邀撃。



劉表(りゅうひょう)
 字は景升。山陽郡高平県の人。前漢の魯恭王劉余の子孫で
 身長は八尺(約184センチ)を超え、穏やかで威厳のある
 風貌をしていた。大将軍何進の属官となり、初平元年(190年)
 には荊州刺史に任命される。荊州に目をつけていた袁術が
 孫堅とともに挟撃しようとしたが孫堅が破れたため、以降
 袁術も手を出すことはできなくなった。その後、荊州に
 来襲した張済の軍を吸収し、また零陵・桂陽を併合、長沙も
 支配下に置くと領地は数千里、武装兵力10万を擁する強大な
 力を持つにいたった。が、あくまで中立を守り、同盟関係に
 あった袁紹が曹操と官渡で戦った際にも救援を向けなかった。
 韓嵩・劉先らが諌めたものの、結局動静を眺めるのみに
 終始した。建安6年(201年)に劉備が流れてくると、厚く
 庇護をしたが、やがて何度も中原進攻を説く劉備を疎んじる
 ようになった。建安13年(208年)、曹操が自ら軍を率いて
 荊州攻略に乗り出すと、タイミング悪く劉表は死に、20年間
 かかって築いた荊州は、後継者の劉jの降服で、あっさりと
 曹操の手に落ちた。劉表は自分の後継者指名には失敗したが、
 きわめて清廉な政治家だったと『後漢書』は伝えている。

カイ越(かいえつ)
 字は異度(『演義』では英度)。劉表の配下で、カイ良の弟。
 曹操が南下してくると、劉jに降服を進言した。馬相術の名手
 だとか。

蔡瑁(さいぼう)
 字は徳珪。襄陽の人手、劉表の後妻の弟。蔡氏は後漢末に全盛を
 誇った大豪族で、劉表の長子劉gが廃嫡され、次子である劉gが
 後継になったのも、蔡氏一族のバックアップによるところが大きい。
 劉備暗殺を謀ったというのは『世語』に見える逸話だが、歴史家
 孫盛は「ありえないこと」だと言っている。また、赤壁の戦いに
 おいて、張允とともに曹操水軍の指揮官となったが、周瑜に欺かれ、
 敵に内通しているかどで曹操に殺されたというのも『正史』の注に
 ある様々な資料をもとにした『演義』の創作であるらしい。




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