「驚いたな」
 そりゃ、日本と違い歩いて国境を越えられる大陸だけど。
 ドアチェーン越しのその人物は、この国では留学生に間違われること間違いナシ、の日本人だった。同じアジア人でも、特別幼く見えるのは国自体が幼いからだろうか。まだ肌寒い気温に合わせグレーのスウェットパーカーに、それでも下は膝までのショートパンツを穿いている。ナイキのバックパックには、多分一泊分の荷物しか入っていないのだろう。
「あがっていい?」
 そう言った松山は、めずらしく俺が招き入れるまでチェーンを外しても玄関に入らなかった。
「何で着た? 列車か?」
「電車はまだ乗継がわからないから…飛行機」
 松山は、自分から来ておきながら、ソファーの隅に腰を下ろしたきりこちらを見ようとしない。
「若林、週末どっか出掛ける? オレ、今日泊まってもいい?」
「構わないが…」
 言い掛けたところで、憶えのある着信音が鳴った。松山はすぐには携帯を取り出さず、何度か着信音を聞いてから、ためらうようにバックパックのファスナーを開けた。
「もしもし? いま若林ンところだから。帰ったらこっちから掛ける」
 こっちから掛けるだなんて、随分突き放した言い方だ。つまりは、こちらから掛けるまで掛けてくるなという、甘えを含んだ拒絶の言葉だ。
「日向か?」
「暇なんだろ」
 暇だから電話するようなヤツじゃないってわかっているくせに。
 だがそんな嫌味を言うのは意味がない。それより。電話の向こうのアイツも、気付いたのだろうか。それは、虫の知らせというヤツか。
「な…に?!」
 前髪を掻き上げた、俺の手のひらを神経質に払う。部屋に上がる前から、ピリピリと毛を逆立てている。だけどそれは、怯えているようでもあり、毛を逆立てるというよりは、鳥肌を立て震えているようだ。
「熱があるんじゃないか?」
「ないよ…ある、かも」
 一度否定しておきながら、らしくなくすぐ翻す。視線を外したまま、俺に額の熱を測らせる松山はもともと体温が高いので、手のひらのこの熱は微熱程度かもしれない。
「病院、行きたい。でも、言葉がわからないから」
「連れて行って欲しい?」
 松山は、黙って頷くだけだった。確かに、医者に専門用語で話されてはわからないだろうが、松山のクラブにもチームドクターがいるはずだ。いざとなれば、現地のコーディネーターが通訳をしてくれるだろう。俺は、まだ松山が話したいことがあるだろうと、隣に腰を下ろすことにした。何かを警戒している松山に、いつもより少し離れて座る。
「…っ、」
「いいよ、ゆっくり話せよ」
 言葉を綴ろうとして、息を呑んでは口をつぐんでしまう松山を横に、組んだ手のひらを膝の間に落とした。松山は、何度か口をぱくぱくさせた後、何故かベルトを外し始めた。
「松山?」
 松山がファスナーを下ろし広げた、前立ての間から上着と同じグレーのボクサーパンツが見える。その先の…。
「誰にやられた?」
 言ってしまってから、それは一言目に相応しくないとすぐ気が付いた。
「いや、悪い。何か薬は塗っているのか?」
「塗ってない。ドラッグストアに行ったんだけど、塗薬は箱書がよくわからなくて…タイレノールだけ、飲んできた」
 松山の、太腿の付根にはいくつもの火傷ができていた。正直、俺にも憶えがある煙草を押し付けた痕だ。熱はその所為だろう。とはいえ、火傷が直接発熱を引き起こしているのではなく、火傷をした過程がストレスとなって自律神経を失調させているのだ。しかし、タイレノールは痛み止めにも効果的だ。
「クラブの連中か?」
 松山が、チームメイトを疑うことをよしとしない性格だとわかってはいるが、通りすがりの連中に襲われるほどやわな男でもない。
 スポーツマンシップに欠けるというよりも、サディスティックなその痕は内側の付根に集中していくつも付いていて、着替えをしても傍からは気が付かない位置だった。しかし、どんな些細な動作でも衣服が擦れ、傷む、嫌らしい位置だ。俺は、原油のように重く暗い感情が腹の底でドロリと流れるのを感じた。
「わからない。ロッカールームに入ったら真っ暗で、タオルで目隠しされた」
 ショートパンツを掴む、松山の手が震えている。思い出して怯えているのか、怒りがそうさせるのかその引き結んだ口元ではわからない。だが多分後者だろう。
「顔もわからないし、何を言われたのかもわからないから、余計わからない。正直、オレまだ身振り手振りが無いと細かい日常会話がわからなくて…フィールドで必要な言葉は、覚えたけど、」
「わかった、一度に話さなくてもいい」
 これ以上聞くのは、いくら松山が平静を装っているとはいえ今はよくないと判断し、俺は車のキーを手に取った。
 病院では、治療の経過を見る為必要だと言って、ドクターに写真を撮らせた。普段なら、そんなことはこじつけだと気が付くだろうが、やはり熱で朦朧としているのか松山は黙って治療を受けた。
 車の中で、松山はずっと俺の肩に凭れ掛かっていた。ギアを入れ替える度、洗い晒しの前髪が揺れるのを、俺は視界の端で何度も振り返った。

「牛乳温めてやるから、それ飲んだら少し寝ろ」
 人混みに出たせいか、松山は来た時より更にぐったりしていた。ベッドに腰掛ける、その肩に毛布を掛けてやる。俯きっ放しのその姿勢が、らしくない。
 ミルクパンに一人分の牛乳を入れ、ひとつまみの黒砂糖を入れ温める。普段は蜂蜜を入れるのだが、松山は普通の砂糖でほんの少し甘みを感じるくらいを好む。そこに、隠し味に塩を僅かに。
 マグに入れ、両手を温めるように持たせたが、松山は黙って膝へ下ろしたまま口を付けなかった。
「油断した。相手が強盗だったら出場にかかわる怪我をしていたかもしれない。『次』は絶対こんな油断しない」
「松山」
 被害者心理にありがちだが、気持ちの強い被害者ほど自分を責める。強盗にしろ、強姦にしろ、一方的に暴力を振るわれる理由はどんなに相手を正当化しても存在しない。だが、そのことを理解するには時間が必要だ。
「松山、お前は油断していなかったし、勿論暴力を受ける理由も無い」
「チームメイトにしても、サポーターにしても、オレが結果を出せば不満は無いはずだ。言葉だって、移籍したからには周りに負担を掛けないだけ習得しないと…」
「松山」
 背中から肩に腕を回し、抱き締める。触れた俺の腕に、松山は体を強張らせる。
「もうこんな醜態は晒さない」
 有言実行の松山に、次があるとは俺も心配していない。だけど、それだけでは『今』の松山を見守ることが余りにも切ないじゃないか。
 俺は、松山をゆっくりとベッドへ押し倒すと、松山をくるんでいた毛布をはだけ、ベルトのバックルを外した。
「わかばやし…?」
 驚きで息を呑む松山の膝を立てさせ、ガーゼに触れないようゆっくりとショートパンツから両足を抜き取る。
「眠れるように、手伝ってやるよ」
 覆い被さり、わざと唇ではなく首筋にキスを落とす。トレーナーは脱がさないまま、Tシャツに手を差し入れ脇腹から胸元までをゆっくりと撫で上げた。
「や…めろよ!」
 いつものように力ずくの抵抗が無いまま、怯えと嫌悪感をあらわにする。
「日向に会いたくないんだろう?」
「!!」
 言葉を失くした松山の、唇に触れるほどの距離で問い詰める。
「恋人に格好悪いトコ見せたくないから俺のところへ来て、治療させて、週末に突然押し掛け用が済んだら帰るのか?」
 返す言葉も無い松山の咽喉元を唇と舌で強くまさぐり、感じやすい脇腹を愛撫する手のひらでトレーナーをずり上げる。
「は…なせよ!」
「嫌だね」
 松山は両手を体の間に捻じ込み、体重差を無視して俺を押し遣ろうとする。
「なんで…?! できない、したくない!」
 ショートパンツの下、ボクサーパンツに差し入れた手のひらで引き締まった臀部をさすり、その谷間を指先でかすめる。こんな時でさえ、その肌はすべらかで吸い付いてくる。
「な…んで、わかんないんだよ! やだ、できない!」
 すっかり動揺した、松山が拳で俺の胸をドンと叩いた。
「帰る! 帰るから放せよ!」
「帰ってどうする?」
 体を起こし、覆い被る姿勢のまま松山を見下ろす。
「日向は勘がいいからな。アイツの行動力ならお前が来るなと言う前に来ているだろう。そしてお前は嘘が下手だ」
 そっと、その前髪を撫で上げる。決して、責めている訳ではないのだと。
「だけど俺のところに居るなら話は別だ。だから、俺のトコ来たんだろ?」
 堰き止めている、感情が溢れるまで後一歩だった。俺は、露になった形の良い臍へキスを落とし、膝裏を持ち上げると太腿の付根へ口付けた。
「!!」
 ガーゼを避け、やんわりと何度も口付ける。
「痛むか?」
「い…たくないッ」
 ボクサーパンツ越しに、中心にも口付け、仰け反る松山の背骨を指先で辿る。
「んっ…ン!」
「犯されるかと怖かったか?」
「そ、んなの怖くない!」
 九の字に体を折り曲げるように太腿を両手で押し上げ、両足をぐっと開かせるとそのまま布越しに中心から後ろまでを丹念に舌で弄った。
「こんな風に、足を開かされたのか?」
「ちが…っ、うつ伏せに、床に押し付けられて、」
 時折舌先で強く弄ると、ビクビクと腰が跳ねる。
「アンダーパンツごと捲くられた…っ」
 声のトーンが、低く落ちた。両手を離し、膝を立たせると松山は顔を覆うことなく、横に背けたまま続けた。
「その前に、誰かが足首を掴んでいて、」
「何か話していたけどオレにじゃないみたいで、そうなのかもわからなくて、言葉が、オレ、足を傷付けるつもりかと思って、」
 耐え切れず、抱き締めたのは俺のほうだった。
「オレ、それ以外ならどうでもいいと思って、身動きできずにいたら太腿がメチャクチャ痛くて、でも、これは熱いんだと思ったら、煙草の火だと思ったら、よかったと思ってそのまま黙ってた」
 言い終わりながら、松山が俺の首筋にギュッと抱き付いてくる。
「それまで怖いってどんなカンジかわかんなかった。でも、怪我したらと思ったら、」
 嗚咽が漏れないよう言葉を飲み込み、松山が抱き付く腕に力をこめる。
「はじめて、これが『怖い』んだって思った」
 弱さを否定する松山が、こんなことを口にするのはこれが最後だろう。
 だが本当は、醜態を晒したと思っていることや、はじめて『怖い』と思ったこと、そんなプライドより信頼を裏切られたことに心の一番深いところで傷付いていることに、松山が気付くことはないだろう。
 俺は、松山がすべてを吐き出せるよう、もし彼が涙を流しているのなら涙が乾くのに十分な時間、松山の顔を見ないようその肩に顔をうずめ抱き締めていた。
 張り詰めていた緊張が解けたのか、松山はそのまま意識を失うように眠りについた。

 日向は、松山が俺に弱さを晒すことに嫉妬しているだろう。松山に、優しくしたいと思っているだろう。だけどできない。
 そして俺は、日向に弱さを見せまいとする松山に嫉妬するのだ。
 無いもの強請りの無駄な感情。
 無駄だとわかっていて、コントロールできない感情がこの俺にあるだなんて。

 

 翌日空港に送る直前、松山が『次は格好悪く無い時に来る』と玄関でしっかりと振り向いて言ったので、俺は『格好悪い時にも来てくれ』とキスをした。

 

 

 

 

END



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