『最悪の日』 |
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天川水脈さま |
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眠い目をこすりこすり高橋啓介は階下のリビングルームに降りてきた。 時刻はとっくの正午を回っており、土曜日とはいえ、いい若者が起床するのにはあまり感心できない時間だ。 更に、まだ寝たりないと言わんばかりに小さな欠伸を噛み殺している姿は、とても実年齢相応には見えない。 いいところ、高校生だ。 まあ、それもそのはず。 この3月に高校を卒業した啓介は、4月から同じ系列の大学に進学したばかりなので、まだ高校生らしさが残っていたとしても、無理はない。 それにしても…。 啓介はリビングルームの入り口で中をうかがう。 リビングルームは無人で、啓介はそれを確認してむううっと眉を顰めた。 目的の人物がいなかったのだ。 ちなみに、彼の部屋も見てきたのだが…。 「アニキ、今夜こそは峠に連れて行くって約束してたのに…」 啓介の兄にして、恋人である高橋涼介の姿は、家のどこにもないようで…。 「俺にしては、早起きしたのに!!」 つり気味の勝ち気な瞳は約束を反故にされたのでは…の想いから、涙を溜め始める。 涼介に溺愛されて育った啓介は、年齢の割には感情表現が素直で、ちょっとしたことで涙が零れそうになるのだ。 もちろん、他人の前ではそんな情けない姿を晒すことはしないが、誰もいないところでは、けっして自分の感情を抑えようとはしない。 涼介の前でなら、尚更で…。 でも、、今日はいつも、啓介との約束は絶対に破らない涼介が、なんだか初めて約束を破りそうな気配に、啓介はどう自分の心をコントロールしていいのかわからなくなる。 元々、啓介を峠に連れて行くことを、涼介はあまり快く思っていない―という態度を取り続けてきた。 涼介がレベルが高い群馬エリアでも相当にレベルが高い走りやであることを知ったその日から、啓介は置いて行かれるのが嫌で、自分も峠に連れて行くようにせがみ続けてきたのである。 それを、はじめは受験生であることを理由に断られ、(ついでに、峠行きを餌にかなり厳しい受験勉強もさせられた。おかげで、ギリギリのラインではあったけれど、なんとか校内の系列大学への推薦枠に潜りこむことができて、晴れて大学生になれることになった―のは、また別の話)受験が終わったら終わったで、免許が取れるまで―の条件をつけられ…。 ここまでされれば、さすがの啓介も涼介がまったく乗り気ではないことに気づいたが、そこは生来の勝ち気さで粘り強く説得を続けてきた。 結局、高校生であるうちは問題になる―と言われ、桜咲く4月を待ちに待っていて、ようやく今日、連れて行ってもらえることになったのだけれども。 「アニキ、俺に嘘ついたんかな…」 なんとも情けない声で呟く。 そういえば、昨夜はやけに激しかったっけ、俺が、起きれないようにするためだったのかな…なんて、啓介にしては珍しく、鋭いんだか、勘違いしてるんだか、な推論を始めた。 もう、滲みはじめていた涙は完全に両目から溢れ出ている。 今、ここに涼介がいたとしたら、速攻で押し倒していたであろうくらいに、凶悪に可愛い姿。 トテトテとソファの方に向かって行き、膝を抱えた格好で座り込む。 拗ねた時にやる癖だ。 パジャマ代わりの薄手のスウエットは、あまりにも今の啓介にはまり過ぎている。 どれくらいそうしていたのか、啓介は、じっと動かずにいた。 書き置き一つしていかないで出かけた涼介の仕打ちに、生まれて始めて味わう悲しみの中にどっぷりと浸らされる。 なにがあっても涼介だけは自分を裏切らない…という想いを根底から覆されたのだ。 空腹も、絶望感に追い討ちをかけたかもしれない。 啓介はあまりひどい飢餓感を味わったことはなかった。 それは、涼介が完璧なまでに、啓介の体調に気をつかってきた賜物で。 腹が減ったなあ〜と思った時には、必ずなにがしかの食べ物が目の前に用意されたいたのである。 それは、涼介が医大生になっても変わることがなかった。 それなのに、チラッと覗いた冷蔵庫には、啓介が自分で食べられる形にできる食料品はない。 あまりの仕打ちに(?)啓介はとことん落ち込んでしまう。 感情表現が素直ということは、落ち込む時も、際限なくいってしまうということで…。 いつもなら、退屈凌ぎにつけるテレビも今日はつけない。 (アニキ…) 思うことは、涼介のことだけだ。 そして…。 どれくらい、そうしていただろうか…。 家の外から、聞き覚えのある独特のロータリーエンジンの音がしてきた。 啓介はそれにぴくりと反応する。 紛れもなく、涼介のFCのエンジン音だ。 啓介は、フラリとソファから立ち上がる。 いつもだったら、なにも考えずに涼介を迎えに飛び出して行くのに、今日ばかりは躊躇してしまう。 行くべきか行かないべきか考え込んでいるうちに、玄関が開く音がした。 やがて、規則正しい足音と、ガサガサとビニールのようなものが擦れあう音がする。 啓介は、手近にあったクッションを掴み、胸の辺りに抱え込むと、またソファに座り込んでしまった。 涼介にどんな顔をして会えばいいのかわからない。 こんなの、初めてHした次の朝以来のことだ。 そんな啓介の躊躇いとはなんの関係もなく、涼介は軽い足取りでリビングルームに入って来た。 すぐに、啓介の姿を見つけると、蕩けそうに甘い笑顔を浮かべて側に近づく。 「なんだ、もう起きてたのか。腹が減っただろう?」 ソファに座っている啓介と同じ目線になるために、わざわざ目の前で屈んだ。 「どうかしたのか?そんな、泣き出しそうな顔をして…」 最愛に弟が目の周りを真っ赤に腫らしているのに、涼介はすぐに気づく。 「アニキ、どこに行ってたんだ?!」 らしくもない尖った声を出して啓介は涼介を詰問した。 「どこへって…」 涼介は啓介の質問と様子を見ただけで、状況を把握してしまう。 まったくもって、高速回転する頭は、便利なのだ。 「俺が、おまえを置いてどっかに行っちまったと思ったのか?」 誤解を解く為に、おでことおでこをくっつける。 幼い頃から、啓介になにかを言い聞かせる時に涼介がする癖だ。 「だって、起きたら、どこにもいなかったじゃないか!!」 子供のように、啓介はむずがる。 「起きたら、冷蔵庫になにもないのに気がついて、買い出しに出かけたんだ。おまえ、起きてすぐでもバクバクよく食うからな」 優しい声音に嘘はない。 「だって…」 それでも、啓介は拗ねたままで…。 「だって、なんだ?」 「買い出しだけだったら、もっとはやく帰ってくるだろう?!」 キッと涼介を睨んだ。 「あ、ああ。それに関しては、悪かったな」 涼介は、一瞬だけ、口を開くのを躊躇する。 「それに関しては、なんだよ?!」 啓介は追求の手を緩めない。 「…言っていいのか?」 本当に珍しく、涼介は躊躇っているようだ。 「ああ!!」 啓介は大きく頷く。 「昨夜、かなり激しかっただろう」 啓介が頷いたのを見て、涼介はズバズバと話し出す。 「あ、アニキィ!!」 涼介のあまりにストレートな言葉に、啓介は顔を真っ赤にした。 「今までは、そんな翌朝は、なかなか起きて来なかったからなあ」 啓介は顔を真っ赤にしたまま硬直している。 どう反応していいのか、わからないのだ。 「俺としたことが、計算を誤ったぜ。やっぱり、回数を重ねる毎に慣れて回復も早くなってきたんだな…」 涼介の顔は、一種、貴族的な気品とストイックさを持っている。 その顔で、スラスラとそんなことを言って欲しくない…と啓介は脱力してしまった。 「で、今夜の峠行きの為に、チューンアップするために、パーツを買いにショップに寄ったんだ。そうしたら、店員がなかなか離してくれなくって、こんな時間になっちまったんだが…」 「チューン?!今夜、連れて行ってくれるのか?!」 「ああ、約束しただろう?俺は、啓介との約束を破ったりはしないぜ」 涼介はちょっとだけ眉を顰めた。 啓介の意外そうな反応で、更にわかってしまう。 (どうりで、ただ置いて行ったわりには、拗ね方が半端じゃないと思ったぜ) まったくもって、心外であった。 他人にはともかく、啓介に対してだけは、誠心誠意篭めて接してきたのに。 「啓介は、俺がおまえを置いて行っちまったと思ったんだな?」 追いかけ様にも、まだ啓介の愛車は納車されていないのだ。 入学祝いに父親に買ってもらったRX−7は、現在納車待ちである。 「ご、ごめん、アニキィ…」 しゅんとうな垂れた様子の啓介は、あまりにもいたいけで可愛すぎる。 「いや、怒ってないさ」 本当は、内心ドロドロとしたものを感じてはいるのだが、なにしろ啓介がそんな勘違いをしてしまう大元の原因は自分にある自覚があったので、今は黙っていることにした。 それに、啓介の空腹感もそろそろ限界に達しているであろうことは、たやすくわかる。 「まだなにも食べてないんだろう?軽くなにか作ってやるから、ちょっと待ってろよ」 優しいお兄ちゃんの顔をして涼介は言った。 「うん!!」 すぐに機嫌を直して啓介は頷く。 そんな様子を微笑ましく見守りながら、涼介は心の中である決意を固めていた。 (峠に行くまでに、よ〜く啓介に俺の愛の深さを教え込まないといけねーな。まだ、時間はたっぷりあるし…) 爽やかな笑顔の下で、こんなことを考えているとは、付き合いが長い啓介でも、さすがにわからなかった。 啓介はいやいやをするように首を振る。 まだ、濃厚なキスにはついていけない。 女を知らないわけではなかったからこそ、受け身の立場にはまだ生理的な違和感を拭えない。 でも、涼介がくれる愛撫はすべて快感に繋がって…。 「啓介、可愛いぜ」 耳元で涼介が囁くのに、啓介は身をぞくりと震わせた。 涼介の手で高められた熱は全身を覆い尽くし、なにをされても啓介の体は感じてしまうのだ。 「かわい…って、いうなよ…」 昨夜も、さんざんに泣かされたのに、今も喘がされまくり、啓介の声は完全に掠れている。 涙を滲ませた目はうるうると涼介を見上げる。 涼介が起きてすぐにメイクしたベッドはその甲斐もなく、乱れきっていた。 2人の行為の激しさを物語っている。 「そんな目で睨んでも、迫力ないぜ」 涼介は音を立てて啓介の唇を奪った。 まだまだ、体内には熱が残っている。 まだ日が高いうちに始めたのに、いつのまにか外には夕闇が押し迫っていた。 名残惜しいが、今夜のことを考えると、そろそろ開放してやったほうがいい。 最後に、もう一度しっとりとしたキスをして、涼介は啓介から身を放す。 「夕食の支度をしてくる。啓介は、まだ寝てろ」 シャツを羽織り、ベッドから降りようとした。 すると、ツンとシャツの裾が引っ張られる。 「行っちゃうのか?」 寂しそうな啓介の様子に、涼介は理性をあっさりと手放した。 まだ、体内の熱はしっかりと残っているのだから…。 「誘ったのは、啓介だからな…」 そう宣言すると、啓介のうっすらと汗ばんだ体に圧し掛かる 「え、ええ?!」 そんなつもりはまったくなかった啓介は、頓狂な声を上げたが、涼介に無視されてしまった。 「あ、アニキィ!!もう、無理だって…」 見かけはともかく、医大生として、抜群の体力を誇る涼介に啓介が敵うはずがない。 でも、涼介は無言で啓介の体をその気にさせてしまう。 「あ、ああ…ん」 すぐに、啓介は巧みな涼介の手管の甘い声を上げさせられた。 2人の熱い時間は、しばらく終わりそうにない。 啓介が気絶するように眠っている間に、涼介は神業の速さでFCのチューンアップを終わらせた。 さすがに、夕飯の準備までは手が回らなかったが、啓介はあまり食事に拘らないので、出掛けにファミレスですませれば問題ないだろう。 涼介はぴくりとも動かないほどに深い眠りに落ちている啓介を起こしに行く。 正直、このまま寝かせておこうかとも思ったが、そんなことをしたら、後が恐い。 啓介がどれだけ峠に行く日を楽しみにしていたかを知っているだけに、やっぱり起こさない訳にはいかないだろう。 ちょっとだけ、心を鬼にして、涼介は啓介の体を揺すった。 「啓介、そろそろ出掛けるぞ」 そうしたら、いつもの寝汚いのが嘘のように、ぱっちりと啓介は目を開いたのである。 「アニキ、でかけるのか?!」 掠れてはいるが、その声は充分に啓介の嬉しさを伝えてくれた。 「ああ。着替えて、出掛けられる支度をしろ」 涼介は、浮かび上がってくる笑顔を止める術がない。 「な、なんだよ?!」 ここで可愛いなどと言ったら、また一波乱ありそうなので、涼介は頭を軽くポンポンと叩くことで誤魔化した。 「な、なんだよう〜」 不審そうにしながらも、啓介は気持ちよさそうに目を細める。 「ほら、早く準備しないと、おいていくぞ」 啓介を追い立てるように涼介は言った。 「う、うわわ!!」 啓介は変な声をあげて慌ててベッドから飛び出す。 その姿を見て、涼介はクスクス笑った。 赤城の峠について、涼介は心底後悔した。 周囲のざわめきが、それを助長している。 なにしろ、激しい情交の跡を、啓介は全身に残していた。 ちょっと潤んだ瞳は、甘やかに涼介を見つめて、なんともいえない色香を放っている。 酷使された体は、気だるげな雰囲気を醸し出していた。 涼介は、ゴクリという走りや達の声なき声を聞いた気がする。 何気なく立ってそこにいるだけで、啓介はフェロモンのようなものを発していたのだ。 (今夜は、片時も啓介から目を離せないぜ…) 苦い想いをかみ殺しながら、涼介は啓介に見惚れる男達を鋭い視線で牽制する。 「アニキ、今夜は走らないのか?」 はじめて来た峠の様子を興味深そうに見ながら、啓介は無邪気な笑顔で涼介に訊いた。 「啓介、今夜は、ナビで俺の走りを見せてやるよ」 涼介はにっこり笑って返事する。 『おおおおお!!』 峠では無表情なまでに表情を変えない涼介の飛びっきりの笑顔に、どよめきが起こった。 「な、なんだあ?!」 啓介はその騒音に驚く。 「おまえが気にすることじゃないさ。啓介、行くぞ!」 啓介の肩を抱いて涼介はFCに向かった。 また、どよめきが起こったが、涼介は一切無視する。 そして、心の中でこう呟いた。 (最悪だ…。狼どもの前に啓介を晒しちまった…) これを心配して、啓介を峠に連れて来たくなかったのだが…。 (1回連れて来た以上、もう仕方ないな) 啓介は涼介と違って、他人に対する警戒心が皆無に近い。 そういう無邪気なとこを鍾愛してきたのは涼介自身だけに、どしようもない。 (これからは、啓介を守る方法を考えねーとな) ナビに啓介を乗せながら、涼介は脳みそをフル回転させる。 涼介の超絶技巧に歓声をあげる啓介に優しく説明しながら、これからの予定をしっかり決め始めていた。 ― THE END ―
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