サイレントサイレン <silent siren>
<IX>
「それでは、お休みなさいませ」
「ああ、すみませんでした」
「更陽子様を、よろしくお願いいたします」
「今日は疲れていると思いますし、もう起きないと思いますが」
「……そうですか」
更陽子の部屋の前で常盤木と別れた。車の中で少女は寝入ってしまい、迎えに出た姉二人も平次が抱き上げていた更陽子を見て叱るに叱れないままベッドの準備をしに部屋へ向かった。
送り届け常盤木と別れた後、亜麻子が乱暴に置いた冷え切った夕食を食べ、落ち着いた所で誰も居なくなった食堂を出る。
部屋へと向かう途中の玄関で、人影が佇んでいた。
昨夜とは違う人物が。
「木綿子さん……いつからここに」
「ずっと、じゃないけど――あの子が出てからは居たわよ。今日はあたしの番だから」
顔で示す窓の先。
崖の側の更陽子の姿。
聞こえない歌を唄い続ける。
「いつの間に……もう今日は起きないかと思っていましたが」
「そうね。昼でもあそこに行けるようになったし大丈夫かと思ったけど、やっぱりまだ解き放たれないみたい」
「そら、何かに束縛されとるっちゅう事か」
「あたしは……そう捉えてるわ」
「木綿子さんは何の歌だと思いますか。更陽子さんが唄っている歌は」
「そうね。近づく船を沈める唄かしら。父や母を沈めたように」
「それは」
「あら。誰も言わなかったのね――船が沈んでいた夜も、更陽子はあそこで歌を唄っていたのよ」
早く帰って来てと唄う歌が、船を海底へ送る歌へ。
「それまでは滅多になかった夜の歌が、それ以来頻繁になって――だからあたしたちは町へ下りたの」
「そんなん、ただの」
「そうよ、偶然。だから――あの子は解放されなければならないの。君達が来てくれて、良かった」
「そう、ですか」
「そうよ。あたし達じゃ……あたしの力じゃ、町に下りるのが精一杯。それでも駄目だった」
悔しさに唇を噛む。
その姿を見て似ている、と新一は思った。
普段は軽口を叩き調子の良い事ばかり言って人の気持ちに頓着しないようでいても、実際心の動きには敏感だし、いざという時、誰かの為には自分の身など厭わない。
今自分の側に居る、彼に。
「……ねえ、工藤君」
「はい」
「約束って、守る?」
昨夜の問い掛けが甦る。微妙な違いは、姉妹で示し合わせたからでも無いだろう。新一は言葉を選びながらも自分の場合なら、と口にした。
「臨機応変に」
「何それ。狡いわね」
「約束を破るという事は自分にとってそれだけの価値しか無いという事でしょう」
「相手が破ったら?」
「相手に取ってはそれだけの価値ですが、自分にとっての価値とはイコールではありませんから」
「つまり、律儀に約束を守り続ける事もあるっていうの?」
「それだけの価値があるのであれば」
「そっか……一方的に守っても、破ってもいいんだ」
「それは、臨機応変に」
「使える言葉よね。……ありがと」
「参考になれば」
「そういえば木綿子サン、夕方言っとったけど」
「え? 何かしら」
「あの神社のカミサマが、人を喰うって――」
「――ああ。あたし、見た事あるのよ」
「え」
「カミサマが人を喰らう所」
「まさか」
「そうね。嘘」
「嘘て」
「それはカミサマ、じゃなくて人間だったもの」
「それは」
「父さんと母さん、よ」
「――」
「なんてね。それも――嘘」
言って木綿子は笑った。
「じゃあね。おやすみ」
「分からんなあ」
「何が」
「何か上手い事繋がらんねん。ひとつひとつは分かるんやけど」
「へえ。だったらあの手紙の謎も?」
「勿論や。自分こそとぼけよって――っておい」
「何だよ」
「何ベッドくっつけとんねん」
「やっぱさ、離すと狭いんだよ。だから」
「まあ確かに、病院の診察台みたいやったけど」
「お前落ちてたしな」
「……気付いてたんかい」
「起きるって、あんな物凄い音」
「るさいわ」
幅広に戻ったベッドに、それぞれ布団を持って寝転ぶ。
「んー、やっぱ伸びが出来るのはいいな」
「……俺の布団の上に足のっけて言うんか、それを」
「まあね」
伸ばした手足を戻し、息を吐く。溜息と変わったそれを、平次は聞き逃さなかった。
「疲れとるな、工藤」
「……まあね」
「まあ珍し。弱音吐くやなんて――」
言って天井を見ていた顔を新一の方に向ける。しまった、と何故かまず思った。
距離が、思いのほか近かった。近すぎた。
嫌でも思い出してしまう。
あの――キスを。
いや別に嫌という訳でも――違う。そうではなくて。
(何考えとんねん、俺!)
思考の深みに嵌る自分を止められないままに、とにかく少し距離を開けようと思った。開けなければならない。
けれど、出来なかった。顔をわずか背ける事さえも。
真っ直ぐにこちらを見る彼の視線から、外れる事など出来ない。
「服部」
「な、何や」
「どうして、お前もここに居るんだよ」
「何言うてんねん。自分が呼んだんやろ」
「――だよな」
「まあ、一人で行かせる位なら呼ばれんでも付いてったけどな」
見開いた目が、柔らかく笑んだ。
「……そっか」
「せや。――もう寝え」
「ん」
余程疲れていたのか、目を閉じた彼は直ぐに眠り込んだ。
寝息を確かめて平次は起きあがり、溜息を吐いた。
「――何や、俺」
混乱する頭を振り、落ち着こうと努力する。
とりあえず、一緒のベッドで寝てはいけない。
何故かは分からない。
分からないけれど危険だ。
合わせたベッドを分けようと立ち上がり、端に手を掛けたが彼の身体がこちらへ寄っていて布団すら動かせない。
諦め、ソファーに避難するべく薄物を持った。まだ昨夜の狭いベッドの方が休めたけれども仕様がない。
途中の窓辺で、音を立てないようにカーテンの端をめくる。
彼女の歌は続いていた。