あいつが好きだった。
親友だったあいつ。同じ探偵であるあいつに、好きと告げられて……悪い気しなかった。
むしろ、嬉しかったと言っても過言ではなかった。

あいつの『好き』にオレも『好き』と返して、二人で幸せになった。
それは、間違いではない。……なかったはずだ。


なのに……時々、無性に心が寒くなる。

こんな夜。
夜風に身を任せつつ、レトロな泥棒を待つ時に感じる、軽い興奮に混じって……心の一点が囁きかける。




お前の選択は、間違っていなかったのか?

──────真実(ほんとう)に幸せなのか……と。





My Only One 1




かつん─────。

百貨店の屋上は、その半分以上が室外機等、設備機械で埋められている。
昼間なら全ての空調はフル稼働し、屋上の温度を数度上げていることだろう。しかし、今は真夜中。ほんの一部の空調を残して、その他は静まり返っている。

その中、新一は屋上へと続く扉を押し開けるとゆっくりと周りを見渡した。

雲一つない夜空。
些か生暖かい風が新一の頬を嬲って消える。その風に促されるように足を踏み出す。
アスファルトコンクリートの床が乾いた音を立てる。
都会の夜にしては普段より多くの星が見える。

多分、それは新月の所為。

考えてみれば、月のない夜にこうして空を見上げた事はなかった。
あいつは何時だって銀色に輝く月の下に佇んでいたから。



この百貨店の特別催事場で催されている宝石展覧会。
そこに展示されているコンクパールが標的。
世界的にも希少性が高く、しかも、ある程度の大きさを持つものは少ない。
今回展示されているそれは、その中でも比較的大振りではあるが、……ビックジュエルと言える程の大きさのものでもない。

しかし、怪盗KIDの狙う宝石は、明らかに『それ』と告げていた。


厳重な警備と警戒。
現場に漂う緊張感。
世紀の怪盗の披露する華麗な盗みのテクニックは、新一ですら一目置いていた。

油断がならない事も………。

新一は腕時計を見る。予告時間は既に過ぎている。
静寂に包まれた空間。


……まさか、ここではなかった──?


そう焦り始めた時、……微かな風の乱れを感じた。
それは、新一の疑念を振り払う風でもあった。
思わず振り返り、見上げるその防護壁の上に映るのは、白い影。足場の悪いその上に、彼は揺らぐ事無く立ち尽くしている。


「──KID」
呟く声は、風にかき消される。
彼の──KIDのモノクルが塔屋の上から照らされたライトに反射して眩しく光る。

その輝きに新一は一瞬目を奪われ………再び目を開いた時には、右手首が鈍く痛んだ。

「……!!」
状況判断出来た時には──既に彼の腕の中にあった。


「今宵も貴方にお会い出来て……嬉しいですよ、名探偵」
何時もと同じ、自信ありげな口調は、決して捕まらないと、新一に告げている。そんに彼の態度に、新一は歯噛みした。

「KID……貴様!」
離せ。と、腕を引いて逃れようとする新一に、KIDは子供と戯れるような仕種でそれをかわした。

「おやおや。少しは大人しくしたら如何です?」
どうせ貴方は…もう私から逃れられない。
「ばっ……、何を言ってやがる!」
KIDが新一を拘束しているのは、右腕だけだ。新一が身を引こうと一歩後方に下がろうとした。
しかし、KIDはすかさず空いていた左腕を彼の腰に回し、巧みに新一の動きを封じると、その耳元にそっと囁いた。

「今晩は、貴方に逢うために来た……」
宝石は、新一をおびき出す為の餌。

コンクパール。
それは決して養殖では作ることの出来ない天然の真珠。
コンク貝から生まれる上品でやさしげな薔薇色の宝石は、自然のみが生み出す『奇跡の宝石』。
それは、目の前の探偵に似て………。

「お前にぴったりだろう……?」
真珠の宝石言葉は『愛』。

「ばかな……!」
身じろぎすら出来ない状況で、それでも逃げようと藻掻く新一の口唇を布越しのKIDの指がなぞられる。

「その薔薇色は、お前の口唇の色と同じ……」
自由になった新一の右手がKIDの胸を押し退けようと動くより早く、吐息が口元にかかる。

「今晩は……お前にこれを渡しに来た」
囁きは、吐息となって、その薔薇色の口唇へと重ねられる。



「……っ……」
ゆっくりと触れ合った口唇は、次第に深くなる。身体を強張らせて、KIDの口づけを受ける新一の表情は硬い。
しかし、意識とは逆に深くなるそれに……熱を持ち始める身体。

慣れない快楽に、しかし敏感に反応する。
その時、KIDの熱いものが口内に侵入するのを感じた。

押し入ってくる舌を必死に排除しようとするが、押さえ込まれたKIDの掌に抵抗出来ない。
舌が新一の口内を思うままに犯す。
受ける側はなすがままで………ただ、瞼を閉じれば流されてしまいそうになる自分を恐れて、見開いたままでいた新一に気付いたKIDの掌が、そっと両目を覆った。

「ん……ぁ…」
次第に足下がおぼつかなくなって……いつの間にかKIDの腕に支えられているだけになっている自分に気付いた時、ふいに異物を喉元に感じた。

「な……んっ」
ゆっくりと、それが喉元を通る。


何かを飲まされた──と、そう思った瞬間にそれまでとは別の感覚に支配される。
先程までとは明らかに違う、急激に弛緩する身体を支えられず、同時に意識が遠のく。

「キッ……おま………!」
何を飲ませた………。

そう問いかける前に、新一の意識は完全に途切れる。


「おやすみ、新一」
力を無くした新一の身体をKIDは軽々と抱き上げると、その口元に微笑を乗せた。

そう。
次に彼が目覚める時は……。



全ては忘却の淵に沈めて──。










どうしても手に入れたいものがある。
何が何でも、この手に掴みたいものがある。
手段は選ばない。
この手の中に抱けるのならば、どんな方法でも構わない。

構っていられないから────。






古く朽ちた洋館の中、魔術師は魔女を訪う。


魔女は、魔法使いだ。
「あなたが、私に頼み事をするなんて……普通じゃないわね」
お伽噺の中しか存在しないような場所に赤魔術の継承者は佇む。何百年も使われ続けてきた大きな瓶に煮えたぎる液体はドドメ色。深い紫色の底はどす黒い。
時代錯誤的な衣裳を身に纏った魔女は、その瓶から液体をすくい上げると、小さく呪文を唱えた。

「なりふり構っていられないんだよ、紅子」
モノクルが鈍く反射して、紅子を見つめるキッドに彼女は小さな溜息で応える。
慣れた手つきでそのカプセルに封じ込めた魔法の薬。

出来上がったそれは、瞬時にキットの手の中へと渡る。


「言っておくけど、それはあなたの望む薬とは少し趣が異なっていてよ」
あなたは、たった1人の男を己のモノにするための薬を願った。
「それはつまり『惚れ薬』って言われるものよね」
「……そうだな」
あっさりと頷くキッドに紅子は薄く微笑む。
「でも残念だけど、男が男を好きなるような『惚れ薬』なんて、赤魔術にはないの」
本来なら、それは異性に使うもので、同性には使わないものだから。
「なら、これは何だ?」
先程出来上がったカプセルを掲げるキッドに彼女は言う。

「それは『忘却の薬』」
それを飲んだ者、意識をなくし、再び目覚めた時、全てを忘却と夢の眠りに誘う。
「それと同時に目覚めて最初に見る人物に心を奪われる」
「ほう……」
「でも勘違いしないで。それは、決して相手を愛するという訳ではないし、完全に記憶をなくすというものでもない」
ただ、目覚めた時に傍いた人物が彼にとって最も大切な人と錯覚する。それは、俗に言う『すり込み』に似ている。

目の前に見える人物……それだけが、『彼の全て』となるのだ。

「全てを忘れてあなたを愛するという訳ではないの。かなりの意識の低下はあるけれど、記憶も残る。だから……」
「その後は、俺の腕次第……と言う所か」
そう呟くキッドに紅子はあるものを差し出す。

「目覚めた彼にはめてあげなさい」
それは、細い銀のリングだった。

「これは……」
「『呪縛のリング』。………常にそれに意識を向けさせ続けられれば、あなたの望みに近い結果が得られるわ」
受け取るそのリングには一見何の細工も施されていない。

「言っておくけれど、それは右手の薬指にはめるのよ」
「右手?………左ではなく?」
「左は、パートナーとの死別を意味するのよ。……赤魔術ではね」

だから、必ずそれは右手の薬指にはめること。


「分かったわね?」
そう念を押す紅子にキッドは頷いた。

彼は、紅子の真意に気付くことはなかった。




客人の帰った静まり返った空間に彼女は佇む。
言葉に言い表せない匂いが室内に充満してくるのも構わず、彼女は瓶の中の液体をかき回す。
その態度は少し、普段の彼女とは違っていた。
ぼんやりと考え事をしながら意味もなく様々な薬草を放り込み……考える。


今日の彼は彼らしくはなかったと。

彼は、今まで一度だって、魔法の力を借りようとしたはなかった。
魔法も手品も……結局は他人を騙す手段。
いつかは解ける。

紅子の操る赤魔術は、他のどの魔法よりも強い。

それでも思う。

本気で何かを求めるのなら、この力は使うべきではない。
絶対に失いたくないものならば、魔法は使ってはいけないのだと。


以前、彼の心を掴むために、ありとあらゆる魔術を施した。
そのどれもが彼には効かなかった。
最初はそれが悔しくて、自分の魔術が否定されたショックと、思い通りにならない相手を憎んだりもした。

しかし、現在はその考えは明らかに変化していた。


魔法はいつまでも続かない。
夢は永遠に続かない。


なら、最初からそんな魔術は使わない方が……真実(ほんとう)に手に入れたい相手ならば。



「………後悔するわよ、きっと」
その呟きは、誰にも聞き取れないほど小さなものだった。











声が聞こえる。
呼んでいる。
懐かしい……声。
いつも自分の傍に居てくれた。やさしくて、暖かな日だまりのようあいつ。

『あいつ』……?
ふいにそれは曖昧なものに変わる。


あいつって………誰だっけ……。
自分は今、誰の顔を思い浮かべていたのだろう。
とても大切な……何者にも変えられない愛しい人。

なのに、突然頭の中に靄がかかるように……あいつの姿が見えなくなってしまった。


一番大事な奴なのに……名前すら、思い出せない──。






四方を木々に囲まれた洋館は、一見誰も住んでいないうち捨てられた屋敷に見えた。
しかしその外観とは裏腹に、内部は隅々にまで清掃が行き届き、全ての部分は居住可能でもあった。
その建物を知るのは、ごく僅か。
そして、そこに入った者も……。


穏やかな初夏の午後。
白い影は、その重厚な扉を押し開けて内部へと足を踏み入れた。外よりもひんやりとした室内の中、目の前の緩やかに続く螺旋階段を昇る。
幾分色あせた緋色の絨毯の毛足は長い。その所為で足音は消え、音もなく目的の部屋にたどり着く。
そして、静かに扉を開いた。

かなり広い室内に、あるのは天蓋付のベッドが一つ。
その上に眠る人物が一人。

開け放たれた窓から鳥のさえずりが聞こえる。キッドはゆっくりとベッドの側に歩み寄ると、そこに眠る人物の顔を覗き込んだ。
昨夜、あの場所から意識を失った新一を連れ去った。それから半日以上、新一は未だに眠り続けている。

キッドは眠る新一の前髪をそっとかき上げた。
白い肌にその柔らかな髪が風に揺れる。思った以上に長いまつげは、穏やかな眠りを続けている。


彼だけが欲しいと思い始めたのは、何時からだろう。
ずっと以前から、この目の前の男が欲しかった。
初めての出会いから数年。

………ようやく今、手にすることが出来る。
もう、誰にも渡したくないし、渡すつもりもない。

キッドにとって、工藤新一こそが『至宝』。


白い頬をそっと撫でる。慈しむように、愛おしむように。その滑らかな肌触りを指に感じて、心が震える。
こんなにも、心を粟立たされるような人間は、彼を置いて他は知らない。


この男だけが全てで……。




「………新一」

囁く声は、微かに震える。
目覚めさせたい。そう思う心とは裏腹に、このままで居て欲しいと願う自分も存在する。
目覚めた彼の眼光が、強い拒絶の光を露わにしたら……どうすれば良い?
今更手放すつもりはないが、力ずくでモノにしても……いつか後悔するかも知れない。

そう考え及んだ所で、キッドは自嘲気味に口唇を歪めた。



力ずくも何も──。

今の自分の高じている手段そのものがマトモではないではないか。
よりにもよって、魔女に助力を願うなど、『怪盗KID』にあるまじき行為に今更ながらに嗤いが込み上げてくる。
決して、確実性のない賭け。それでも、何もないよりはマシだった。

未だに眠りの夢の中に漂う新一をキッドはじっと見つめた。

目覚めて最初に見る人物に心を奪われる。そう紅子は言った。
それが事実か否か……彼を目覚めさせれば分かる事。


頬に触れていた指が、口唇をなぞる。
キッドは、薔薇色に息づくその口元を暫し見つめ、意を決するように口唇に触れた。


窓から吹き込んだ風が、室内の空気をかき乱す。
やさしく触れる唇に反応してか、新一が僅かに小さな声を漏らした。
睫毛が震え、緩やかな覚醒を示す。

キッドは唇を離すと、静かに名を呼ぶ。


「新一…………」

彼が目覚めた時、一番最初にその瞳に映されるように、じっと見つめたままで。
覚醒し始めた身体は、微かに感じる風に反応するかのように身じろいだ。

もうすぐ、目覚める。
ゆっくりと、瞼は押し上げられ………深い蒼い瞳がキッドを映し出した。

そして、しばらくの沈黙の後、新一の形の良い口唇が、僅かに動いた。


「……お前は…………誰だ」

それは夢の眠りから覚め、そして新たな夢の世界へと誘われた瞬間だった。




一際強い風が室内に入り込み、天蓋から流れる紗を巻き上げて、消えた。
半身を起こした新一は、目の前でじっと見つめてくる男に目を奪われる。


……とくん。
心が……一瞬粟立った。


「……お前は…………誰だ」
些か焦点の定まらぬ瞳で、それでもキッドを見つめる新一。
少し掠れた声が、キッドの鼓膜を甘く刺激する。
ぼんやりと自分を見つめる、そんな新一の頬に手を滑らせて、キッドは言った。

「俺を忘れたのか、新一?………お前にとって、最も大切な人間を」
「………大切?」


心地よい風が何度も吹き抜けて、まどろみの中、新一は夢を見る。
漠然とした……しかし、とても幸福な夢。
誰かが、新一の傍にいて、とりとめのない話をしている。
学校の事、休日の出来事、事件の事。


────やっぱ、工藤がおらんと面白ろないわ。


そう言って朗らかに笑う。
新一はそんな彼を眩しそうに見つめつつも、何故かぶっきらぼうに言葉を返すだけで。本当は、もっとこいつの喜ぶようなことを言ってあげたいのに。
楽しい会話を新一はさもつまらなそうに聞くだけで、それでも目の前の男は楽しそうに色々話を聞かせてくれる。

そんな些細な時間が……………堪らなく幸せだった。


その時、ふいに誰かに名前を呼ばれた。
── 新一、と。
そう呼ぶ奴は、あいつじゃない。
誰だったっけ。
何処かで聞いたことのある声。
知っている声。



誰だ──?



「新一……」
目の前の男から漏れる声。
白い衣裳に身を包み、新一の身体を支える男。片眼鏡が顔を僅かに隠している。

………この男は……誰だろう。

新一は、無意識に手を伸ばした。
目の前の隠されている顔を確かめたくて、片眼鏡に手をかける。触れると同時に手の中に落ちてきた、それ。
気になっていたのは、彼の顔ではなく、このモノクルなのか……?

何処かで見たことのあるようなそれを、新一はじっと見つめた。見覚えのあるモノクルに、その飾り紐。

何処か……何処かで……何度も。


月の光に反射して、その表情は見えない。
何時も先回りして待ちかまえるのに、糸も容易くすり抜けて消える白い影。
引き止めたくて、求めて、手を差し伸ばして、………それでも捕まえられなかったあいつ。

お前は………。


「──キッド……?」


目覚めて最初に見る人物に心を惹かれ、奪われる。
『忘却の薬』は、新一の意識を緩やかに浸食する。
素顔をさらけ出したキッドを見つめ新一は思う。
追い続けていた頃から……ずっと心にはこいつしか居なかった。


「お前が……俺を呼んだのか……?」
「……ああ、そうだ」
目の前の男を…新一は知っていた。
しかし不思議な事に……何時、何処で出逢ったのか……まるで思い出せない。

思い出せるのは……。

彼を捕まえたくて、何度も手を伸ばしている自分に、彼は少し意地悪く、そして楽しそうに笑いながら決して捕まらせようとはしない態度で軽やかに逃げる。そんな光景。

捕まえたかった。
この手に。
──それだけは、忘れなかった。


新一はキッドの白いスーツの袖をぎゅっと掴んだ。
もう二度と離さないと言わんばかりに、強く。



「捕まえた。──もう逃がさない」
鋭い光を放つ瞳はそのままに、しかし、口元には微笑を湛えて呟く声にキッドの心は捕らわれる。
そして……彼も満足げに微笑んだ。

逃がさないのは、キッドも同じ事。
微笑を浮かべる新一のその口唇に、キッドは優しく口を寄せた。


触れ合う、口唇。
もう二度と離さない。



次第に深くなる口づけを新一は躊躇うことなく受け入れた。
捕まえたかったのは、彼が好きだったからと──そう信じて。

新一自身も気付かぬ内に、その右手には細く輝く銀のリングがはめられていた。











それは、偽りの幸福なのか。
2人しかいない洋館に尋ねてくる者はいない。

新一は一日中、限られた部屋で過ごす。
何もいらなかった。
彼さえ居れば。


今の新一にとって、『キッド』だけが世界の全てで、大切なもの……。





始まりは、キス。

彼のその白く細い指もとに厳かに口づける。
そこに輝くのは銀色のリング。なんの装飾も施されていないそれは、却って新一の指の美しさを際立たせていた。

始まりは、いつもキス。
傅くように口づけるキッドに、新一は心が波立つ。

それは儀式のように……繰り返される。





「はぁ………ん」
ふいに零れた声。
口づけが深くなると息苦しくなると同時に、身体中が麻痺したように痺れて動けない。
でもそれは決して不快なものではなくて……。

歯列を割って、口内に侵入してくるキッドの舌に、新一は無意識に己のものを絡ませる。強く吸い上げられて、吐息とも喘ぎともつかぬ声が新一の口から漏れ続ける。
キスがこんなにも気持ちの良いものなんて……今まで知らなかったと信じて。
触れ合い、重ねる行為は、頭で想像していたものとは全く違う。

「あっ……キッ……」
「何だ……?」
喘ぎに混じって漏れる言葉にキッドは深く絡ませていた舌を解くと、そのまま頬から耳朶に向かって嘗め上げる。

「ふぁ………」
甘い痺れが身体中に駆け抜けて、意識が拡散していくのを止められない。ただ、こうして、自分をベッドに押し付けている男に全てを委ねている自分。

これが本当に欲しかったモノ。……だから、今は幸福だと感じる自分が居る。



シャツのボタンが、新一に意識させることなく器用に外される。はだけたその隙間から、しなやかな指が白磁の肌を撫でる。ゆっくりと衣服を脱がしていく間にも、キッドの唇は新一の耳元を愛撫し続ける。

ふぁさり。
天蓋から垂れている柔らかな布に新一の手が触れる。それを強く握り締め、無意識に身体の奥から沸き上がる炎を必至に押さえ込もうとする。

「…………そんなものに、助けを求める必要はないだろ……新一?」
それに気付いたキッドが彼の指からカーテンを外させると、己の背中に両手を回させた。

「キッド………」
素直にしがみついてくる新一を満足気に見つめつつ、更なる快楽へと誘う。
心も身体も……全て自分のものにしたい。

例え真実に目覚めることになっても、離れて行かないように。
愛撫を続ける指が次第に下方へと辿っていく。
新一の身体の最も熱く脈打つ場所へと触れると、新一の息を飲む声が聞こえた。
ゆるりとそれを包み込み、感触を楽しむように指を動かすと、途端に嬌声が上がった。

「新一……愛してる」
耳元で囁く甘い言葉。
「……っ……ぁ」
行為を言葉にされると……身体の熱が更に上がる。愛されている実感に目眩を起こす。
もう、どうにかなってしまいそうな感覚に支配され……無我夢中でキッドにしがみつく。
そうする事で、新一の想いを相手に伝えようとした。

しかし……それだけでは彼は許してくれなかった。

必死に腕を絡める新一に、優しい声が届く。

「新一は………?」
「……え……?」
ふいに、新一は潤んだ瞳でキッドを訝しげに見つめる。
甘い言葉は何度も聞かされた。

「新一……」
しかし、こんな風に答えを求められるのは初めて。
いつもの優しい口調の奥に見え隠れするのは──彼の真摯な想い。


思わず目を見開いて見つめるキッドの瞳の奥が………何処か哀しく見えて。
どうして……そんな瞳をするのだろう。
新一には、キッドしかいないのに……!
言葉を欲するキッドの心が読めなくて。

「言って……新一」
だが、新一の言葉で彼が安心するのなら。
……それなら安いものだ。



「……す……き…」
掠れた声で告げる言葉。新一の瞳はキッドを映し出して。
しかし、キッドは少し不満そうな表情で新一を見つめた。


「……好き?」
幸福の中にいる新一とは対照的に……どこか憂いを帯びた顔。
何かが足りない、とでも言うように新一に語りかけてくる瞳。

この言葉では満足出来ない?
『すき』では伝わらない?

新一は想いを言葉にするのは苦手だった。思っている事を素直に表現するのは苦手だった。
だけど………そんな瞳で見つめないで欲しい。

愛しさが……切なさに変化したように瞳で、自分を映さないで欲しい。



どうすれば満足出来る?
『すき』をもっともっといっぱいにして、溢れる気持ちを伝えればいい?
好きだけど、なかなか面と向かって告げられない言葉を伝えればいい……?



「……愛…してる」
相手の言葉に応えるだけで、今まで一度も言った事のなかった言葉。

「ホントに……?」
「……たりめーだろ。……っあ」
強い刺激に再び強い目眩をおこしかける。

それでも、新一の放った言葉に和らいだキッド瞳の色を確認すると、素直に快楽に身を任せていった。





「……何かヘンだ」
まどろみの中、腕の中で呟く新一の言葉にキッドは尋ねる。

「……何が?」
「お前が……だよ」
キッドの、ほんの少しの緊張を孕んだ声に新一は気付かない。

「俺が……?」
新一の柔らかな髪を梳きながら、そしてキス。
「そう」
髪に相手の唇を感じながらうっとりと目を閉じる新一に、キッドはどれだけこの身体を抱いても、この乾きは消えない事を知る。

「どこか……辛かったのか……?」
「……ばーろ。そんなんじゃねぇよ。……ただ」
漠然と感じる不安。
新一は今が幸福なのに……その幸せを与えてくれるキッドからは……何も感じない。
新一が抱いている想いとキッドが抱いている想いが全く正反対のものに思えて。
もしかしたら……好きだと思っているのは新一だけなのだろうか。

優しい……優しいキッド。


彼は、こんな人間だったのだろうか。


ずっと以前から知っているはずなのに、昔からずっと好きだったはずなのに──彼の本質が見えない。
彼が何者なのか、解らない。





「新一……?」
揺らぐ瞳で見つめてくる新一に、キッドは戸惑うような声を上げる。
こんな……不安な表情する男だっただろうか……キッドは。


憎いくらいに自信有り気で、太々しいまでの態度。
その玲瓏たる眼で、人々を欺く。

ふいに月下に佇むキッドの姿が脳裏に浮かんで、新一は眉をひそめた。


何か……何かが違う。


「新一」
ぼんやりする新一の右手を持ち上げると、その指に──正確にはリングに──キッドは口づける。
「……あ」

視界に入った薬指にはまる細い銀のリングに新一は目を奪われる。
その銀色の光を見つめていると、頭の中に霞がかかりはじめて、まるではっきりしない意識なのに、何故かそれが心地よいと感じる。

これで良いのだ。
その輝きは、新一を何も考えられなくさせる代わりに、安心をくれる。
何も考える事はないのだと。
悩む事も、思い煩う事もない。ただ、目の前の男と共に居ればいい。

側にいるだけで、こんなにも安心できるのだから。
こんなにも幸福で満たされるのだから。


そっと手を伸ばして、キッドの頬に触れる。
その肌から伝わる温もりを感じて、新一は微笑んだ。











「工藤」
ヤツが、沈黙を破った。

「……あ?」
「……一つ頼みがあるんやけど」
珍しく歯切れの悪い口調。
「何だ……?」


「……ちょっと、ぎゅ、させてくれへん?」
「ぎゅ?」
首を傾げる俺に、ヤツは躊躇いもなく近づいて……。


「──!?」


俺は、抱きしめられていた。
内心かなりの赤面もので、男同士だ、何照れていやがるんだ、と自らを叱咤し続けたのにも関わらず。
激しい動悸が俺を悩まし続けた。 何故だろうと考えて……その答えはすぐに出た。
そっか……俺、こいつのコト──好きなんだ。



「工藤……俺、ずっと前からお前のコト……好きやったんや」
抱きしめたまま呟くように告白するあいつに、俺も応える。



「ああ。……俺も」
多分、初めて出逢った頃から、ずっとお前が……。







「──……っとり」



薔薇色の口唇から零れる言葉に、キッドの動きが一瞬止まった。
穏やかに眠る新一の髪を掻き上げ、そっと唇を寄せようと近付いた時に呟かれた言葉。


それは、新一がおそらく真実愛した人物の名前。



全てを忘れて愛するという訳ではない。記憶は残る。
そう赤魔術の使い手は言った。
新一が飲んだ薬は惚れ薬ではない。


目覚めた時、一番最初に見た人物に心を奪われる、惹かれるというだけで、決して愛される訳ではないのだ。
はっきりとした恋人がいる新一に、この薬が何処まで効くか、それは賭だった。
ただ、意識の低下している内に、彼の想い人を自分にうまくすり替えて、その薬に補強を促す指輪を贈った。


新一は、キッドが予想していたよりも遙かに自分に反応してくれた。
それを『愛情』と錯覚させて、全てを奪った。

もちろん、後悔はしていない。
偽りとはいえ、今現在新一はキッドの腕の中にいる。安心しきった表情で眠りの中に漂っている。
ここいる新一は、紛れもなく本物の新一で、キッドが求めて止まなかった人である事には変わりない。


「新一………」
囁く声に願いが隠る。


──夢よ、覚めないでくれと。







新一が退屈しないように、彼の興味を引くような本は全て揃えた書斎。新一は、予めキッドが用意しておいた蔵書を一冊一冊確認しながら問う。

「お前ってさ、エラリイ・クイーン、好きだったろ?」
その、忙しなく動く新一を眺めながらコーヒーを飲んでいたキッドの指が、ふいに凍える。

「何…だ……?」
「クイーン関係の本が思ったより少ないなと思って…さ。……好きじゃなかったっけ」
疑惑、というより、純粋な疑問口調の新一に、キッドは幾分安堵しながら平静を装う。

「勘違いだな、それは。……オレは別に推理小説に興味ない」
嘘付く必要はなかった。
新一の愛情をすり替えはしたけれど、あの男の代わりを演じるつもりは更々なかった。


そんな事は、まっぴらご免だ。


「ふ……ん。そっか」
首を傾げつつも納得する新一を見て、未だ薬の効力は消えていない事を知る。
意識の低下と混濁。
多分、それがある限り、本当の工藤新一の姿ではないのだろうけど。それでも真実に気付いて、あの西の探偵の元へと戻られるくらいだったら、現在の方がよほどいい。
新一は未だにキッドを最愛の人と思い込んでいる。

それで構わなかった。
傍に居てくれるなら………何でも構わない。
彼を手に入れた時から、何度もそう思う事によって、自分自身を正当化させる。
キッドが傍にいるから、新一も幸福なのだと。
新一が望むのなら、一生傍にいる。

それこそが、キッドの願いであり、幸せの形でもあった。





キッドは時折姿を消す。
それは、一日中居なくなるという訳ではない。数日置きにほんの数時間だけ。その間、新一は広い洋館で一人きりになった。
居なくなる時間は決まって昼間。朝から出かける事もあれば、夕方にふらりと姿を消す時もあった。

その日のキッドも新一と共に昼食を終えた後、夕方までには戻ると言い残してどこかに出かけていった。


一人きりになってしまった穏やかな初夏の午後。四方を木々に囲まれたこの場所は太陽の日差しは木漏れ日となって降り注ぐ。
開け放たれた窓から吹き込む風が心地よくて、新一は珍しく外に出てみようと思い立った。
梅雨の合間の太陽の光は周囲の緑をより一層鮮やかに見せて、それをもっと間近で見てみようと、さっきまで読んでいた文庫本を掴むと外へ飛び出す。



久しぶりの外は、周囲全てが眩しかった。
一瞬の目眩の後、頭を振って歩き出す。
この屋敷の周囲は木々がぐるりと覆っている。そこは、森の中にひっそりと佇む洋館。屋敷を背にして歩き出しても、新一の視界には新緑の木々しか入ってこない。
緑の中は空気がおいしかった。屋敷の中で過ごすよりも身体が軽くなったような気がした。風が、さらさらと木の葉を揺らす。


その時ふいに、この場所は一体何処なのかという極基本的な疑問が脳裏に浮かんだ。

何時から……此処にいるんだっけ?


歩を止めて、暫し小首を傾げて考えるが──思い出せない。
思い出そうとすれはするほど、頭に霞みがかかるかのように、曖昧になっていく。


──まるで、何かが思い出させないようにしているかのよう。


「……」
新一は苦笑した。
そんな事、ある分けない。
木々の間を走っていた風が、新一の身体を追い越していく。髪がふわりと揺れた。乱れた髪を撫で付けようとして、右手を上げた時、何かが光る。

新一の薬指にはめられたリング。
そっと指にはめてくれた、キッドからの贈り物。


……ああ、そうだ。

自分はあの夜から此処にいる。

これからずっと一緒にいよう。
ふたりきりで、共に過ごそうと……。

突然のキッドの言葉に、新一は驚いた。
しかし、それが当然の事のように思えて。


あの時、キッドの姿をこの目で見た瞬間──その瞳に吸い込まれそうになった。
何がなんだか解らなくて、軽い混乱の中で、ただキッドだけは心の中に息づいていた。
何がどうなっても、彼だけは側に居て欲しいと、そう思ったのだ。


今でも、時々頭の中が白く混濁する時がある。それでも自分を見失ってはいないはずだ。
三度の飯より推理が好きで、コナン・ドイルを愛し、事件と聞けば身体が勝手に現場へと向かう。
高校生探偵として、かなりの知名度も自覚している。そんな生活を過ごす中、新一の前に突然現れたキッド。


彼との出会いは………何だったのだろう。
事件がらみで知り合ったのだろうか。よく、思い出せない。
しかし、それは新一にしてみれば既に些細な事でしかなかった。

過去なんてどうでもいい。
現在(いま)は、新一の側にキッドがいるから。
だから、考える事なんてないのだ。


『幸福』だから。
幸せを実感する事が、こんなにも心を満たす事が出来るなんて。


ことある事に、このリングに口づけ、永遠を誓うキッド。
新一は、右手にはめられたリングを見つめながら……そう思った。


舞い上がる風に揺れる木々も、それで良いと告げているかのように、さらさらと音をたてた。











怪盗KIDが最近頻繁に巷を騒がしている頃、大阪を拠点に活動していた西の探偵が、東京に降り立った。


寺杣美術館の特別展示会場に一際輝く大粒のダイヤモンド。
『乙女の涙』と名付けられたそれは、ビックジュエルと呼ぶに相応しく、当然の事ながら、怪盗KIDの予告状が舞い込んだ。

現在、東の名探偵は姿を消している。
それは、以前からそうだった事もあり、さして誰もそのことに不審がる人間はいなかった。


只一人を除いては。







工藤新一が己に何も言わず姿を消すなんて、あり得ない事だ。服部平次はそう確信していた。
だが現実にはその姿はなく、親しい人達には連絡が入っていると言う。

『厄介な事件を抱えてしまって、手が放せない』とそう言って。


過去、新一がコナンであった頃も同じ様な理由をこじつけて、長期間姿をくらましていた。
しかし、現在の新一には、そうする理由はない。何より、他の人間には連絡が入っているのに、平次には全くないというのかおかしい。

新一と想いが通じ合って一年。
西と東に別れて暮らす2人だが、心はいつも繋がっていた。
少し意地っ張りで、素直じゃなくて、好きなのに好きとはっきり言えなくて、だけど、平次が好きと言わないと拗ねてしまう……そんな愛しい人。
我が侭だけど、それでも好きで堪らない、平次の心を満たす唯一の人間。

(あいつが、俺に何も言わんと行方をくらますなんて……そんなコト、絶対にあらへん)
それは断言出来る。


なら、他に何の理由があるだろう。
色々考えたが、結果として新一が自ら姿を消したという線は考えられなかった。
とすれば答えは一つ。


何らかの理由で、連絡をつけられない。


そして、新一を騙って連絡してきたという人物。
新一がそれを頼んだとは考えにくい。
もしそうなら、その連絡は真っ先に己に来るはずだろう。それがないと言うことは、つまりこれは新一の意図したものではない。

そんな状況を想像してしまえば、そのままにしておける訳はない。



平次は上京すると、様々な方面から調べ始めた。新一が関わっていた事件を中心にして、情報をかき集める。
探偵は、時に他人の恨みを買う事も少なくはない。
自分たちのやっている事はもちろん正しいと信じているが、白黒とはっきり分けられるものではないのが人の心だ。
もしかしたら、今までに関わってきた事件の中で新一に恨みを持つ者の仕業とも考えられる。

その可能性が一番高い。

だから平次はそれまで新一が関わってきた事件を一から調べ直し、怪しい人物を次々とピックアップしては、削除していった。
結果、怪しい人物は何人かいたものの、新一の姿を消した前後に不審な行動を起こした者も、時を同じくして姿を消した者も見つからなかった。

まさか、本当に新一は事件がらみで自ら姿を消したのだろうか。
平次に一言の連絡もなく?

平次は頭を振る。


やはり、そんな事は絶対にあり得ない。






平次は工藤邸の前で立ち止まり、以前貰った合い鍵で新一の屋敷の扉を開けた。
いつもと変わらぬ室内に、ただ新一の姿だけがなかった。

東京に来て、真っ先にやって来た場所。

いないのは判っていても……それでも、もしかしたらと思うと来ずにはいられなかった。
そして、ほんの僅かの期待も虚しく破り去られ……今は隣に住む阿笠博士の了承を得て、この屋敷に滞在している。
ここに居ても新一が戻ってくる保証は何処にもなかったが、何も知らない東京では、ここが唯一平次の良く知る場所だった。

「工藤………」
室内の所々に家人の気配を感じる。
キャビネットの上に積み上げられた小説本の数々。キッチンに洗いっぱなしに放置されているマグカップ。椅子に掛けられた、見覚えのあるジャケット。
平次はそれらに手をかけることはせず、そのままにしておいた。
少しでも新一の気配を消さぬように。


この場所で、姿を消すまで生活していた新一。
もし、覚悟の失踪なら、もっと整然としているはず。
事件で飛び出したとしても、それきり一度も戻れない状況にあるという方が不自然だった。
平次はそれらを一瞥すると、普段新一が私室代わりに使っていただろう書斎に足を運ぶ。
そこには、蔵書の他に一台のパソコンと事件資料の束が積み上げられていた。
平次はそれらから新一の行方の手がかりになる情報を探した。
見落としのないように何度も目を通す。

平次もそうだが、新一は探偵と言っても、それを仕事にはしていない。だから、事件と言ってもその大半が巻き込まれたり、首を突っ込んだり…。
時に懇意にしている警察関係者から捜査協力が来る事もあったが、高校生としての立場も崩してはいなかった為、それほど手こずるような事件には関わっていなかった。
と言うか、新一にかかれば、どんな難事件も程なくして解決してしまう故。

大抵関わるのは、殺人事件で、新一は何時も喜々として謎を解き、淡々と語りながら犯人を追いつめる。
事件の謎にのみ興味を示す新一にとって、犯人の心を推し量る事はほとんどなかった。
それ故に、逆恨みされる可能性も大きいと言えた。

だが、どれだけ資料をひっくり返しても、実行可能な人物は浮かんでこない。
パソコンの中のデータと手元の資料とを照らし合わせながら、ほとんど諦めに似た表情で手がかりを捜す。
とその時、フォルダ内にあるファイルにふと気付く。

『NO.1412』と付けられたファイルは言わずと知れた怪盗KIDに関するデータ。
不思議なことに、平次はそれまでそのデータにさしたる興味を持たなかった。

怪盗KIDは宝石を狙う泥棒。
殺人事件に関わる新一にとって、唯一の例外。

怪盗KIDと平次との関わりは少ない。
主に関東方面での活動が多いKIDに、関西に拠点を置く平次とはほとんど接点がなかった。
おもむろにファイルを開くと、そこには怪盗KIDの過去の犯罪歴が順に記されていた。
その中でも、新一が関わったとおぼしき事件には、更に詳しい情報が書き加えられている。

「殺人事件ばっかり関わっとるけど………怪盗KIDの事件だけは別やったんやろか……」
よくよく調べると、最近の事件はその全てに捜査協力していた。
初めの頃は、予告状にある暗号文の解読のみに協力していたようだが、次第に現場に出向くようになっていた。
しかし、新一が協力してもKIDは捕まっていない。
それは、警察が無能なのか。泥棒の頭脳が上なのか……。

探偵の愚痴はほとんど漏らさない新一。
もしかしたら、最近の新一はかなり躍起になっていたかも知れない。

そこでふと思い出す。
確か……新一が最後に関わった事件は怪盗KIDがらみだったはず……。

平次は、最後に新一が関わった殺人事件に何らかの関わりがあるのではないかと疑っていた為、その後捜査協力していたKIDがらみの事件をすっかり失念していた事を今更ながらに気付た。
端から殺人事件以外を除外して調べていた平次にとっても、怪盗KIDは『たかが泥棒』としての認識しかなかった為なのか。
それとも、意味のない信頼なのか。

怪盗KIDは、工藤新一に危害は加えないであろうという、根拠のない確信。
何故そう思ったのかは、本人にも判らなかった。しかし、今回この泥棒が関係していないという確証もない。

なら………。









予告された当日。
時間は午前11時。
標的は、『乙女の涙』。

予告状に綴られた暗号を解読したのは、服部平次。

可能性があるのなら、賭けなければならない。あの泥棒を捕まえて、平次の望む情報を得る。
一縷の望みをかけて。
今の平次には、それだけしかなかった。


その為に、怪盗KIDを捕らえる。
警察に引き渡す前に、もし知っている事があるのなら…洗いざらい吐かせてやる。

そう心に決めると、平次は立ち上がった。











適当な木陰に腰を下ろした新一は、持ってきた文庫本を開く。思った以上に気持ちの良い天気に外に出て良かったと思った。
キッドと一緒に過ごす時は、そのほとんどが屋敷内で、別に新一もその事に大して窮屈な思いはしていなかったが、今こうして外の空気に触れていると、結構閉鎖的な日々を過ごしていたんだと苦笑してしまう。

多分、キッドのいない寂しさを何かで埋めようした結果に過ぎないのだろうけど、この爽やかな外の空気は新一を期待以上に心地良い。
好きな推理小説を誰にも邪魔されることなく読みふける。
時折、思い出したように小さな風が、新一の髪を掻き上げる以外は、至って穏やかな午後の一時。





どれほどの時が過ぎただろう。

おもむろに読み始めたストーリーが中盤に差し掛かる頃、新一は一度活字の海から目を離して大きく伸びをした。
何処かで鳥が羽ばたく音がした。小さな小鳥のさえずりが耳に心地よく響く。
自然の中に身を沈めると、自分自身もその一部になった気がして、それをもっと味わうべく静かに目を閉じようとした時。


ふいに、目の前を白い鳥が飛び去った。

あれは……。
「……鳩?」
珍しい。
白い鳩は公園でたむろしているドバトやキジバトなどと違って、あまり頻繁にはお目にかからない。

新一はその白い羽ばたきをした方向へと視線を向けるとふっと微笑んだ。
心なしか、胸の奥に愛しさに似た想いを過ぎる。
新一は取り立てて動物好きではない。だから、鳥にもそれほどの興味が沸く存在ではないはずだ。

何故、こんな感情が生まれたのだろう。
しばし、あれこれ思い巡らしていたが、気付くと軽やかな羽音と共に先程と同じであろう白い鳩が新一の足元に降り立った。

「……」
その目が、じっと新一を見つめている。まるで、何かを期待しているような目で。

「参ったなぁ……餌なんてないぜ?」
物欲しそうに見られているような気がして戸惑う新一だったが、そんな態度をものともせずに、鳩は新一に向かってくる。
暫し思いあぐねた後、只何となく手を伸ばしてみた。
すると、ひょこひょことやって来た鳩が新一の差し出した指の上にちょこんと飛び乗ったではないか。

「……お前、人慣れてる?」
野生にあるまじき、例え人に飼われていたとしても、赤の他人に躊躇わずに飛び乗るその鳥に吃驚眼で見つめる新一。
そっと引き寄せても、それは羽ばたこうとはしなかった。

クルルル。
甘えた声で鳴く鳥に、新一はくすぐったそうに微笑んだ。

伝書バト……かな。
真っ白の羽毛を新一の指にすり寄せて……まるで子猫が甘えてくるように。
新一はその足に脚環が付いていないかを確かめた。

飼育者が協会に所属していれば、脚環が義務づけられているし、そうでなくても、飼われているのなら飼い主の飼育者の氏名・住所・電話番号等を印字した私製脚環を装着しているはずだ。
しかし、その鳥にはそれらしきものは付けていない。

「……」
相変わらず甘えた鳴き声でまるで新一に媚びるようにすり寄ってくる。
さて、どうしたものか……と新一が空を仰いだ瞬間。


ふぁさり。と、軽く新一の指に衝撃を残し、羽ばたいた。羽が数枚その身から離れて空中を舞う。
新緑の木々を背景に飛び去るその様を見つめていた時、ふいにあの男と重なった。



「キッド……」
そうか。……愛しいと感じたのは、何処かで彼を思い起こさせたからか。
白い姿がそう見せたのか。それとも、優美に羽を広げた姿が彼に重なったからだろうか。


──そう思ったら、なんだかスゴク逢いたくなる自分に気付いた。


今日もついさっきまで一緒に居たのに、ほんの少しの時間離れているだけなのに、どうしてこうも強い焦燥感に囚われるのだろう。
認めたくないことだが、信じられないくらい彼の事を想ってる。

優しい優しいキッド。
新一がどんな態度でいても、キッドは決して感情を荒立たせる事無く、そのしなやかな腕で包んでくれる。
その感触は、新一にとってとても落ち着く場所で、居心地の良い時間を与えてくれる。
麻薬のようだ、と思う。新一にとって、キッドは一種の薬物。
傍にいてくれれば、これ以上はない至福の時を過ごせるが、いなくなると……。

新一は軽く頭を振った。
ずっと前から、1人でいることは決して苦痛ではなかったのに、今だって1人で過ごす事は嫌ではないのに。
キッドの事を思い出すと、1人でいる自分が信じられなくて。少しでも離れている事実が許せなくて。

新一は立ち上がった。






急いで屋敷に戻った新一を一足先に帰宅していたキッドが出迎えた。
その時のキッドは何時になく柔らかな微笑みで新一を見つめていたが、その瞳の奥は何故か笑ってはいなかった。
彼の腕が、なるべく強引にならないように気遣って自分を引き寄せられるのを感じた。
キッドの腕の中は、いつもはとても安心出来るのに………その時はまるで落ち着かなかった。



こんなにも、キッドの腕の中が居心地悪いなんて、信じられなかった。





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Open secret/written by emi

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