少しずつ少しずつ・・・近づいて、けれど決して0にはならない
Vol.8 距離(distance)
「いらっしゃいませ。」
長い黒いエプロンに身を包んだ女が畏まって頭を下げる。
「お一人ですか?」
「あぁ」
短く返事をする。
「お食事ですか、それとも・・・」
そんなことを言っている女の向こうから、見慣れた頭が近づいてくる。
「三蔵、やっぱ来てくれたんだ〜。飯は?」
「いや、まだだ。」
「ならとりあえず飯喰って、それからカウンター行けばいいだろ。」
そういうと、悟空はなにやらさっきまでの女に耳打ちして。
「悟空くんの知り合いだったの?」
「うん、知り合いって言うか・・・そんな感じ。」
「そっか。あ、ほらオーダー入るわよ?」
「やば!じゃ、三蔵あとでね。」
足早に移動する悟空の後姿を見送ると
「お待たせいたしました。こちらへ・・・」
そういって、レストランの隅の方の席へと案内された。
何を食べるか。
もともとそれ程食事にこだわる方でも、食べることが好きなわけでもない俺が迷っていると、
「決まってないならこれがいいよ。三蔵、魚好きだろ?」
突然斜め後ろから悟空の声がした。
「この料理さ、この間俺も試食させてもらったけど、超美味いんだ〜。」
「ああ、じゃあそれでいい。」
「はい、かしこまりました。」
わざと恭しく言う姿が可笑しくて
「ああ、早く仕事しろ。」
と言ったものの、心の中は苦笑いと嬉しさの混じった不思議な色をしていた。
悟空が薦めた料理は、味はもちろん見た目もなかなかのもので。
カチャリとナイフとフォークを置いたときには、満足感だけが残っていた。
「あ、三蔵、食べ終わった?美味かっただろ?」
「あぁ。」
自分のことのように自慢げに尋ねる悟空に答えてやる。
「だろ?あ、悟浄のとこ行けば?今あんまり混んでないし。」
「そうだな・・・そうする。」
「うん。俺も上がったら行くから、待っててよ。」
そう言うと、また仕事に戻って行った悟空とは反対へ、悟浄の『仕事場』を目指して。
「こんばん・・・三蔵?」
グラスを拭きながら顔をあげて、アイツはそのまま固まっていた。
「なんだ。」
「いや、来てくれたからさぁ。嬉しいなと思って。」
にこりというよりは、どこか照れたような、はにかんだ笑いを浮かべて
「何になさいますか?」
と訊く。
「適当に作ってくれないか?」
と返すと
「う〜ん・・・三蔵、食事は?」
何を食べたとか、いくつか質問をしたあとで
「少々お待ちください。」
何本かのボトルやら氷やら。時折考え込むような素振りを見せながら、手にとっていく。
シャカシャカシャカ・・・
小気味のいい音を刻みながら、アイツの髪の毛が揺れる。
それは、この間ネコと戯れていたのと同一人物とは思えないほど
繊細で軽やかで―――――
優雅ささえも感じられるくらい
俺と席を二つ開けて座っている女2人の視線が、悟浄に吸い寄せられていくのを
何とはなしに感じた。
「お待たせしました。」
そう言って差し出されたのは、琥珀色をしたカクテル
「三蔵、疲れてそうだからさ。これ、ストレス発散とかの効果もあるんだよ。」
飲んでみろ、と目で促されてひとくち含む。
少し甘くて、ほろ苦い味が広がって、ほうっと身体から力が抜ける気がする。
ふっと肩の力が抜けた様子を見て、アイツは少し笑ったようで。
「すみません。」
カウンターの端から呼び止められて、そのまま
「はい。」
と笑顔を向けた。
そのあとも、断続的にやってくる客の対手をし続ける悟浄を見ながら、
あいつの作ってくれる酒を飲み続けた。
結局、自分から注文することはなくて、何ども
「任せる。」
と言い重ねた。
「や〜っと終わったよ、三蔵。」
そう言って悟空がやってきたときには、客は片手で足りるほどの人数になっていて。
「どうせだからラストまでいろよ。悟空と一緒に送ってくから。」
な?
会計を終えて店を出る客の背中に、ありがとうございましたと呟きながら、
俺と悟空を交互に見比べて言う。
「まじ?やった。三蔵もそうするだろ?」
もう半ば断定の形になっていることには気付かないフリをして、
「あぁ、そうさせてもらう。」
そう答えた。
最後の客が帰って、CLOSEDの看板を立てかけたあと
「三蔵、コーヒー飲む?悟空も。」
「うん、いる。」
「あぁ。あ、じゃあ八戒も呼んで来いよ。」
「わかった。」
そう言って厨房の方へ走っていく悟空を確認してから、悟浄は少し声を潜めた。
「三蔵さ、この間店来てくれたんだろ?」
いきなり指摘されて、思わず息を呑む。
「この前、俺と駅であったとき。それなら言ってくれれば良かったのに。」
「・・・別に、言うほどのことじゃねぇだろ。」
隠し通すつもりだったのに。
「ま、そうかも知れないけどさ。俺としては嬉しかったわけ。」
今日だってそうだと、カップを並べながら言う。
「三蔵とこんな風に知り合いになるって思わなかったもんな。口のワリィ歯医者だし。」
「ウルセェってんだろ。」
「はいはい、ごめんなさい。」
さっきまでの『客』相手ではない態度が落ちつくと思ったのは、きっとただの錯覚。
「悟浄、八戒今来るって。」
忙しない悟空の声に続いて姿を見せたのは――――
「あ、この間の・・・」
「・・・あぁ。」
店の前で俺に声をかけたあの男だった。
「この間、会ってるんだよな。コイツは八戒、俺の・・・一応、親友ってとこかな。で、こっちが三蔵な。」
「さっき三蔵が食べた料理作ったのも八戒なんだよ。」
横から悟空も口を出す。
「そうか。こいつに言われて食べたが、美味かった。」
「そうですか?ありがとうございます。」
「あ、八戒。ワリィちょっと・・・」
「はい、これでしょう?」
「ん、サンキュ。」
「それにしても、悟浄・・・・」
「あぁ、まぁね。」
沸騰した湯のたてるコポコポという音と、悟空の話し声に掻き消されて、
ところどころしか聞こえない会話。
あとから思えば、そのとき感じたのは、微かな居心地の悪さだった。
でもそれも、鼻腔を擽るコーヒーの香りに掻き消されて。
コーヒーを飲む合間に、色々と話は進み。
それぞれ誰かしらと繋がっていることも手伝ってか、暫くするうちに俺は
あの男のことを八戒と呼ぶように。逆に三蔵と呼ばれるようになっていた。
コトリ
カップを置く音を合図に、その場はお開きとなった。
カウンターをはさんで向かい合って飲んだコーヒーが、
その日アイツが作ったものの中で一番美味しかったと言ったら。
悟浄は気を悪くするだろうか。
暫くぶりに飲んだ味は、あの日のことを思い出させて、
『コイツとの縁を途切れさせたくない。』
と漠然と思った。
街で会ったら挨拶をするようなのではなく、望めば一緒に酒を飲めるような
それくらいの距離を持ち続けたいと。
そう、八戒とアイツのような。
同時にそれを思い浮かべたときに感じる気持ちの存在にも気がついた。
羨みともなんとも取れない、でもどこかに染み付いて漂白しきれないような
近づいた分だけ、より近いものが見えてくる
近づけばその分だけ距離を実感する
始まりが何処かにあるのだとしたら、それは
ここで『距離』のパラドクスに気付いたこと―――――