ひびわれ ふと、目が覚めた。 いつもと違う、懐かしい匂いがする。けれども、頭は未だはっきりと働かず重い。だから、見知 らぬ場所に放り出されたかのような気持ちになってしまった。 しかしそれも一瞬の事。少しずつ血が巡り始めた頭は周囲を把握し始めた。何もない真っ暗だっ たところに、自分を中心に灯りが燈ったように、回りを認識する。でも、その灯りは頼りなく、完 全に状況を飲みこんだのは数秒後のことだった。 「離れの和室、か」 口に出して確認して見る。それが合言葉だったように、自分が離れにいるんだという実感が沸い てきた。 手探りで枕元を探り、眼鏡をかける。のそりと布団にねっころがっている状態から上体だけを起 こす。少し眩暈がした。 辺りは朱に染まっていた。障子を通して夕日が和室をぼんやりと赤く、薄暗く照らし、その隙間 から伸びた光が赤い闇を切り裂くように鎮座している。 そう、赤い闇だ。和室は明るくもなく、かといって暗くもなく。辛うじて周りを見通せるほどの 光源しかなかった。酷く、曖昧な空間だった。靄がかったような赤い霞が充満しているような錯覚 すら、感じた。 眩々する身体を無視して立ち上がり、歩く。肌に触れる汗で湿った寝巻きの着流しの感触が少し 気持ち悪い。しかしそれすらも無視して部屋の障子を空けた。 かたん。立て付けが良い障子は澄んだ音と共にあっさりと開いた。その先には、何もない。いつ もの遠野家の庭が広がっていた。無意識のうちに安堵の息が漏れた。離れから出ても、世界は未だ 続いている。 肩の力を抜いて、改めて庭を眺めた。赤く照らされた木、草、庭石。夕日はこんな、誰も気にと めない所でも仕事をする。 後ろ手に障子を閉めて布団に戻った。翡翠か琥珀さんを呼んで着替えを持ってきてもらおうかと 思うも、それも面倒臭かった。時期を外してひいてしまった秋風邪のために午前中はずっと横には なっていたがそれでも未だ眠気は晴れていなかった。寝過ぎで眠いって言うのも贅沢な話なのだろ うが。 そこで少し時間が気になった。首を巡らせて辺りを見まわすが、時計はどこにも無かった。 「…まぁ、良いか」 呟いて、俺はまた布団の上に寝転がった。風邪は図々しくも未だ俺の身体に居座っている。身体 が自分のもので無いような、そんな風邪特有の違和感は未だ継続している。そんな眩々とした世界 の中で、あまりにも確かな冷たい布団の感触が心地よかった。同時に、さっきまで引っ込んでいた 眩暈が再び押し寄せて来る。 咳が出た。軽いはずの咳も、一つするたびに反動で身体が大きく仰け反った。自覚しているより も、この遠野志貴の身体は消耗しているらしい。 息を吐いて、転がったまま首を巡らせる。と、部屋の隅に一匹の黒猫が鎮座しているのに気付く 。今まで、まったく気付かなかった。黒猫だって言うのに加えて、この薄ぼんやりとした闇の中に 鎮座していたから見落としていた。 反射的に口が動く。 「れ………」 口に出しかけて、急に亀裂が入った。風邪のものとは明らかに違う、鋭い頭痛が一瞬だけ過ぎた 。顔をしかめる。そして、次の瞬間には今口に出そうとした言葉は掻き消えていた。どうやらこの 名前は禁忌だったらしい。黒猫は、そんな俺の様子を無関心そうに眺めている。 そこで代わりの言葉を継ごうとした。けれども、何も言うことは出来なかった。言うべき言葉が 無い訳でもなく、口が塞がれた訳でもない。ただ、声を出すことが出来なかった。理由は至極簡単 。口の中の唾液が完全に枯渇していたからだ。口内がコレでは、どう足掻いてもせいぜい掠れた音 くらいしか出せない。 そして、渇いているのは口だけではなかった。さっきまでかいていた寝汗ももう失せている。体 を揺すれば段々とぼろぼろに崩れていくんじゃないかと疑ってしまうくらいに、身体全体が渇いて いた。 渇いた指先、渇いた腕、渇いた脚、渇いた髪、渇いた肌、渇いた身体。渇いた――。一瞬、この まま跡形も無く風化して白い骨だけになった自分の身体を想像した。 けれども、この部屋の気温はまったく変わってはいない。秋も半ば以上を過ぎた、少し肌寒いぐ らいの温度。夕陽で鮮やかに赤く紅く朱く染まっているこの離れの中で、対照的なその肌寒さはむ しろ強調されていた。 熱くて、冷たい。 いつのまにか、黒猫は動いていた。音を一切立てずにこちらまで歩みより、俺の胸に飛び乗った 。とん。猫の着地した場所では、指で軽く小突かれたような感触がした。 その猫は俺の胸の上に乗って、相変わらずそっけない視線を送っている。 ふと、目があった。猫の目は、艶やかな朱の色だった。 暫く視線を絡ませたあと、不意に猫は俺から視線を外した。そのまま身を翻して俺の上をすたす たと三歩歩いてまた振り返った。自然と俺の胸が猫の前にくる。そこには子供の頃に穿たれた無細 工な傷痕がある。服は、いつのまにかはだけていた。 ごく自然に身体を軽く屈めて、猫は俺の傷痕に舌をつけた。 ぴちゃ…ぴちゃ…。 小さな水音が静かに洩れ出る。 「はっ……あ」 声が出た。からからに渇いた身体、傷痕の上をざらざらとした舌がのたくっている。そして、舌 が過ぎていった後は、僅かなひやっとした感触に続くように熱くなっていく。 猫が生み出すこれは、明らかに快感だった。しかし、少なくとも今の疲弊している自分にとって は強すぎる。 今すぐにでも猫に手を伸ばして、身体の上から降ろしたかった。しかし体は動かず、ただ軋むだ けだった。動けない、そう悟った。 眩暈がした。吐き気がした。痛みがした。けれども、快楽があった。 足掻いている俺を気に求めずに猫は黙々と下を這わせている。傷痕全体を余す所無く、隅々まで 。 また、目があった。紅い猫の目は、まるで嘲るように、細く、なって。 「っっつ……!」 小さく鋭い痛みが走った。視線を巡らせると、猫が俺の傷痕に向かって爪を立てていた。相変わ らず無表情のまま、猫は爪を立てたままじっとしていたが、やがてそれをゆっくりと引いた。 小さく鋭い傷みが走った。幾筋かの爪痕、そしてそれに一拍遅れて僅かに血が滲み出る。その傷 痕を見つめた後、猫は血をゆっくりと舐め始めた。 再び、水音が洩れ始める。 ぴちゃ…ぴちゃ…。 心なしか、先程以上に熱心に猫は舌を動かしている。黙々と、貪るように。古い傷痕と新しい傷 痕。その両方が蕩けてしまうぐらいに。蕩けて、ふやけて、傷痕と肉の境界が無くなってしまうぐ らいに。 いや。とけているのは、果たして肉だけだったのか。 眩々する。意識がぼんやりする。意識が、思考が、とけている。考えることが出来ない。まるで 自分がただの木偶に成り下がったような心地。 あるのはただ、猫のざらりとした舌の感触と、水音だけ。 そして、目の前で変化は自然に起こった。 まるで夕陽が沈むように、黒猫の姿形が変わっていく。 黒の毛並みは真っ白な肌に。すらりとした脚はただ黒のニーソックスに包まれた子供の脚に。爪 と手はほっそりと長い華奢な指に。赤い瞳だけはそのままに。俺は、ぼんやりとそれを眺める。 暫くして、猫は完全に姿を変えた。白い肌に黒いケープを羽織った女の子へと。 夕陽は既に沈んでいた。今はもう、ただ夜の帳が落ちているだけ。 ぴちゃ 最後に一つ水音を残して、女の子が顔を上げる。さらり、と長い髪が顔を撫でた。 反射的に瞬きする。その間に女の子――レンは完全に顔を上げ、俺の身体に馬乗りになってこち らを見下ろしていた。 そっと、高いところから物が低いところへと落ちるようにレンは身体を入れ替えた。身体に覆い 被さるように。その左手は俺の腹の上にかかり、そして右手は……。 びくり、と、身体が無意識に震えた。レンの右腕は着ているものの上から俺の股のものを握って いた。まるで何かを確認するかのようにしばらく手の中のものを弄ってから、その細い指であっさ りとそれを抓んだ。 今度は身体が跳ねた。冷たい感触。けれどもその冷たさはこちらの鈍った感覚を一気に引き上げ た。その行為の柔らかさに比べて、その暴力的な効果はあまりにも似つかわしくない。たったこれ だけで達してしまいそうになる。 そして、レンは酷く簡単に止めを刺した。僅かに指先に力をこめ、手の中のソレをしごいた。 「――――!」 達した。一気に。その瞬間俺は、幾らなんでも速すぎるとかそういった事をまったく考えられな かった。そんな事を考えられるだけの思考のインクは頭の中に残ってはいなかったし、残っていた としてもこの感覚が作った白紙状態の思考の隙間は大きすぎる。枯渇したこの身体では叫ぶことも できず、俺はただあえぐだけ。 そんな俺にまったく頓着せず、レンは俺を見下ろしている。そして、僅かな間を置いて再び手を 動かした。 「っっっっ!」 擦れた声が出た。その声一つでひびわれた喉が痛む。しかし、そんなモノは再開したレンの手の 動きにに比べれば全く何の意味も無かった。 達してからその快楽の波が落ちる直前に刺激を受け続けることで連続してイき続ける事ができ る。そんなような事を聞いたことはあっても真偽の程は疑わしかった。だが、自分の身体でソレを 再現されるともはや疑う余地も無い。 最初から波は高く、そしてレンは容赦無くソレを崩れるまでさらに高める。こらえようも無く、 俺は再び射精した。 辛うじて、レンを見る。 その視線に気付いたのか、レンは右手を口元へ寄せた。そして、幽かに顔をほころばせて白く汚 れた手を口に含む。 ――蕩けた、笑みが浮かんだ。 <後書きという言い訳めいた物> どうも、こんにちわ。初めての人は初めまして。 今回裏志貴祀でSSを書かせて頂いたキヅキと言います。 志貴受け、ということで書いていくうち、いつのまにかこんな物になっていました(こんな物= 本番無し寸止めSS)。まぁ、本番に入ってしまえば志貴君に勝てるモノ(人外含む)はいらっしゃらないので。 それでは、失礼します。こんなSSで皆さんから石を投げられないことを祈りつつ。 キヅキ