関係

「倉本ー。俺、ちょい休憩してくるけど、お前どうする〜?」
一人、黙々と練習を続けていたヤツに、いちお、お義理で声をかけた。
とーぜん、倉本が乗ってくるなんて、思っちゃなかったんだけど、意外にも「俺も行く」という返事が返って来て、俺はちょっと驚いた。でもまあ、別に断る理由も無い。
奴が追い付いて来るのを待って、俺達は肩を並べて水飲み場まで歩いて行った。
「倉本、お前背ェいくつあんの?たっかいよなぁー」
隣を見上げ、俺は訊いてみる。俺だって180はあるのに、その俺にこうも見上げさせるやつってのは、なかなかいない。
「189」
「マジかよ。たっけぇ〜」
なんて、他愛も無いことを話しながら、校舎裏手の少し陰になった水飲み場で、俺は頭から水をかぶった。
「あ〜、あっちぃ〜〜」
濡れた髪を手櫛で梳き上げる。
陰とはいえ、何分夏の盛りのこと、水道水まで温くなってて気分爽快とはいかなかったが、それでもずいぶん気持ちよかった。
「ほい、お先サンキュ」
暫くの間水浴びを楽しんだ後、名残惜しいが倉本に場所を譲ろうとした。
「いや…俺はいい」
「?何、んじゃお前、何しに来たの?」
「…休憩」
「……」
よくわかんねーヤツ…。
「…ま、いーけど」
…それにしても。
「倉本、お前、綺麗なツラしてんなあ…」
気を取り直して、ふと俺は俺より少しだけ背の高い奴の顎に手をかけ、自分の方に向けた。まじまじと鑑賞させてもらう。
「男でンなキレーなのって、俺、お前の他には一人しか知らねーよ」
尤も、と付け加えるのは内心でだけのこと。
マサミは…もっと、コワイくらいに綺麗だけどな…。
倉本は暫くの間、俺の好きにさせていたが、不意にポツリと言った。
「……それは、挑発か?龍」
「え?」
訊き返す間もあればこそ、俺は手を捕われ、引き付けられて奴の唇を受けていた。
あまりにあまりな、いきなりなことで思考が飛ぶ。
それを良いことに、倉本は舌を絡め、更には口腔までまさぐってくる。
そこまで来てやっと俺は我に帰り、どんっ…とその体を突き放した。
「なっ…何しやがる、このヘンタイ
すぅっと目を細め、低く笑う。
「抵抗しなかったくせに」
「そっそれは……っ!あんま、びっくりして咄嗟に反応できなかっただけだろーが
顔が、熱くなってくる。きっと、赤くなってるんだろう。
「おっ…男のお前が、男の俺にキスしてくるなんて、誰が想像できっかよ
し…舌まで突っ込んできやがって。
「信じらんねーお前、頭おかしいんじゃねーの?」
俺に、言いたいだけ言わせておいて、倉本はたった一言だけを投げ返してきた。
「感じてたくせに」
うっすらと唇に笑みを浮かべて。
「なっ……
今度こそ、俺は真っ赤になって絶句する。
「なあ。ここ、がイイんだよな」
言って、股間をサワリと撫で上げられる。
背筋を、何かが駆け抜ける。
「あほ抜かせっ何やってンだよ
慌ててその手を振り払った。
いつの間に、その距離にまで近付かれていたのか。
「付き合いきれねーよ
逃げるように背を向けようとした動きを、どうやってか阻止されて、気がつけば俺はフェンスに体を押さえつけられていた。
軽々と。身動きも許されない。
「強がるなよ。お前、男もイケるクチだろう…?」
俺を、いたぶるかのように、いたずらに耳元近くで囁きかける。ハスキィボイスがフワリと耳に忍び入って、ゾク…ッと身が震えた。
「な…に、言ってんのか、わかんねーよっ」
くくっと奴が笑う。
「嘘が、下手だな、龍」
「気安く呼んでんじゃねー
気のいい友人達が呼ぶ、その呼び名。倉本と、そんなに親しい関係になった覚えはない。
キッと睨むと倉本が不愉快そうに目を眇める。
危険だ、と、本能が警鐘を鳴らすのは聞こえていたけれど、俺は睨むのを止めなかった。
「あ…そ」
だが意外にも、奴はあっさりと呟いて力を抜く。つられて何故か、俺まで力を抜いていた。
その一瞬の隙に、いきなり短パンを引き下ろされる。下着ごと。
「な…何……!?
ひんやりと外気に晒される心許ない感覚に俺は焦ってそれを直そうとした。
だが、それよりも素早い動きで、ナニを男の手に握られていた。
「……っ!!
驚き過ぎて声も出ない。
「カワイイな」
そのセリフが指している物は明らかで、カアッと血が上った。
「バッ…」
カヤロウ、と叫ぼうとしたのを狙い澄ましたように、強く扱く。
「あ……っ」
強烈な刺激に、思わず声を放っていた。
「いい声だ」
満足げに奴が評価を下す。
「ば…言ってんじゃ、ねー…」
拳を繰り出すも、そこを捕われていてはロクに力は入らない。
難なく受け止められ、挙句両の手首を一まとめに掴み上げられた。
「暴れんな、ジャジャ馬」
「誰が…あっ……や、ん……っ
いつの間にやら体をピッタリと密着され、いいように股間を嬲られる。
手は取られていて、足は半端な位置に留まるパンツが邪魔で、なにより弱い所を責められて思うように動けない。
「最近、抜いてないんだろう。溜まってんじゃないのか?」
笑い混じりに卑猥な言葉を耳に吹き込む。
腹立たしくとも、俺にはもう言い返すだけの余裕がない。そもそも、腹立たしいという思いがどこか遠い。
嫌でも、下半身の感覚に集中してしまって。
時に軽く撫で上げ、時に強く揉みしだき、倉本は存分に俺を嬲る。
気付けば、俺は奴に取り縋って身を支えていた。
「やめ…っ、も、出る……っ」
悲鳴をあげる。
「いいぜ。出せよ」
少しカスれた声で言い、一際強く扱き上げた。
「あああ……っ」
射精する瞬間、男の手でイかされた羞恥に俺の頭は真っ白になった。
こんな場所で、下半身だけ剥き出しにされて、相手は男で、しかもちょっと扱かれたくらいで…。
は、は、と短い呼吸を継ぎながら、考えれば考えるほど、俺はどん底に陥ってゆく。
「信じらんねー…」
「何が」
思わず口にした呟きを、聞きとがめる。
「何もかもだよっ」
気に入らなくて、破れかぶれに叫んだ。
一瞬、沈黙を置き、奴が言った。
「…俺も、驚いたよ」
「あ?」
なんだよ、と目を上げると、ニヤリと笑う。
「信じられないほど、感度が良好。嬉しい誤算だったね。楽しめそうだ」
「……!!
恐ろしいセリフを聞いた気がする。
そろっと逃げようとしたが、見逃してくれるワケもなく、フェンスに体が押し付けられた。
「…ン、だよ。放せよ…」
身を捩っても、それくらいの力じゃあ、奴の腕はびくともしなかった。
「龍也」
思いがけない、静かな声音。
思わず奴を、見返していた。
「好きだ、龍也」
もう一度、頭の中を真っ白にされる。
「な…に、言って…。ウソだろ…」
「嘘じゃねぇよ」
引きつり笑いを浮かべた俺に、倉本はグイ、と股間を擦り付けた。
「っ」
服地越しでも、奴のモノが兆しているのが感じられる。
「お前が、あんまりいい声で鳴くからな。感じた」
触れんばかりの耳元で、そんなことを告げてくる。
「何、お前…。俺を、抱こうっての?それ、笑えない冗談…」
無様に、美事に声が裏返る。
「冗談じゃ、ない」
「いや、冗談じゃなかったら、もっと笑えないって…」
そういう問題じゃないだろーーーと頭の隅っこの方で突っ込みが入っていたが、いかんせん俺の脳みそはこのとききっぱりと労働を拒否してくれていた。
自分で言うのもなんだが、俺は、男っぽい。…と、思う。
180そこそこの長身に、走り込んで鍛えた筋肉。
そりゃ、190になんなんとする倉本と比べりゃあちょっとばかりは小さいかもしれないが、どう考えても、男の、そういう欲望の対象に相応しいとは思えんのよ。
それが、だ。この、じょーきょー……。
考えたこともない、考えるだに恐ろしい、いきなりなピンチに、俺は焦り、言いたかないが、ビビっていた。
「笑わなくていいさ。思う存分泣かせてやるから心配するな」
心配するわ、ダァホーーーーー!!
ニヒルな笑みを浮かべる倉本に対し、大罵倒はしかし、音声とはならず、ひたすら俺は愛想笑いを引きつらせていた。
これは…アレだな、やっぱり。ほら、三十六計なんとやら…。ここは、古人の教えに従おう、うん
物も言わずに一気にダッシュをかけようとした…ら。
ビッターン。
見透かしていたかのごとき滑らかさでスイと出た足に見事に引っ掛けられ、一瞬の後には俺は地面に熱い抱擁をかましていた。お約束、ってか?
「…っにしやがる!?
当然のように、俺は噛みつく。
今っ。鼻、縮んだぞ絶対
「お前…自分の立場分かってないだろ……」
呆れ果てた、といった調子で奴が言う。
「お前が今、すべきだったのは、俺に文句言うことじゃなくって、逃げることだったんじゃないのか?」
そーいえば……。
ふと気付くと既に、俺は完全に囲われて、逃れられない体勢に陥っていた。
「逃がすつもりは、なかったけど、な」
クク、と笑うように喉を鳴らしながら奴が言い、グイッと腰を引き付けた。
その手で、ランニングシャツの裾を捲り上げて、直に肌に触れてくる。つぅっと、線を描くような動き。
ちょっ…待て待て待てぇぇーーー
焦りつつ、後ろ手に、その手を止めようと、試みる。
「よせ…って。倉本、何、考えてんだよ……っ」
ガシャンッとフェンスに、強く体を押し付けられた。
いでーーーーー。
背中に回した、俺の左手ごと。
腕が、自分の背中と金網とに挟まれて、マジで痛い。
「く…らもとっ、痛い…ッ」
「そりゃあ、痛くしてるんだから…」
「痛いって、マジで痛いーーー」
自慢じゃないが、痛いのはキライだ。ガキくせぇと自分でも思うけど、でも、苦手なモンは苦手なんだから、仕方がない。
半泣きで喚く俺を、暫し困ったように見詰めていたが、苦笑して、奴は言った。
「大丈夫だって…すぐ、そんな痛みなんか忘れさせてやるから」
嬲るように耳元に囁き、そのまま耳たぶを啄んだ。
「……ッ!!
すぐに、離れたけど、生々しい感触は、ひどく鮮やかに燻る。
無事な右手で思わずそこを押さえていた。
「…なんだ。耳、弱いのか?」
慌ててブンブンと首を振る。
が。
「へぇ…そうなんだ」
倉本は聞いちゃいねー。
…って言うか、今の反応は、そりゃ、肯定してるも同然だよな…。俺がヤツでもそう思うだろーよ、そりゃ。
気をよくしたように、反対側の耳に唇を寄せて来る。
「止せ…って
身を捩る。
でも、そのくらいのことでは、到底倉本から逃れることなどできずに。
シャツの裾から入り込んで素肌を遊ぶ、悪戯な手が、這い上がって乳首を探り当てた。
「やっ…」
びくん…っと足首から震えが来る。
唇は項の線を辿り、左手が胸の突起をいじり、右手は腰を撫でている。
どこもかしこも、俺が弱いトコばっかり。
「や…やぁぁっ」
愛撫に集中している今では、それほど束縛は強くないと思うのに、俺の方に逃げるような余裕がない。
す…っごい、コイツ、なんか、慣れてねーか……?
茫洋とした頭で、何とか繋ぎ止められた思考が、でも、思うのはそんなことばかりで。
「あっ……」
知らぬ間にたくし上げられて露になった胸の小さな尖りに、吸い付かれる。
びりっと電撃を食らったような感覚。
「感じやすい体だな…」
そう言って、倉本は指を、すいっと後ろの割れ目に回す。
意図を悟って、俺は悲鳴を上げた。
「やめっ…ム、リ……ッ」
無理とかイケるとかじゃなく、嫌だ、だろーーー俺〜〜〜〜〜。
だけど快感に慣らされた俺の体は、実際のトコロ、更なる刺激を求めていて。
でも、このやり方だと相当痛みが来るのを、知っているわけで。
「……ッッ!!
無理矢理乾いた指を押しこまれたそこは、やはりかなりの痛みを訴えた。
「いてぇ……」
ボロボロと、盛大に泣き出した俺に、倉本は戸惑ったようだった。
「龍……」
少し、未練らしく躊躇したものの、そっと節の高い指を、抜き取ってくれた。
「…ごめん」
髪を撫で、涙を唇で受け止める。
「泣くな……」
「ヘタ、クソ……」
泣きながら、縋り付いて俺は悪態をついた。

そこへ。

「……何、してる」
割り込んで来た、声。
え……。この声って……。
俺も、そして倉本も驚いて振り返った。
そこに、立っていたのは。
「マサミ……」
呆然として、自分の格好も忘れて見入っていた。
マサミは眉を顰める。
「いい格好だな、龍」
「え…」
言われて、ハッと我に返ってカアッと赤くなる。
パンツは足元にわだかまらせ、倉本に縋り付いて立ってる状況。呆然となんてしてる場合じゃなかった
焦って、とにかくもパンツを摺り上げる。
何故か、倉本からの妨害は入らなくて、こそこそと俺はそこから抜け出した。
それでも倉本の視線は俺なんか見てはいなくて。
穴が空くほど強い視線を辿って見れば、マサミへと行きついた。
まぁ、なぁ…。キレーなヤツだからな、マサミは。
納得して、俺は一人うんうんと頷く。
だが。
それにしちゃ、なんか、顔、恐くないか……?
見惚れている、というよりは、睨んでるよーな……。
……それに、マサミも。
俺でも平然とはしてられそうもない、倉本の睥睨を、真っ向から受け止め、更にはハネ返してる、よーな……。
なんか…バチバチ火花散っちゃってないか……?
「龍。何してたって、訊いてる」
視線は外さぬまま、マサミが言う。
「な…にって……」
ンなこと、言われたって……。
「お前こそ、なんでこんなとこにいるんだよ。それに、龍って呼ぶなって言ってんだろ」
「龍は、龍だろ」
フン、と鼻先で笑う。
かっ、可愛くねぇ〜〜〜〜。
「お前、なぁ…仮にも俺は兄なんだぞ」
「…だから?」
歯牙にもかけぬ風情で、マサミは言う。
…分かってたけど。
はぁーっと俺は溜め息をついた。
「それで?我が親愛なるオニーサマは、神聖なる学校で、この大木男と何をしてらしたわけ?」
皮肉げに唇を歪めて、倉本を顎で指す。
大木男……。ひでぇ…。イイ男じゃん…いや、別に庇うワケじゃないケド…。
「お前に関係ないだろ」
そっけなく言ったら、初めて、マサミは俺を見た。
「…なんだよ」
「…関係ない、ね」
含みのある、言い方。
「…なんだよ!?
「大アリだ
言うなり、つかつかと歩み寄って来て、俺の首を引き寄せる。
噛み付くような、キス。
俺よりも背の低い自分の方が背伸びするのでなく、俺を引き摺り下ろす辺り、マサミらしい…。
「ばっ…何しやがる
学校だぞっ、ここっそれも、お前のじゃなく、俺の!!
「お前は、俺のものなんだよ。関係ないわけ、ないだろう
「だっ…誰が、お前のモンだよンなわけないだろーが
スゥッとマサミの目が細まる。
あ……。やばい、かも。
「兄弟喧嘩はそのくらいにしておいてくれないか」
きゃんきゃんと言い合う俺達の間に入ってくれた倉本に、思わず感謝の目を向けたりなんかしてしまった。
剣呑な表情を宿した目が、そのまま俺を通り過ぎて倉本に移る。
「あんたには関係のないことだろう」
これ以上はないほどに冷ややかに言い切る。
倉本は肩を竦めた。
「ところがそれが、あるんだな」
「へぇ…?」
誘いをかけるように、僅かに上がる語尾。
「俺は、龍也に惚れてるんでね。龍也が誰かのものだったりしたら、非常に困る」
臆面も無く言い放つ。
おいおいおいおいおい〜〜〜。
「…っ馬鹿馬鹿しい。帰るぞ、龍」
ぷいと顔を背け、俺がついてくるのを疑いもしない様子で背を向ける。
「待てよ、マサミお前一体、何しに来たんだよ。俺、まだ部活…」
慌ててその肩に手をかけて引き止めながら言い募る。
「親父が、たまには一緒に食事でもしようってさ。ほっといたらお前いつ帰るか分からないから、迎えに来た。顧問には既に話はつけてある。後はお前が来るだけだ。何か質問は?」
立て板に水の滑らかさで、滔々と言葉を並べる。
「ンなこと…勝手に……」
言いかけたけど、マサミの父親、俺にとっては義理の父に当たる人の忙しさを思い、俺は口を噤んだ。
あの人の都合なら、まあ、仕方ないか…。
「龍也。話が見えないんだが?お前、父親は亡くなってるんじゃなかったっけ?」
微かに、イラ立ったように倉本が口を挟んだ。
「ああ…母親、この間再婚したんだよ」
その話は、ごく親しい友人にしかしていない。そしてその中に、倉本は入っていなかった。
「んで、できた弟が、コレ」
「…光陵の高沢正巳、ね…」
驚いた。
「何、知ってんの、倉本?」
「まあな…」
生返事の倉本は、俺を見てはいない。
「…俺も、アナタのことは知ってますよ。海星の倉本行人サン」
意味ありげな視線を受けて立つ、マサミ。
「そりゃ光栄」
睨み合う二人の間には、好意らしきものは欠片も見当たらない。
な…なんなんだ、こいつら、会ったばっかで…。
俺は唖然とするばかりだった。
互いに相容れない…水と油ってか?…あ、でも、こいつらってなんか似てるかも…。やたら顔がいいトコとか、文武両道な優等生なトコとか。じゃあ、アレか。磁石の、同じ極同士は反発するっていう…。
「龍は、渡さない」
俺の意志などお構い無しでわけの分からない宣言をすると、マサミは今度こそ立ち止まらずに踵を返した。
「行くぞ、龍」
「あ…ああ、じゃあ、またな、倉本」

せめて着替えようとした俺を、それさえも許さずに急き立て、マサミは俺を校外へ連れ出した。
待たせていた車に、押し込むように俺を乗せ、続いて自分も乗り込む。
「先に龍ンとこ、回って」
俺はよく知らない、高沢家のお抱え運転手に慣れた口調でマサミが言う。
「分かりました」
承知して彼は、俺が電車とバスと自分の足とを駆使して通っている道のりを、いともあっさりと連れ帰ってくれる。
あ〜、金持ちって羨ましい。
……俺も、言えば、きっとしてくれるのだろうけど。
でも、俺は。
今の父は、戸籍上は確かに俺の父親になるけど、でも、マサミと同じ権利が俺にあるとは思えなくて。
車で送り迎え、なんて、ちょっと想像できない。
俺が一人で暮らすマンションに着いて、マサミは、何故か俺と一緒に降りて来た。
しかも、何やら告げて、車を帰してないか…?
「マサミ?」
「時間かかるかもしれないから。タクシーで行けばいいだろ」
首を傾げた俺に、サラリと答える。
「そりゃ、いいけど…」
…時間かかるって、何にだ?
疑問に思いながら、鍵を回して家に入る。
当然のような顔をして着いて来るマサミを振り返った。
「着替えてくるから、その辺で適当に座ってろよ」
「…ああ」
そう、返事をしたのに、俺が着替えている所へマサミはノックもせずにいきなり入って来た。
「なっ…」
驚いて、丁度脱いだところだったシャツを抱いて硬直する。
「何、驚いてる。今更照れるような仲でもないだろ」
チラと見遣って、面白くもなさそうに言い捨てた。
「やっ…めろよ、な。そういうこと、言うの…」
俺の方が目一杯動揺して、どもりがちだった。
「なんで?今更、だろ?俺は、龍の体、全部知ってんだぜ」
堂々と宣言されてカッと体が熱くなる。
赤面した俺を見て、目を眇めた。
「色っぽい顔をする…」
ただ、事実をなぞる冷たい口調でそう言って、つかつかと俺に歩み寄った。
「あいつも、そうやって誘ったのか?」
一瞬、言われた事が分からなかったが、すぐに理解して目を剥く。
「誘ってなんか…
冗談じゃないなんで俺がわざわざ男を誘わなくちゃならないんだ
それでなくとも、厄介なのに目をつけられて、辟易してるって言うのに……
「…どうだか」
吐き捨てる、マサミ。
…言っとくが、俺は断じてホモじゃない。それどころか、ほんの半年ほど前に、おふくろと再婚した今の義父の連れ子であるマサミにほとんど強姦同然に抱かれるまで、男同士で抱き合えるなんて事、意識したことさえなかったのだ。
「その顔で、俺以外に一体何人の男を銜え込んできたんだよ?」
カ…ッとした。
酷い侮辱だと思った。
そんなことはしていない、お前以外に迫られたのなんか、今日が初めてだ、と、否定するのは簡単だ。
けれど俺は悔しくて、マサミに、そういう人間だとみなされたのだという思いが、とても悔しくて、俺は誤解を解こうという気力が持てなかった。
「俺が誰と関係しようがお前には関係ないだろ」
そっけなく言うとマサミが目を見開いた。
「関係ない、だと?」
呟きに、どうしてだか、ゾク…ッとする。
作り物のように整った美貌から表情が消えると、マサミは凄絶な凄味を発するようになる。今が、丁度そんなカンジだった。
「お前は、まだ分からないのか…」
「な…ん、だよ…」
呑まれている。
年下の、『弟』に。どちらかと言えば華奢な、マサミに。
外見は痛々しいほど繊細なくせ、恐ろしいほど倣岸な男。そしてまた、それが相応しくもある、生まれながらの支配者。
マサミを見ていると、俺はそう思う。
俺なんかでは、到底抗うことなどできない…。
いきなり、マサミが俺の足を引っかけて俺を引き倒した。
「うわっ」
偶然か、それとも計算ずくか、バフッとベッドの上に転がされ、押さえ込まれた格好だ。
「お前は、俺のものなんだよ。言って分からないなら、体に教えてやるよ…何度でもな」
昏い眼で間近から覗き込んで、カスれた声で囁く。
呪縛にかかってしまったかのように、俺は、指一本、動かせない。
「…あいつに、何をさせた…?」
着衣を脱ぎ捨て、綺麗に筋肉を張り付けた裸身を惜しげも無く晒す。着やせするタチのマサミは、見かけから想像されるほど華奢ではない。それこそ、陸上で鍛えている健康な高校男子を、造作無く易々と押さえ込むことが可能なくらいには。
「キス、させたのか…?」
訊きながら、答えなど求めてはいないのか、強引に唇を重ねてくる。
「この肌に、触れさせたのか…?ここを、触らせたりしたのか…!?
俺の躰を知り尽くしたマサミの手が、唇が、弱い所ばかりを責め立てる。
「や、あ…っ」
他愛も無く追い上げられ、俺は悲鳴をあげる。
途中で止められ、やっと鎮まってきたばかりの燠火が、いとも容易く再燃する。
「あ、ああっ」
脇腹の性感帯をぞろりと舐め上げられて、たまらず俺は、顔を伏せたマサミの髪を握り締めた。
「龍…」
切なげに呼んで、マサミは何度も何度も口付ける。
唇はもちろん、耳や、顎のライン、鎖骨の所から肩口、胸へと下って、臍の脇…。
その間、両手が何もしないでいるわけはなく、手触りを確かめるように肌を撫でさする。少しずつ降りた唇が、やがて後ろへと到達する。
ピチャ、と音を立てて入り口を舐めた。
「んっ…」
慣れた感触。早くも、俺のそこは、欲しがってヒクつき始めていた。
十分に濡らした後で、マサミはゆっくりと指を挿入する。与えられたそれを、食い付いて放すまいとするかのように締めつけ、その形をまざまざと感じてしまい、俺は赤面した。時折前立腺を掠りながら、慎重に繰り返される抜き差し。
暫くは快感を受け止めるだけだった俺だが、やがて我慢がきかなくなる。
「…サ、ミ、マサミ…。そ…うじゃ、ない、もっと…
丁寧な愛撫は、確かに気持ちいいのだけれど。
そうなんだけど、俺は、知ってるから。
もっと、それとは比べ物にならないほどの強烈な快楽があるってコトを。
じっくりと育て上げられた熱は、じりじりと内側から俺を疼かせる。
「龍…。言えよ、どうして欲しい?」
俺は力無く首を振る。
「龍」
けどマサミは、飽くまでも俺に言わせようというのか、低く名を呼んだ。
何の乱れも感じさせない、声。
狂わされているのは、俺だけだとでもいうかのような。
「龍」
強情を張る俺に苛立ちを見せ、グッと根元を押さえた。
「やっ……
悲鳴を、上げる。
もう少しでイきそうで、イけなかったところなのだ。そこにこの仕打ちは、辛い。
「ヤ、だ…マサミ…ッ」
「言えよ。言わなきゃ、このままだ」
「やぁ……っ」
泣いて。
「イ…か、せて…っ」
俺は。
「どうやって?」
白旗を掲げた。
「入れ、て…お前の…が、欲しい…っ」
「よく出来ました」
涙で視界が霞んで、俺にはマサミの顔がよくは見えなかった。
でも、涙を拭って俺の髪を撫でたその手つきは、限りなく優しかった気がする。
丹念に慣らされた蕾に、猛ったモノをそっとあてがい、ゆっくりと腰を進めてくる。
マサミは、一度として俺を傷つけたことは無かった。あれほどに強引だった最初の時でさえ、行為そのものはひどく丁寧で、俺を傷つけはしなかった。
それでも、何度体をつなげても、これだけは慣れる事の出来ない圧迫感。
「龍…息、吐け。大丈夫だから…」
知らず強張っていた俺を宥めるように、軽い口付けをくれる。
「んっ…」
無意識に俺はマサミの首に縋りつき、もっと、とねだった。
小さく笑って、マサミは望み通りに何度も啄むようなキスをくれた。
「…ア
キスに誤魔化されている内に、不意に感じるポイントを突かれて俺は高く声をあげた。
「あ、ああ…あ……っ」
立て続けに刺激されて、嬌声がとめどなく零れる。
「龍…イイ、か……?」
全てを俺に飲みこませた状態で、さすがに声を掠らせながらマサミが訊いてくる。
「や、あ…っ」
だけど俺はとても答えなんか返せる状況ではなくて、ただただ喘ぎ声を上げ、感極まって涙を零した。
「あああーーーっっ!!
程無くして俺は精を吐き出し、ほとんど同時に、内部に熱い迸りを感じた。

「ん……」
気がつくと、俺はすっかり身を清められて寝かされていた。
「龍」
俺が目を覚ましたと知ってマサミが寄って来る。
「大丈夫か?気分は?」
俺…気絶したのか……。
そうと悟って、赤くなる。
もう、片手では足りないほどの回数、マサミに抱かれているが、そんなことは初めてだった。
最初、わけが分からない、といった顔をしていたマサミだが、すぐに気付いてニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべた。
「気持ちよかったか?龍」
平然と、そんなことを言葉にしやがる。
「うっせえ。バカ」
ますます、赤くなりながら小さく悪態をついた。
「ずいぶんと、感じてもらえたようで…」
ククク、と笑いながら、秋波たっぷり、流し目をくれる。
「光栄だ」
「…アホか」
なおも笑い続けつつ、マサミがスイと手を伸ばして俺の髪をかきあげた。
その眼は、ドキリとするほど優しい表情を映す。
「で、動けそうか?さっきから催促の電話がかかってきてるんだが」
「催促って?」
まだ、俺は頭がシャンとしていない。
苦笑しながら、飽きずにマサミは俺の髪の感触を楽しんでいた。
「親父だよ。龍はまだ捕まらないのかって」
ああ…。そういえば、元々そういう話だったんだっけ。
…って。
「あああーーーーーっ!!
突然大声をあげたから、マサミがびっくり、とこちらを見る。
「おま…おま…お前…、時間かかるかもって…、最初から、そのつもりで……
漸く、あの謎の言葉の真意を悟って俺は怒髪天を衝いた。
ああ、というカオをして、ニヤリと笑う。
「何を今更。龍だってよかっただろ」
サラリと何でもない事のように告げる弟に、俺はあんぐりと大口を開けたまま二の句の告げようがなかった。
「お…ま…何考えて……」
…そりゃ、俺が感じてたのは、事実だけど。でも、そもそも、そーゆー風に俺を仕込んだのも、お前だろーが…。
言ってやりたい気もしたが、あまりに情けない気もして、結局俺は口を噤む。
「そろそろ親父、待ちくたびれてるぜ。お前も腹減ったんじゃないか、龍?」
「ああ、うん…。お前は?」
「俺?」
言って、クス…と笑う様に嫌な予感がする。
「俺は、今食ったところだからな」
え。
「そうなのか?」
マジに聞き返したら、堪え切れない、といった感じに小さく吹き出す。
ちょいちょい、と俺を呼び寄せ、耳元に囁いた。
「ご馳走様でした…」
一瞬おいて、その意味するところに気付き、俺は真っ赤になる。
コイツ、涼しいカオして、なんちゅー卑猥なセリフを吐きやがる…
もう、構うのはやめて、俺はマサミを放り捨ててベッドを下り、きちんと畳まれた服を身に着け始めた。
その背に、マサミが言った。
「お前は、俺のものだよ、龍…」
流すように軽く、けれども、振り返るのが恐いような響きを滲ませて…。

「で…」
唐突に、倉本が言い出す。
「結局のところ、龍、お前弟とどういう関係なわけ?」
俺は、ぶ…と飲んでいた茶を盛大に吹き出した。
「か…かかかかんけーってっっ。ななな、何っ、言ってっ」
「隠すなよ。あの弟見てりゃ、お前があいつに抱かれてることぐらい一目で分かる。さしずめ、お前はあの弟に男を教えられたんだろ」
俺は、ボーゼンとした。
だって、そうだろ?そんなことをいちいち一目で見抜かれてたら、この先、俺、身がもたねーよ…。
「な…んで……」
やっとのことでそう言うのが、精一杯だった。
のに。
「そんなことはどうでもいい」
倉本と来たら、「そんなこと」と来たもんだ…。少し、苛ついたように。
あのー…俺にしてみりゃ、とても「そんなこと」とは言えないんすけどぉ…。
「俺が聞きたいのは、それが体だけの関係か、それとも…」
言いかけて、言葉を濁す。
「それとも?」
なんにも考えてない俺は、単純に聞き返してしまい、それに応じて倉本がふっと俺に目を向けた。俺の中に何かを探すような、求めるような、そんな視線。
「お前は、あいつのこと…好きなのか?」
瞬間、俺は固まった。
「なっ……」
言ったっきり、言葉が出てこない。
こいつは、一体、何考えて……。
俺は唖然としたが、倉本にとってはそんな俺のほうこそ得心のいかない態度だったらしい。
「おい…何とか、言えよ…。何も難しいことは訊いてない、お前があいつを好きなのかどうか訊いただけだぜ、俺は」
ンなこと…言ったって…さあ……。
俺が、マサミを…?
そんなこと、考えたことも無い。
俺が正直にそう言うと、倉本は苛立ちを露にした。
「じゃあ、考えろよ、今
「……」
剣幕に押され、渋々と俺は自分の心を見詰めてみた。
好きか、嫌いか……?
…少なくとも、嫌いじゃあ…ないよな。嫌いなら、いくらなんでも、あんなこと…させない。…はず。…きっと。…多分。…おそらく。
だけど、それが『好き』につながるかって言うと…それは、何か違う気がする。
「お前は、好きでもない奴に抱かれるのかよ!?
焦れたように倉本が問い詰めてくる。
「お前、そう言うけどさあ…。実際、あいつに逆らうのって大変なんだぜぇ…。それぐらいなら、黙って好きにさせてやった方が俺も楽だし…。あいつ、上手いしさ」
最後、何気なく付け加えたセリフに、倉本がスッと目を細めた。
「へぇ…」
うわ、なんかイヤな感じ。
「なん…だよ」
言いながら、はや、俺は腰が引けてる。
なんかこう…見下ろしてくる視線っていうのは、何とも言えない圧迫感がある。俺は普段、見下ろされる経験ってのに慣れてないからまた、特に。
「何が?」
平然とした倉本の態度。
「何が…って……」
俺の方が何故かうろたえてしまって、目を泳がせた。
「お前、なんかおかしいよ…。何考えてんだよ…」
「おかしい、ね。分からないか?俺が、今何を考えてるか」
「分かんねーよっ。分かってたら、聞くわけないだろ
こういう、謎かけみたいなのは苦手だ。大した事でもないのについ、いらいらしてしまう。
「…誰でもいい…って事だよな」
え?
振り仰いだ俺は、倉本の唇を受けていて、我に返った時には腕の中に、抱き込まれていた。
「抱かせろよ、龍…」
低い囁き。腰に来る。
「バ…ッカヤロ、何、フザケタこと…っ」
もがいても、力強い腕は小揺るぎもしない。
「ちょっ…放せ…よっ」
物理的にだけではない息苦しさを覚えながらも、逃れようと俺は飽く事無く身動いだ。
その抵抗を抑え、あまつさえ、倉本はもう一度俺に口付けた。
「む…んっ」
唇を割って舌が押し入って来る、激しいキス。
歯列をなぞり、口蓋を舐る。
コイツ、上手い…。
息がつけないのとあいまって、だんだん頭がボウッとしてきて、体に力が、入らなくなる。
「気持ちよく、してやるよ…。それなら、誰だっていいんだろ?」
耳に熱い、息がかかる。
「ちっが……ンッ…」
言葉はキスに、塞がれて。
何度も何度も、角度を変えながら深く、倉本は唇を重ねてきた。
無遠慮に口中を自在に蹂躙するヤツの舌に、翻弄される。逃げれば逃げるだけ、追って来て。強引に、絡め取る。キツく吸われる。
膝がガクガクとして思わず腕に、力を入れ、その腕がいつの間にか倉本の首に巻きついていたことを知る。無意識に体を支えようとしてそうなったらしい。
咄嗟、せめて縋るようなその腕を放そうとした時、背中をツッと撫で下ろされた。
「…っ」
ガクッと膝が折れる。崩れ落ちようとする俺を難なく支えて倉本は、腰を引き付けた。
「放せ…」
口ではまだ、抗うもののその声は、自分でも分かるほどに震えていた。
「今、放していいのか…?立てないだろ?」
笑い混じりにハスキーに囁かれては…。
…ダメだ、俺、この声に弱い、かも。
耳に、吐息と共に囁かれると、抗うことも出来ずに腰が、砕ける。
「龍…」
そっと呼んで、俺の肩口に頬を伏せる。
「好きなんだ…。お前が、好きなんだ…」
正直、体がゾク…ッと震えた。
倉本には、一度聞かされた言葉だけれど。俺は…その時は、信じられなかった、けど…。
今なら、ストンと腑に落ちた。
コイツは、本当に俺のコト、好きなんだ…って。
「…龍……!?
突然倉本が驚いたような声をあげる。躊躇いながら手を伸ばし、俺の頬に触れた。
「あ……?」
そこは、濡れていた。
「え…っ。な…何だ、これ」
俺自身も驚いて、慌ててゴシゴシと目をこすった。
だけど一度溢れ出したそれはもう、止まらなくて。
「ウソ、何で…」
狼狽する俺の意志とは関係無しに頬を伝い落ちていった。
やがて、大きな手が性懲り無く目をこすり続けていた俺の手を、止める。決して無理矢理というわけではなかったのに、俺はその手を振り解けなかった。
顔を上げ、明確な意思を持って倉本の唇が降りてくるのを目にしても、俺は動くことができなかった。
それどころか、自然と俺は瞼を閉じていた。
初めは、重ねるだけ。それから下唇を甘噛みし、次いで舌で輪郭を辿っていった。
薄く開いた俺の中に、しかし深く入ってこようとはせず、入り口付近を丹念になぞる。
そのまま引っ込もうとした生き物を、思わず俺は追いかけていた。
ビクリとして、動きが止まる。
一瞬の後に、俺は、すごい力で抱き締められるのを感じた。
絡め取られ、誘い込まれたその先で、キツく吸われて、軽い酩酊感を覚える。
いつの間に離れたのか、気付くと倉本は俺をじっと見詰めていた。
これでもかっていうぐらいにらしくない、優しい眼差しに俺はドキリとして、何故だか居たたまれなくなる。心臓が跳ねて息苦しいほどなのに、けれども俺は目を逸らせなかった。
「…初めてだな。応えてくれたの」
それが、先程のキスのことだと悟って俺はカッと赤くなる。
「っあ…」
何か、言おうとして、でも、嬉しそうな顔を見ていると、何も言うことができなかった。それ以前に、自分がどうしてそんなことをしたのか、そのことさえ俺は分かってはいなかった。
「龍」
呼ばれ、おずおずと見返すと、真摯な瞳とかち合った。
「もう一度、言う。俺は、お前が好きだ」
その眼を、見詰め返し続けることに、俺は本能的な恐怖を覚えて、咄嗟に、逃げた。
何も言わない…言えない、俺に、微笑する気配があった。
「答えは、今はいい…。少なくとも…俺は、嫌われてはない、よな?」
俺が黙っていると、倉本が龍、とまた、呼んだ。
「これだけは、答えてくれよ。今は、それだけでいいから…」
散々逡巡してから、俺は小さく、呟いた。
「嫌いじゃ、ねーよ……。嫌いだったら、何がなんでも、死に物狂いで、逃げてる」
それは確かだ。そこまでは、分かる。
けど、その先が……分からない。
俺は、一体……。

あれ以降倉本とはずいぶん仲良くなったと思う。仲良くというか、関係が近くなったというか……。
以前は単なるチームメイトに過ぎなかったのが、この頃では大体いつも、つるんでる。
かといって、自分の気持ちを押し付けてくるでもなくて。フツーの、友達としての付き合いに徹してくれていて、すごく、居心地がよかった。
もちろんそれは偶然ではなく、倉本の努力の結果なのだとは、さすがの俺も気付いていたが。
そうやって親しく付き合ってみると、倉本は、いい奴だった。
いいオトコなのは一目瞭然だけど、同じ男として悔しさを感じさせないぐらいに、いい奴だった。
「え、お前ン家犬飼ってんの?」
「ああ、2頭いるよ」
他愛も無い会話の中で、今日はペットの話になっていた。
「へぇーっ。いーなー。俺ン家、ずっとアパートだったからさー。生き物って飼ったことないんだよな〜。しかも2匹もかよ〜。くーっ、うらやまし」
「龍、犬好きなのか?」
「おー。好き好き。猫より犬のが好きかなー。ちっちぇえ頃は、犬飼いてーーって駄々こねたこともあったんだけどさ。いっつも、ダメの一点張りで却下」
そりゃ、母子家庭のアパート暮らしじゃあ、犬なんて飼えねーよなー。
言って笑った俺に、ヤケに真剣なカオをして倉本が言い出した。
「…見に来るか?」
「えっ?」
「ウチの犬。そんなに好きなんだったら」
「え…っ」
唐突な申し出に、俺は戸惑った。
「嫌なら、いいけど…」
「え、イヤ。別に、嫌ってコトはないけど…」
何、こんなに緊張してんだ?俺。
「いきなり行っていいのか?その、おうちの人とか…」
「構わないさ」
「ふーん…。じゃあ、行く」
犬が2匹、それも、レトリーバーとシェパードという、もろにつぼにハマった組み合わせは、なかなかに抗いがたい魅力があった。
「そっか」
頷いて奴はふっと、目を細めた。
すげー嬉しそーなカオ…。
「…言っとくけどな、ヘンなコトは、するなよ?」
ちょっとばかし警戒してしまって俺は、思わず言わずもがなの事を言ってしまう。
軽く、目を見張って倉本は、ニヤッと笑った。
「…変な事って?」
ぐ…っ。言えるかそんなもん。
「…ヘンなコトは、ヘンなコトだよ
腹立ち紛れに言い返すと、倉本は爆笑した。
コイツ、遊んでやがるな……!?
むぅーーーっとふくれた俺の頭を、ポンポンと宥めるように叩く。
180の俺の頭をこうも気軽に叩けるのは、倉本ぐらいのもんである。
「怒るなって、龍。俺は、待つからさ…。お前が、ちゃんと答え出すまで、待つから…。だから、さ…」
最後、倉本は言葉を呑み込んだけど、何が言いたいのか、俺には痛いほど分かった。
分かって、俺は…。
「…ゴメン」
返す言葉も無く、謝るしかなかった。
……分かってる。今の、この状況は、奴にとっちゃ本意じゃない。
居心地がいいのは、これが、俺にとってはとても都合がいいからであって、倉本にしてみれば、それこそ蛇の生殺しみたいなもんかもしれない…。
暫し、無言でいたけど、不意にヒョイと眉を上げ、おどけた表情を作った。
「何が?」
俺は初め、面食らったけど、冗談に紛らそうとしてくれてるのが分かって、徐々に、笑みを作ることが出来た。
「何でもねーよ
イイオトコ、だよ、なぁ……。
何だってコイツ、俺みたいなのがいいんだろ……。

倉本ン家の犬は、2匹とも、メチャクチャ、可愛かった。
名前はゴールデンレトリーバーが、ロン。シェパードの方は、デューク。
誰にでもすぐ懐くというロンの方はともかくとして、デュークは実は、人見知りをするらしい。
「嘘だろーーーっ!?こんな、可愛いのに…」
けど俺は、どちらともすぐに仲良くなったから、その言葉はとても信じられなかった。
「ホントだって。なあ、デューク?」
その首筋を撫でてやりながら倉本が話しかけるが、デュークはそっぽを向いた。
「……」
俺は、笑い転げる。
ウォンッと一声鳴いて、ロンが俺にじゃれかかってきた。
「うわっ待て待て、ロンーー」
顔中を舐め回されて、くすぐったい。
ロンほど特攻型ではないデュークは、そっと近付いて来て、傍でチョコンと座った。
「お前もおいで、デューク」
手招きすると、ちょっとためらった後、ペロンとその手を舐めた。
その間もロンは、手加減ナシで懐いてくる。
「…お前、すごいな、龍…。デュークはほんとに、滅多に人には懐かないのに…」
「そうなのかぁ?」
確かにデュークは、ロンに比べれば大人しいけれど、それは、懐かない、というのとは違うように思うのだが…。
「そうなの俺だって慣れてもらうまで、すごい苦労したんだから」
倉本は主張するが、俺にはそれが、大袈裟に聞こえて仕方がなかった。
「そりゃーお前が嫌われてただけじゃねーの〜?な、デューク?」
パタンパタンとゆっくり尾を振る。
「……」
俺は再び、笑い転げてしまった。
「…全く
思う様、苦笑を洩らした。
「ほら、ロン、お前もいい加減にしなさい」
飽きもせずに俺にじゃれつくロンを、引き剥がす。
「えー、俺は構わないぜ」
「…って言ったって…。制服、泥だらけになるだろ。毛も付くし…」
「あ、そっか」
指摘を受けて俺は納得してしまったが、それって既に手遅れな気も、しなくはない。
「もう遅かったか」
同じ事を倉本も思ったらしく、困ったように髪を掻き上げた。
「どうしようか…」
「はは、気にすんなって。土曜だし、クリーニングすれば落ちるだろ」
身をスリ寄せて来たデュークを撫でてやりながら俺は手を振った。

「龍」
フンフンと鼻歌混じりで上機嫌に我が家へ辿りついた俺は、いきなり声をかけられて、ギクリと足を止めた。
逆光で、ドアの前に立つその人物の、顔は見えない。
だが、その声には確かに聞き覚えがあった。
「…マサミ?」
目を凝らすと、徐々に暗がりに目が慣れてきて、だんだんとそのシルエットがはっきりしていく。
「どうしたんだよ、お前、こんなトコで…」
正体が知れて俺はホッと息をつく。
「驚かせるなよなー」
「…どこに行っていた」
軽い口調の俺に、マサミは低く、言った。
「どこって…ダチん家」
「…誰の」
細く、目を眇める様がひどく不機嫌そうだった。
確か、倉本とは、コイツ、仲悪かったんだよなぁ……。
「誰でもいいだろ」
答えを拒むと、一層険がきつくなる。
「それよりお前、何しに来たんだよ」
どうもこれ以上はヤバそうだとみて、話を変えた。
……その、つもりで俺は、どうやら地雷を踏んだらしい……。
胸倉を掴まれて、ダンッと壁に叩き付けられた。そのまま、押さえ込まれる。
「ここ一週間、毎日帰りが遅いのは、アイツの所へ行ってるからか?」
痛いというより、驚きが勝った。
「何で知って…」
そうなのだ。初めて行って以来、すっかり2匹の犬に惚れ込んだ俺は、ここんとこ倉本邸に通い詰めていた。
だけど、何でマサミがそれを知って……。
俺がそう言うと、マサミのカオが、見たこともないぐらい、昏く、歪んだ。
それを視界に認めた次の、瞬間―――
!!?
腹部に重い衝撃が走った。
マサミに、抉るように腹を殴られたのだ、と認識した頃には、既に意識は急速に遠退いていた。

「ンッ…」
ゆるゆると、何かが肌を這ってゆく、くすぐったいような感覚に、声を洩らした。
それから逃れようと、身を捩る。
だが、思うように体は動かなかった。
「……?」
訝しく眉をしかめて目を開ける。
「…起きたのか」
マサミの声がした。奇妙に抑揚のない。
「マサミ…?」
どうした?と、問おうとして俺は、異変に気が付いた。
俺は、全裸で。
ひとまとめに縛られた手を、ベッドヘッドに括りつけられ。
挙句、右の足首も、ロープでベッドにつながれていた。
痕を残さないためか、全てタオルを噛ませてはあったが、自由を奪うには十分な程度にキツい縛め。
「何だよコレ……」
怒るよりもまずは、唖然とした。
事態のあまりの異常さもあったが、俺を傷つけないよう気を遣っている事実が、俺にそれほどの危機感を抱かせなかった。
「…躾の悪い犬には仕置きが必要と言うものだろう?」
やたら平板な口調で言われて、最初、言葉が頭を素通りした。
しかし、徐々に染み込むように意味が理解できてくると、強烈な怒りが湧いた。
「躾の悪い犬ってのは、俺のコトかよ……?」
「他に誰がいる」
至って平然と答えるに及んでは、俺がはらわたを煮え繰り返らせたとて、誰に責めることが出来ようか。
「テメェ…ふざけんなよ……」
余りに激しい怒りに、声は却って低く沈んだ。
「ふざけているのは、どっちだ……」
だが、マサミの方も、劣らずの怒りを抱えているらしく、怖気づく様子はついに見せなかった。
暫し、無言で俺達は睨み合った。
頭に血が、上る。
「この、状況でなめたマネしてんのは、どう見たってお前の方だろうが何なんだよ、この紐は
声を荒げる。それでもマサミは、淡々としていた。
「お前は…どうしてこうなったのか……一度だって、自分の立場を省みたことは、あるのか?」
何……?
眉を顰めて俺は、秀麗な弟の顔を凝視した。
「何、言ってんだ…お前?」
けれども、何の表情も映していないガラス玉のようなその眼からは感情が読み取れず、鏡のように俺の間の抜けた顔を写すばかりだった。
「結局…お前は何も分かっちゃいないんだな……」
そう言う、声も、顔も、瞳も、マサミの何もかもから、感情が欠けていることに、やっと俺は気付く。
気付いて俺は、ゾク…ッとした。
熱が引くように、怒りが冷めてゆく。
「なん…だよ。何を、分かってないって……」
マサミは、それに答えず、唐突に唯一自由になる俺の左足のくるぶしを掴み上げた。抵抗する暇も無く、限界まで股を開かされる。
「い…っ」
痛みに小さく悲鳴をあげ、暴れようとしたが、指が食い込むのではないかと思う程しっかと掴み、マサミは俺の動きを封じ続けた。
普段、人目に触れることの無い場所が、白日のもとに晒される。
俺をひどい格好で縫い止めたまま、マサミはじっとその場所を見詰めていた。
全く感情の無い、性的な色合いさえない眼差しが、却ってたまらなく羞恥を掻き立て、俺は腰を浮かせた。
「見るな…っ」
マサミが、フン…と鼻を鳴らした。
「触ってもないのに、ヒクヒクしてるぜ。モノ欲しそうに…」
自分は着衣一つ乱さず、視線で、言葉で、俺を嬲る。
耐えられず俺は、顔を背けた。
「淫乱が……っ
唾を吐き捨てるような、言葉。
身が、竦む。
竦みながら、羞恥は去らず。
わけも分からぬまま、体温が、上がる。
「も、ヤだ…っ。なんで、こんなコトするんだよ……っ」
逃げても逃げても、執拗に追って来る視線に追い詰められて、俺は泣き言を洩らしていた。
「恥知らずが……」
冷ややかに、呟く。
ずっと掴まれていた左の脚を、無理に折り曲げられて、悲鳴をあげた。
「痛い…っ
だが、許してはもらえず、目に涙が滲む。
けれども、次に来た衝撃は、そんなものの比ではなかった。
何の慣らしもなく、もちろん濡らしてもいない場所に、屹立したモノを宛がわれたのだ。元々、本来と違った用途に用いられるのだ。充分に慣らさずに行われる行為は、最早紛れもなく凶器だった。
「や…っ、マサミ、嫌だーーー!!
絶叫にも、ほんの少しのためらいさえ見せずに楔をねじ込む。
メリメリと嫌な音を立てて、押し入って来る。
「――――――!!!
声さえ、立てられない。激痛のあまりに、意識を失うことも、出来ない。
裂けた後孔から溢れる血のぬめりさえも利用して、威容を誇るそれを、根元まで、埋め込む。
快感など、あるはずもなく。
力など、抜けるはずもなく。
ギリギリに締め上げているのだろう、マサミが呻き声を洩らした。
舌打ちをして前に指を絡めてくる。
ほんの僅かに緩んだ隙を狙って思う様突き上げられて、躰が撥ねた。
だが、それはけして快楽のためではなく。ただの、反射だ。
しかし構うことなくマサミは何度も何度も、繰り返し最奥を突いた。
その行為を、何と呼べばいいのだろう…。
快感を得る為でなく、ただ、俺を傷つけるための行為。
マサミは、下肢を寛げただけで、服を脱いでもいないのだ。
そんな行為に、何の意味がある?
だが、時折掠れた悲鳴をあげるだけで、人形のように動かない俺を相手に、マサミは、何度か、イった。
俺自身は…最初から最後まで、萎えたままだった。

それからのことは、もう、思い出したくもない。まるで悪夢のような体験をした。
強姦の、その次にマサミは、薬を使った。
強力な、催淫剤。
マサミに、触れられるだけで総毛立つ俺の躰を、無理矢理に高め、追い上げ、震わせた。
意識を取り残して体だけを情欲で支配し、言葉を、言わせようとする。
求める、言葉を。
俺は、唇を切れるほどに噛み締めて、拒んだ。
根元をキツく締め上げられて吐精を阻まれたまま、どこまでも責め苛まれる。
目の前が真っ赤に染まって、眩む。
正気なんか、疾うに無い。
それでも…、俺は、逆らい続けた。
こんなこと、認められない…
その、思いだけが俺を支えたと言ってもいい。
焦れて、マサミは躍起になってメチャメチャに俺の快感を煽り、俺を、従わせようとした。
絶え間無く喘ぎが洩れ、嬌声が零れる。
実際、狂いそうなほどだった。俺が言うことを聞かないと悟るや、どんどんマサミはクスリを足していったから。
俺の意志とは関係のない所で燃え上がる躰。
「う…あ、はぁっ……あ、アアッ」
「そのままじゃ、辛いだろう……?言えよ、龍…。言えよ…っ」
ほとんど、言葉の意味を捉えられてはいない。
そのままに、俺はただただ首を振った。
絶対、言わない…。マサミの思い通りになど、してやらない……
もう、何度目になるか分からない、大きな波をやり過ごす。
辛い。
そんなこと、言われるまでもない。
煽るだけ煽られて、イかせてもらえないツラさは、並大抵のモンじゃない。
それでも、どうしても、イヤだった……。
意識を飛ばしそうになる度、引き戻され。イきそうになる度、堰き止められ。
…ほんと、こんなことをいつまでも続けられたら、俺、狂い死にするんじゃないだろうかと思うぐらい、苦しかった。
いつまでも強情を張る俺に、マサミは憎しみに似た瞳を向けてきた。だけど、少し違う。
なんだろう…と、ぼんやりした頭で思う。
その答えを、首に手を掛けられて、得た。
ああ…狂気だ、これは……。
少しずつ指が、食い込む。
朦朧としたまま、俺は、マサミを見詰めていた。
不思議と、恐怖は微塵も無く。息のできない苦痛もほとんど感じなかった。
ただ、俺を殺そうとする男を見詰めていた。
その眼に宿るのは、紛れもない狂気。そして、その、源となっているのは。
お前何てカオしてんだよ……。
哀しくて、哀しくて、哀しくて、哀しくて…。
それとせめぎ合う、なにか強い、狂おしいまでに強い感情が、あって。
ンなカオ、するなよ……。
「……サ、………」
名を呼ぼうとしたけど、もう、声は出なかった。
けれどもマサミは、弾かれたようにはっきりと身を震わせ、手を放した。
急に肺に新鮮な空気が流れ込んできて思い切りむせる。
「っあ…………」
激しく咳き込む俺に、魂の抜けたような様子で見開かれた目を向け、次第に怯えるように後退った。
背に、壁が突き当たるまでジリジリと後退を続ける。
壁に張り付いてもなお、恐怖した目で俺を見ていたが、不意に身を翻した。
「マサ…ッ
呼び止めようとした声は間に合わず。唐突に、俺は一人、取り残されていた。
状況の変化についていけず、俺は暫し呆然としていたが、その内に強烈な眩暈が襲い来て、奈落に引きずり込まれるように意識を失くした。

クゥ…ン、とどこか哀しげな鳴き声の、聞こえた気が、した。
「こら、ロン…。大人しくしていなさい」
この、声……?
「…ら、もと?」
ひどい嗄れ声が耳に届いた。それが、自分の発した声なのだと認識するのに、数秒を要したほどだ。
「悪い、龍。起こしちまったか…」
ぼんやりと目を開けた俺を覗き込み、ばつの悪そうに、カオをしかめる。だが、言うほど俺は、意識の覚醒が追い付いているわけじゃあなかった。
クゥン、クゥンと、甘え声で濡れた鼻を押し付けてくる、ロン。
「なん、で……?」
それは、色々なことに対する、疑問だ。
あまりにも多くの疑問がありすぎて、訊いた俺自身にも何が聞きたいのか今一つ分かってはいなかった。
少し、混乱する。
「…なんでもないよ。いいから、もう少し、寝てろ」
倉本は、そう言ったけど。
物言いたげな俺を見、男っぽい顔立ちに苦笑を浮かべる。
「後で、ちゃんと説明する。だから、今はもう少し休め…」
俺の前髪を、梳くように撫で上げながらのセリフ。
見詰める眼差しに、一雫滲まされた甘さに俺はドギマギして、たじたじになって目を逸らしてしまったから、気付けなかった。その、眼の奥の、沈痛な、色に…。

寝ろと言われたからというわけではないが、それから俺は暫くまどろんでいたみたいで、はっきりと意識が覚醒したのはすっかり日も暮れた頃だった。といっても俺には、それがいつの夕暮れ時なのか、分からなかったのだが。
「…倉本?」
目覚めてまず目に入ったのが、やっぱり、ヤツの整ったカオで。
声をかけると倉本は読んでいた本から目を上げて俺を見た。
「あれ、なんで…?」
ここは、俺の部屋。倉本を、ここに連れてきた覚えはない。
それがなんで、しかも、ロンまで傍にチョコンと畏まっていたりするんだ?
「…なんでだろうな?」
はぐらかす、というわけではなく。
倉本は、俺が記憶を手繰り寄せるのを待つようだった。
……確か。俺は、金曜日、結構遅い時間までヤツの家に上がらせてもらってて。でも、いい加減まずいだろう、という時刻になって重い腰を上げた気がする。
で、倉本と別れた後は、真っ直ぐに自分の家に帰ってきたはずで。
帰って、来て……。そうか…。
マサミが、いたんだ……。
思い返して、思わず自分の体を確認した。
服を身に着けていて。…枷は、外されてる。
「……大丈夫か?一応、できるだけの手当てはしておいたが…」
労る言葉を耳にして初めて、体が清められ、確かに、傷を受けた場所の痛みもそう激しいものではないことに気付いた。そうはいっても、体中がどことなくだるく、節々がギシギシと苦痛を訴えていたが。
俺は、ほとんど全てを思い出し、それでもなお残る疑問を、口にした。
「なんで、お前がここにいんの…?」
言った後で、礼の一つも言ってないと思い付く。
「…っと、その、アリガト…」
体中を、それも、はっきりと陵辱の痕を残した体を見られたのかと思うと恥ずかしいやら恨めしいやらで、まともに顔も上げられなかったが、恩は恩だ。
「どういたしまして。…でも、俺にとったら役得だったかな。全部、見せてもらったし?」
冗談めかしたセリフだったが、俺はそれに応える余裕などなく、穴が合ったら入りたいよーな感じだ。
全部―――そう、全部、だ。それこそ、アナの中まで見られたってコトだ。
そう思うと、身の置き所もない。
すると倉本がふと、真顔に戻した。
「…嘘、だよ。悔しかった。お前がこんな目に会ってるのを、助けてやれもせずに。自分が情けなかったよ…。守れなくて、ごめん……」
ポツリと言うのに、思わず俺は、ヤツのカオを見返していた。
「何…言ってんだよ。守るって…。俺は、女じゃないぜ」
好きだってコトは、集約するとそういうことになるのかもしれないが…、それは、不愉快だ。
きっぱりと言い切ってやると、倉本は、少し、哀しそうに頬を歪めた。
「そう、だな…。悪い……」
「今回の事を言ってんなら……、こんなの、大したコトじゃねーよ。女じゃないんだ。キズモノにされたとか…、そういうんでもないだろ」
…そう、大したコトじゃ、ない。こんなの、どうってことない。俺は、傷ついてなんかいない……。
「なあ?龍…。俺じゃあ、駄目か?」
ふっと言われて俺は目を見開いた。
「え?」
「ごめん…俺、全部知ってる。お前が、何、されたか…。それを、誰にされたのか……」
言いにくそうな、倉本。
俺は呆然と、ただ、呆然とするよりない。
全部……?無理矢理、犯されたこととか…薬を使われたこととか……マサミにされたことを、全部……?
「な、んで……」
他に、どう言うこともできない。頭が真っ白で、俺は聞き取り難い掠れた声で同じ言葉を繰り返すばかりだった。
それに応えることなく、倉本は言葉を接ぐ。
「俺なら、お前を傷つけたりしない…。こんな風に、お前を傷つけたりしない……
静かな口調と、裏腹に、激しい眼差し。真摯で。熱い……。
「何で…こんなことができるんだよ。好きなんだろ…っ。どう、して……っ」
激情を、噛み締めるような倉本の言葉に、却って、俺は、スゥッと意識の冷めていくのを感じた。
「倉本……。それ、誤解」
え?と、切れ長の目が見返してくる。
「マサミは、俺のことを好きなんかじゃないぜ」
驚愕も露に息を呑む。
「…ホントだ」
明らかに信じていないカオに俺は、苦笑した。
本当、なのだ。
一度も…ただの一度も、俺はマサミの口から好きだ、愛してる、の類の言葉をもらった覚えが無い……。代わりのように幾度も、飽きるほどに聞かされたのは、「お前は、俺のものだ」というセリフ。
「好きでもない奴に、あんなに執着するか……?」
執着…執着、か。
のどから、低い笑い声が洩れた。
「ガキの独占欲なんだよ…。さして大事じゃなくても、他人にやるのは許せない…ってやつ」
「龍……」
知っていた、ハズだった。分かっている、つもりだったのに……。
「龍……
強く名を、呼ばれる。ヤツと同じ呼び方で。ヤツと、違う、声で……。
「そんな顔、するなよ……。俺の前で、そんな風に泣くな……
泣く……?
言われて初めて俺は、頬を伝う温かいものの存在に気付く。
「あ……」
傷ついて、いた。強がってみても…、俺は、どうしようもなく傷ついていたんだった。
「ごめん、倉本……。俺、アイツのことが好きだったみたいだ……」
今更、そんなことを自覚する。
だから、抱かれることに大して抵抗しなかった。
だから、なんだかんだ言ったってアイツを好きにさせていた。
けど……好きだから、あんな風にモノとして扱われることに耐えられなかった。
マサミの俺への感情が、頑是無い子供の独占欲のそれと変わりないことは、知っていた。知っていたけど、せめて、対等な立場で向き合っていたくて。
だから……あれほどに、ヤツの思い通りになることを、拒んだんだ……。
「龍……
もどかしく呼んで、伸ばされた手に俺は、ビクリと震えた。
無意識だったが、体が恐怖を覚えていた。
ピタリと動きを止めたその手は、俺に触れることなくキツく握り締められる。
「忘れろよ…あんな奴のことなんて、忘れちまえ……
俺は、それが酷く乾いていることに気付きながら、力無く、笑った。
倉本はヤツの方が辛そうに端正なカオを歪める。切ない眼差しが俺をじっと見詰めていた。
スッともう一度手が伸べられる。体を強張らせる俺を、今度は止まらずに引き寄せた。
「やっ…イヤだ、放せ……っ!!
広い胸の中に抱き込まれて俺は、自分で制することもできずにガタガタ震えた。
「龍、俺を見ろ…俺はヤツじゃない目を開けて、しっかり見てみろ
そんなこと、分かっている。だけど混乱した頭ではそれは何の意味も無く……。
際限なく湧き出す恐怖が飽和状態に達しかけた時、不意に俺は解放された。
「……ロン」
戸惑いながらも明らかに俺はホッとして視線を辿った。
ウーッと低い声をあげて威嚇する姿がある。
「お前は龍の味方か……」
目を細めて犬を見る。
金色の美しい獣は俺を庇って四肢を踏ん張っていた。
「ロン…」
俺は腕を伸ばしてロンを抱き締めた。暖かい。
すると彼は唸り声を止めて力を抜き、心配そうに俺を見上げる。鼻先をスリ寄せて来てペロリと頬を舐めた。
「慰めてくれるの?ありがとな…」
キュゥンキュゥンと鼻にかかった甘え声で鳴く。
「…俺は、ロン以下か……」
ほ、と倉本が息を吐いて嘆息した。ナサケなさそうな様子が可笑しくて思わず俺は笑い出す。
「…笑い事じゃねーぞ、龍」
最初、驚いたように俺を見た倉本だったが、ケタケタ笑い続ける俺に次第にムッとしたように瞳に剣呑な光を浮かべた。
一方の俺はというと、それを平然に受け止められるぐらいの余裕ができていた。ロンのお陰だ。
「俺、お前のこと好きだよ、倉本」
前置きも無く突然言うと、硬直して、完全に動きが止まった。
「友達として、だけど」
付け足すと、思い切り脱力してゆるゆると首を振る。
読もうと努力しなくても見事に素通しな感情の動きに、笑みがこぼれる。
「龍〜〜〜」
恨めしげな上目遣いで更に俺を笑わせた後、スッと表情を変えた。苦笑混じりの大人びた微笑に。
「…俺も、お前が好きだよ、龍」
視線を、絡め取られる。逸らせ、ない。
「恋愛感情で、な」
次第に熱を帯びてゆくかの眼差しに恐れ気を覚え、けれども囚われて逃げることは叶わない。
やがて俺が細かく震え始めた頃、ふっと眼の光を弱めた。
「そんな、恐がるなよ…。言ったろ…。俺は、お前を傷つけたりはしないって……」
宥めるように頭を撫でる。ゆっくりと、辛抱強く、俺の強張りが解けるまで。
「なあ、龍…。俺は、待っててもいいか?お前が、弟のことを忘れられるまで…。俺は、待つよ」
戸惑って、俺は目を伏せた。
倉本は、いつも、そうだ。決して俺を急かさなかった。
黙って見守り、必要とされるまでは手を出さない、それは大きな愛情だった。
それだけ、大人なのだと思う。
俺はかぶりを振った。
「止めとけよ…。もったいねーよ、お前。お前なら、望めば俺なんかよりもっといいヤツ、捕まえられるって。俺なんかにこだわって、時間ムダにするの、止めとけよ……」
俺が口を噤んでしばらくの間、その場にはなんとも言えない静寂が漂った。
俺は恐くて、顔を上げられなかった。倉本が今、どんな表情をしているのか、見る自信がなかった。
「……俺じゃ、駄目だってことか?」
重い沈黙が、破られてもなお緊張感は消えなかった。
倉本の、自分を卑下するような言葉に、慌てて否定の意志を告げる。
「そうじゃないっ。そうじゃなくて…」
「じゃあ、いい」
俺に皆まで言わせず遮る。
その瞬間に俺は間違いを悟った。
悟ったけど、向けられた微笑みに、何も、言えなかった……。
「お前がそんなカオをするなよ…」
優しい中に苦笑を混じえ、頬に触れてくる。
「お前のせいじゃない。待つのは、俺の勝手だ。お前が責任を感じることなんてないんだ。俺が、お前を好きだから…俺が、そうしたいから、するんだ。お前のせいじゃない」
倉本は、優しい。
その優しさが、勿体無くて、俺は申し訳なくて、涙が出た。
「…泣くな」
指先で、雫を拭う。
倉本を、好きになれたらいいと思う。
そうなりたいと、この時俺は心の底から思った。

「花火に行かないか?」
いつものことながら、倉本はまた唐突に言い出した。
「…あ゙?……花火?」
あんぐりと大口を開けてまじまじと顔を見返したまま、俺はしばし固まる。
「そう、花火。この週末に河川敷でやるヤツ」
対する倉本は、動じた風もなく、至って平然と繰り返した。
唖然として思考を彼方に飛ばしたまま、俺はヤツの顔をしげしげと観賞してしまった。
あー…やっぱコイツってば、すごい、キレーな顔してる……。
「龍?聞いてるか?」
ウンともスンとも言わない俺の意識がここには無いのに気付き、ペチペチと軽く頬をはたく。
「聞いてる、ケド…」
うまい返答を思い付けずに、てきとーに返事をしながら俺はヤツの顔を眺め続けた。
「なら、行こうぜ?」
誘う倉本に、俺は改めて低い唸り声をあげた。
「…あのさ、倉本。男二人で花火見に行ってどーすんだ……?」
かなり深刻に疑問だ。はっきり言って、冷や汗モンの光景という気がする。
「どうって…。夏のデートといえば、花火見物はお約束だろ?」
ぐはっっ。
…もう、返す言葉もなく俺は撃沈した。
「デートなら、誰か女の子誘えよ……」
倉本なら、一声かけるだけで付いて来るコがいくらでもいるだろうに……。
「龍」
脱力した俺の名を呼ぶ、低い声。
分かってる。
「分かってるよ、お前が好きなヤツが誰かってコトは…」
だけど、なぁ……。
俺としては、承服しかねる。
「やだよ、俺は」
顔をしかめると、ちょっと肩を竦めてみせた。
俺が嫌がることは、予測済みだったのだろう。さして落胆した様子はない。
「お前さぁ…折角カオがいいんだから、もう少し世間体ってモノを考えろよな、勿体無い」
「世間体って…」
思わず説教を垂れた俺に、倉本は苦笑した。
「今更だろ。どうでもいい奴にどう思われようと、かまやしないさ。なんなら公衆の面前で宣言してやろうか?俺は龍に惚れてますって」
ヒクッと俺は頬を引きつらせた。
「俺は全然構わないぜ」
「俺は構う
しらっと言ってのけた倉本に、噛み付くように言葉を返した。
冗談だと思いたいが、完全にそうとは言い切れない辺りが恐ろしい。きちんと釘を刺しておかなければ、こいつ、本気でやりかねない…。
やめてくれよな…。ンなこと、宣言されてたまるか、バカヤロウ。俺はまだ人生捨てたかない。
女子の盛大な恨みをかうのは誰だと思ってやがんだ、全く。
「花火なんか、男同士で行ったってしゃあないだろ」
「俺は嬉しいけど?」
「俺は嬉しくないの
つ…疲れる……。コイツ、こんなに話の通じないヤツだったっけ……?
「俺は、行かないからな
最後通告、とばかりに宣言する。でないと、いつまで経っても話が平行線を辿るばかりか、いつの間にか強引に承諾させられそうだ。
「……ロンってさ」
そして向けた背中を打つ声。
思わず振り返ると、人の悪い笑みで俺を見ていた。
ロンの名前出されると、俺が無視できないのを完全に見抜いてやがる。
「花火、苦手なんだよなー。大きな音が駄目らしい」
「……」
「人ごみ、嫌いだし……」
だからどーしたと言ってやりたいところだったが、不幸にも俺は倉本の言わんとする所を悟ってしまっていた。
「…お前、脅す気かよ……」
「別に?ただ、ロンはそうだっていうだけ」
けど、俺が花火をどーしても断ったら、お前はロンをその苦手な花火につれて行くつもりなんだろーが
俺はむぅっとふくれたが、そんなことをしたって答えは決まっている。
「ったく…。わぁったよ行けばいいんだろ、行けば、花火に」
チッと俺は舌打ちをしたが、対照的に倉本は本当に嬉しそうなカオをするものだから、ちょっとだけ、俺も、まあいいか、なんて思ってしまう。
「フツー、自分家の犬を盾に人脅すかよ……」
ボヤくと倉本は涼しく答えた。
「脅してないって」
嘘付け。
「けどお前は、どうしたら俺を思い通りにできるか知っててやったんだろうが」
じろっと睨む。
「さあてね。どうかな」
しれっと言う倉本に、俺は深々と溜め息をついた。

俺は、割合に諦めのいい方だ。この時も、誘いに乗ったのは嫌々だったが、行く以上はそれなりに楽しむつもりではいた。
祭りに行くのなんか、久し振りのことだ。
たこ焼きに、りんご飴に、やきそばに、とうもろこしに…。
食いモンばっかり指折り数えて舌なめずりする。健康な高校男子なら、誰だってそんなもんだろう。
うん、久々に祭りに繰り出すってのも悪くはないかもしれない。倉本と連れ立って、という点が激しく何か間違えてるという気がするのは、忘却しておくのが精神衛生によいというものだろう。
……と、思っていたのは待ち合わせ場所で軽く手を上げる倉本の姿を目にするまでのことだった……。
まず、絶句して棒立ちになり、それから立ち直ると止めときゃよかった…としみじみ後悔して俺はその場で回れ右をしたくなった。
何を勘違いしてるのか、倉本は気合入りまくりな、浴衣姿だったのだ。
…本人にとっては、勘違いでも何でもないのだろうが。
そしてまた、多少着流したその格好が長身に映え、文句無く似合っているから救いが無い。
イヤな顔をした俺に、ニヤリと唇の端をめくり上げてみせた。
…そんな、偽悪的な表情をしても、醜悪さは見出せない。外見のいいやつってのは得である。
俺は本当に、クルリと180度体の向きを変えてしまいたかったのだが、目の前のヤツがそれを許してくれるはずもないことは十全に承知していて、仕方なく重い足を渋々前に出し、倉本の前に立った。
「…お前、なぁ……なんちゅーカッコしてんだよ……」
ゲッソリと項垂れる。
「何が?」
俺の言いたいことなど先刻お見通しのくせに、そんな風に聞き返してくる。
睨み上げれば、それも愛しくて仕方が無い、というカオで微笑まれ、俺はただただ溜め息をつくしかなかった。
なんなんだか、なぁ……。こいつは絶っっっ対、人生の選択を間違っている
そう、思うんだが、俺が言っても聞きやしないのだからどうしようもない。誰かが更正させてくれることを切に祈るばかりだ。
はぁ、と肩を落とす俺にクスリと笑みを洩らし、行こう、と促した。
最早俺には逆らう気力も無く、誘導されるままに歩き出した。
とはいえ、さり気なく腰に回されかけた腕は、丁重にペシリと払い除けさせてもらったが。
歩きつつ、時折チラチラ隣を窺う。
浴衣の色は渋い緑で少し地味かな、とも思うが、着ている人物故か全くそうは見えず、寧ろ凛とした華やぎを醸し出す。
帯は茶系で…というか、色はどうでもいいのだが、信じられないほど高い位置に結んである。
それに最初に気付いた時、思わず俺は立ち止まってまじまじと見上げてしまいそうになった。
「何?」
俺の視線に気付いて倉本が聞きたがる。
……カミサマは、ズルイと思う。
なんだって、与える奴にはこうも何もかも与えまくって、俺には一片の慈悲の欠片ももらえないワケ?
…いやまあ、何ももらってないってのは言い過ぎだけど。
高い身長、秀麗な容姿、優れた頭脳、ズバ抜けた運動神経。
どれ一つ取っても、俺が倉本を上回るものなど何もない。
別にそんなコンプレックスくらいで、こいつを丸ごと嫌うつもりはないが、時に嫌気がさすのは否めなかった。
何しろ、すれ違う人、通りすがる人、皆が皆、一度は倉本に視線を送ってそこへ憧れの色を佩くのだ。一方の俺にはほとんど関心が向けられず、たまに感じる視線といえば、なんで俺みたいのが…という疑問や憐れみばかりときている。
こうも露骨だと、溜め息さえも出て来はしないが、やはり面白いものではあろうはずもない。
倉本といることに、俺は男同士という以上の空しさを感じた。
こいつと比べるなよ、な……。
やれやれと内心で首を竦めた時、俺はふと、人の視線が別れ始めたのに気付いた。
ん……?
半数は、俺の隣、つまりは倉本に注がれ。もう半分は、俺達のやや前方を向いていた。
「あれっ?行人お兄ちゃん?」
少し高めの、可愛らしい声に呼ばれ、倉本が足を止めた。
「実花か」
必然的に俺も足を止め、そうして俺がギクリと身を強張らせた原因は、倉本をお兄ちゃんと呼んだ少女では、決してない。
その隣に立つ、いかにもデート中といった図の、男の姿のせいだ。
マサミ――――――
知らず、一歩後ずさって背中が、トン、と倉本に突き当たる。
ゆっくりと、支えるように肩に手が、添えられる。
「珍しいね、どうしたの?お兄ちゃんがこんな所にいるなんて。お友達と?」
人懐っこく話しかけてくる彼女に、微笑して答える。
「いや…デートだよ」
会話は、少女との間に成り立たせているが、意識ははっきりとマサミに向かっていて。
「えっ!?お兄ちゃんの彼女?会いたーい。どの人どの人?」
瞳を輝かせる彼女に対し、見せ付けるように俺を、抱き寄せる。
「コイツ。俺の、好きな人」
俺が、平常心を保ってさえいれば、言わせたままにはしておかないような、セリフ。確かに、倉本は『好きな人』と言っているだけで『恋人』とは言っておらず、である以上それは、嘘ではない。嘘ではないが、聞いた相手が誤解するであろうことを見越した言い種だ。
だが俺は。
この時俺は、マサミを見詰めたまま、凍り付いたように指一本動かすことができなかった。当然発言へのツッコミなど、入れられるわけがない。聞いたことを、きちんと理解しているかどうかさえ、怪しかったぐらいだ。
実花というらしいその女の子は、ポカンと口を開けた。
「…ウソ」
「ホント」
その驚愕を楽しむかのように、告げる。
「だ…って……」
口篭もる彼女に、クスリと笑い声を立てた。
「そうだよ。龍はれっきとした男だ。でも、好きなんだ」
恥じるでなく躊躇うでなく、些かの気負いも無くサラリと言う。
「お兄ちゃん……」
言葉を失った少女に、堪り兼ねたような苛立った声が投げかけられた。
「おい、実花。もう行くぞ」
「あっ…うん」
慌てて返事をしながらも、後ろ髪を引かれる様子でぐずぐずと少女は動かなかった。
……いや、動けなかった、というのが正しいのだろう。
「彼氏が呼んでるよ。行った方がいい」
去り難い様子を見せるのへ、倉本は優しく促した。
「う、ん……」
なおも躊躇いながらも漸く、彼女はマサミを追って離れていった。

「龍?」
呼ばれ、ハッと見上げた。
「えっ、何?」
必要以上に焦って、あからさまに声が裏返った。その自覚が、更に焦りを産む。
心中は激しく波立っていて、どうしても落ち着くことができなかった。
「……いや。帰ろうか」
倉本は、複雑なような、哀しいような、なんだか変わった表情をしていたが、俺にはその意味を汲み取ることができなかった。
「え……」
まだ、花火は始まってもいない。
流石に驚いてそのことを言うと、倉本は首を振った。
「いいんだ。目的は果たしたから」
「は?」
わけが分からない。
「あいつ…実花って言うんだけど、従妹なんだ」
「うん?」
何が何だか分からないながら、とりあえず相槌を打つ。
それが、先程の少女のことだということはすぐに分かったが。
倉本が口にしたのはそれだけで、結局、何が言いたかったのか俺には分からず終いだった。
「帰ろう」
もう一度言って、今から始まろうという花火に背を向け、続々と集い来る人の流れに逆らって歩き出す。
いい加減慣れたものの、相変わらずな唐突さに少々憮然としながら俺は続いた。

やっぱ…カノジョ、かな……。
花火大会の日に、女連れのマサミを見かけて以来、気が付いたら俺は、そのことばかりをグルグルと考えてしまって、いた。
「龍」
可愛いコだったよな…。…倉本の従妹だってんなら、当たり前か。美形家族ってか?
マサミには、似合いの……。
「龍」
今まで思ったことなかったけど、考えてみればあのマサミに彼女がいるのなんか、当然のことだよな……。顔良し、頭良し、家良しって、三拍子そろってんもんなー…。
……何、今更傷ついてんだ、俺……。
「龍
強く呼ばれて、ハッと我に返った。
「あっ…え、何?」
顔を上げると、倉本が間近から俺を覗き込んでいた。近過ぎる距離に、思わず身を引く。
「お前…大丈夫か?顔色悪いぞ……」
え…。
「へーき、へーき」
ヘラッと愛想笑いをしてみせた、俺の後頭部を押さえて、美貌が迫ってくる。
キス、される。
それを俺は避けることができずに、唇を受けて咄嗟に歯を食い縛った。
目を閉じることも、せずに。
ノックするようにつつく舌先を、拒む。
諦めて、唇が離れていくや否や、俺はヤツを殴り付けた。
「こ…んな、トコで、いきなり、何しやがる…っ」
息が、上がってる。
勢いで俯いたまま、暫し倉本は身動ぎ一つしなかった。
沈黙が気詰まりで、俺はゴクリとのどを鳴らす。
「……考えてたのは、弟のことか……?」
不意を突いて図星を指され、俺は言葉に詰まる。
「……好きだ」
「…っ
真顔で言われて、ドキリと心臓が、縮み上がる。
「お前が、好きだよ、龍……」
答えられずに…俺は、ぎこちなく、ヤツから目を、逸らした。
「…何で」
息がのどに絡み付く。うまく、喋れない。
倉本は、俺の言葉を待っている。
「何で…そんなコト、言うんだよ」
震える声で、やっと、言う。
「おかしいか…?」
首を振る。
「そうじゃ、なくて…っ」
込み上げるものが、堪え切れなかった。
咄嗟に上げた腕で目を覆う。
それ以上は、何も言葉にならずに。
嗚咽を殺すのが精一杯で。
引き寄せられ、胸に頭を押し付けられる。
「…お前は、自分に厳しくし過ぎだ…。何の為に、俺がいるんだよ。もっと、頼れよ…。甘えていいから……」
抱き込まれた腕の中で、俺は力なく首を振る。振り続ける。
「お前が、好きだ」
「っ駄目だ
突き放そうとした、俺のことを予測していたように拘束は強まり、それは叶わない。
「いいんだ。甘えてくれて、いいんだ」
だって、そんなことをしたら、俺は……
「いいから。利用してくれて、構わないから」
思いを、過たず読み取ったような、倉本の台詞。
「駄目だ……」
今、そんな風にされたら。今、だけは。
「それでいいから。泣いても縋っても……利用しても、俺は、いいから。だから、頼ってくれよ…。今のお前、見てられない……」
穏やかな声は、諭すように温かで、それを聞いていると、突き放そうとする腕の力が、どうしようもなく、萎えた。
「…っ、……」
背中を撫でる手の平を感じながら、俺は声を殺してむせび泣いた。精一杯、自分から縋ることだけは、せずに。でも…、抱く手を、払い除けることもできないままで。

「え……?」
マサミがおかしい、という話を聞かされたのは、母親からだった。
その名を聞いて、電話越しに動揺したのを気付かれぬよう、努めて平静を装いながら聞き返す。
「おかしいって…、何か、あったわけ?」
俺が知る限り、マサミとお袋とはありがちな義理の親子の確執もなく、うまくやっていたはずだ。マサミが、お袋の前では完璧に優等生を演じ切っていただけという説もあるけど。
「どこがどう…というんではないんだけど…。どことなく、元気はないわね。あんた、正巳君から何か聞いてない?」
ドキリ、とした。
「…俺が」
声が掠れそうになって、慌てて唇を舌で湿した。
「何も聞いてるわけないじゃん。何で俺に聞くんだよ」
何でもない風をするのは、多分、うまくいったのだと、思う。
どくん、どくん、と鼓動がヤケに大きく響く。
お袋は、あっさりと答えた。
「だって正巳君、あんたに懐いてるじゃない」
「へっ?」
コレは、演技でもなんでもなく、声が出た。
「何よ、あんた気付いてなかったの?あんたに対する時と、私や高志さんに対する時じゃあ、明らかに態度が違うじゃない」
高志さんとは、母の再婚相手、マサミの父親たる人のことだ。
「あんたと話してる時だけ、正巳君、年相応の顔、してたわよ」
「え……」
知らな、かった。そんなこと。
俺にとってのあいつは、俺に向けてくる顔が全てで、それ以外の所なんて、知ろうともしていなかった。
ほうっとお袋は溜め息をついた。
「仕方ないわね…。本当に何も聞いていないのね?」
「聞くも何も…ずっと会ってねーもん。話なんか、聞きようがないって」
そう言うと、お袋はあら、と呟いた。
「正巳君、花火大会の日にあんたに会ったって言ってたけど…」
あ…。
「それは、まあ、会ったけど…」
っていうか、でもあれは、会ったというより単に見かけた、だけで…。話しも何もしてはいないのに。
とかなんとか、俺が内心ブチブチぼやいていると。
「そういえば龍也、あんた、彼女連れで花火に行ってたんだって?」
「はあっ!?
いきなり、とんでもない濡れ衣を着せられて俺は仰天した。
「何の話だよ。期待裏切って悪いけど、俺は淋しく男友達と花火に行ってましたよ
「ま〜たまたぁ〜」
ああ、ニヤニヤ笑いが目に浮かぶ…。
「ネタは上がってるのよ。とっとと白状しなさい」
「あの、なあ…。マジだって。誰だよ、ンなガセネタ吹きこんだの」
あの倉本のどこをどう見たら『彼女』に見えるのか、心底から俺は疑問に思うぞ。
うんざりと言った俺に、流石におかしいと思ったのか、お袋がちょっと尻込んだ。
「おかしいわね…。正巳君の言うことだから、確かだと思ったのに……」
「な…」
……マサミ?
意外といえば意外な名前を聞いて俺は束の間絶句した。
「あいつ、何、考えて…」
「…そういえば、ちょうど花火大会の頃からかもしれないわね。正巳君が決定的におかしくなったの…」
ふと思い出したようにお袋が言った。
おい。ちょっと待て。何だそれは。
「決定的って…。その前から、おかしかったわけ?」
「そうよぉーぅ。私だって母親ですからね。息子の様子がおかしいことくらい、すぐに気付くわよ」
聞きながら、俺はドクン、ドクン、と心臓が痛いほどに撥ねるのを感じていた。
…ダメだ。期待なんか、しちゃいけない。
俺が、マサミに対して、様子をおかしくさせるくらいの影響力を持っている、なんて……。自惚れたら、ダメだ。
思いながらも。
俺は更に突っ込んで問わずにはいられなかった。
「それ…って、いつ頃から…?」
「え?」
と言ってから、考え込むような間を置く。
「そうね…。花火より2〜3週間前くらいだったんじゃないかしら……」
「ごめんお袋、また電話する
「えっ!?ちょっと、たつ…」
それ以上、聞いていられなかった。
何か、向こうで言っているのも無視して反射的に、受話器を置いていた。
ずきずきと、こめかみが疼く。
俺…の、せいか……?
置いた受話器から手を放すのも忘れて、握り締める。
花火の、2〜3週間前…。時期は、合致する。
あの日俺に見せた、マサミのカオが忘れられない。
不意に会いたい、と、思った。
マサミに、会って……。
どうするのか、どうしたいのかは、分からない。でも、会いたいと思った。
どうしても会いたい、会わなければならないと、強く強く、思った―――

マサミに会いに行くと告げると、倉本は血相を変えて迫ってきた。
別に、ヤツに言う義務は無かったと思うんだが、あの時世話になった分、そのぐらいは礼儀だと思った。
「お前、何言ってんだよ忘れたのか!?あいつに何されたのか会いに行くだと―――!?許せるわけないだろう、そんなこと!!
ガクガクと揺さぶられる。
「ちょ…っ、倉…っ、苦、し……」
その、余りの剣幕に俺は成す術も無く弱々しく抵抗する。
「ごめ…」
ハッとしたように倉本は手を放し、幾分、落ち付いた様子で話しかけてきた。
「…一体…なんだってそんなこと、思い付いたんだ……?」
怒りが通り過ぎ、今度は恐怖に囚われているかのような印象を、受けた。
「何てツラ、してんだよ…」
俺は苦笑する。
「忘れたわけじゃねーよ。全部、覚えてる。あいつのしたことは…許せることじゃねーよ……」
「なら
勢い込む倉本を、手で制した。
「許せることじゃ、ない。ない、けど…、俺も、悪かったのかもしれないって、思ってさ……」
眉を、ひそめる。
眉間の縦皺がさっぱり分からないという倉本の心中を主張しているのを発見して、俺はそんな場合じゃないのにもかかわらず少し、笑ってしまった。
「俺らはさ、兄弟なんだよ。血はつながってないけど…、兄弟に、なったんだ。なのにさ、ちっとも話とか、してないんだよ。俺もあいつも…お互いのこと、全然知ろうとしてなかった…」
一度言葉を切って息をつく。
倉本は何も言わずに俺をじっと凝視していた。
「そこへ来て、いきなり体の関係だけ作っちゃって…それが暴走して、今の有様だ」
俺は逸らすことなくその視線を受け止め、見返した。
俺に対して倉本は、いつも誠実だった。多少、強引ではあっても。だから俺も、それに応えなきゃならない。
めちゃくちゃ、心配をかけたこいつに対して、どの面下げてこんなこと言えるんだか、と自分の厚顔さを自覚するけど、でも俺はそれでも、マサミに会いたいっていう気持ちを抑えられなかった。
「間違えたんだよ、俺達は、二人とも…。もっと…他にしなきゃならないこと、いっぱいあったはずなんだ。それを、怠ったから、こんなことになったんだと思う……」
言いながら、無意識に俺は我が身を抱いた。
忘れたつもりでも…体に植え付けられた恐怖心は、そう簡単には拭い去れはしない。
「あいつを…許すのか?あんなことをされても、お前は奴を許すって言うのか……!?
怒りを、限界まで抑制して、結果震える声音で倉本は言った。
「違う…」
俺は、倉本を納得させられる理由をうまく言える自信が無くて、自然口調が弱いものになった。
「許すとか、許さないとか、そういうんじゃなくて…。やり直したいんだ。最初から。好きとか嫌いとかじゃなく。もちろん、体の関係も、抜きで…。ちゃんと、兄弟として、もう一度白紙からやり直したいんだ……」
だけどそれは俺の本心で。そのことだけは分かって欲しくて、瞳は、見詰め続けた。
逃げたくはなかった。こいつに、嘘だけはついちゃいけないと思っていた。
先に、目を逸らしたのはヤツの方だった。
「…だけど、アイツは……」
何事か、倉本が口の中で呟いた言葉は、小さ過ぎて俺の耳には届かなかった。
「…ごめん、倉本。お前には、悪いと思ってる。心配ばっかかけて…。わがままばっかり言ってさ……。でも、ごめん。俺、どうしても今、あいつと話がしたいんだ……。許してくれないか…?」
許可を、求めなければならないような関係じゃあない。俺と、倉本とは。
でも、俺は迷わずその台詞を言っていたし、倉本もまた、それを普通に受け止めていた。
その頼みを是とするか否かについては、簡単に結論を出すわけにはいかなかったみたいだが。
「お前、さ……」
顔を、背けたまま何事か言いかけ…、だが結局、倉本は口を噤んだ。
「倉本?」
不安になってその名を呼ぶと、ヤツは顔を上げてフ…と微笑んだ。
「…いいよ。分かった。行って来いよ。お前が納得のいくように……ちゃんと、話して来い」
それは、何かを吹っ切ったような、清々しい笑みだった。
それでいて、どこか……諦めにも似た、寂しいものを含んだ、笑みだった。
だけどこの時の俺はそれに気付くことができず、ただ、認めてくれたという、そのことに嬉しさを感じるばかりだった。
「ああ。そうする。…サンキュな、倉本」
なんでもない、というように倉本は手を振り、もう行け、とばかりに顎をしゃくった。

チラチラと眺めやる視線を感じる。どうも、かーなーりー、目立っているらしい。
別にいいじゃんかよ…。校門で待ち伏せくらい…。
県下切っての名門校、光陵学園。
そこに通うステイタスの高い男ゲットしようとする女の子の待ち伏せなら、珍しくもなんともないはずだろ、お前ら…。それが男だってだけで、何でそうもじろじろ見られなくちゃならないんだ……。
男子校の入り口で、明らかに他校生が佇むという自身の異常さを棚上げに、俺はぼやく。
マサミに会う、という目的を果たす為、俺は学校をサボってマサミの通う光陵学園まで足を伸ばして来ていた。
何もそこまでしなくても、会うだけならば、実家に帰ればそれで済む話なんだけど…。
それでは、駄目だと俺は思った。
本音で話すためには、あの家じゃあ、お袋達の存在が、邪魔だ。それに、マサミも。あの家でなら、俺に会う可能性も十分に考えて、覚悟はついているだろう。
腹割って話すのに、俺はマサミの懐に飛び込もうと決めたのだ。
…決して、そうするためには学校をサボらなきゃいけない、という口実が欲しかったわけでは、ない。
ざわざわとした喧騒の訪れを感じ、俺は顔を上げた。
そして、6〜7人の人群れの中に、俯きがちの目指す姿を見付ける。
「マサミ」
呼びかけると、辺りがシンと静まり返った。
何対もの目が、驚きとともに俺を見詰める。
その中央でマサミは、竦んだように俺に視線を張り付けていた。
「久し振り、だな」
何と言って良いか分からずに、とりあえず俺は、そんな風に声をかけた。
「君、誰?」
何も言おうとしないマサミに代わって、取り巻き(…だろう、多分)の一人が、胡散臭そうな目を隠そうともせずに誰何してきた。
こういう、割と敵意に満ちた眼差しにどう対応すべきか、やや迷って俺は、適当に微笑んでみた。
「そいつの、兄なんだけど。用があるんだけど…マサミ、ちょっと貸してもらえないかな?」
「…兄?」
ますます、疑わしげに眉をひそめる。
どうやら、取り巻きにも序列のようなものがあるらしく、小柄なその少年以外のやつらは、時折互いにひそめき合う他は、黙って成り行きを見守っていた。
「嘘だろ。高沢君にお兄さんがいるなんて話は、聞いたことないよ」
「…話してないからな」
少し甲高い声を上げた少年に向け、マサミが低い声で俺の存在を肯定してみせた。
「用って、何?」
そのままの声音で、素っ気無く俺に問う。
そこにマサミの拒絶を感じ、俺は顔をしかめた。
「…話がある」
「そう。何?」
飽くまでもこの場で話を済ませようとする態度が、癇に障る。
「場所、変えようぜ。ここじゃ、なんだから…」
それでも辛抱強く言うと、初めてマサミが声を荒げた。
「話なんて、俺には無い何の用だよ!?
「それを、今から話すって言ってんだろうがいいから来いよ
呼応して俺も語調がキツくなる。
するとマサミは、あの、傲岸不遜の代名詞のようなマサミが、怯えるようにビクリと瞳を震わせた。
抱き締めて自分を庇うように、腕を掴み締めている。
その様は、俺をかなり驚かせた。
嘘だろ…。あの、マサミが……?
「…ごめん。俺、行くから…」
暗いカオで周囲に断りを入れ、歩み寄って来て俺の前に、立つ。
「どこ、行くの?」
「あ?ああ…」
その実、何も考えていはしなかった俺は、逆に訊く。
「この辺でどっか、邪魔が入らなくて落ち付けるトコ、無いか?」
大体俺は、ここいらには詳しくない。どちらかといえば、それはマサミの守備範囲ってもんだろう。
潤んだように見える眼で、暫し俺を見上げていたが、分かった、と言って先に立って歩き始めた。

マサミが俺を連れてきたのは、都会の谷間に忘れ去られたように存在する、小さな公園だった。
「へぇ…こんなとこあるんだ」
興味深く、俺はキョロキョロ眺め回す。
公園の規模に相応しい、子供用の小さな遊具に懐かしさを覚える。
その一つの、ブランコに俺は腰を下ろした。
「話って、何?」
その傍らに立ったマサミは、相変わらずの硬い顔で俺を促した。
「ああ…」
何から話したもんだろうか。
悩んでまずは、当たり障りのない話題から始めた。
「お前最近、元気無いんだって?お袋が心配してたぞ」
グッと唇を噛み、歪んだ笑いを浮かべた。
「…そう。早苗さんに言われて、心優しいオニーサマは不肖の弟の様子を見に来てくれたってワケ」
嘲るような口振りが不快で、それ以上に自嘲する響きに不審を覚えて俺は眉をひそめた。
「お前、何かあったのか…?」
らしくない。全くもって、コイツらしくない。
俺の知るマサミは、こんな風に笑う奴じゃなかった。
いつも、嫌味なぐらいに自信に溢れていて…。決して、こんな荒んだ表情をする奴じゃあなかったのに。
「…何かって?」
挑むような目をしてくる。
「ンなの、分かんねーけどよ…」
祭りの日に見かけたマサミのことを、思う。
「彼女とうまくいってないとか…?」
傍から見れば順風満帆、その人生には何一つ翳りなど見当たらない、光の中に住む、一握りの特別な存在であるなのに。
それが、なんだってこんなに荒れちまってるんだよ……。
「関係ないだろう、お前には」
声を震わせながらも、そっぽを向いて俺を拒む弟に、音を上げた。
「…分かったよ、もう聞かねーよ」
はあ、と一つ溜め息をついて気を取り直す。
「そんなことを言いにわざわざこんなトコまで来たんじゃないんだよ、俺は」
興味無さ気に、こちらを見向きもしないが、少なくとも立ち去る素振りは見せていないことで満足することにして、言葉を続ける。
「お袋に言われて…ってのも、誤解だ。それが無いとは言わないけど、俺の用はもっと他にある」
「…なんだよ」
「…こっち向けよ」
小さく合いの手をいれたマサミに呼びかけた。
「マサミ」
ビクリとした後、わざとのようにゆっくりとした所作で振り返る。
「なん、だよ」
だけどその顔は、酷く頼りなげで、泣き出す寸前の小さな子供のように見えた。
それが俺に柔らかな心持ちを与える。マサミに対する、兄としての情愛。
その穏やかさに促されるように、俺は言葉を紡いでいた。
「なあ、マサミ…。俺達、やり直さないか…?」
そう、言うとマサミは、驚愕も露に立ち尽くした。
「え……?」
予想だにしないことだったのだろう。呆然と呟いたきり、身動き一つ無く、突っ立っている。
「やり直そう、初めから。俺達は、間違えたんだ。もっと、ちゃんと話そう。やり直そう。体の関係なんか抜きで、兄弟として……」
俺はゆっくりと、一つ一つの言葉を呑み込ませるようにゆっくりと、語りかけた。
やがて、水が染み込むように、マサミの顔に理解が広がってゆくのが見て取れた。
そして、完全に自分を取り戻すと、マサミは言った。
「なんだよ、それ……」
「え?」
「なんなんだよそれはお前、俺をなめてんのかよ!?今更兄弟だ!?できるわけないだろう
今度は、俺の方が面食らう番だった。
紛れも無くマサミは、激昂していた。
「それともそれが、罰なのかよ……。お前を無理矢理抱いたことへの、それが罰なのかよ……。だったら、やり直すだなんて、言うなよな…。はっきり、そう言えよ……」
次にマサミは、力無く呟き。
そして―――堪り兼ねたように、落涙した。
「マサ、ミ……?」
コイツが泣くのなんか、初めて、見た。
「お前残酷だよ、龍…」
最早、涙を隠そうともせず。溢れる涙を次々と頬に伝わせながら。
「今更、兄弟として……?そんなの、できない…。できるわけ、ない……」
「なん、で…だよ……」
何故、マサミが泣くのか―――ワケも分からぬままに、俺は、泣きじゃくるマサミに、呑まれていた。
「なんで…?そんなことも分かんないの…?」
「分からないから…訊いてるんだろうが……」
言うと、マサミは泣き顔のままで笑った。
どうしようもなく、傷ついた笑顔で。
「随分だね、龍。そこまで残酷に、なれるんだ…?」
皮肉を含ませた調子。
「分からないものは分からないんだお前いい加減にしろよ何言ってんだよ!!
苛立って怒鳴ると、マサミは表情を、消した。

「好きだからに、決まってる―――」

ポツリと、告げられた言葉の意味を、咄嗟に掴み損ねた。
な、に…?今、こいつは、何て言った……?
茫然自失し、真っ白になっている俺に向かってマサミは激しく言い募った。
「お前のことが、どうしようもなく好きだからに、決まってる!!…分かってるさ。龍はもう、アイツのものだ。龍の心はもう俺にはない。いや…最初から、お前は俺のことなんか、好きじゃなかったよな。知ってたさお前は、俺に抱かれていたって、全然俺のものなんかじゃなかったどうにかして、お前を手に入れようとしたけど…俺には、どうすることもできなかった!!ずっと、ずっと、好きだったんだ―――今でも…好きなんだ―――兄弟だなんて、思えるはず、ない……」
見詰める瞳から逃げることもできず、金縛りに遭ったように、動くことができなかった。
「う…そ、だ……」
「嘘?嘘なんかついて、どうするって?嘘なんかじゃない。俺は、龍が好きだ。好きだ、好きだ、好きだ―――!!
俺は、混乱する思考を立て直そうと、必死になっていた。
「だ…って、おま、ンなこと、一言だって……」
「言わなかったって?」
そうだ。好きだと…一言でも、言っていてくれたなら……。
「当然だろう?自分のことを、これっぽっちも好きじゃない相手に向かって…嫌々俺に抱かれてるお前に向かって、どの面下げて好きだなんて、言えるんだ?」
言って、くれて、いたならば―――俺は、どうしたというのだろう……。
「言いたかったさ俺だって、好きだって、言いたかったさ……。だけど、恐かったんだ言って、お前に拒絶されたらって思ったら…そんなこと、言えやしなかった……」
マサミが、そんな風に思っていたなんて―――
こんな風に、震えるなんて―――
俺は今まで、こいつの何を、見ていたんだろう。
「ごめん……」
自然と、その言葉が口をついて零れ出していた。
マサミは、ビクンと大きく体を震わせた。
「…何、謝ってんだよ…。謝るなよ余計俺が惨めになるだろ
その様が、余りに傷ついていて、痛々しくて、思わず俺は立ち上がってその身を抱き締めていた。
「ごめん…ごめん、マサミ
知らなかった。俺の、いい加減な態度が、これほどまでにこいつを傷つけていたなんて―――全然、知らなかった――――――
「嫌だっ。放せっ…放せよっ、龍!!
半ば混乱したように暴れるのを、俺は自分の方がいい体格を利用して、抱き込んで放さなかった。
「放せよぉ…っ。じゃないと、俺、誤解するだろ…っ龍が、少しは俺のことを好きでいてくれてるのかもしれないって…馬鹿みたいな期待、しちまうだろ……」
泣きながらの抵抗は、でも、どこか半端で、俺を突き放すには至らない。
そんなマサミが、途方に暮れている幼子のように見えて、哀れだった。
「同情なんか、いらないそんなの、却って残酷だ…もう、いいだろ……十分だろ……。これ以上、俺を傷つけないでよ……」
頼りなく声を震わせる。
抵抗が止んで俺は、腕を緩めてそっと背中を撫でた。
「同情じゃ、ない……」
大分間を置いて、マサミは訊き返した。
「……じゃあ、なんだよ……」
俺を、恐れているかのように。
俺はその問いには答えず、告げた。
「やっぱり…やり直そう、マサミ」
「っ
咄嗟に逃れようとするのを無理矢理抱き止める。
「最後まで聞けって…。今度はちゃんと、話をしよう、マサミ。俺…」
その、言葉を言うのには勇気が要った。
だけど今は、それ以外に、必要な言葉なんて、ない。

「俺、お前のこと、好きだよ……」

腕の中の体の、震えが止んだ。
凍り付いたように、何の反応も、ない。
「…マサミ?」
少し体を放して顔を覗き込もうとすると、しがみ付いてきて、させない。
「嘘だろ…」
さっきの俺と全く同じことを言う。
俺はちょっと笑って、答えも同じ答えを返した。
「嘘なんかついて、どうするんだよ」
「だって
駄々をこねるような様が、妙に可愛い。
「だって…。あいつ、は……?」
倉本か…。
「あいつ…龍に惚れてるって、言った」
「…うん」
「龍だって…まんざらでもなさそうだった」
「……」
おい。待たんか、コラ。
「あいつとは…何でもない」
「花火に一緒に行くような仲のくせに…っ」
そう、言われて。
俺は不意に思い出す。
「お前だって…」
言葉を濁して、唇を噛む。
そう。マサミには、彼女がいるんだ。
今まで、忘れていた。
思いがけないマサミの告白を受けて、舞い上がっていた証拠だろう。
気持ちが冷えて、腕を解く。
それに、焦ったようにマサミが飛び付いてきた。
「違うっ。あれは…っ」
「…あれは?」
おざなりに問い返すと、傷ついたような眼を、した。
「だって…あの時は、龍を、諦めなきゃならないって、思った、から……」
今にも泣き出しそうな、眼。
…ずるい。そんなカオ、されたら、もう何も、言えない……。
「ごめん、なさいっでも俺は、俺が好きなのは、龍だけだ…っ
必死なカオをして、言い募られたら、許さないわけに、いかない……。
「……倉本を…好きになれたら、と思ったこともあったけど…」
縋り付くような瞳に、微かに苦い、笑みを浮かべた。
「ダメ、だった」
「それ…って、龍……」
喜色に、なりたいような、複雑な色合い。
少し癪だが、それに、応えてやった。
「俺も、お前だけが好きだよ…マサミ」
返事は、力いっぱいの、抱擁だった。

「…うまく、いったみたいだな、その顔からすると」
翌日俺は、話がある、と倉本を呼び出していた。
少し寂しげな微笑をして、俺が言うより先にヤツは口を開いた。
その、見えていたかのような口振りに驚いて尋ねる。
「知ってた、のか……?」
マサミの、気持ち。俺の、想い。何もかも。
「…まぁな」
そっと、目を伏せた。
「ど…して……」
言いかけて、口を噤む。
仮にも倉本は、俺を好きだと言ってくれていたのだ。それに対して、何故、言ってくれなかったのか、などと…これほど酷い言い分もないだろう。
静かに倉本は目を上げた。
「どんな理由があれ、あいつがお前にしたことは、許せなかった。好きだからなんて、言い訳にもならない。お前があいつを好きなのだと知っても…あんなことをした奴に、くれてやるなんてとんでもないと、思ったんだ。それがお前を苦しめるとわかっていても…」
最後は、自身が少し、苦しげなカオをして、倉本は言葉を切った。
「だけど…それでもお前は、あいつがいいんだな…」
「ごめん……」
責められているわけではなかったけど、思わず俺は詫びの言葉を口にしていた。
倉本から苦笑が返る。
「何でお前が謝るんだよ?」
「ごめん……」
それしか、俺には言えることが無かった。
「泣くなよ…。ったく、困ったヤツだな、お前はホントに」
滲んだ涙が、指先で拭われる。
「泣くのは、あいつの前だけにしとけって。なあ?」
呼びかけに、応えるようにつかつかと歩み寄って来て、グイ、と俺の体を抱き取った。
え…。
「マ、マサミ?」
何で、ここに?
「お気遣い、感謝しますよ」
幾分不愉快そうにマサミは言ってのけ、これ見よがしに、俺を抱く手に力をこめた。
「お熱いことで…」
呆れたように肩を竦めながら言われ、俺は赤くなる。
けど、腕を振り解こうとは、思わなかった。俺も、マサミを感じていたかったから。
「龍」
そんな俺を、真剣な顔をしてふと呼び止める。
「何?」
見返した、倉本の瞳には様々な感情が表れては、消え―――
最後に、微笑みが、残った。
「良かったな―――」

夏が、終わろうとしていた。

 END



NOVEL1

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