少女桜塚 1
灯りを消すと、月明かりで障子に笹の葉の陰がおちた。
風にあわせてさらさら鳴っている。ようく耳を澄ませば庭のししおどしの音がかすかに聞こえた。
堅い枕に頭をすりつけて、澪は必死に眠りの入口を捜した。
畳のにおいが心地よい。
目を閉じると瞼の裏に鮮やかによみがえるのは、夕飯の時間に見た下の兄の姿。
記憶の中の兄とは似てもにつかぬするりと伸びた四肢と広い肩幅、でも何一つ変わりない黒い瞳そっけないまなざし。
白いシャツとグレーのスラックスで洋装がよく似合っていた。
会えたらまずこんな事を話そう、どんな事を聞こう、ここへ来る間の列車の中でさんざん悩んで思いめぐらしたのに。障子を開けて静かに食堂へ入ってきた兄の姿を見て、その背の高さに、ああ、10年会わなかったのだ、そう思ったらまるで他人のような気がして急に恥ずかしくなって何も言えなくなってしまった。
兄の箸を持つ手を髪の間からそっと盗み見をした。 肉の薄い筋張った長い指先。私は先まで昔のように何でもない事のように兄の手をひいて散歩に出かけようと誘おうと考えていた。あの兄の手。小さな澪の手などあっさりくるみこんでしまいそうな、おおきな兄の手のひら。きれいに整えられたまるい爪先。指の動きに会わせて甲のなめらかな皮膚の下の骨が浮き沈みしている。
澪はあわてて自分の手元に目を戻した。
誰にも気づかれなかったろうか。どれだけの時間兄の手を見つめていたんだろう。不自然ではなかったろうか。
自分の手がひどく幼く見えた。
叔父は口数少なげに長旅疲れただろうとかよく休みなさいとか澪をいたわる言葉をかけると早々に書斎へ戻ってしまった。
ほとんど初対面の叔父と何を話せばいいのか困っていたので助かった。
叔父と入れ違いに上の兄が会社帰りのネクタイ姿のまま食卓の席に着いた。
家政婦に早口で何か用事を告げると、澪とは目も合わさずに箸をとった。
年が離れているせいか、上の兄、貴之(たかゆき)との思い出はほとんど無い。お勉強の邪魔をしちゃ行けませんよといつも遠ざけられていた。
電球のきいろい明かりが貴之の薄い眼鏡の縁を照らした。
「雅之(まさゆき)、からだはもういいのか」
下の兄がハイと答えると貴之はそうかとだけ言い、食後の茶をひと飲みし、自室のふすまを閉めた。
まさゆきおにいちゃん。
なにかあったの?
そんな簡単な質問さえできなかった。
雅之の襟元からのぞく首筋のあおい静脈に目を奪われた。
ふと目が合ってしまいそうになって、あわてて視線をそらした。
堅い布団をかぶりなおして幾度目かの寝返りを打つ。
まさゆきおにいちゃん。
おにいちゃん。
おにいちゃんのゆび。
おにいちゃんの手のひら。
ふとした瞬間に真っ白なシャツに浮き上がる薄い筋肉。
なめらかな肌。
胸の奥でくすぶる何かがあった。
じりじり熱を帯びてやがてちいさな灯に変わった。 漁火は身の軸を焦がした。
足の付け根の暖かさが何か澪には解らなかった。
ふいに浴衣の布地を持ち上げた胸の頂の変化におびえ、いっしんに両目を閉じて眠りの到来を待った。