングルス優勝者がこんなところでさ!」
 西田の言葉に、明日香は頬を膨らませながら向き直った。
 「そんな言い方はないでしょう? わたしは、みんながいたからあそこで勝てたんだよ!」
 明日香の言葉に、西田は頭を掻いた。
 「ごめん・・・そんなつもりじゃなかったんだけど・・・」
 苦笑いする西田に、明日香も微笑んだ。
 「やっぱり・・・みんなでテニスをするのは楽しいね!」
 明日香の可愛らしい微笑みに、西田はドキッとしていた。やがて、西田の顔にも笑みが浮かんだ。
 「そうだな!」
 西田は、ラケットを持つとコートに入っていく。そして、
 「さあ、こい!!」
 明日香はニッコリ微笑むと、ボールを高くトスした。黄色いボールが冬の澄みきった青空に浮かび上がる。タイミングを計るとジャンプをしてボールを打つ。
 『ポーン!』
 軽快な音がコートに響く。速いボールが西田のコートに飛んでいく。西田は軽快なフットワークでコートを走ると、フォアハンドの鋭いスイングで打ち返す。
 「クッ!」
 西田の口から思わず呻き声が漏れる。歯を食いしばって強引に打ち返す。世界選手権で、あのクルーズを大いに苦しめた明日香のジャンプサーブ。それは、インターハイで男子シングルスを3連覇した西田ですら簡単には打ち返せないほどの威力になっていた。
 「女子のサーブじゃないな」
 西田は呟くと同時にネットに走っていく。ボールは明日香のコートに飛んでいく。明日香は、ダブルハンドの鋭いスイングで打ち返す。速いボールが飛んでいく。ネットについた西田がボレーする。ボールが明日香と反対方向に飛んでいく。明日香が俊足を生かしてコートを走ってボールを追う。
 「また、はじめたな・・・もう、しょうがないんだから!」
 柴田先生が呆れたように、コートを走る二人を見つめている。
 「先生! あの二人はああしてコミュニケーションをしているんですよ!」
 中尾洋子、明日香の親友が柴田先生に囁いた。洋子も、眩しそうに明日香と西田を見つめている。
「そうね!」
 柴田先生も微笑んだ。
 明日香のボールを打ち返した西田のラケットが、ボールの勢いに押されてしまった。
 「しまった!」
 勢いのないボールが、明日香のコートに飛んでいく。西田の目に、明日香の強烈なスマッシュが映った。凄まじい速さのボールが西田の差し出すラケットを潜り抜けてコートで弾んでいた。その時、誰かが、コートで弾んだボールを西田の後ろで受け止めた。
 「相変わらずね! アスカ!!」
 誰かが声をかける。
 「えっ?!」
 西田が振り返る。
 「アッ! あなたは・・・」
 驚く明日香。
 「キャス?! 何でこんなところに?!」
 驚く柴田先生。そこには、大きなバックを肩から下げたキャサリン・クルーズが立っていた。
 「相変わらず、素晴らしいプレーね!」
 クルーズは、ボールを右手でもてあそびながらコートに入ってきた。部員たちは驚いてたちまち練習を止めてしまった。視線がクルーズに集中する。
 「クルーズさん・・・どうしてここに?」
 驚く明日香にかまわず、クルーズは、柴田先生に向かって、
 「久しぶりね! シバタ!」
 クルーズと柴田先生が、しっかり握手をする。クルーズは、柴田先生の左手に目をやった。
 「シバタ・・・結婚したの?」
 クルーズは、驚いたような視線を柴田先生に向ける。柴田先生の左手の薬指には、銀色に光る指輪がはめられていた。
 「まだ・・・婚約しただけよ」
 柴田先生の頬が赤く染まった。
 「相手は・・・?」
 クルーズが尋ねる。
 「竹内さんですよ!」
 女子部員の山本が脇から言った。柴田先生の顔が、たちまち耳まで赤くなった。
 「こら! 言わなくていいの!!」
 柴田先生が声を上げると、部員たちから、はやしたてる声が起きる。
 「そうなの、おめでとう!!」
 クルーズが微笑む。
 「それで、今日はいったいなぜ?」
 柴田先生が尋ねると、クルーズは明日香に向き直った。
 「久しぶりに、アスカとテニスをしたくて」
 クルーズは、部員たちと一緒にこちらを見ている明日香に目をやった。ニッコリ微笑むと、
 「どう? 久しぶりにちょっと・・・」
 クルーズの言葉に、明日香は力強く頷いた。
 

 「テニスコートで、高原さんとクルーズがテニスをするぞ!!」
 「なんだって? 世界選手権の決勝戦の再現じゃないか?!」
 たちまち、学校中が大騒ぎになる。世界選手権の決勝戦で凄まじい試合を繰り広げた二人が自分たちの学校でテニスをするとなれば・・・生徒たちは、テニスコートに殺到した。たちまち、テニスコートのフェンスの外には人垣が出来ていく。
 「凄いな・・・みんな暇なのかよ!」
 新谷は、呆れたようにフェンスの外を見つめている。
 「おい! 新谷!! 同じクラスだろ、中に入れてくれよ」
 クラスメイトがフェンスの向こうから叫んでいる。
 「それと、これとは別だよ!」
 新谷は、苦笑いしながらコートに視線を移した。コートでは、トレーニングウエアを着た明日香とクルーズがウオーミングアップをしている。
 「こんなに寒い時期でなければ、二人ともテニスウエアを着ているところを見られたのにな!」
 新谷が笑うと、
 「おまえ、何言ってんだ!」
 西田が、新谷の頭をポカンと叩いた。
 「まさか、目の前で見れるとはな・・・」
 男子の顧問を勤める滝沢先生も、眩しそうに明日香とクルーズを見守っている。
 

 明日香とクルーズは、ウオーミングアップを終えると、クルーズがサーブを打つ位置に立った。明日香は世界選手権の時と同じように、エンドラインより前に立っている。明日香とクルーズは、お互いを見つめてニッコリ微笑んだ。クルーズの指からボールが離れる。
 『ポーン!!』
 大きな音がコートに響いた瞬間、明日香はダブルハンドのスイングで、そのボールを打ち返していた。
 「凄い!」
 「なんて速いサーブだ!!」
 女子テニス界の女王のサーブを直に見て驚く生徒たち。そして、それを打ち返す明日香のプレーに、集まった生徒たちは度肝を抜かれた。二人の激しいラリーが続く。それを見ている生徒たちは、世界トップレベルの選手のプレーにすっかり魅了されていた。


 「また、強くなったわね!」
 「クルーズさんこそ!」
 プレーを終えると明日香とクルーズは微笑みながら握手をした。試合内容は全くの互角。世界選手権の後、二人はさらに進歩していた。
 柴田先生や、洋子、西田が微笑みながら二人を迎える。クルーズは、柴田先生にスポーツドリンクを貰うと、喉を潤して明日香に向き直った。
 「アスカ?」
 「ハイ?」
 「来年は、高校を卒業してから、どうするか決まっているの?」
 突然の質問に、首を傾げながらクルーズを見つめる明日香。
 『クルーズさん・・・何を言いたいんだろう?』
 そう思いながら見つめていた。
 「来年、城南大学を受験します」
 明日香が首を傾げながら言った。
 「アスカ・・・」
 クルーズがしっかりと、明日香の大きな瞳を見つめている。
 「来年から、アメリカの大学に来ない?」
 周りにいた全員が、驚いたようにクルーズと明日香を見比べている。明日香も、大きな瞳をさらに大きくしてクルーズを見つめている。
 「あなたなら、アメリカに来ればもっと強くなれると思うの」
 クルーズが、明日香の大きな瞳をしっかり見据えている。
 「確かにあなたが日本にいれば、間違いなくトップでいられると思うの。でも・・・」
 クルーズは、明日香に歩み寄っていく。
 「アメリカに来れば、あなたは間違いなく強くなれるわ。アメリカには、チャンをはじめ強い相手が一杯いるもの」
 クルーズが微笑む。明日香は何も言えなかった。ただ、クルーズの目をしっかり見つめていた。
 西田は、動揺していた。彼は、明日香が一緒に城南大学に進学すると思い込んでいた。
そこに突然、クルーズが留学の話を持ち込んできた。
 『おいおい・・・どういうことだよ』
 西田は、クルーズの横顔を呆然と見つめていた。
 「強い相手とテニスをすれば、もっと上手くなれる・・・あなたは、それを良く知っていると思うのだけど?」
 クルーズが微笑みながら言った。
 「でも・・・」
 明日香も、西田をチラッと見た。クルーズも敏感にそれに気づいたようだ。
 「何も、ずっとアメリカにいろとは言わないわ。4年間・・・大学にいる間だけでもアメリカで、わたしたちとテニスをしていればもっと進歩すると思うのだけど・・・どうかな?」
 クルーズが首をかしげる。明日香は、下を向いてしまった。何も言うことが出来ない。
 「キャス・・・そのためにわざわざ?」
 柴田先生が驚いて尋ねる。
 「ええ・・・わたしは、アメリカでアスカと一緒にテニスをしたいし、アスカにとってもその方がレベルアップできると思うの」
 クルーズも、柴田先生に微笑んだ。
 「まだ、時間はあるから、ゆっくり考えてみてね」
 クルーズは、明日香の肩を軽く叩くと、ニッコリ笑って歩き去っていった。
 「すげ〜!!」
 「高原さん、あのクルーズに認められているの?」
 「アメリカ留学だって!!」
 周りの生徒たちが大騒ぎしている。その中で、明日香は一人考え込んでしまった。
 「高原さん・・・」
 柴田先生が、明日香の肩にやさしく手を置いた。
 「さっきのキャスの提案・・・ゆっくり考えてみなさい」
 明日香は、柴田先生の目を見ると、黙って小さく頷いた。


 それから数日が経った。その年も押し迫った大晦日の日の夜。明日香は、中尾教授や洋子と一緒にテレビで歌番組を見ていた。
 テレビの中では、たくさんの歌手が次々に歌を歌い華やかなステージが映し出されている。しかし、明日香の目は、そのステージを見ていなかった。
 『来年から、アメリカの大学に来ない?』
 あの日からずっと、クルーズの笑顔と言葉が頭の中に甦ってくる。
 『でも・・・』
 明日香が頭を振る。
 「明日香?」
 洋子が気づいて声をかけた。
 「えっ?」
 「どうしたの?」
 洋子が心配そうに明日香を見つめている。明日香は苦笑いをしながら、
 「なんでもないよ」
 複雑な笑みを顔に浮かべる明日香。
 「ふ〜・・・」
 洋子が明日香を見つめながら、ため息をついた。
 洋子も、明日香との長い付き合いで、その考えは手にとるように分かっていた。そして、今の明日香の苦しみも・・・。
 「明日香」
 洋子が勤めて明るい声で、明日香に声をかけた。
 「・・・?」
 「明日は、西田君と一緒に初詣に行くんでしょう?」
 「うん・・・そうだけど」
 「それなら・・・」
 洋子が立ち上がって明日香の腕を掴んだ。
 「ちょっと来てくれない? 明日は、西田君を驚かしてあげなきゃ!」
 洋子が明日香の腕を引っ張りながら、リビングルームを出て行く。中尾教授は、微笑みながら二人を見送った。

 
 翌日は、元旦。
 青く澄み切った空の下を、西田が歩いてくる。中尾教授の家の玄関の前に立つと、大きく深呼吸をした。緊張している自分に、思わず苦笑いをする。
 「試合でも、こんなに緊張しないのにな」
 意を決してインターホンのボタンを押した。
 『ピンポーン』
 「はーい!」
 洋子が玄関のドアを開けた。
 「あ・・・中尾」
 「西田君、明けましておめでとう!」
 「おめでとう! 今年もよろしくな」
 「ちょっと待ってね!」
 洋子は、家の中にいる明日香に向かって、
 「明日香! 西田君が迎えに来てくれたよ!」
 西田は、明けられた玄関のドアの隙間から中を覗き込んだ。次の瞬間、
 「・・・」
 言葉を失ってしまった。
 廊下を玄関に向かって、振袖姿の明日香が静々と歩いてくる。
 「洋子・・・やっぱりやめようよ」
 明日香が、困惑しきった表情で洋子に言った。西田は、呆然と明日香を見つめている。
 「こんな格好・・・恥ずかしいよ。女の子みたいで・・・」
 「何言ってるのよ! あなたは女の子じゃない!」
 洋子が頬を膨らましている。洋子は、西田に向き直ると、
 「ねぇ、西田君!」
 「あ・・・ああ・・・」
 西田は、洋子に突然話し掛けられて慌てて返事をした。思わず苦笑いすると、
 「可愛いよ・・・」
 明日香を見つめながら呟くように言った。
 「ありがとう・・・」
 頬を赤く染めながら、俯いてしまう明日香。
 「さあ、行ってらっしゃい!」
 洋子は、明日香の背中をポンと叩くと、笑顔で二人を送り出した。

 明日香と西田が、神社に初詣に行く雑踏の中を歩いて行く。
 「今日は、なぜ振袖を?」
 西田が、振袖姿の明日香を眩しそうに見つめながら尋ねた。
 「洋子がね・・・たまには西田君に違った面を見せろって・・・」
 苦笑いしながら、両手を軽く上げると、
 「洋子のお母さんの振袖なんだそうだけど、これを着て行けと言ってね」
 明日香が笑う。西田も笑った。
 「でも・・・似合っているよ!」
 「ありがとう・・・西田君」
 二人は、神社の鳥居をくぐって、本殿の前までやってきた。誰も、振袖を着た女の子が、あの世界選手権の優勝者だとは気がつかない。明日香と西田は、一緒に鈴を鳴らすと、拍手を打って両手を合わせた。瞳を閉じて願い事をする明日香の横顔を、西田はじっと見つめていた。

 参拝を終えた二人が、参道を歩いて行く。周りには、たくさんの屋台が並んで、わたあめや、たこ焼き、いろいろなものを売って活気が溢れている。
 「明日香」
 「・・・?」
 明日香は、西田の横顔を見つめた。西田の横顔には、複雑な表情が浮かんでいる。
 「・・・」
 「どうしたの?」
 「・・・」
 西田は迷っていた。西田は今日、明日香に言いたいことがあった。
 『しかし・・・』
 本当にその一言を言っていいのか・・・西田には迷いがあった。
 『もし、本当にそうなれば、俺は・・・』
 振り返って明日香の顔を見つめる西田。
 「本当にどうしたの? 何かあったの?」
 心配そうに、明日香は西田の顔を見つめている。西田は、人の流れからそれて、参道沿いの松林の中に明日香を連れて行った。
 「どうしたのよ・・・西田君?!」
 驚いている明日香に、
 「明日香・・・おまえ、アメリカに行け!」
 西田は、苦しそうな表情で吐き捨てるように言った。
 「えっ?」
 驚く明日香。
 「アメリカに行って、クルーズと一緒に練習しろ。そうすれば・・・」
 「待ってよ!」
 明日香が、西田の言葉をさえぎった。
 「わたしは・・・」
 明日香の大きな瞳が潤んでくる。
 「わたしは、西田君と一緒に城南に・・・」
 西田は、明日香の言葉に胸が熱くなってきた。
 『俺が、こいつに付いて行く事ができれば・・・』
 しかし、それは、西田の家庭の事情がとても許さない。それは、西田にもわかっていた。
 「俺は・・・」
 西田はしっかり明日香の瞳を見つめると、
 「おまえが、世界で活躍しているのを見てみたいんだ。おまえなら、まだまだ強くなれる。ウインブルドンでも、全仏でも、全米でも・・・」
 明日香の瞳からは、なぜか涙が流れ出していた。西田の目をしっかり見つめる明日香。
 「強い選手と戦えば、もっと強くなれる。俺は、そんなおまえを見てみたい」
 「西田君・・・」
 言葉が出ない明日香。
 「・・・たったの4年だ!」
 西田は、明日香に背を向けた。辛くて明日香の顔をみていられないのだ。
 「俺もその間に、おまえにふさわしい男になれるように頑張るよ!」
 明日香に向き直って、苦しそうに笑う西田。明日香の大きな瞳からは、涙が溢れていた。
 「・・・ありがとう!」
 明日香が西田に抱きついた。西田は、優しく抱きしめると、明日香の綺麗な髪をなでていた。
 「しっかり・・・頑張ってこいよ!」
 西田は、明日香に優しくキスをした。そして、明日香をしっかり抱きしめる。
 二人の周りで、時間が止まっていた・・・。

 
 二人が神社の前の道を歩いて行く。しかし、二人は後ろから彼らを見つめている視線があることには全く気がつかなかった。
 「どうやら彼女は・・・気持ちが吹っ切れたようだな・・・」
 振袖姿の明日香の後姿を見つめながらそう言ったのは、“スポルト・ジャパン”の記者、高村進一郎だった。
 「ああ・・・どっちの結論を出すにしても・・・彼女にとっては大きな転機だな」
 サングラスをかけ髭をたくわえた男が言った。紺色のダウンジャケットのポケットに両腕を入れている。彼は高村の大学時代の同級生、プロカメラマンの黒田正弘だった。彼もサングラスの奥から優しい視線を明日香の後姿に向けていた。
 「これで・・・」
 高村が呟く。
 「僕も決心がついたよ・・・」
 「・・・?!」
 黒田が驚いて横に立つ高村を見つめた。しかし、高村の視線は明日香に向けられたままだった。黒田は小さくため息をつくと全てを察したように頷いた。
 「・・・そうか・・・いつ?」
 「・・・春にでも・・・」
 「・・・そうか・・・」
 二人の会話はそれだけだった。二人は黙ったまま小さくなる明日香と西田の後姿を見つめていた。


 その夜、明日香は夢を見た。
 明日香は、緑色の芝生を敷き詰めた美しいコートでプレーしていた。軽快にコートを走ると、力強いスマッシュを打つ。
 『ポーン!』
 軽快な音がコートに響く。相手の選手が差し出すラケットの先で、ボールがコートで弾んでいた。大歓声が、コートに響く。
 「やった〜!!」
 青空に両手を突き上げる明日香。観客の声に答えながら、明日香は観客席の最前列に走る。そこには、この試合を一番見ていて欲しかった人が。
 「やったな! 明日香!!」
 西田が微笑む。明日香は、西田に抱きついた。そして・・・
 
 ベッドの上に起き上がる明日香。
 「夢か・・・」
 起き上がった明日香が、唇を人差し指で触っている。
 「・・・」
 明日香の心臓が、早鐘を打つようにドキドキしている。
 「リアルな夢だったなあ・・・」
 明日香は、ベッドから足を下ろして、窓際に近づいていく。カーテンを開けて空を見上げる明日香。
 雲ひとつない空から差し込む月明かりが、明日香を綺麗に照らしていた・・・。


 そして、春。
 「明日香!!」
 桜の木の下で卒業証書を胸の前に持った洋子が大きくこちらに手を振っている。明日香も手を振りながら洋子や新谷、西田たちが集まっている場所に走っていった。
 「卒業おめでとう! 明日香!!」
 「おめでとう! 高原さん!!」
 洋子や新谷が微笑みながら明日香の卒業を祝ってくれた。
 「みんなも・・・おめでとう!」
 明日香は微笑みながらみんなを見つめていた。
 「これで・・・みんな離れ離れになるな・・・」
 西田が寂しげに笑った。みんなも俯いてしまった。
 「でも・・・みんな、これからも友達だから!!」
 明日香が明るく笑った。みんなもにっこり笑うと頷いた。
 「そうだな・・・離れていても・・・みんな友達だよな!」
 西田が笑うと、みんなも笑い出した。澄みきった春の青空にみんなの明るい笑い声が響いていた。


 東京・TS出版・スポルト・ジャパン編集部
 「いったい、どういうことなんだ?!」
 編集部に編集長の怒鳴り声と机を叩く音が響いた。編集部にいたスタッフは驚いて編集長の机の方を向いた。彼らの目には、編集長と机を挟んで立っている高村の姿が見えた。
 「あの高原を追い続けて、世界選手権で良い記事を書いてスポルト・ジャパンを過去最高の売上に導いたおまえが・・・なぜこの時期にやめるんだ?!!」
 編集長が怒鳴りながら手に持ていた高村の辞表を机に叩きつけた。
 「高村君・・・」
 編集部員の中島が寂しげな視線で高村の後姿を見つめていた。
 「あれは・・・僕の力ではありません・・・それに・・・」
 高村は冷静な目で編集長を見つめていた。
 「僕は、もっと自分の力を試してみたいのです・・・」
 編集長は大きなため息をついた。
 「俺はこの春からおまえに大リーグの取材に行ってもらおうと思っていた。スポーツの本場でもっと大きくなってもらおうと思っていた・・・・それなのに・・・」
 編集長は、まるで自分の息子を見るような目つきで高村を見つめていた。
 「おまえは・・・彼女たちにすっかり魅せられてしまったんだな・・・」
 編集長が寂しげに笑った。高村が頭を下げた。
 「僕は・・・彼女たちと同じ立場で・・・フリーの記者として自分の力を試したいのです!」
 「わかったよ・・・」
 編集長は、自分の手の中にある辞表に目を落とした。気を取り直して、編集部の中にいるスタッフに向かって、
 「オイ・・・おまえたち! 今日予定のない奴はちょっと付き合え! 高村と一緒に飲みに行くぞ!!」
 「「「ハイ!」」」
 スタッフの元気な声が編集部に響いていた。



 夏になった・・・。

 観客の歓声が、コートに響いている。
 「全く・・・何よ! なぜ、こんな娘が!」
 西山紀子が、懸命にコートを走る。
 ここは、ジャパンカップテニスの決勝戦のコート、そして、西山が試合をしている相手は・・・?
 「これが・・・明日香譲りの・・・」
 女子選手が、軽快にコートを走る。
 「ダブル・ハンドよ!」
 ダイナミックなフォームでラケットを振る女子選手。素晴らしい速さのボールが飛んでいく。西山の差し出すラケットを潜り抜けてコートで弾んでいた。
 「やった〜!!」
 『やりました!女子シングルスは、中尾洋子選手が初優勝です!』
 実況アナウンサーが、放送席で絶叫している。西山は、洋子と握手を交わすと、険しい顔で引き上げていく。洋子は、観客席の最前列にいる女性と抱き合っていた。
 『今、中尾選手が、柴田コーチと喜びを分かち合っています』
 アナウンサーの言葉に、
 『柴田コーチは、アメリカに留学している高原選手を育て上げました。柴田コーチ自身、素晴らしい選手でしたがコーチになってからも良い選手を育ててくれています。本当に敬服しますね』
 解説者が言った。
 洋子が、優勝カップを高々と掲げる。柴田先生は、観客席から眩しそうにそれを見つめている。
 「明日香・・・これであなたに少しは近づけたかな?」
 洋子は、優勝カップを掲げながら思った。


 新谷と、西田がコートで激しいラリーをしている。
 「くそ!」
 新谷が、巧みにボールを左右に散らして西田を揺さぶる。
 「クッ!」
 西田が、パワフルなスイングでボールを打つ。
 「しまった!」
 新谷の打ち返したボールは浮いてしまった。西田が強烈なスマッシュを打った。ボールが新谷のコートで弾んでいた。
 『インターカレッジ、男子シングルスは、城南大学一年、西田晃一君の優勝です』
 場内放送が流れ観客の大歓声がコートに響く。
 「やられたよ!」
 新谷がニッコリ笑うと西田の肩をポンと叩いた。
 「彼女に捧げる優勝・・・ってとこか?」
 新谷が笑う。西田もニッコリ笑って頷いた。
 表彰式で西田がトロフィーを受け取った。観客の歓声にこたえながら、青く澄み渡った空を見上げた。西田の目には、微笑んでいる明日香の笑顔が見えた気がした。
 「明日香・・・俺は勝ったぞ・・・今度は、おまえが頑張れよ」
 西田は心の中で、青い空の向こうにいる明日香に呼びかけていた。

 そして、明日香は・・・。

 明日香は緑の芝生を敷き詰めた、美しいコートを見つめていた。
 「アスカ・・・」
 後ろから声をかけられた。明日香が振り返る。クルーズが、肩から大きなバックを下げて立っていた。
 「さあ、行きましょう!」
 クルーズが微笑む。明日香も力強く頷いて、肩にスポーツバックをかけた。右手にラケットのケースを持った。
 「これから始まるんだ・・・本当のプロとしての試合が・・・」
 心地よい緊張感を感じながら明日香が歩いて行く。二人は、太陽の日差しが降り注ぐ美しい芝生を敷き詰めたコートに足を踏み出した。

 「さあ、勝負だぞ! 高原君!」
 スタンドに座る高村のペンを持つ手に力が入る。その視線はコートを歩く明日香とクルーズに向けられていた。
 『そう・・・これから僕は真剣勝負をするんだ・・・あの二人の試合の迫力を、読者に伝えることができるかどうかの・・・』
 高村の横では、黒田がカメラを構えていた。黒田は、どんなチャンスも逃さないと言うように鋭い視線でカメラのファインダーを覗いていた。
 
 『さあ、ウインブルドンテニス決勝。今、女王・・・キャサリン・クルーズと、日本の高原明日香が入場してきました・・・』
 コートに響く大歓声が、二人の選手を包んでいった・・・。




 センター・コート 〜新しいスタート!〜 おわり


 こんにちは、逃げ馬です。
 この作品は、『センター・コート』の後日談になります。もともとは、Westさんのサイト”Sunset Illusion”に掲載していただいた『明日香の初夢』というお正月作品(^^; を修正・加筆したものです。
 「明日香と西田君のその後を読んでみたかった」という感想をいくつか頂いたので、この作品を書いてみました。
 明日香と西田君は、離れ離れになってしまいました(^^;;; しかし、4年後には、二人とも人間的にも成長して再会すると、書いた作者は信じています。
 それでは、最後までお付き合いいただいてありがとうございました。また、次回作でお会いしましょう。

 なお、この作品に登場する団体・個人・大会名は、実在するものとは一切関係のないことをお断りしておきます。

 2002年4月 逃げ馬




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