きっと五倍
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おしゃべりにすっかり夢中になっていて、喉の渇きに目の前のカップを思い出した。
口に含んだその冷たさに、時間の流れがふと浮かび上がる。
「……ねえ和葉ちゃん。今何時?」
蘭が聞くと、和葉は我に返ったように慌てて時計を見た。
「何時、て……うわ、もうこんな時間なん?そろそろ出んとアカンわ、向こうに着く前に日暮れてまう」
「じゃ、出ようか……それにしても、電話一本も来なかったねえ」
至って長閑だった、昼下がりのカフェテラス。
おそらくまだ事件に関わっている小五郎やコナン、平次の事を殆ど思い出さないでいたのはそのせいもあるのだけれど。
「アタシ達すっかりほっぽっとかれてるんよ。まあええけど」
一息にカップを呷ると、和葉は立ち上がった。
会計を済ませ、美術館を出た先の赤煉瓦を二人で歩く。
「名残惜しい気はするけど、こんな風にゆっくり話せて良かったな」
「うん、ホンマ良かったわ……そうや、いっそアタシらも連絡せんでどっか行こか」
「あ、そうしたいかも」
たまには良いよね、と言うと彼女はにっと笑った。
「せやせや。いっつも心配だけしてるなんてアカンよ、蘭ちゃん」
「―――うん」
後ろを振り返ると、中庭に面したカフェテラスの自分達の居た場所がぽかりと空いていて、自分の心と重なった。
「なあ、ここ段差―――」
言われた時には遅かった。
段を踏み外した足がかくりと曲がった。
「きゃ―――」
バランスを崩し、咄嗟に伸ばした手が和葉の腕を掴んだ。
全身が彼女の方へ傾く。
「蘭ちゃん!大丈夫?」
「ごめんね……重かったでしょ」
「そんなん言うてる場合やないって」
「大丈夫。ちょっと踏み外しただけだから」
不意に覗き込まれて、頬の触れそうな距離に気付いた。
「ホンマに?」
「―――うん。大丈夫、だから」
その真摯な表情から少しだけ避けるように体勢を立て直す。
足首にも特に異常はない。一息吐いた所で、和葉の怪訝そうな声がした。
「……確か蘭ちゃん、前も段差で転び掛けとった気がするんやけど……」
「………」
「運動神経はあるのに、不思議やわ」
自分でもその通りだとつくづく思う。けど、そういう彼女だって。
「和葉ちゃんだってこの前、何もない所で転び掛けたでしょ」
「………」
「だったよね?」
念を押すと、逸らされた目が戻って来た。
「―――まあアレや。アタシらおそろいなんやね」
「なにそれ」
まだ和葉の腕を掴んだままでいた手がもう片方の手に掴まれ、そのまま下ろされた。
「こういう事」
「……?」
「手つないどったら、片っぽ転んでも一蓮托生や」
「……転ばなきゃ駄目?」
「転ばないようにするんが一番やろけどな。さ、行こか」
しっかりと手を、指を握りしめ、歩き出した彼女の後をついてゆく。
伸びた二人の影が、一本の紐で繋がれているように見えた。
「ねえ、和葉ちゃん」
「なに?」
「何か、命綱みたい」
「………」
「転ばないでよ」
「それはこっちの台詞や」
言って、二人で笑った。
そうでなければ、約束のしるし。
小指一本よりも、きっと五倍は確かなもの。
end.