くちゅ…くちゅ… 「藤臣、紫君」 それからも何度か、僕は先輩に抱かれた。 どうしようもなくなった僕が逃げ込める場所は、その人の所しか、無かった。 それ以来、僕は日の大半を先輩と過ごすようになった。 そして僕は漸く、貴則様中心ではない生活に、慣れ始めていた。 そんなことの続いていたある日。 「…貴様、臣の何を見ている!?」 「ん、や…ぁ、はん……っ」 重い気持ちで僕は、貴則様の部屋の前に立っていた。 いない……。
END
採光によく配慮され、午後の日差しが窓からいっぱいに差し込む明るい室内に、淫靡な水音が響く。
頬張った彼のモノは既に僕の口には含み切れないほどになっており、諦めて一旦口を放し、今度は添えた手と舌を使って丁寧に舐め上げ始めた。
そうして彼に奉仕しながら、同時に自分の秘孔を寛げる。
クチ…チュプン…
「っ」
排泄器官に差し込んだ、自分の指に感じてしまう僕は、どうしようもない淫乱だと、自分で思う。
体に走った震えをその人に感じ取られないように、僕は目の前にあるモノへ仕えることに一層熱中した。
僕に身を任せながらどこかあらぬ方を見遣る彼の横顔は、本当に綺麗だ。
その眼は、僕なんかを見てはいないけれど、時々、こっそりと見上げては様子を伺ってしまう。
そうして、彼の視線を捉えられたことなど一度としてありはしないのだけれど。
何も見てはいないようでいて、無意識のように僕の動きに合わせて髪をゆっくりと掻き混ぜるように撫ぜる彼の大きな掌の感触が、好きだ。
「…臣。もういい」
突然、そう言ってアッと思う間もなく体を反転される。
抵抗する余地もなく、両足を肩に抱え上げられて、彼の目に全てを晒す淫らな姿勢を強いられた。
「っあ」
そのまま、腰を合わされて侵入してくる。
「あ…っ、あ」
強引に押し入ってくるその感覚は僕を感じさせ過ぎて、声をこらえることができない。
「ひ、あ…、ぅあ…んっ」
シンと静かな室内で、僕のあられもない喘ぎ声とジュブジュブいう濡れた音だけが空気を震わす。
「ア…貴則…さ、まっ、イ…ッ」
突き上げられる律動にうまく呼吸を合わせられず、為すがままに揺さぶられながら顔が見たいと必死に開けた目に写るのは、いつも変わらぬ無表情で。
抱かれながら僕は、哀しくなる。
何故、この人は僕を抱くのだろう。
こんなにも激しく僕を犯していながら、その体が熱く昂ぶっているとは決して思えない。
「ぃあ…あ、たかの…さまっ、貴則……ッ」
応えてはもらえぬ、一方通行の呼び声と共に僕は絶頂を迎えた。
一瞬目の前がスパークして、頭が真っ白に、なる。
彼は少し遅れて、僕の締め付けに促されるようにして僕の中に精を叩き付けた。
余韻に浸ってグッタリと身を横たえる僕の中から、ズルリと自身を引き出す。
いつもながらに顔色一つ変わらない涼しい仕種に、僕は少し、切なくなった。
僕の名前は藤臣紫(ふじおみゆかり)。
生徒会会計を務めている、高校1年だ。
そして、僕を抱いていたのは、2年生ながら同じ生徒会の会長を務める相馬貴則様―――僕の、憧れの人だ。
僕が彼を様付けで呼ぶのには訳がある。
僕と彼とは同じ高校の先輩後輩、生徒会の会長と会計という関係のみならず、学外においても主従関係にあるのだ。
僕は、生まれて間もなく両親を亡くした。
両親は相馬家に仕える使用人の夫婦だったのだが、それを不憫に思った相馬の御当主―――貴則様のお父様が身寄りのない僕を引き取って下さり、これまで面倒を見て下さった。
当然僕はその御厚意に深い恩義を感じており、その御子息である貴則様にお仕えすることにもなんの異議も無かった。
尤も、それがなくとも僕は貴則様に憧れずにはいられなかっただろうけれど。
ほんの幼いご時分から、貴則様は周囲とは一際異なる『特別』な存在でいらした。
やんちゃをするのが当然のお年頃から、大人顔負けの落ち付いた空気を纏っておられて、当然何事においても人より秀でていらっしゃる方だった。
僕はそんな彼の足元にも及ばないちっぽけな存在だったけれども、彼を間近で見ていられるだけで幸せだった。
ずっとずっと、焦がれて、焦がれて…だからある時突然、体を求められた時も拒むことなど思い付きもしなかった。
慣れない僕を、貴則様はそれは丁寧に抱いて下さって、僕は有頂天だった。
自分が、彼の特別な存在であると誤解して―――
勿論、それはすぐに勘違いだと気付かされたのだけれど。
見た目はクールでストイックで、彼にも性欲があるだなんてことは俄かには信じられないことだけれど、この年頃の健康な男子であるからには生理現象は当然のことで、そういったときに丁度手近にいたのが僕だったということなのだと思う。
秀麗な容姿を持ち、中身も申し分がないとなれば、当然貴則様が女の子達におもてにならないはずはないのだけれど、相馬家の後継ぎとして十分にご自覚のある貴則様としては、万一ということがあるために、女性相手にそういった行為をなさることは躊躇われたのだろう。
それ以来、僕は貴則様の望まれるままに体を繋ぐ行為を繰り返している。
僕にとっては特別な、けれども彼にとっては食事をしたり睡眠を取ったりするのと大差ないのであろう、行為を。
それは時に胸の痛いことであったけれども、貴則様がこういったことをなさるのは、僕の知る限り、僕だけだったから、それでも僕は嬉しかった。
「…臣。支度は済んだのか。帰るぞ」
「あ…っ、は、はい!すみません、すぐ用意します!」
貴則様は、自家用車での送り迎えでご通学なさっている。
僕は最初、それに便乗させてもらおうだなんて考えはこれっぽっちも無くて、自転車で通うつもりだったのだけど、御当主のついでなんだから一緒に乗って行きなさい、という言葉に押し切られて、貴則様とご一緒させて頂くことになってしまった。
それは、ありがたいことではあるのだけれど、貴則様に釣り合わない僕を嫌でも学校内で目立たせることとなり、少しいたたまれない。
言うまでもないことだけれど、貴則様は男性にも女性にもひどくおもてになる方だから。
なんの取り柄も無い僕がそんな彼の隣にいることは、顰蹙も買うし、妬みを受ける元ともなっているのだ。
無論そのようなことを貴則様のお耳に入れるつもりなどないが、つい先日も聞こえよがしの中傷を受けた。
そのことを思うと、少し憂鬱な気分にもなるこの頃の僕だった。
その日、珍しく僕は生徒会室に顔を出すのが遅れそうになって、慌てて廊下を走っていたところを、呼び止められた。
声をかけてきたのは、面識の無い、3年生の先輩だった。
面識は無いが、全く見知らぬ、というわけでもない。
貴則様には多少劣るものの、彼もまた貴則様と似通った、大勢の中にあって光るものを持つ選ばれた人間の内の一人だ。
彼は前年度生徒会の副会長を務め、貴則様さえいなければ、今年は会長になっていただろうと言われる人物だった。
貴則様は、御本人が望むと望まざるとに関わらず、敵の多い方だ。
自然、僕にも人を見るとまず警戒する癖がついていて、じっと先輩の顔を見詰めてしまっていた。
「藤臣クン、だよね?」
返事もせず、ほとんど睨むような顔をしていた僕に、困ったように微笑んで彼は確認を入れてくる。
「そう、ですが」
それで、ようやっと僕は答えを返した。
「ああ、よかった。答えてくれないから人違いかと思ったよ」
そう言って彼はニッコリと笑った。
よく、言う。
僕は思った。
貴則様もそうだが、この手の人物は、一度見た人の顔を忘れることなどない。
当然、人違いなどあるはずもなかった。
「…僕に何か、ご用でしょうか」
「嫌だなあ、そんな恐いカオしないでよ。まるでボクがキミを苛めてるみたいじゃない」
違うのか?と、よっぽど僕は言ってやりたかったけど、仮にも相手は先輩、それも元生徒会副会長という肩書きを持つ人物だ。ここは、グッと堪えた。
「ご用がないのでしたら、失礼させて頂きたいのですが。これから生徒会で済ませなければならない仕事がありまして」
「アレアレ、そんなつれないこと言っちゃうんだ?キミにとっても重要な話だと思うんだけどな〜」
「僕に…?」
思わず眉をしかめてしまう。
「そう…。キミと、キミの大事な生徒会長殿にとって、とっても大事なオハナシ、だよ…」
ピクリと、僕の耳が動く。
「…伺いましょう」
貴則様に関わる話と言われては、聞かないわけにはいかなかった。
クス…と相手が笑う。
「やっとその気になってくれたね」
「お話を、どうぞ」
素っ気無い僕の対応に先輩は肩を竦める。
一々大袈裟な人だ、と僕は思った。
貴則様はどちらかと言うと無口な方で、その分とっつきにくく見える面もあるけれど、一つ一つの言葉をとても大事に話される。
言うなれば、目の前にいるこの先輩は『動』、貴則様は『静』だ。
人にもよるだろうけれど、上辺ばかりの人当たりはよくても心底から信じることのできない『動』よりも、一見冷たく見えても、とことん誠実な『静』の方が僕にはずっと好ましく感じられた。
「ここじゃなんだから、どこか人目に付かない所に移動しようか」
胡乱に目を遣ると、「その方がキミの為だと思うけど?」と言われた。
この場で、主導権は相手にある。僕には従うより他なかった。
そして連れて行かれた先は第二音楽室。
なるほど、音楽室ならば放課後に好んで来る者もそう滅多にはいない。特にこの第二は、普段でさえ余り使用されない、どうしてあるのかが不思議なくらいの教室だった。生徒にもこの教室の存在さえ知らない者も少なくはないんじゃないだろうか。
「お話とは、何なのでしょうか?」
部屋に落ち付いて、改めて僕は促した。
流石の相手も、これ以上は僕を焦らさず、1通の白い封筒を取り出した。
「コレ、な〜んだ?」
ニコッと笑う、一見は人懐こい、だがどうにも邪悪さが鼻について仕方がないその笑顔を訝りながら、差し出されたそれを受け取った。
弱みは見せまいと、努めて表情を消すよう心がけながら、封をされない中身を取り出す。
その瞬間、努力も空しく僕は愕然と凍り付いた。
渡されたのは、数枚の写真。
窓辺に腰掛ける貴則様の足元に跪いていたりするそれらの写真の僕は全て全裸で…つまりそれは、僕と貴則様の性交の模様をカメラに収めたものだったのだ。
「どう?よく撮れてると思わない?」
あっけらかんとして彼はそんなことを告げてくる。
僕には、軽口に付き合う余裕など全くなかった。
「…僕は、どうしたらいいんですか……?」
何の目的もなく、ただこんな写真があるんだよ、と見せただけであるはずはない。
考えられるのはただ一つ、脅迫……それしかなかった。
ふと、今の今までおちゃらけていた相手が、真面目な顔をした。
「…否定も、誤魔化しもしないんだ…?」
僕は唇を歪めて嘲う。
「してどうなると言うんです?無駄でしょう?」
これほどはっきりと写されていて…しかも写真は、1枚ではないのだ。
どんな言い訳も反論も、通用するとは思えなかった。
「まあ、ね…。こちらとしては話が早くて助かるよ」
「要求をお伺いしましょう」
せめて、立場だけは対等に保つべく、虚勢を張る。
「この写真を公表されない為には、僕はどうしたらいいんです?」
要求は金ではないはずだ。
貴則さまでなく、僕に話を通してきたからには、僕にもできること……もしくは。
「キミは、なかなか頭がいいみたいだね…」
それが本性なのだろうか、先輩は感情に乏しいカオをして僕を見詰めていた。
「もう、ボクの要求も大体見当がついているんじゃないのかい?」
「いいえ、全く…」
とぼけてみせると苦笑いして。
「じゃあ、言わせてもらおう。ボクは、キミを抱きたいと思ってる」
……もしくは、僕にしか、できないこと…………。
予想はしていても、やはり実際に言われた衝撃は軽くはなく、僕は暫し目を伏せて呼吸を落ち付けた。
「こんな体がよろしいのでしたら、ご自由に、どうぞ」
声が震えないよう、怯えを表に出してしまったりは決してしないよう、気を遣いながら一息に言った。躊躇えば心を読まれてしまいそうな気がして。
ふ、と笑う。
その笑顔は、好きだな、と何故だか刹那、思ったのだけど…。
それはすぐに消え失せてしまって、冷たい眼をして彼は言った。
「じゃあ、脱いで」
何も思わないよう、何も、感じないよう、心を閉ざしながら僕はそれに従った。
カチリ、と音を立てて扉に鍵がかけられる。
これでこの部屋は密室だ。防音室であるこの教室からは声が漏れることもないだろうし、これで万に一つも、助けの入る可能性は、なくなった。
…別段、助けを期待などしていたわけじゃない。
大丈夫…いつも、しているのと同じことだ。大丈夫…大丈夫。
思いながらも、緊張は否めない。
「へぇ…。綺麗な躰だね。完璧そうに見える流石の彼も、キミには狂うっていうのも、無理ない気がするよ…」
内心で、馬鹿なことを、と僕は彼を笑った。
貴則様は、僕に狂ってなんかいない。あの人は、そんな人じゃない。
下司な自分と一緒にしないで欲しい、と思う。
あの人を汚すことなんて、させない…。
僕の体を差し出してあの方を守ることができるのなら、安いものだと思った。
そんなことがあったために、その日は生徒会室へ行った時には貴則様はもう、帰り支度をなさっておいでで、結局、僕は仕事をすることができないままに帰宅することになった。
あの写真を盾に要求されれば、僕には黙って受け入れるしか道は無かった。
最初の頃はそれでも、人のいない教室やら、保健室やら、とにかく、ことに及ぶのは校内に限定されていたのだけれど、ただ一つを除いては僕がどんな要求でも飲むのだと気付くと、その要求は次第にエスカレートしてゆき、この頃では僕は週末毎に一人暮しの彼の部屋へと足を運ぶようになっていた。
そんなある日に、僕は貴則様に部屋に呼ばれた。
「貴則様…。あの、藤臣です」
ノックと共にそう呼びかけると、「入れ」という返事が返る。
「失礼します…」
もう、何度も見慣れた場所であるはずなのに、長身の貴則様が寝そべっても十分に余裕のあるベッドを目にすると、未だに僕はドキリとしてしまう。
僕が部屋に入って立ち尽くしていると、それに気付いた貴則様が読んでいた本から目を上げて少し首を傾げた。
「…臣?どうした」
「い、いえ…」
貴方に見惚れていました、などとは…口が裂けたって言えない。
我に返って僕はギクシャクとベッドに近付いた。
手の届く場所まで近付いた僕を貴則様がグイッと引き倒して、抗う間もなく僕の躰は組み敷かれる。
そしていつものように荒々しい愛撫が開始され、あっという間に僕は息を乱して為されるがままに高い鳴き声をあげ続ける。
けれども、いつもならばその勢いのままに貫かれて果て、行為を終えるのだが、今日は様子が異なっていた。
後、もう少しで高みに手が届く、というところで…唐突に貴則様は手を止められたのだった。
「あ…?貴則、様……?」
霞のかかったようなはっきりとしない思考ながら、それでも異変に気付いて、名を呼んで、みる。
こんな風に、途中で行為を止めるなど、全く彼らしからぬ行いで、途切れた愛撫を無意識に欲して僕は昂ぶる腰を貴則様に擦り付けていた。
「臣……」
それに応えて、貴則様は男らしく骨ばった手でゆるりと愛撫を再開して下さったが、それは先程までの激しさが微塵もない、まるでおざなりのような触れ方だった。
そして、いつもと違うその理由を、口になさる。
「臣、お前…私に何か、隠していることがあるのではないか?」
「え……?」
虚を突かれて僕は、危うく驚愕を前面に出してしまいそうになった。
だが、そんなことはできない。
間の抜けた反応を、燻る熱のせいということにして、僕は笑って見せた。
「そんなこと…何も、ありませんよ。どうか、なさったんですか…?」
そんな僕に貴則様は「そうか」と答え、「どうもしない」と、付け加えられた。
そしてまた、止まっていた体を動かし始める。
それは、いつになく優しい手付きで、優しいながら、残酷なまでに容赦が無く、僕は何度も何度も震えながら精を吐き出し、幾度いかされてもなお高められる辛さに泣いて、許しを乞うた。だが、泣きながら懇願しても貴則様は更に僕を昂ぶらせ、乱れさせた。
それは、優しいだけに抵抗のしようがなく、どこまでも果てのない快楽の海で嵐に錐揉みされているような感じだった。最後には訳も分からなくなりながら躰だけがなおもいかされ、意識を飛ばして漸く、僕は狂気のような夜から解放されたのだった。
……貴則様はこの間、僕をいかせるだけいかせながら、僕の中に入ってこようとはなさらず、多分……ご自身は、一度もいかれていなかった、と、思う……。
そんなことを白く靄のかかる頭で考えながら、夢も見ない泥のように深い眠りに落ちて行った。
そして明くる、朝―――
「臣、起きたか…」
「貴則、様…?」
「体は大丈夫か?」
「え…。あ、はい…」
とりあえず、どこにも異常は感じられないことを確認して、頷く。
「昨夜は済まなかった。少し、やり過ぎた…」
「いえ…そんな…こと」
「もう二度としないから、安心しろ」
「え…?」
ぼんやりとした頭ではよく理解できず、聞き返す。
「お前はもう抱かない」
そんな僕に、貴則様ははっきりと仰った。
「もう、抱かない」と……。
「ど…どうしてですか……!?」
突然の宣告に、目の前が真っ暗になる心地がした。
「僕…何か、お気に障ることを……?」
「気に障る、か…。障ると言えば、障る、な」
「何ですか!?申し訳ありません!今後、二度と無いよう気をつけますから…!」
貴則様は、僕を遠いものを見る目でご覧になり、「しなくていい、そんなこと」と仰った。
「私は…自分の知らない痕を体に残してくるような者を、抱くつもりはない」
驚愕、した。
貴則様の…知らない、痕……?
心当たりなど、あり過ぎるほどにあって。
あいつ……!!
歯軋りしても、既に、遅い。
怒りに、体を戦慄かせる僕を、貴則様は哀れむようにご覧になった。
「心配せずとも、お前と私との関係は誰にも吹聴する気は無い。安心しろ」
「貴則、様…?」
誤解だ、と、叫び出したかった。
けれど…、本当に、そう、言えるか…?
思えば、僕は凍り付いたように身動ぎ一つ叶わず、ただただ貴則様の一挙手一投足…僅かな息遣いをも逃さぬつもりでそのお姿を全神経をかけて追っていた。
そんな僕に、貴則様は一つ、吐息をつかれて。
「今まで、ご苦労だった」
という、見当外れな労いの言葉をかけられて、背を、向けられた。
僕には、それを追いかけることさえ叶わなかった―――
「紫、クン…?」
彼は僕を、そう呼んだ。
「どうしたの、突然…」
自分は僕の都合などお構い無しに呼び付けるくせ、僕のいきなりの訪問には驚いたらしい、目を丸くしていた。
どうでもいいことだけれど、少し、小気味よく思う。
「抱いて、欲しい……」
僕は言った。
辛くて、悲しくて、苦しくて…どうしようもなかった。
何も、考えたくなかった。
何も、考えなくて済むようにして欲しかった。
「抱いて…滅茶苦茶にして……!」
彼は少しの間、眉をひそめるようにして何も言わず黙っていた。
狡い、と思う。
いつもは、嫌だと言ったって何と言ったって、有無を言わさず抱くくせに、こんなときだけ沈黙する…。
僕はもう、どうしていいのか分からない。
「抱いてよ…!アンタのやり方でいいから…。あんたの好きにしていいから、僕を滅茶苦茶にして…。何もかも、忘れさせてよ……!!」
泣きながら僕は、大嫌いで大嫌いで憎んでさえいる相手に、縋った。
今更ながらに、思う。
僕にとって、貴則様は全てだったのだ、と。
そのお側を離れれば、他には何も、残っていない。
こんな、辛くて辛くて苦しい時に、縋れるような、友人と呼べる存在一人、持ってやしない。
他の全てが目に入らなくなるほどに、貴則様ただ一人を見詰めてこれまでの人生を過ごしてきたのだと―――
「ねえ…!抱いてよ…!お願いだから…抱いてよ……」
少しやり方を変えて、しなだれかかるように身を預け、品を作って彼の胸に指を這わせた。
「……いいの?」
余程してから、彼はポツンと言った。
だけどそれは、僕の痴態に煽られたとか、そういうのでは決してなくって…。
どこか、辛そうな様子が垣間見られた気がした。
「本当に、いいの、それで…?」
辛そうな…そしてどこか、僕を哀れむような。
「なんだよ、それ…!アンタは僕の体が目当てなんだろう!?何も言うなよ!!何も言わずに、抱けと言ったら抱けよ……!」
彼はフゥ、と溜め息を洩らした。
「…いいよ。分かった。抱いてあげる…」
言って、ヒョイといとも簡単に僕の体を横抱きに抱き上げる。
「なっ…」
僕は驚いてしまって、思わず暴れようとした。
その気配を察したようにギュッと腕に力が篭もる。
「暴れるのはナシ。キミは、ボクの好きなようにしていいと言ったはずだよ」
「そっれは……」
それは確かに、言ったけど……。
こんなの、考えてなかった。
僕は、どんなにひどくされてもいい、というつもりで…。
こんな、大切にされてるみたいな、こんな……。
「イヤ、はナシだ。好きにしていいと言ったからには、そうさせてもらう」
言葉は、ひどく冷たいのに。
その、眼は。とても穏やかで。優しくて。温かくて。
そして、やっぱりどこか哀しげで……。
見たことも無い眼の色に、僕は心囚われた。
なんでそんな眼を、するの…。なんで、アンタが……。
「…何も考えなくていい…。何もかも、ボクに任せて…」
慈しむようなその瞳を、見続けているのが恐くなって僕は、彼の肩口に顔を伏せた。
「…忘れさせて、あげるよ…」
向けた後ろ頭に唇が、落とされる。
髪を僅かにくすぐる程度の、それは優しい口付け。
何故だか胸が、痛くなった。
ベッドにそっと下ろされて、服を脱がされても、それは変わらず…。
「っあ、あぁ…っ」
愛撫は、優しかった。
彼は、自分のことよりも僕を感じさせることを優先させている様子で…。
僕はほとんど、それに溺れながら鳴き声をあげ続けた。
でもそれは、僕の意思を無視してまで強引に追い詰めるような、そんなものではなくて。
手を引いて、どこまでもどこまでも導かれるような、身も心も全てを預けて安らいでしまえるような、そんなものだった。
「や、ぁ……っ!!あっん…っ」
喘ぎながら、なんとか繋ぎ止めた意識の端で、彼の様子を伺う。
僕の視線に気付いて、深く包み込むような眼をして、彼は微笑んだ。
僕は手を伸ばした。夢中で。
「…ス、して……!」
これまで、何度抱かれても、それだけは拒み続けてきたこと―――
それは、唇へのキスだった。
笑われるかもしれないけれど…。よく言う、娼婦の意地というヤツ。最後の拠り所。
体は許しても、キスをするのは、本当に愛した人とだけ…。
尤も、僕は、そうして唇を守ったとしても、貴則様にキスしてもらえるわけでは、なかったけれど……。
それを今、欲しいと思った。
最初、彼はものすごく驚いた顔をして。
それから切なそうなカオをして僕に頬を寄せた。
啄むように、チュッと軽く、口付けを落とす。
あご、ほお、まぶた、鼻の頭や耳たぶ…。
顔中にキスの雨を降らせながら、だけど決して唇には触れようとしなかった。
「い…やだっ、ちゃんとキス、してよ……っ」
もどかしいばかりの、まとわりつく唇から頭を振って逃れ、再度ねだる。
けれども彼は、それだけはどうしても応じようとしなかった。
「ど…して……っ」
満たされない思いに、涙が滲む。
それを指先でそっと拭ってくれながら、彼は小さく苦笑した。
「……ボクにだって、プライドというものはあるんだよ……」
彼は、そう、言って額の所に唇を当てた。
「僕のことを好きじゃないコとキスをしたいとは思わないよ…」
それきり、言葉は途絶え、後はただただ鳴かされ続けた。
そんなつもりはなかったのだけど、僕はその日結局朝帰りをしてしまって、しかもその現場を貴則様に見付かるという、なんともバツの悪い目にあった。
でも、貴則様はそんな僕を見て何を仰るでもなく…興味がないと言わんがばかりの無表情でス…ッと横を通り過ぎられた。
その冷たい素振りに僕は、一瞬立ち竦んで…それから、宛がわれている自室へと駆け込んだ。
「……っ、…ぅ……」
枕に顔を押し付け、歯を食い縛って嗚咽を殺す。
それでも涙は、後から後から溢れて止まらなかった。
本当は…それでも僕は貴則様のお側にいたかったのだけれど、貴則様の方が僕を疎むような素振りをなさったために、それも、叶わなかった。
せめてこれ以上、嫌われたくはない……。
だから僕は、生徒会役員としての、必要最小限の関わりを除いては極力貴則様のお目に触れることがないよう、努めるしかなかった。
行き帰りの同行も断り。帰宅時間や朝出る時間をずらすと、食事の時間も自然とずれて、そうしようと思えば、1日中顔を合わせないことも可能なのだな、と僕はぼんやりと思った。
そうして、先輩と一緒にいるようになって、数日目。
「…やるねえ、会長から離れたと思ったら、もう新しいターゲットに乗り換えてんのか」
通りすがりにヒュウッと口笛と共に告げられた、悪意に満ちたセリフに僕は立ち竦んだ。
「…ちょっと」
そんな僕の肩を抱き寄せながら、彼は口を開く。
「乗り換えるだなんて、人聞きの悪いコトを言うのは止めて欲しいな」
呼び止められるとは思っていなかったのか、そいつはちょっと肩を竦めた。
「そんな、捨てられたらすぐ乗り換えるような尻軽相手にするの、止めといた方がいいんじゃないすか?先輩」
それでもしれっと、僕を目の前にしていながら平気でそんなコトを言う彼に、先輩はクスリと笑みで応じた。…余裕、の。
「…キミは、事実じゃないことをさも事実であるかのように口にするのは、止めた方がいい。人間としての資質を疑われるよ」
皮肉っぽく言われて、ピクリと反応する。
「事実じゃないって、何がです?俺はホントの事しか言ってないですよ」
「違うね…」
へらへらと笑うのへ、低い声が返される。
「紫は、かつて一度だって相馬のものだったことなんか、ない。である以上、紫がボクに乗り換えたっていう、キミの発言は、当たってないはずだ。…違うかい?」
その、笑みでありながら、常人には持ち得ない迫力を秘めた表情に、相手がたじろぐのが分かった。
「…そんなん、俺は知らないですけど」
気を呑まれ、呑まれたことに鼻白むようなカオをして、クルリと背を向ける。
「…ごめん」
それをぼんやりと見送っている僕に、先輩が、言った。
「…え?」
何を謝られたのか分からずに、僕はボケッとして聞き返す。
先輩は短く苦笑し、それからすぐにその笑みを消した。
そして不意に、キツく抱き締められる。
「…キミが、好きだ、紫……」
囁くように、彼は言った。
「え…………」
突然のことに、抗うことも忘れてされるままになる僕に、もう一度、好きだ、と彼は言った。
「紫……。ボクじゃあ、ダメ?大事にするよ…。相馬よりずっと、キミを大切にできる…!」
「何、言って…。いき、なり……」
混乱して、僕はうまく物が考えられなかった。
「いきなりじゃないよ…。ずっと、好きだった。だけどキミは、相馬しか目に入ってなかったからね…。一度は、諦めようとした。でも、諦められなくて……」
ポツリポツリと彼は語る。
「…最初は、一度だけのつもりだったんだ。一度だけ、抱いて、それで諦めようって。だけど…相馬のために僕に抱かれるキミを見ていたら、諦められなくて。キミを知れば知るほど惹かれていって……」
ギュッと息もつけないほどに抱き締めた後、彼は僕を解放した。
「答えは、今じゃなくていいよ。だけど…考えて、欲しい」
その眼は、いつもの彼の眼とは違っていた。
いつもの、斜に構えたような瞳ではなくって、恐いほどに僕を真っ直ぐに、見詰めてくる眼差しだった。
「あ……」
何か、言おうとした僕の口を、指でそっと押さえる。
「今じゃなくていい、と言ってるだろう?ゆっくり、考えて答えを出して…」
僕は首を振った。
「今、言いたい……」
先輩は僅かに眼を見開き、仕方なさそうに微笑った。
「じゃあ、どうぞ」
僕は、ゴクリ、と唾を呑みこむ。
「…あなたのこと、好きだとは、思えない…」
「そう…」
「だけど」
素早く、隠しはしたけれど失望の色を浮かべた先輩に、押し付けるように更に言葉を紡ぐ。
「だけど…貴則様を、忘れたい……。忘れるために、協力してくれるのなら……あなたのことを、好きになる努力をしても、いい……」
真顔に、なった。
「それは…相馬を忘れるために、ボクを利用したい、ということ…?」
頷いた。
「そうです。…それでは、いけませんか……?」
じっと、表情を消した顔で僕を見詰めていたけれど、ふと、微笑んだ。
「…いいよ、それで。忘れさせてあげる。そうしたら、ボクのものになってくれるんだね…?」
抱き寄せられるままに、彼の胸に頬を埋めながら、僕は頷いた。
「ええ……」
そうして、僕は先輩と、初めてのキスを交わした。
今でも、あの方を見かければ、胸は疼く。
忘れようとして忘れられない、恋慕の情に締め付けられる。
でもそれは、当初に比べれば次第次第に淡くなっているような気がして、このままいけば本当に忘れられるのかもしれないと感じていた。
そんな、時―――
担任に捕まってしまったせいで、いつもより遅れてしまった生徒会の集まり。
けれど、飛び込んだ生徒会室で僕を待っていたのは、フルメンバーなどではなく、会長席で軽く眉根を寄せ、目を閉じていらっしゃる貴則様お一人だった。
「貴則様…?」
眠っていらっしゃる、のか…?
ここのところ、こんな風にまじまじと拝見する機会などなかったけれど…。お疲れ、なのだろうか。顔色がお悪い気がする。それに…少し、お痩せになっただろうか。
お風邪を召されては大変だと、僕はとりあえず脱いで置かれていた貴則様の上着を肩におかけした。
ふと、処理途中らしい机の上の書類に気付いて、僕は何気なくそれを取り上げた。そして愕然とする。
「これ……」
それには、こまごまとした数字が並んでいて…。どう見てもそれは、金額を、表したもので…。
つまり、僕の担当であるはずのところの、書類だった。
「どうして……」
会長職は、激務だ。それは、代わろうとしても代わることのできない仕事ばかりで、そんな会長の負担を少しでも軽減するには、それぞれの担当が自分の分担はきっちりとこなす、それしかない。
それなのに……。
この書類のことを、僕は貴則様に言われた記憶がない。
僕は、貴則様に信用されていないのだろうか。
それとも、仕事を与えるためだけにでも、僕と口を聞かれたくないと思われたのだろうか。
そんなことを思って僕は、涙が出た。
もう、好きになってもらうことは、諦めた。
だけれど…そんなにも、疎まれているだなんて知らなくて。
「貴則、様……」
視界で、その綺麗なお顔がぐにゃりと歪んだ。
そして気が付けば、僕は眠る貴則様の唇に、自分の唇を、押し付けて、いた。
ピクリと眉がしかめられて、ハッと我に返る。
僕は……なんて、ことを……。
ぼんやりと、貴則様の目が開かれる。
「……臣……?」
僕は夢中で机の上の書類を抱き締め、部屋を飛び出した。
「待て、臣!!」
貴則様が大声で呼び止められるのが聞こえたけれど、僕は立ち止まるなんてできなかった。
それ以降、折角少し落ち付き始めていた僕の精神状態は、また、酷く不安定なものへと逆戻りしていた。
夜眠れない、食事も取れない、で、自分でもどんどん体力が落ちているのが分かったけれど、そうしようと思ってもできないのだから、僕にもどうしようもなかった。
気が付けば、無意識の内にも目は貴則様のお姿を探し、そのお声に耳を澄まし……、以前の貴則様中心の生活に、体が、戻りたがっているのかもしれなかった。
先輩は、僕が苦しんでいるのをよく分かってくれているみたいで、口に出しては、忘れろ、とか、食べたくなくても食べろ、とか、そういう、今の僕にはやろうとしてもできない不可能事を言い立てることはしないでいてくれて、それだけが救いだった。
ただ、眠れない僕の為に意識を飛ばすまで抱いてくれて、その間中、好きだと囁き続けてくれる。
体は、もう、ボロボロだった。
心も……。
「臣……!?」
ちょうど、廊下の曲がり角で貴則様とぶつかりそうになって僕は腕を掴まれた。
「あ…お久し振り、です……」
「何を言っているんだ」
苛立たしげに言って、左手の平を僕の額に当てられる。
「お前、真っ青だぞ。大丈夫なのか?」
手の感覚に集中するように、少し眉をひそめられる。
「熱は…無いみたいだが……」
暫く振りに間近に見るお顔に僕はボウッと見惚れていて、ハッと我に返って飛び退こうとした。
「だ、大丈夫です!なんでもありませんから……!」
だが、捕らわれた腕はしっかりと握られていて、僕の力では振り解くことができなかった。
駄目だ、いけない…!この人のお側には、いられないのに…!早く…早く、離れなければ……!
「なんでもないわけがないだろう、そんな顔色をして……」
苦々しい顔でそう仰る。
「保健室へ行こう。少し休ませてもらえ」
有無を言わさず僕を引っ張って行こうとなさるのへ、僕は抵抗した。
「だ、大丈夫ですから…!本当に、大丈夫なんです」
迷惑など、かけたくないのに…!
「臣!」
鋭い口調に、ビク…ッと震えた。
「余り手間をかけさせるな」
この、声は、本当に怒っておられる時の、お声だ。
「あ…じゃ、あ…あの、自分で、行きますから……」
「……駄目だ」
お手を煩わせない、それが最善の方法だと思ったのに、それさえも貴則様に却下される。
「臣、お前…本当に酷い顔色をしているんだ。自覚はないのか?保健室に行くのをきちんと見届けないと、目を離す気にはなれん」
言われて、僕はどうすればいいのか分からなくなった。
どうしよう…嫌われる…嫌われる……!こんな、みっともない形を晒して…。ご心配をおかけして…!
「あ…大丈夫、なんです、本当に…!ここのところは、ずっと、こんな感じで…」
なんとか、言い訳をしようとしたのだが。
「ずっと……?」
言葉尻を捕らえ、貴則様はますますお顔を険しくなさる。
「臣、お前……」
ス…ッと手を伸ばされて、貴則様は僕の首筋に指を触れられた。
「お前、こんな体で抱かれているのか…?」
「あ…っ」
そこには、おそらく先輩のつけたキスマークが残っているのだろう、僕は真っ赤になってそこを自分の手で押さえた。
「あの男……」
ギリッと、歯軋りなさる。
そこに、とてつもない怒気を感じて、僕は泣きたい気持ちになった。
どうしよう…。怒っておられる……。
どうしたらいいんだろう……!
「…行くぞ!」
不機嫌そのものの声音で言われ、僕を引きずって早足に歩かれる歩調に、僕はまろびながらついてゆく。
そうして、僕を保健室のベッドに放り込んで、貴則様はその場をさっさと後にされた。
きっと、呆れられたのだろう…。自己管理も満足にできないやつ、と。
掴まれていた腕が、痛い。いや……痛いのは、腕ではなく…………。
横にはなっていても、眠ることなど到底できるものではなく、僕は悶々として時間を過ごす。
それは、遅々として進まない、永い永い時間だった。
「…藤臣!藤臣紫!いないか!?」
そんなところへ、息せき切って飛び込んできた人があった。
「先輩…?」
それは、生徒会を通して僕も面識のある、貴則様の元で生徒会副会長をなさっている先輩だった。
「僕…ここにいます。どうかなさったんですか…?」
ベッドの上で半身を起こした僕を見つけて、側まですっ飛んできた。
「藤臣、来い!」
「え…えぇ?」
引きずられそうになって、慌てて足を動かしながら、僕は尋ねた。
「どうなさったんですか……?」
「会長が…先輩とものすごい口論をなさってて、今にも殴り合いに発展し兼ねない剣幕なんだよ!」
言って、チラと僕に視線を走らせる。
「…原因、お前だろ?」
「え……っ?」
思いもかけないことを言われ、僕は呆然とする。
足が止まってしまった僕に気付き、舌打ちをして彼は僕の側まで戻ってきた。
「ボケッとしてんなよ、お前がいないと収まらないだろうが」
「貴則様…が、僕のことで……?」
先輩と…一体、何を口論なさっているというのだろう……。
さぁな、と言って彼は更に僕を急がせた。
突然、耳に飛び込んできた自分の名に、僕はビクリとした。
「あれほど弱っているものを、更に無理をさせて…一体臣をなんだと思っているんだ!!」
「大切な人だと、思っているよ…」
ドキリと、した。
先輩……。
だが、貴則様はその返答に更にいきり立つ。
「ならばあのザマはなんだ!?臣をあそこまでメチャメチャにしておいて…大切が聞いて呆れる!」
それは、本当に怒り狂っている、といったご様子で、僕は立ち竦んだ。
いつも物静かな貴則様が、これほど怒りを露になされたことは、かつて無かったように思う。
「…キミには、関係の無いことだ」
先輩は、不愉快そうに目を眇めた。
それは、ますます貴則様を刺激してしまったらしく……。
「キッサマ……!」
激昂した貴則様は、いきなり先輩の胸倉を掴み上げた。
ヒッと、零れかけた悲鳴を僕は慌ててのどで飲み込む。
「関係が無いだと……!?冗談じゃない!!臣は、大事な家族だ……!」
僕は、呆然とした。
今、貴則様は何と仰った……?
家族……。大事、な……?
本当、に…………?
感激して、僕はその場に、しゃがみ込みそうに、なった。
嘘……。信じられない。ずっと……疎んじられていると、思って……。
…だけど、信じてもいいのかもしれない。
普段、あれほど温厚な方が、僕の為に怒って下さってる。
信じても、いいのかもしれない…。
思う僕の前で、フッと先輩が唇に嘲笑を浮かべた。
「呆れるのは、こちらだ…。家族だと…?本気でそんなことを思っているのか?」
そう、言われて、明らかに貴則様がたじろいだ。
頬を強張らせて、掴み上げた拳を微かに震わせている。
「……放せ」
力の緩んだ貴則様の手を、先輩は振り払った。
「…呆れるのは、こちらだ。あのコが何に苦しんでいるのか、知りもしないクセに…」
苦々しげに貴則様を睨む。
そして、はっきりとした口調で、言った。
「ボクはお前が憎いよ、相馬。だけどそれは、お前が思ってるような理由からじゃない。お前が紫を、苦しめるからだ」
心底、胸が悪い、といったような表情をして、貴則様から顔を背ける。
そして、僕の存在に気付いて少し目を見開いた。
「…紫」
小さく、名を呟く。
それで貴則様も僕がいることに気付かれて、ハッと息を呑んだ。
それを横目に見て、先輩が僕を手招いた。
「おいで、紫」
戸惑いながら、僕は促されるままにその側へと寄る。
すると彼は、いきなり僕の体を引き寄せて、唇を奪った。
咄嗟のことに僕は驚いて硬直し、為す術なく激しいそれに翻弄される。
「…ンッ……ぅ…」
呻いた時、突然先輩はパッと伏せていた目を上げ、力の入らない僕の体を突き放した。
支えを失って、僕はどさっと尻餅をついてしまう。
えっ?と、思う間もなく、バキッというすごい音が、した。
「……先輩っっ!!」
僕は悲鳴を、あげた。
貴則様が…先輩に、殴りかかったんだ。
僕を庇ったために反応が遅れた彼は、その一撃をまともに受けていた。
吹っ飛ばされた彼の元へと、夢中で走り寄る。
「大丈夫ですかっ!?」
縋り付いた僕に彼は、ああ…と、低い声で、答えた。
だが、唇は切れて血が溢れ、更には口の中も切ったのだろう、ペッと彼は赤く染まった唾液を吐き出した。
「…なんてことをなさるんですか!!」
僕は貴則様に食って掛かった。
そんなことは、これまでの僕の人生の中でも、初めてだったかもしれない。
でも、夢中だった。
「臣!何故そんな男を庇う!?お前のことなど少しも考えていない、そんな男など……!!」
「そんなことないっ!」
そして、貴則様に逆らったのも、これが、初めての経験だと思う。
「そんなこと…ありません。先輩は、僕のことを、考えてくれています。悪いのは…僕なんです……」
「…臣……」
信じられない、といったお顔をなさって、貴則様は2、3度首を振られた。
「…ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。でも…僕と、先輩のことです。どうか…もう、放っておいて下さい……」
貴則様に…僕のことを思って下さる貴則様に、こんなことを言うのは心苦しかった。辛くて辛くてたまらなかった。
でも、それ以上に…何も悪くない先輩を、貴則様が悪し様に仰るのが、耐えられなかった。
悪いのは、僕なのに…何もかも、僕が招いたことなのに……!
いつものように、先輩は丁寧に丁寧に僕を高めてくれる。
「…アッ……もうっ……」
「…いいよ、イって…。紫のイクところ、ボクに見せて…?」
「あ、アアッ」
喘いで、その通りに僕は吐精した。
張り詰めていた糸が切れるように、グッタリとくずおれる僕を、優しく抱き止めてくれながら、先輩の目はどこか遠くを見詰めていて、心ここにあらず、といった風情だった。
「先、輩……?」
呼ぶと、ふうっと魂が戻ってくる。
「何…?」
向けてくれる微笑みは、優しい。
いつもと変わらず、優しい。
それなのに……。
「先輩…どうか、した…?なんか…ヘン…?」
虚を突かれたように真顔になって僕を見詰め、それからフッと苦笑いした。
「参ったな…」
僕から目を離して、視線を落とす。
「参った、よ…。相馬が、あんな……」
言いかけるけれども、途中で、止めてしまう。
「先輩……?」
そんな風にされると、僕は不安で不安でたまらなくなって、両腕を伸ばしてその顔を自分の方に向けさせた。
「どうした、の…?言ってくれないと、分からない…。心配事があるのなら、僕にも、分けて欲しいよ……」
「紫…」
微笑んで、重ねるだけの軽いキスをすると彼は、身を乗り出してサイドテーブルの引き出しから何かを取り出した。そのまま、僕へ差し出す。
「…何?」
訊いた僕に、見るよう促す。
恐る恐る受け取ると、それは、あの…僕と貴則様の、写真だった。
「これ……」
「紫、それをどう思う?」
「どう…って……」
何を訊かれているのかが分からず、僕は戸惑った。
そんな僕の困惑を理解してか、優しい眼をしながら、彼は言った。
「その写真…ボクがどうやって手に入れたと思う…?」
「えっ……」
そんなこと…知らない。
でも、言われてみて…僕は、そんなことも聞かないままでいた、自分の迂闊さを恥じた。
こんなことで…貴則様を、どうやって守るつもりでいたっていうのか……。
「これ、ね…」
僕の手から、中の一枚を取り上げながら、彼は言う。
「よく見ると、紫は大事にされてるんだってことが、分かるよ…」
「…え?」
その、言うことが僕には理解できずに眉をひそめた。
「偶然のように見えるけど…どの写真にも、紫の大事なところは写ってないでしょう?こことか…」
言いながら、お尻をサワッと撫でられて僕は真っ赤になる。
「…先輩!」
笑いながら、振り上げた僕の手を軽々と受け止めて更に、下身へ手を伸ばす。
「こことか、ね」
「あんっ…」
キュッと扱かれて僕は腰砕けになって、潤む目で彼を睨んだ。
「相馬の方は、結構…ポルノ並にやばいアングルもあるっていうのに、さ」
やることからはとてもそうは思えなかったけれど、先輩が意外とまじめなことを語っているように感じて、僕は改めて渡された写真を眺め直した。
確かに、顔だけははっきりと分かるものの、僕の体は写真が切れていたり、貴則様のお体に隠れていたりで、その…局所は、何も写っていなかった。
でも……。
「…それが、どうかしたの…?」
それでも、彼が何を言いたいのか、いまいちピンとこなくて僕は尋ねた。
「どうしたんだろうね…?」
謎かけのように言って彼は笑い、「それ、あげるよ」と言った。
「え……」
僕は、めいっぱい困惑する。
こんなもの、もらっても……困る。
「それ、相馬に見せてご覧」
先輩は、そんなことを言って僕を更に当惑させた。
これを、貴則様に…?
「そんなこと…」
できるわけない。こんな写真を…貴則様に、お見せするなんて……。
第一…僕は、あの方と、会えない……。
あんなことを言ってしまって、会えるはずなんか、ない…。
「やるんだ、紫」
先輩が、少し厳しい声を出して、僕はビクッとした。
「そうしたら…きっと、全てが分かる」
「だって…会えない!」
僕は悲鳴のような声をあげた。
「会えないよ…。貴則様になんて…」
「紫……」
僕は先輩が、どうしてそんなことを言い出すのか分からなかった。
「先輩…どうしてそんな、意地悪言うの…?もう、僕が嫌いになった…?もう、いらない…?だから僕が邪魔になって、そんなことを言うの……?」
「紫……」
涙声になった僕を、困ったように見詰めて、抱き寄せる。
「そうじゃない…そうじゃないよ、紫。ボクは、キミが好きだ…。だけど、キミは相馬に会わなけりゃならないんだ」
「分かんないよ……!好きなら、なんでそんなこと、言うの…?意地悪しないで…!」
泣き縋る僕を、胸に包み込んで、髪を撫でた。
「キミが好きだよ、紫。キミが、好きだ。ボクは何も変わらない。だから、相馬に会っておいで。会えば、全部、分かるよ…」
「イヤだ!!」
駄々をこねるように、僕は首を振る。振り続ける。
「紫、紫…。ボクはここにいる。どこにもいなくなったりしない。キミはただ、相馬に会って…ここに、帰ってくればいいんだ。ボクはここで、キミを待ってる。それでも、できない…?」
「だって……」
あやすように諭す彼に、僕はもう、どう言い返したらいいのか分からない。
「好きだよ、紫。大好きだ。だから相馬に、会っておいで……」
そう、言って彼は、僕を抱き締めた。
この中に、貴則様がいらっしゃる……。
そう、思うだけで僕は回れ右して帰りたいような気分になってくる。
だけど…約束、した。
貴則様に、会ってくる…って。
だから…帰れない……。
ギュウッと目を瞑って深呼吸し、嫌がる気持ちを引きずるようにして、僕はその扉をノックした。
コンコン…。
「どうぞ」
「失礼、します…」
ギクシャクと、言って部屋に入った途端、貴則様が目を見開いて振り返り、僕をご覧になった。
「臣……」
零れるように僕の名を口にされる。
「…あの、申し訳ありません……」
何と、言ってよいか分からず、思わず僕は口走っていた。
「……いや」
言ってふっと目を逸らし、椅子にかけ直される。
「どうした…?」
気まずい。ぎこちない。空気が、硬い……。
「あの……」
浮き足立って僕は、どう切り出したらいいのかも分からずに、咄嗟に持ってきた封筒を貴則様に向かって突き出していた。
「…何だ?」
怪訝に眉をひそめられる。
「あ…あの…」
口篭もる僕を胡乱げに見ながら、埒が明かないと思われたのか、黙ってそれをお受け取りになった。
カサカサと音をさせて、中から写真を取り出す。
それを、ご覧になっても貴則様は僅かに目を細められただけで、ほとんど表情を変えられることはなかった。
……驚かれないのだろうか……。
そのことに、僕のほうが緊張してしまう。
暫し、無言でそれらの写真を眺められた後、おもむろに言われた。
「…これを、どこから…?」
「あ…。あの、先輩、に……」
しどろもどろにお伝えすると、貴則様は、そうか、と一つ頷かれた。
「…それで、お前は私に何を言いに来た?」
一つ一つ、追い詰めてゆくような、隙のない物言いに、僕は怯えた。
「あ…あの……」
「臣?」
促すように名を呼ばれ。
「先輩、が…これを、貴則様にお見せするように、と……」
なんとか、舌を動かして僕は言った。
貴則様は、また、そうか、と頷かれて、それきり…黙り込まれた。
「あ…の…。申し訳ありませんでした……!」
その沈黙が重くて、居たたまれなくて、僕はその言葉しか思い付けなかった。
「何?」
「僕…写真が撮られているなんて、気付かなくて…。貴則様にも、ご迷惑をおかけして…」
改めて、浮かんでくる涙を必死で堪えて僕は言い募る。
「待て、臣」
「そんな、写真…気を付けていれば、きっと…」
「臣、待て!!」
大声を出される貴則様に、僕は引きつって言葉を途切らせる。
竦み上がった僕に、貴則様はしまった、というように顔をしかめられる。
「済まない、大きな声を出して…」
「いえ……」
ちょっと、言葉を選ぶように息をつく。
それからもう一度、静かに口を開かれた。
「臣…。訊きたいのだが、お前、この写真のこと、何も知らないのか…?」
真っ直ぐ、見据えられて僕は息が詰まるような心地がした。
「え…?」
だがそればかりではなく、問われた内容が呑みこめずに自然と眉がひそまった。
「…お前、この写真を見せられて、何と言われた…?」
探るように、貴則様がキツい目をなさる。
「え…っ」
僕は、口篭もる。
貴則様は、ますます目許を険しくなされて、まさか…と口を聞かれた。
「まさかお前は、その写真を盾に、あの男に抱かれたのか…?」
はっきりと言葉にされて、僕は身の置き所もなく体を竦めた。
「臣。答えろ。そうなのか…?」
重ねて問い詰められて、僕は小さく、頷くしかなかった。
「そう…です……」
瞬間、貴則様がカッと目を見開かれた。
「あの男……!!」
烈しい語調で仰って、ギリリと音がするほどに唇を噛み締められる。
その、怒りの余りの凄まじさに、僕は一歩、後退った。
「も…しわけ、ありませ……」
堪えようもなく、涙が込み上げる。
それを、ハッとしたように貴則様が振り返られた。
「違う、臣!」
言ってつかつかと歩み寄ってこられる。
怯えて更に下がろうとした僕の腕を捕らえ、力任せに抱き締められた。
「臣、お前は馬鹿だ…!」
掠れた、しかし力のこもった声に、僕は唇が震える。
「もうし、わけ…」
「違う……!!お前は、馬鹿だ……!!」
否定しながら、でも、繰り返し言われ、もう、僕には何がなんだか分からない。
ただなされるがままに抱き締められていた僕の戸惑いに気付かれてか、貴則様は溜め息のように囁かれた。
「違うな…。馬鹿は、私の方か…」
苦しげにそう仰ると、そっと、体を離されて貴則様はベッドの方へと歩き、そこに腰を下ろされた。
「臣…。話したいことがある。聞いてくれるか…?」
懇願するようなその響きに、僕は少しうろたえながら、頷いた。
「ありがとう」
言って、微かに笑う。
でも、その微笑みはすぐに消え、取って代わったのは見ているこちらが辛くなるような、苦渋に満ちた表情だった。
「臣…。私は、お前が思っているような男では、ない」
そのセリフは、唐突過ぎて僕はなんの反応も返せなかった。
そのことは予測済みだったのか、特にこだわることなく貴則様は話を続けられる。
「その、写真…。お前は、誰かに撮られたのだと思ったようだが…そうじゃない。撮ったのは、私だよ…」
「え…」
最初は、何を言われたのか理解できず。徐々に言葉の意味が頭に染みこむと、次には驚愕が訪れた。
声もなく、僕は立ち尽くした。
「ど…して…」
掠れる声で、そう尋ねるのが、やっと。
「お前を、私に繋ぎ止めるために…だ」
ますます、驚愕して、僕はもう、思考が何も言葉にならなかった。
吐息をついて、貴則様は言葉を続ける。
「お前を最初に抱いた時…お前は、何も言わずに私に抱かれたな」
言われて、おずおず頷く。
それは…本当のことだったから。
「だから私は、お前は私のことが好きなのだと、その時は信じて疑わなかった。だが…。その内に、不安になった。お前が、余りにも、何も言わないから…。何度抱いても、私が、何をしても…」
また、僕は驚かされる。
そんなこと、考えてもみなかった。貴則様が、そんな不安を感じていらしたなどとは…。
「それでも、最初の内は、まだ、よかった。お前の気持ちは分からなくても、お前が私のものだとは、確かに思えたから…。だが、年を重ねて、お前はどんどん綺麗になって…私は、いつかお前が私から離れていってしまうのではないかと恐れるようになった…」
「そんなこと…っ」
僕は悲鳴をあげた。
そんなこと、あるはずがない!僕は…僕の方こそが、貴則様に囚われていて…いつか、捨てられるのではないかと怯えていたのは、僕の方だ!!
「聞け、臣」
ぶちまけるように言い募ろうとした僕を制する。
「不安に取り付かれた私は、お前を失わないために、様々なことを、した。その写真も、その中の一つだ…」
「貴則様……」
「…お前は知らなかったろうが、その写真…知っている者は、知っているんだよ。まあ流石に、現物を持っている者はそうはいないだろうが…見たことがあるというだけなら、相当数いるはずだ」
僕は、呆然とする。
「どうして…」
「私が、流したからだ」
その答えに愕然とした。
「貴則、様?」
そのお考えが、僕には分からなかった。
貴則様ご自身が、この写真を……?
「牽制の為だ。この写真によって、お前は私のものだと知らしめ、誰も、手が出せないように…」
そんな…。そんな、だって、ことによれば貴則様の身を危うくするかもしれないような、こんな写真を……そんな。
「お前を強引に生徒会に入れて、私自身の目の届くところにおいたこともあって、目論見は成功していた。誰も…私からお前を奪おうとする者は、いなかった」
一度、言葉を切って強く唇を噛み締める。
「ただ一人…あの男を、除いては」
「貴則様……」
貴則様は目を上げ、疲れたような微かな笑みを浮かべられた。
「お前の体にキスマークを見つけて、私は愕然としたよ。お前にそんな素振りは少しもなかったからね…。そして…隠し事はない、というお前の言葉を聞いて、私は…、嫉妬と絶望に目が眩んだ。目の前には明らかに証拠があるのに、お前からは何の言葉も聞けなかったのだから…」
キュッと目を瞑り、天を仰ぐ。
「嫉妬と、絶望と、恐怖と、怒りと、哀しみと……。あの時の気持ちは、今でもはっきりと思い出せる…。辛かった…………」
重いしこりを、吐き出すように口になさる。
キリキリッと僕の胸まで苦しくさせるような、お顔…。
「本当は…その写真を使って、お前を無理矢理私に縛り付けようかとも思っていた。あの男と同じにね…。その写真を、ばら撒かれたくなければ私のものでいろ、と…そう言えば、お前は拒めなかっただろうから。だが…」
フッと、自嘲するように笑みを閃かせる。
「本当に、その選択肢を目の前に突き付けられてみて、気付いた。私が欲しいのは、お前の体じゃない、心なのだと…。そうである以上、無理矢理に引き留めても、なんの意味もないのだ、と……」
思いもよらない貴則様からの告白に…言葉もなく、僕は切々と語られる貴則様を、ただただじっと、見詰めていた。
「それでも、あの男と一緒にいるお前を見る度、嫉妬に狂いそうになった。体だけでもいい、手放したくない…そんな風にさえ、思った。そんな自分を理性で抑え込むのは、相当苦しかったよ……。しかも、お前は…私が必死の思いで手放したというのに、少しも幸せそうには見えない…。それどころか、見る度にやつれていって……。あの男は、何をしているのかと思ったよ」
「そんなの……」
ついに、僕は耐え切れなくなって泣き出していた。
泣きながら、フラフラと歩み寄って行って、座っている貴則様の足元に跪いて縋り付く。
「そんなの、当たり前です…!」
「臣……?」
不思議そうに首を傾げる貴則様が、憎らしかった。
「僕は、貴則様が好きなんですから…!」
憎くて、憎くて……、いとおしかった。
「僕が好きなのは、貴方です、貴則様……。貴方だけです……!!」
息を呑んだきり、ずいぶん長く貴則様は黙り込まれていた。
不安になって、おずおずと見上げる。
「貴則、様…?」
ゆっくりと、僕に向かって手が伸ばされてきた。
それは、間違いなく微かな震えを帯びていた。
そぅっと…壊れ物を扱うように怖々と、触れる。
「臣……?」
囁くように、大事に呼ばれて、見上げる視界が滲んだ。
「貴則、様……」
しゃくりあげるような声をあげて、僕もまた、手を伸ばす。
それが、貴則様の体に届いた瞬間、強く強く、抱き竦められた。
「臣…臣……」
何度も、呼んで下さりながら、息もつけないほどに深く抱き締められた。
「好きだ、臣…愛してる…臣……」
懐かしいその胸の中で僕も何度も頷き、せいいっぱい手を伸ばして大切な人の背中を抱き締めた。
帰りたかった…ずっと、この腕の中に、帰りたかった……!
「臣……」
ギュッと、一層キツく、潰れそうなほどに僕を抱きながら、そっと、口にする。
「…紫…………」
―――初めて、だった。
貴則様に、名前を呼んで頂いたのは。
また新たな涙が湧き出てきて、僕はとめどなく涙を流した。
「貴方が、好きです。ずっと、好きです…!」
「愛してる…紫…お前を、愛してる……」
背中に回された手が、シャツの下に潜り込んでくるのを感じて、震える。
それにすぐに気付いて手を止められた。
「…嫌…か……?」
僕は嗚咽の止まない唇を噛み締めながら、首を振った。
「抱いて下さい……」
掠れた声で、言い終らないうちに、唇が塞がれた。
荒々しく口内をまさぐられる。
いつの間にか、はだけられたシャツの中の素肌を、大きな手の平で撫で回される。
「…っあ」
体は、恐ろしいほどに昂ぶって、貴則様のほんの僅かな動きにも反応し、耐え難いほどの快楽が僕を襲う。
「…あ、アッ…ああ……っ!!」
ほとんど、キスだけで僕はイってしまって、羞恥に、穴があったら入りたい思いだった。
「いいよ…」
震える僕の髪を優しく撫でられて、貴則様は仰る。
「何度でもイクといい…。私の腕の中でなら、全てが許せる……」
そんな言葉に、僕はまた、泣かされた。
―――学校で、僕は先輩の姿を探していた。
結局あれから、僕は先輩の元へ戻ることなく、次の日の朝を迎えていた。
貴則様に愛されて…何度も何度も、抱き締めてもらった。
これまで、ぽっかりと口を開けていた心の中の大きな空洞が、貴則様に全て満たされていくのが、分かった。
愛している、と思った。
誰よりも誰よりも、彼を、彼だけを、愛している、と思った……。
そうして。朝まで抱き合って過ごし。
ゆっくりと、彼の言葉を思い返していた。
『キミが好きだよ。だから相馬に、会っておいで』
彼にはきっと、この結末が、見えていたのに違いない。
そうと、分かっていて、僕の背中を押してくれたのだ。
涙が、出た。
ずっと…好意の上に、胡座をかいて。何一つ、返せないままで。
そして最後のところで、またも彼を裏切ったのだ……。
たとえそれを、彼自身が認めてくれていたのだとしても。
一目、会いたかった。
もう一度、会いたかった。
会って、どうすればよいのかも、分かってはいなくても……。
探し回った挙句に、立ち入り禁止の札のかかった屋上で、僕は漸くその姿を探し当てた。
扉に背を向け、手すりに腕をかけてぼんやりと遠く空を眺める。
後ろ姿に、胸がチリリと痛んだ。
「先輩…」
そっと、声をかけるとバッと振り返る。
これ以上はなく大きく目を見開いて。
「紫…」
と、自分の手にある火のついたタバコを思い出し、思わず、といったようにバツが悪そうに苦笑する。
「先輩、煙草なんか吸って…。先生方に見られたら、コトですよ。先輩、優等生なんだから…」
なるべく、さり気なさを装って、側に寄る。
「たまに、ね…。無性に吸いたくなる時が、あるんだ…」
存在は拒まれることなく受容され、近付いた僕を気にしてか、先輩はタバコを始末した。
「紫、どうしたの…?」
「え…?」
「何かボクに、用があったんじゃ、ないの?」
「あ…」
用…用は、無かったわけじゃない。
だけど、僕の用は、『会う』というそのもので…それは既に、果たされてしまっていた。
困ってしまった僕に、クスリと笑みを洩らして、彼は言った。
「相馬は、優しかった?」
少し、悪戯っぽく。
僕は真っ赤になった。
「……先輩っっ」
声をあげて笑う。
「もう…」
少し拗ねながら、結局僕も笑った。
「…ねえ、先輩」
「ん?」
本当は…それだけは、訊いてはいけないことだと分かっていたのだけれど…、先輩を見ていると、許されそうな気がして、僕は訊いてみた。
「先輩は、どうして…?」
残りの言葉は全て曖昧に伏せたけれど、彼はきちんと言いたいことを理解してくれたようだった。
本気の苦笑いに、なる。
「それは、反則だよ、紫…」
それでも、彼は、怒りはしなかった。
「どうして、かな…」
浅い微笑みを浮かべて、僕から視線を逸らせる。
「どうしてだか、そうした方がいいような気が、したんだ…」
「先輩……」
「…じゃあ、キミはどう思ったの、紫?ずっとボクがキミを捕まえたままが、よかった?」
冗談っぽく、そんな風に、言う。
「僕…アナタのこと、ちょっと、好きだったよ…」
「そう…」
微笑みながらの返事は、でも、流すように軽くて、少しムキになる。
「あなたに会えてよかったと、思ってる」
ふぅ…と、心の底から湧き上がってくるような、笑みをした。
「…キミが、好きだよ、紫」
一度、目を閉じ…開いて、空へと視線を投げる。
「好きだよ、紫。だから…」
幸せに、なりなよ―――
風にとけるような、囁き。
それが、別れの合図だと悟って、僕はその場に背を向けた。
彼にもらった、いっぱいの愛情を胸に抱き締めながら。
僕を抱き締めてくれる人のところへ、足を踏み出していった―――