推参。



楽進(がくしん)
 字は文謙。陽平郡衛国県の人。小柄でありながら
 剛毅な性格で、魏の古参として曹操を助けた。
 はじめ曹操の記録係であったが呂布らを攻撃した際
 いずれも敵陣一番乗りを果たし戦功を挙げた。
 広昌亭侯・折衝将軍に取り立てられ、孫権征伐の
 後には右将軍へと昇進した。またその時張遼・李典と 
 ともに合肥に残留し、その後の呉の攻撃を防いだ。
 死後、威侯と諡され息子の楽[糸林]が後を継いだ。

李典(りてん)
 字は曼成。山陽郡鉅野県の人。叔父の李乾が呂布に
 殺され、その子の李整も死ぬと、それを受けて曹操
 陣営に加わる。学問を好み、冷静沈着な戦況判断で
 数々の作戦征伐に功があったが、最終的な領邑は
 300戸と魏の名だたる武将の中では最も少ない。
 これは、36歳という若さで亡くなったのと、諸将と
 功績を争うことをしなかったためである。

夏侯惇(かこうとん)
 字は元譲。沛国[言焦]県の人。前漢建国の功臣
 夏侯嬰の後裔。14歳の頃、師を侮辱した男を殺して 
 一躍有名になった。曹操の初期から従い、魏建国の
 最大の功臣のひとりとなった。曹操の信任厚く、
 敢えて官号を贈らずに臣下として扱わなかったが、
 惇は臣下の礼をとって曹操に付き従った。また、
 個人的蓄財を好まず、余分な財がでると部下や知人に
 惜しげもなく分け与えた。大干ばつと虫害が同時に
 襲ったときには、自ら率先して土運びをし、河を
 堰き止め稲を植え、軍民ともに飢えから救われた。
 文帝が王位についたとき、大将軍に任命されたが
 数ヵ月後、死去した。

夏侯淵(かこうえん)
 字は妙才。夏侯惇の族弟。若い頃、他人の身代わりと
 なって罪を負い、曹操に助けられたことがある。
 騎馬による急襲を得意とし、曹操の挙兵から付き従い
 多くの戦功を挙げた。しかし、曹操より「指揮官に
  必要なのは勇気だけではない。慎重さも必要であり、
  ときには知略を用いよ」と常々戒められていたが、
 結局219年、陽平関に押し寄せた劉備軍に追い詰められ
 黄忠に斬られ戦死した。

曹仁(そうじん)
 字は子孝。曹操の従弟。若い頃から弓馬を好み、1000人
 あまりを引きつれ曹操の下に参じ、いつも軍の先鋒を
 務め活躍した。『演義』でのイメージでは諸葛亮を始め
 他人の引き立て役が多いが、実際は江陵攻防戦と濡須口
 での戦いぐらいでしか敗戦らしい敗戦はない。江陵での
 戦いにおいても、敵陣に包囲された牛金を自ら馬に乗って
 斬りこみ救出している。陳矯らは「人間業とは思えない」と
 賛嘆したという。張遼ですら曹仁の次だと言われたほどの
 猛将であった。しかし、成長するにつれ若き頃の粗野さは
 なくなり、文帝も、曹彰に向け「曹仁を手本とせよ」と
 手紙を送っている。その後、車騎将軍・都督荊揚益州諸
 軍事・陳侯を授けられた。223年に死去し、忠侯と諡された。

曹洪(そうこう)
 字は子廉。曹操の従弟。ケイ陽で董卓軍に曹操が敗れた
 ときに「天下に私がいなくてもかまわないが、あなたは
  死んではなりません」といって自分の馬を譲り、曹操を
 助けた逸話は有名。文帝が即位すると衛将軍から驃騎将軍
 へと昇進し、位も野王侯になった。しかし、豊かな財を
 持ちながらケチだった曹洪は、昔、文帝からの借財の申し
 込みを拒否したことがあり、文帝はずっとそれを根に
 持っていて、即位後曹洪の食客の罪を口実に死刑にしようと
 した。明帝の即位とともに名誉も回復され、驃騎将軍に
 復職したが、いったい曹丕は何に使うつもりでお金を
 借りたかったのだろうか。232年逝去。恭侯と諡された。




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