その日は、雨が降っていた。![]() |
森奥深くに佇むヘルメス党の隠れ家には良く届く、鳥の声も獣の声もすべてが雨に隠される。 しとしと降り注ぐ雨に今日は天体観測ができないとため息をつくルーンの横、久しぶりに出歩かないルーンに機嫌を良くしたフィリエルが、我が物顔でルーンのベッドを占領していた。 「…スミソニアンのところにでも行って来ようかな」 ぼそっと呟いたルーンの言葉を聞き止めて、フィリエルが勢いをつけて振り返った。 「ええ?!また?」 不満を露わにした視線でルーンを射抜くと、今度はルーンが不機嫌になる。 「何だよ。ぼくは子供じゃないんだ。何でも君の言う通りにしなくちゃいけないわけじゃないだろう」 前々から絶好日だと予想を付けていた天体観測日に雨に降られてしまったことがよほど悔しいのか、返す声もむっすりしている。 「何よ。いつも一緒にいようって約束したじゃない」 フィリエルはフィリエルで、このところ研究に没頭しすぎてフィリエルとの時間を省みないルーンに腹をたてていた。最近は天体観測にさえ誘ってくれない。どころか、ルーンにつきあって夜を起きていることさえ止めるのだ。 共にいる時間が極端に少なくなっている。 いつも一緒にいたいと思う気持ちが強いだけに、事実はフィリエルの格好の不満の種となっていた。 フィリエルの視線が咎めるように煌めく。 ルーンは、最近フィリエルとの時間を作らないでいたことには存分に心当たりがあるのか、反論しようと開きかけた口を噤んだ。 「…それは?」 話の筋を逸らしてルーンがフィリエルの手を顎で示す。 ルーンの視線を追ってフィリエルも自分の手に視線を戻す。その中に握られているのは赤いリボン。デザインはもうすぐ18になるフィリエルには少し子供っぽい気がした。 「話を逸らさないで」 フィリエルは食い下がったが、ルーンの興味はリボンに移ったまま離れない。 どこかで見たような気がしたのだ。 視線を逸らさないルーンにフィリエルはため息をつき、赤いリボンを差し出した。 「小さい頃持ってたリボンよ。…この間おかみさんがくれたの」 懐かしいでしょ。 目の前に差し出された子供柄のリボンを目にしてルーンはようやく思い出す。 手にとってみると、懐かしい感覚が蘇ってきた。昔、このリボンで悪戯をされた覚えがある。 「これ…フィリエルに意地悪された時の」 意地悪、という表現がいささか子供っぽいかとは思ったが、あの頃そう感じたままをルーンは口にした。 フィリエルが姿勢を正して目を見開く。 「覚えてたの」 幼い頃フィリエルは、ディー博士の関心がルーンにばかりいくのが気に入らなかった。それに加え、博士がルーンに眼鏡をあげたことも大きく気に入らないことの1つであった。そのせいで、よくルーンの眼鏡をとりあげて意地悪をすることも多かった。 このリボンは、ルーンの眼鏡をとりあげた上で、いつでも四方八方にはねていたルーンの髪に結んだ思い出があるのであったのだ。眼鏡を物質にとられ、幼いルーンは1日中リボンをつけたままだった。 「ルーンにはきっと、覚えていられないことも、知らないこともないんでしょうね」 言った言葉は少しだけ寂しげに響いた。そこに多少の怒りが込められていたのは、以前ラヴェンナ達に言われた言葉の意味を知らないでいたフィリエルを見抜かれたことがひっかかっていたからかもしれない。フィリエルが知らないことはたくさんあると、訳知り顔で。知ってても教えてくれないルーンに抱いた怒りを、フィリエルは忘れてはいなかった。 「あの日は1日中落ち着かなかったからね」 ルーンは思い出して言ったが、フィリエルにはわかっていた。 ルーンは忘れてしまうということがほとんどないのだ。特に、フィリエルやセラフィールドのことに関しては。 それがいいことばかりでないことも、勿論今ではイヤと言うほどわかっている。 だがフィリエルは、同じく懐かしげに答えを返してきたルーンの声で沸き上がる懐かしさに微笑んだ。 思い出話が出来るほどに近くにいるルーンが嬉しかった。 「あら。でもそれ、私のお気に入りだったのよ?」 その言葉にルーンが眉を寄せる。 「でも君、これあまりしてなかったじゃないか」 そんなことまで覚えていたルーンにフィリエルは瞠目する。 「お気に入りだったから、あまり箱から出さなかったのよ」 フィリエルは驚いた表情で付け加えた。 「私あの日のことはよく覚えてるもの。…誕生日だったから。だから、大好きなリボンをつけて塔にいったのよ。なのに、博士もルーンもこちらに見向きもしないで研究にばかり熱心なんですもの。それで私」 幼い感情だったと今なら思える。しかしその頃のフィリエルには手いっぱいな思い。表現の仕方を、他に知らなかった。 なるほど、とルーンが得心顔で頷いた。 そのことが、フィリエルには新鮮な境地だった。 同じ思い出を共有しているはずなのに、人が違うだけでこんなにも物事の捉え方が違うのだ。 フィリエルは勢いづいてルーンに詰め寄る。 「ねぇ、他には?他のことも話しましょうよ」 「…じゃあ君は、ぼくに女の子になって欲しかったのか」 まるで見当違いの答えを返されフィリエルは応えに詰まる。 何のこと?と返すとルーンはリボンの話をまだしていた。そのマイペースさにフィリエルから笑いが漏れる。 「どうしてそうなるのよ」 「お気に入りのリボンを、フィリエルはぼくにつけたんだろう?」 だから、ぼくが女の子だったらもっと相手をしてもらえると思ってそうしたのかと思って。 ルーンの思考にフィリエルは笑い転げた。 リボンを乗せた手をルーンの左手と繋いだまま。 「そんなわけないじゃない。私の中でルーンはずっと男の子よ。それにキライなだけだったら、意地悪でお気に入りのリボンをつけたりしないわよ」 微妙にずれている気がしないでもない会話を終えて、フィリエルは笑う。目の端に浮かんだ涙が苦しさを称えていて、ルーンは笑われているらしい自分に居心地が悪くなった。 「フィリエル」 握った手に力を込める。 「フィリエルってば」 2人の中に同じ形で存在しているはずの思い出でさえ、気持ちの段になると大きな違いが2人の間には存在する。 同じはずの物事の、捉え方が大きく違う。 それがフィリエルにはとてつもなく新鮮で、面白いことだった。 「───凄い。感動だわ」 応えてフィリエルが顔を上げた。 「ルーン、もっと話をしましょうよ。今やこれからの話でもいいわ。もっとたくさん。ね?」 普段から無口な彼にそれを要求するのはいささか無理があるとはいえ、フィリエルは浮かれた口調で言葉を重ねる。 自分が捉えている世界だけでなく、もう1つの世界が手に入る─── フィリエルは、ルーンと共にあることはそういうことなのだと悟った。 ルーンが見るものを共に見て、ルーンとずっと一緒にいることを選択した時点で手に入れた、もう1つの視点。自分と、そしてもう1つの瞳から見た世界が自分の物になる。彼は、フィリエルにもう1つの視界を与えてくれるのだ。 この、人を見透かしたどこまでも澄んだ色を映す灰色の瞳が。 フィリエルが楽しそうに握った腕を前後に振ると、それと一緒に赤金色の髪が柔らかく揺れた。 フィリエルの嬉しさの意味はわからなかったが、フィリエルの楽しそうな様子にルーンも次第に眉を開いてゆく。 今なら、言い出せなかったことが言えるような気がしていた。 「…フィリエルあのね、もうすぐ、今調べてる星の軌跡がわかるかもしれないんだ」 静かにな声でルーンは告げた。 ひどく、真剣な声をしていた。 「別に、ほんの些細な一歩でしかないことかもしれない。…けど、もしわかったら…ぼくが、見つけることができたなら」 繋いだ手を引き寄せて、ルーンはフィリエルの耳元に囁いた。 フィリエルは真っ赤になってそれを受け止める。 「ルーン、本気?」 「冗談でこんなこと言わないよ」 ルーンの瞳に嘘がないことを見て取ってフィリエルは頷いた。 頷いたフィリエルを見て、ルーンも珍しい笑顔を浮かべる。 「ねぇルーン?あたしたち、話ももっとたくさんしましょうね」 ルーンと共にある時に自然出現する違和感のない沈黙も嫌いではないけれど。決して重くは感じない、隣にいて当たり前の空気が、会話と同じく愛しくはあるけれど。 灰色の瞳から見た、美しい世界を感じたい─── フィリエルは伸びやかに笑んで瞳を輝かせてルーンにねだる。 応えるように頷いたルーンに、はしゃいだ気持ちを抑えられずに言葉を重ねた。 まるで小さい頃に戻ったように、ルーンに訊ねては答えをもらって質問を繰り返す。新しい物を捉え幸せを噛みしめた表情は、これまで以上に輝いていた。 |
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2002/01/19