出逢うべくして出逢ったのかも知れない。

互いが互いを必要としていたのかも知れない。

どちらが先に捕らわれたのか、どちらが先に捕らえたのか。


そんな事は…………彼らにも解らない。



始まりの刻





怪盗KID。


それは新一の立場から、最も遠い場所に位置する怪盗。

元々関わる予定なんてなかった。

新一は殺人事件には良く首を突っ込んでいたが、たかだかドロボウの相手をしたいとは思わなかった。

盗みは新一の血を熱くすることはなかったから。

なのに………。




自分は何故ここに居るのだろう。

新一は、真夜中のビルの屋上に佇みながら、そう自分に問いかける。

一枚の予告状。

それは、新一を駆り立てるには充分謎に包まれていた暗号文。

それでも、新一はこの場所にいる意味はない。

暗号さえ解読すれば、自分やるべきことは終わったはず。

なのに………何をしに自分はここの居るのだろう。



何故、彼を待っているのだろう。



「待っている………はっ。んな訳ねーだろ」

時間をもてあますように様々な考えを巡らしていた新一は、ふいに心の中に生まれた想いを否定するかのように吐き捨てる。

まるで、大切な人に逢えるかのような……そんな感情を意識して頭を振る。



逢いたい。……それはもちろん逢いたい。

逢わなければ、奴を捕らえる事なんて出来ないのだから。


そう思う事で、新一は冷静を保つ。


初めて対峙して以来、一体どれほどの邂逅を体験しただろう。

廻りにひしめく警官たちと共に、あるいは一対一で出会った事もある。

そのどれもが、人を食ったような、そして神経を逆撫でするような台詞と、大仰な振る舞い。

新一を小馬鹿に見る、モノクルの奥に光る、瞳。

どれもが新一の神経に障る。

思い出すだけで、怒りで身体が熱くなる。

あんなコソ泥一匹すら捕まえられない自分が、とてつもなく無能な存在に思えて。


あの怪盗は、新一の輝かしい歴史に唯一残る汚点。


だからだ、と思う。

こんなに考えてしまう。

こんなにあいつの事を思ってしまう。

この頭の中、どこを切り取っても『怪盗KID』の事しか出てこないに違いない。

大切な幼なじみも、気の合う西の名探偵も、あの男に比べたら、大した存在ではないと思ってしまうほど。

新一の心を捕らえては離さない。


だから………何が何でも『勝た』なければならないのだ。






初夏の夜風は心地よく、そして少し肌寒い。

壁のない屋上。フェンスから吹き込んでくる風を受けながら、新一は空を見上げた。

雲は無い。……しかし星は見えない。

星の輝きを消し去るほどの輝きを放つ月が、新一を照らしていた。


「今晩は……満月か」


どうりで明るいはずだ。






「貴方とお逢いするには、絶好の月夜ですね」



新一の呟きに答えるかのように響く声。

その通りの良い声は、風と共に新一のもとに届き、乾いたコンクリートの床に消えた。

振り返るその目線の上に……純白の衣装を纏った男の姿。


「フルムーンは、貴方を美しく見せる……」


塔屋の上に佇む白い影から発せられる言葉。

予想通りの怪盗の登場に……新一の緊張は高まる。


「怪盗KID──────」


ふわり、と。

軽やかにコンクリートの地面を蹴って、屋上に降り立つ姿。

新一は、優雅にとも取れるその着地を見つめながら、徐々に自分の眼差しが鋭くなるのを感じた。

険を含む新一の表情。


「今日こそは、ぜってー、お前を捕まえてやる」


それは、一種自分自身をも奮い立たせる言葉。

自分が何をしにここに来たのか、それを相手に理解らせてやる為。


しかし、目の前の男は新一の言葉にさして動じる風もなく、先を促す。

玲瓏な微笑と共に。

「ほぅ…。捕まえて?それからどうするのですか…?」

殊更ゆっくりとした足取りで、新一に近づく影。

「お前を監獄にぶち込んで」

「それから………?」

歩みは止まらない。

「そ……れから……って……」

捕まえて、警察に引き渡して、それから…。

それから先なんて、新一には……。

関係な………。

「今更私を捕まえようとするのはナシですよ、名探偵」

「な…に……?」

間近に来たキッドに一瞬戦き、思わず後ずさる。

その態度にキッドは意地の悪い笑みをみせて。

「おやおや。言ってるコトと行動がかみ合っていないようですね」

そう指摘して、苦々しく舌打ちする新一を面白そうに眺めている。



堪らない。



からかわれるのは好きじゃない。

不愉快だ。


どうして、探偵が。

怪盗に。

こんな風に言われなければならないのか。


何故、ヤツは逃げない。


何故、ここに佇む。

何故近づく。

探偵に。

敵である立場に位置する者に。

何故…………。



「っざけんなっ!!」

思わず伸ばして捕らえようとする新一の腕をキッドはかわす所か、逆に掴んで引き寄せる。

「なっ………!!」

間近に居た二人の距離が一瞬にして、ゼロになる。


「ほら、良かったですね。……捕まえられて」

キッドの腕の中。

抱きしめられるように抱き込まれて、新一の頭上から降ってくる声。

ほんの少し、面白そうに告げる声。

その声を聞いて……訳もなく新一の体温が上がる。

「てっめ……ぇ……!!」

「さて……これからどうしましょう。このまま警察に引き渡しますか?」

新一を抱きしめたまま、その腕を外す事なく告げるキッドに、新一は目眩を覚える。

たとえこの場に崩れ落ちても、床と対面など出来ないほど、強く抱きしめてくる、腕。

キッドの胸から伝わる心音は安定していて、今の状況がとても冷静である事が伺える。

なのに、新一はどうだろう。

屈辱の為か、羞恥の為か。心臓の音は自分でコントロール出来ない程に激しく鳴って。

その音は、この怪盗にも伝わっているはず。

そう思うと……顔も上げられなくなる。


どうしてこんな事になったのか。

何故、こんな風な状況になってしまったのか。




怪盗はすぐ側にいる。

しかし、怪盗キッドを捕らえた事にはならない。



これではまるで………。






「……………どうしました?」

さっきから無言のままで身体を小刻みに震わせている新一に、キッドはこれまでになかったような声で尋ねる。

まるで、相手を気遣うような優しい声音。

「寒い、ですか?」

確かに、夜風は肌寒い。

しかし、真冬でも平気な表情でキッドと対峙していた新一だ。

それほど寒がりな訳ではないだろう。

そう思いつつも、キッドは新一の身を自らのマントで包み込む。


「なっ………」

「震えていては、俺をまた取り逃がしてしまうかも知れませんよ……?」

これまで聞いたことのない穏やかな響きで、新一に優しく語りかけてくる。

「な……んで」

そんな声で。

話かけるんだ………。


キッドにとって、新一は敵で。

新一にとってこそ、キッドは獲物。


捕らえるのは新一。

捕らわれるのはキッド。


なのにどうだ、この状況は。


まるでこれでは新一がキッドに捕らわれているみたいではないか。


波打つ心臓の鼓動は、心が捕らわれている証拠。

身動き出来ないその身体は、肉体を捕らわれた証拠。


その事実を否定するかのように新一は藻掻く。

こんな事を認める訳にはいかない。

認めてはいけない。

探偵が怪盗に心を奪われても良い時は事件の中だけで。

それ以外にこんな事────感じるのは変だ。

必死で逃れようとする新一をキッドは面白そうに眺め、しかしその腕から逃がすような事はしない。

思った以上に抱き心地が良かった所為なのか。

それとも、……ずっと以前から、いつかこの腕に包んでみたいと望んでいた事が叶った為なのか。

キッドは右手だけほどくと、まるで癇癪を起こした幼子をあやすかのような仕種で、新一の髪を梳いた。

細くて柔らかな髪。

「もし。……貴方が私を中森警部に差し出すつもりなら…………この次はありませんよ……?」

「え………………?」

何を言いたいのか解らず思わず顔を上げた新一の頤に手を滑らせると軽く持ち上げる。

戸惑う新一の揺れる瞳を見つめながら、キッドはその顔をゆっくりと近づけた。

「──────!!!」

驚きに見開かれ寝る新一の瞳に、軽く伏せたままのキッドの双眸。

口唇が……触れている。

キッドは新一の薄く色づいている口唇に己のものを重ね合わせて。

「ちょ……やめ………っん」

一瞬にして状況を把握した新一が逃れようと身体を動かすが、びくともしない。

それどころか、益々深くなっていく口づけにたまらなくなる。

「……や…」

言葉を発そうと口を開けば、待ちかまえていたかのように舌が入り込んでくる。

その侵入者は殊更緩慢な動きで新一の口腔をなぶり、やがてそこに隠れていた舌に触れるとゆっくりと絡め取る。

「………ふ……んっ」

びくり、と新一の身体が震える。

無意識に起こした反応だったが、キッドをその気にさせたのは間違いなかった。

口づけが深くなる。

息をするのも困難な程きつく口唇を塞がれ、息苦しさのあまり咄嗟に動かしたらしい新一の手がキッドの身体を引き離そうと藻掻く。

しかし、口内を犯される感覚に貧血のような立ち眩みを起こしかけて逆に深く抱き込まれてしまう。

「……ゃっ……んっ」

口唇が離れる合間に漏れる吐息。

今まで体験したことのない感覚に翻弄される。

好いのか嫌なのか、悦んでいるのか苦しいのか、嬉しいのか辛いのかさえ解らず、ただきつく閉じられた目元に涙が浮かぶ。

泣きたくもないのにこぼれ落ちる雫に自分でも驚いて瞼を押し上げると、すぐ目の前に新一を翻弄している男の顔が見える。

これほど近くにいるのに、涙に潤んだ新一の瞳にはぼんやりとしか映らない。


夢、なのだろうか。


一瞬、そんな思いが脳裏を掠めたが、キッドの口唇が新一の白い喉元に感じた瞬間、また意識は霧散する。


たまらないこの感覚を解放してほしくて、また目を閉じる。













何がどうなったのか解らない。

一体、どれほどの時間が過ぎたのか。

そして、自分自身の身に何が起きたのか。

霞んだ頭では、何をどう考えても、答えは見つからなかった。







ただ、目の前に男がいる。


それは、現実で事実だった。


コンクリートの乾いた地面に座り込む形で見上げる新一に、立ったまま、そんな彼を見つめるキッド。

その瞳の奥は……………どこか柔らかい。

「知っていましたか?」

ふいにキッドが言葉を発する。その声に新一の拡散していた意識が次第に戻ってくる。

「何………」

「私は何時だって、貴方に捕らえられているんですよ……」

そう言うと、キッドは殊更大仰な仕種で一礼した。

キッドの言葉は真実。

新一の持つ、その深く蒼い瞳に捕らわれ、一歩も動けない。

存在そのものが、キッドを縛る枷となる。


それを自覚していたからこそ、新一の前に姿を現したのだ。

「だから……私をどうしようと、それは貴方の自由」

新一がそれを望むのなら警察に突き出されても構わない。


「私の身体は貴方の望むがまま……」


さあ、どうしますか?

これから。

座り込んだままの新一をのぞき込むように腰を折るキッドを新一はぼんやりと見つめていた。

キッドは新一の言葉を待っている。

どうするのか……。

新一はキッドの視線をかわすかのように地面に視線を向けると俯いた。


新一にとって、『怪盗キッド』は宿敵だ。

警察を手玉に取る……ただの愉快犯。

もしかしたら、それだけではないのかも知れない。

もっと何か『別の』目的があるのかも知れない。


しかし、今の新一にはそんな事を考える必要はなかった。


自分が望む事……それは────。


視線を外したまま、新一は両腕を伸ばす。

その腕はキッドの首に回されて、ゆっくりと引き寄せられる。

「…………新一?」

それまでの、自信に満ちた声とは別の、どこか戸惑いを含んだ声が新一の耳に届く。

「お前は、俺が捕まえた……そうなのか」

「─────ああ。……とっくの昔にお前はオレを捕らえていたぜ?」

気取った口調は消え失せ、キッドは告げる。

その言葉を聞いて、更に新一は引き寄せた。

「お前をどうしようと、それは俺の自由なんだな?」

警察に突き出すのも……見逃すのも。

そう考えた時、ふいに新一の口元に笑みが漏れた。


………見逃す?────冗談じゃねぇ。


誰が見逃すものか。

折角、捕まえられたと言っているこの男を見逃すようなバカな真似なんて、するつもりはない。

絶対に……………!



だから。




「どうする、新一?」

余裕ぶって答えを要求するキッドに新一はようやく視線を合わせる。

見上げる瞳に確固たる意志を秘めて。

「──────」

その奥に戸惑いの色はなく、いつもと変わらぬ、意志の強い鋭い視線。

さっきまで瞳を潤ませて、キッドの思うがままに翻弄されていた工藤新一は、そこにはもういない。


そして、これが本当にキッドの望んだ新一の姿。


「お前はもう逃がさない。………大人しく諦めるんだな」

「……………」

キッドに返事はない。

何をどう思っているのか。新一は躊躇うことなく、言葉を続ける。



「『怪盗KID』は廃業だ」

世間を騒がせ続けた世紀の怪盗はいなくなる。

8年前、忽然と消息を絶った時のように……。


「消えろと……そうおっしゃるのですか、貴方は」

探偵の前から姿を消せと。

しかし、新一は軽く頭を振る。


「逃がさないと……言っただろ」


お前には、もう一時の自由も与えない。



だから………。





「────俺の傍にいろ………!」



監獄に送り込むよりも……自分がこの男を束縛すればいい。









「────ほぅ。……そう来ましたか」

思ってもみなかった新一の言葉。

怪盗廃業云々はともかく……まさか。

そう思いつつも、キッドの表情が揺れる事はなかった。


ポーカーフェイスは、新一よりも上。


「よろしい。それでは、『怪盗KID』は今宵限り」

そして、これからは……。



キッドはその言葉を証明するかのようにシルクハットとモノクルを外す。

月明かりに浮かぶその姿に新一は息をのむが、それは一瞬で。


その行為で、彼の覚悟を知る。


「あなたの傍にいるのなら…………それ相応の代償は頂いてもよろしいですか?」


素顔をさらしたキッドがそう問いかける。

満月の月明かりの下、彼の素顔ははっきりと照らし出される。


「その代わり………貴方を一生護りますよ」


その言葉に新一は目元をさっと朱に染めて、それを見られないように顔を背けた。

仕種は年齢に不相応なくらい幼く見えて、キッドは微笑を浮かべる。

そんな彼の表情に気付いたのか、新一はぶっきらぼうに言い放つ。


「………………………勝手にしろ」


出逢うべくして出逢ったのかも知れない。

互いが互いを必要としていたのかも知れない。

どちらが先に捕らわれたのか、どちらが先に捕らえたのか。


そんな事は…………2人にも解らない。


しかしそれは、紛れもなく彼等の真実の時間が動き出した瞬間。





それが、始まりの刻──────。













END






NOVEL


00.08.21
Open secret/written by emi

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