いっそ、狂ってしまえたら良かった。 |
夜はあけない |
「フィリエル」 部屋の扉を軽く叩くと、中から寝ぼけ眼の声が返る。 軽すぎるせいか扉の外までは響かない足音。それでも近づいてくる気配に、生まれくる嬉しさは隠せない。 「…なぁに?こんな朝早く…」 あくびをしつつ扉の前、世界でただ一つの声でルーンを呼ぶ。 「開けてよフィリエル」 朝が早かろうと夜が遅かろうと、彼女に会いたい気持ちは変わらない。 目が覚めたら一番におはようを。 眠るときには一番最後にお休みを。 言いたい気持ちを抑えなくていいこの場所は、きっと楽園。 「…女の子は、身支度もしないうちから男性の前には立たないものよ」 意識がはっきりしてきたのか、フィリエルの口から恥じらいと牽制の言葉が漏れる。 「ぼくしかいないよ」 すぐさま言い返したが、かわりに怒ったような声が戻ってきた。 「だからじゃない」 察しのあまりよくないルーンはフィリエルの口にしたことの意味が分からない。 寝起きの彼女だって、ルーンは昔から知っているのに。何故そうまで頑なにフィリエルが拒む理由がわからずに、思わず首を傾げそうになる。しばらく考えた結果、彼女が女王教育を受ける前であることを思い頷く。だがそれと同時にわき起こる「自分たちの間には関係ない」という思いは消せなかった。 「開けてよ。ぼく今日はちょっと出掛けてくるんだ。ケインと一緒にみてきたいものがあるんだよ」 早くに出るから顔を見るなら今しかないんだと。 言外に告げて返事を待つ。 「え?じゃああたしも行くわ」 慌てた様子で身支度を始める音が耳に届くと急いでルーンは付け足した。 「ダメだよ今日は。ぼくも無理矢理許してもらったし、フィリエルは今日王宮に行くんだろ?」 はたと思いだしたフィリエルが扉の向こうで動きを止める。 彼女が思案している間中、ルーンは扉に手を掛けてしまいたくて仕方なかった。 忘れられない、絶望がある。 胸の奥深く。 ずっと奥のそのまた向こう。見えない壁の狭間に押し隠した冷たく暗い過去の記憶と共に押しやったはずの、この世の終わり。 「フィリエル」 懇願する勢いで名を呼ぶ時はいつでも、ひょっこりそれが現れた。 返らない応え。 1万回、100万回といわず叫び続けた。 フィリエルと形取った自分の唇が、虚しく乾いていく空虚感。 呼応して耳に届いてくるはずの、愛しい声が聞こえない。 耳を掠める自分のこだま。 風がさらう彼女の名前。 伸ばしては空を掴む虚脱感。 この世界の何処にも彼女がいない絶望感。 それは今まで感じたことのない、最悪の夢の終わりだった。 ずっと、傍にいたかった。 傍にいると心に誓っていた。 いられないと知っても 彼女にだけは誰よりも幸せになって欲しいと願っていた。 どこか遠い地で 自分がもう二度と踏み入れることは叶わない光の地で。 誰よりも輝く笑顔で。 誰よりも幸せに。 幸せに。 幸せに。 自分が、いない世界でも。 彼女が笑っていられるならば 例え痛む胸を抱えても、 傍にいることはできなくても、 自分もきっと幸せになれるから。 彼女の幸せなら、ずっと願っていられるから。 願いの果てに消えてしまうくらいなら …いっそ、狂ってしまえば良かった。 「…わかったわ。今日は諦める」 諦めの溜め息と共に静かに扉が開いた瞬間、ルーンは思わずフィリエルを抱きしめた。 「えっちょっ…ルーン?」 暖かい。 フィリエルの吐く息が肩口にあたる。 「フィリエル」 「ルーン?」 何かをこらえるように絞り出された声に、フィリエルが心配の色を見せる。 この世界の誰よりも 「フィリエル」 「…なぁに?」 返る声。 赤金色の髪に顔を埋めて、フィリエルを抱く腕に力を込めると、 応えるようにフィリエルがルーンの背中を抱いた。 ───狂ってしまわなくて、良かった。 ルーンは顔を上げてフィリエルに向き直る。 フィリエルの瞳が優しく微笑んで、ルーンの視線とぶつかった。 今はもう知っている。 フィリエルの幸せ。 自分自身の幸せ。 絶望を乗り越えてある、現在という名の未来を。 ルーンは口元を緩ませフィリエルに囁いた。 「おはよう、フィリエル」 返らない声は今はない。 あけない夜も、やはりない。 |
fin |
戻 |
2001/01/14