手の内は明かさない

晴天。そんな言葉の似合う秋晴れの一日も、ゆるゆると暮れなずもうとしている。
高い空を仰いで一瞬目を細め、あの日もこんな風に綺麗に晴れていたよなと、嶋田は軽く記憶を甦らせた。
あの日。あの人の、門出の日。
過去を振り切り、晴れ渡った空に負けないくらいの澄んだ笑みを浮かべていた。穏やかに、柔らかに。
ふ、と息をついて面影を追い払い、嶋田は弓を持ち直して歩き出した。
大学が後期に入って一月ほど経った、週末の一日。今日は県内の大学が集って競い合うリーグ戦が催されていた。
主管は持ち回りであるため、開催校によっては県内といえども大分遠出になることもある。今回はその遠い地での試合で、勝ちはしたもののこれからまた延々と電車に揺られて帰らねばならない現実に溜め息が零れる。
主将として嶋田には試合後に少々野暮用が入っており、部員達は先に帰していたから慰めになる道連れがいないこともまた気が滅入る一因だ。
とぼとぼと歩くと疲労が肩からのしかかってくるような気がする。大本を正せば、心地好い疲れではあるはずなのだが。
「嶋田」
会場を出て、駐車場に差しかかったそんな頃に、聞き覚えのある声で呼びかけられてハッと顔を持ち上げた。
「しけたツラしてんなあ、お前。勝ったんだろうが、もっと嬉しそうにしてみたらどうだ?」
からかうように大袈裟に肩を持ち上げる仕種。
「岩清水…さん」
呆然とその名を呼ぶと、ん? と相手は目許を柔らかく笑ませた。
「なんで、ここに?」
「お前待ってた」
尋ねると、ケロリとして当然至極といった答えが返ってくる。
「乗れよ、送ってってやるから。今から大荷物抱えて電車なんてイヤだろ?」
そう言って顎で差すのは、見慣れた黄のマツダ・アテンザ。岩清水が学生時代から乗り回している車だ。
ほれ弓を貸せ、と手を差し伸べられて、思わず受け渡してしまいながらも、何のわだかまりもないように接してくる岩清水に、嶋田は戸惑いを覚えずにはいられなかった。
三月の卒業式以来、こうして二人きりになるのは初めてのことだ。別に、避けていたとかいうわけではなく、他の部員もいる場でなら話したこともあるのだが。
慣れた手付きで長さがかさばる弓を後部座席から前部へと通し、どこにも無理がかかっていないのを確認して、岩清水は車内に突っ込んでいた上半身を抜き出す。
その無防備な背中を、衝動的に嶋田は抱き竦めていた。荷物がなくなり空いた両腕が自由なのをよいことに、強く。
しばらく、岩清水は何も言わなかった。嶋田の腕の中で、身動ぎ一つしなかった。
止まった時が再び動き始めたのは、かすれた声で嶋田が名前を呼んだ時だ。
「真弓、さん……」
交際関係を解消して以来、久しく口にすることのなかった下の名を、自然と舌に乗せていた。
対する岩清水の応えは、落ち着いたものだった。
自分を拘束する男の腕を、指先でもって軽く叩く。
「どうした、嶋田…?」
笑いさえ含んだなだらかな口調。昼日中、人目が全くないと保証できもしないこんな場所で突然に抱き締められても、そこには動揺の影は見られない。
知らず、嶋田の心は落胆に覆われていた。
「嶋田、なんですね…」
詰るつもりはなかったが、つい、拗ねた子供のようなことを言ってしまう。
あの、夏の終わりから春の初めまでの短い時間。あの時には、呼び名が違っていたこともあった。
「こんなに、しても…」
体全体を覆い尽くすようにますます深く胸の内に包み込む。
「もう、緊張しても、くれないんですね…」
トン、トン、と変わらない同じリズムを刻み続けながら、抱かれた男が吐く息でふっと笑う。
「…してるけどな、緊張。そりゃーもう目一杯」
そんなセリフも、けれど笑みを滲ませながらでは、信憑性はないというものだ。
溜め息をつき。最後に一度、ギュッと力をこめてから嶋田はかつて恋人と呼んだ人を解放した。
「…つまんないですね」
流れるような動きで振り返ったところへ、唇を尖らせ冗談めかして微笑ってみせると、岩清水は安心したように彼もまた微笑んだ。
「…帰ろうぜ、ほら」
そっと肩を押して何事もなかったかのように嶋田の体を退かし、チャリ、と持ち上げたキィを鳴らす。
大人しく頷いてナビシートに収まり、嶋田はお世話になりますと頭を下げた。
ドゥオンと低いエンジン音を響かせて、アテンザが滑らかに滑り出す。
主将として初めてこなした試合の感想は、とにかく疲れた、という一言に尽きた。同じく主将を務めた岩清水だから、その辺は分かってくれているのだろう。寝ていてもいい、という岩清水の言葉に甘えて、嶋田はシートに背中を預けて目を閉じた。
心地好い車の振動に身を任せていると、朝が早かったせいもあるのだろう、すぐに眠りの世界に落ちていった。

*   *   *   *   *

つい先程まで多くの部活連が各々の卒業生を祝うために集って春まだ浅い中熱気に満ちていたこの場所だが、卒業式もつつがなく終わってしばらく経った今となってはようやく人も散ってゆき、喧騒も一段落したようだった。
弓道部も例に洩れず、元主将岩清水を始めとした十名ほどの卒業生を見送るため現役部員達が大勢集合していたが、送り出す恒例行事も無事終えてそれぞれに三々五々帰途についてゆく。
そんな中、嶋田は名残を惜しんで記念撮影などを行う卒業生らに混じり、最終段階まで居残っていた。当然、人を待ってのことである。
「…悪い、義明。待たせたな」
その待ち人は、人一倍多くの友人知人と言葉を交わし、最後の最後でようやく嶋田の順が巡ってくる。
心底済まなそうな顔をする恋人に向かい、嶋田はいいえと笑って首を振る。本当に気にしてなどいなかった。
「真弓さんこそ、おつかれさまです。行きましょう…っと、荷物、少し持ちましょうか?」
両の腕に山と抱えた様子を見兼ねて嶋田が申し出ると、岩清水も悪びれずに頷いた。
「ん、頼むわ」
そして岩清水は何を思ったのか、よりにもよって抱えた品々の中から花束を選び出してバサリと嶋田の手に預けてくる。
「ちょ、真弓さ…。それは、ちょっと…。俺がそれ持ってたら変ですよ。他のもんにして下さい」
この花束は、卒業生である岩清水のために贈られたものなのだ。それを持ち運ぶだけとはいえ、嶋田が受け取ってしまうのには抵抗がある。そんなものより、もっと代理で持つには相応しいものがいくらもあるだろうに。
だが、岩清水はそんな嶋田の感傷にてんで取り合ってはくれなかった。
「いいじゃねぇか。キザっぽくてそーゆーのもお前にゃ似合ってるよ、色男」
楽しげにケタケタと笑って更に押し付けてくる。
「似合うとか、そういう問題じゃ…」
反論しながらも、これは聞き入れてもらえそうにないなと、嶋田は早諦めモード。嘆息して、せめて傷めないように気をつけて持ち直した。
「…スーツなんですね」
スタスタと歩く岩清水に肩を並べながら話しかける。
「んー?」
「俺、真弓さんなら和正装が見たかったです。折角弓道部なんだし」
言うと岩清水はイヤそうに顔をしかめた。
「和装って…紋付袴とかかよ? 馬鹿言え、そんなんやってられるかよ、悪目立ちし過ぎるっての」
「似合いますよ、きっと」
サラリと嶋田の言い放ったセリフが先程の意趣返しであると気付いたか、言い返すことをせず岩清水は一層憮然とするに留める。
嶋田はクスクスと笑った。
「でも、晴れてよかったですよね。男はいいけど、女の先輩方は雨だったら大変そうだ」
男共の味気ないスーツ姿に比べ、女性陣はいずれも華やかに着飾っている。ただでさえ慣れぬ衣装に戸惑いがあろうに、そこに悪天候が加わっては大騒ぎになりそうだ。
「そうだなー。門出を祝うにゃ、いい日和だ」
岩清水は足を止めて空を仰ぎ、射す日差しに目を眇める。
嶋田はそんな岩清水を、眩しげに見守っていた。
「…なあ、義明」
言い出す口調はごく自然なものだった。
「はい?」
だから、嶋田も構えるでもなく返事する。
「俺達、終わりにしないか」
岩清水は空を見上げて顔を合わせないまま、そう言った。
それがあまりに普通で、今交わしたばかりの空模様の話とまるで違いのない口振りで、嶋田は一瞬何を言われたか、理解することができなかった。
「……えっ?」
右耳から左耳へと通過しかけた言葉を危うく引き戻し、ようやくそれだけ口にする。ひどい調子の外れ振りが嶋田の驚きを表しているだろう。
ゆっくりと、岩清水は嶋田の顔まで視線を下ろしてくる。目が、合う。
岩清水はそれ以上、何も言わなかった。
口許にただ透き通った笑みを燻らせて、じっと瞳を見交わしていた。
だから、切り出すのは嶋田からでなくてはならなくて。
そして、穏やかな中にも揺らぐことのない眼差しの色が、既に変わり得ない岩清水の決断を示していて。
嶋田は、ああ、と思う。
どうすることもできない。
自分は結局、この人に敵わない。いつも…嶋田の想う、更にその上をゆく人だ。
「もう…決めちゃったん、ですね……。独りで……」
嶋田の意志を問うまでもなく。
ふぅと嶋田の眼が諦めを映したのを見て取り、さすがにばつの悪さを覚えたのか、岩清水は軽く眉をひそめた。
「……悪い」
それは、岩清水の素直な気持ちからの謝罪の言葉ではあったろうが、嶋田にしてみれば最も聞きたくない台詞でもあった。
「いえ……」
曖昧に応じながら瞳を閉ざし、大きく二度、嶋田は深い呼吸を繰り返した。
そして開いた時には、嶋田も同じく微笑を浮かべていた。
「…それが、貴方の決めたことなのなら」
自分から言い出したことであるくせに、嶋田の反応は意外なものであったのか、岩清水は微かに目を見張った。
「わる…」
「謝らないで下さい」
言いかけた岩清水を、真剣な眼をして遮った。
「謝らないで、下さい…。貴方は何も悪くない」
口を閉ざした岩清水の、何とも言い難い表情を見たくなくて目を逸らす。
「謝ることはないですけど…。そうだな、でも思い出ぐらいは、もらってもいいですか?」
重苦しい雰囲気は元々苦手で、こんな時でもわざと明るく振舞ってしまうのが、嶋田という男の性。
思い出? と首を傾げるどこか幼い岩清水の仕種に小さく笑い、その耳元で囁いた。
キスしてもいいですか? と―――

*   *   *   *   *

「は? バッカ、いいワケないだろ。何考えてんだ、お前」
雰囲気もへったくれもない応答に、嶋田はパチパチと目をしばたかせた。
「真弓、さん…?」
唖然、とする嶋田に岩清水は顔をしかめ、むにぃーと嶋田の頬の肉を引っ張った。
「ったく、寝惚けてんなよ。着いたぞっての」
「え……」
びよんっと放された痛む頬を左手で押さえながら、おもむろにキョロキョロと辺りを見回し。ようやく、嶋田はそこが通い慣れた部の道場裏であることに気がついた。
「ああ…。そっか…」
そうだ、今日は試合に行った帰りに岩清水がここまで送ってくれたのだ。
最後に残った眠気を振り落とすようにこめかみを二度三度と指で突き、嶋田はペコンと会釈した。
「ありがとうございました。助かりました」
「ドウイタシマシテ」
謝意を告げた嶋田に対し、全くの棒読みで返した岩清水はニヤニヤと意味ありげな笑みをする。
何か? と嶋田が首を傾げる。
「べぇっつにぃ〜?」
岩清水は明後日の彼方を向いて嘯き、こらえ切れぬようにククッとのどの奥を鳴らした。
「ただ、どんなヤらしい夢を見てたんだかと思っただけ〜」
「…………」
思いもかけぬことを言われて、嶋田は目を白黒させて絶句する。
「ヤらしいって、別に、俺…」
顎を引き、のどにつかえさせながらもなんとか言葉を返そうとする。が、キラキラ光る目を見返しているとむくりと反骨心が首をもたげて、嶋田は逆にズイと顔を近寄せた。
「お望みなら、再現して差し上げましょうか、真弓さん?」
意識して、普段よりも艶やかに響かせた低音。
けれども岩清水相手には効果十分とはいえなくて、至近の距離から覗き込んでも彼は笑みを浮かべたまま目を逸らすことさえしなかった。
結局、先に降参するのは嶋田の側。
見合った目線は外せないままスッと身を引き、お手上げで肩を竦める。
「…なんか、変わりましたよね、岩清水さん。前はもっと可愛かったのに…」
それは、本当のことだ。嶋田にとって岩清水とは、年上振りたがるクセにどこか初心なところのある人だった。
この人と付き合っていた間、嶋田は結局キス一つしたことはなかったのだ。
―――怯える、から。
恥ずかしがっているだけなら少しぐらい強引にコトを運ぶこともできようが、ちょっとしたことにも全身で怯えを示すから…、とても手を出せなかった。
顔を近付けただけで肩といわず脚といわず、ガチガチに緊張させるのだ。それでは、頬にスマック・キスを落とすのが精一杯というところだった。中高のガキでもないというのにだ。
けれども、今にしてみればよく分かる。当時岩清水にどれほど余裕がなかったのか。自分がどれほど、負担をかけていたのか…。
岩清水本来の姿としては、多分こちらが正しいのだ。嶋田の仕掛けるお遊び程度、余裕で受け流す、この方が。
それは改めて淋しく感じる事実だった。
努力の報われなかったことを惜しんでいるわけではない。そうではない。見返りなど期待していたわけではないのだから。
ただ、良かれと思ってしたことが、却って苦しめる結果にしかならなかった、と考えると……辛い。自分自身が苦悩の源となってしまった現実が、胸に痛い。
責められることがなかったからこそ、半年ほども経ってなお癒えぬまま傷口がじくじくと痛む。
自分一人では決着をつけることもできないなど、言い訳にしても情けない限りだが。
「もしかして、男でもできました?」
顔の表面だけで笑って、冗談っぽく嶋田は探りを入れてみる。
「何アホなことをほざいてるんだか…」
岩清水は本気で呆れた顔をして、更に嶋田の痛いところに切り込んできた。ザックリと。
いや、痛いといってもやましいことは何もありはしないのだが。
「それはお前の方だろ? 一年の女の子にお手付きだって聞いたけどな?」
ただ…、嶋田にとって、岩清水との間で俎上に載せたい話題ではなかった。絶対に。
自分の方から言い出したことを思えばそれは無茶な主張というものだったけれども…、本心なのだ。
「俺のことはいーんですよ、この際。俺がモテるのなんて周知の事実じゃないですかー」
マズイ、と思う。
上手く笑えているだろうか。
嶋田は自信が持てなかった。
無様に顔が引きつっていそうで、今目の前に鏡が差し出されたなら、ぶち割ってしまいたい衝動に駆られそうだ。
「……。いつか刺されるぞ、お前…」
頭を抱え、溜め息のように呟いたのを最後に、岩清水は下りろと顎で指図する。
素直に従い、運転席でエンジンをかけ直した岩清水にもう一度頭を下げた。
「お世話になりました」
「ああ。…またな」
 

―――その

僅かに口許を彩るほんのひとひらの笑みが、心臓に悪いと言えば貴方は信じてくれますか。
女を引っ掛けたのは、貴方と別れたのが堪えたからだと言えば貴方は信じてくれますか。

淋しいと、言ったら、貴方は―――

 END

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