「……面白くない」
私が小さくつぶやいたその言葉を、母さんは聞き逃さなかった。
「稲穂……」
怒られるかとも思ったけど、母さんは困った顔をして私を見た。
「だって私、そんなの勉強しても使えないもん。使えないもの勉強しても、面白くない」
「だけどね、稲穂。あなたがお父さんの血を濃く受け継いでいるとしても、音羽を名乗っている以上は……」
まただ。また音羽。
生まれてこの方ずっと音羽。
私だって好きで音羽に生まれてきたんじゃない。
好きで音羽を名乗っているわけじゃない。なのにどうしてこうも『音羽だから』『音羽だから』言われなきゃならないの?
「知らないっ」
母さんの言葉をさえぎって、私は叫んだ。
「稲穂っ!」
一瞬の間の後、お母さんが怒鳴った。
「もうこんな生活やだ! 私、出て行く!」
私は立ち上がると、全速力で外に向かった。
「出て行くって……稲穂!」
後ろからお母さんの声が聞こえたけど、追って来る様子はなかった。どうせまた『そのうち戻ってくる』って思ってるんだ。でも、今回の私は本気。
お賽銭もちょっと取ってきたから、当分は生活できるはず。
罰当たりなんかじゃない。もともと私たち母娘に納められたものなんだから、私が使っても何の問題もないはず。
私は勢いよく、鳥居をくぐって外へ出た。


Fox & Mathematics
     〜べんきょう、しよう〜

  はじまりのお話


「ぐあっ……」
衝撃が、横腹にきた。
たまらず尻餅をついて、その衝撃がきた方を見た。
その先に、女の子がいた。
「……誰?」
俺と同じように尻餅をつき、不思議そうに首をかしげる女の子。
いや、誰とか言われても……
「人にぶつかっといてそれはないだろ……」
よくよく見れば、巫女さんのような格好をしている。ただ、その袴の色は黄土色……そんな格好をした巫女さんを、俺はいままで見たこともなかった。
「あ、そうか。ごめんなさい」
かくんと首をたれる彼女。
そして、妙な間。
なおも不思議そうな顔をしている女の子。
地面に座ったままの俺。
互いに向かい合って、見詰め合っている。
真っ直ぐな黒髪おかっぱをヘアバンドで止める意味がわからない。
巫女と言えば緋色の袴のなのに、黄土色の袴というのもわからない。
大体、前も見ずに全力疾走。しかも当たり所から判断するにかなりの前傾姿勢……というのもわからない。
意味不明だらけで、頭の中が真っ白になっていた。
「えっと……大丈夫ですか?」
すっと立ち上がって、袴についた土を払う彼女。
「あ、ああ……」
俺もつられて、よっこらせと腰を上げる。
「…………」
「…………」
また、変な間が。
「じゃ、じゃあ……俺行くから」
コクン
分かってるのか分かってないのか……とにかく彼女は大きくうなずいた。
変な子……
妙に後ろ髪を引かれるような雰囲気ではあったが、俺はそのままその場を去った。一度だけ振り返ってみると、夕焼けを背にその子がじっと俺のほうを見ていた。

その夜……
「『物理学実験3 レポート』『物理学科3年 都達哉』っと……よし、終了」
3日間の長きに渡り俺を苦しめ続けてきたレポート……ついにその終焉の瞬間がきた。
「ふっ……勝った」
実験テキストに一瞥をくれてやると、10枚に及んだレポートをホッチキスでとめた。
腹減ったな……何となく時計を見てみると、すでに22時を過ぎている。
「何もないし、コンビニでも行くか……」
大きく伸びをして、立ち上がる。上下ジャージだが、まあいいだろう……コンビニ一つで服装に気を使っているようじゃ、一人暮らしの身が持たない。
ポケットに財布を突っ込むと、アパートの部屋から出ようと、ドアを開けた。
 ゴンッ
ドア越しに伝わる変な感触。
誰かがドアの前に何か置いたんだろうか……
不審に思いながら外を覗き込むと、うずくまる女性の姿があった。
「げ、佐倉さん!?」
「ひどいよ、都君……」
頭を抑えてうずくまっていたのは、隣の部屋に住む佐倉ゆかりさんだった。
「……あたま『ごんっ』って打っちゃったよ」
非難じみた目を向けられる。
「でも……なんで頭ぶつけるわけ? 普通肩に当たったりするんじゃ……」
素朴な疑問をぶつけてみると、一気に佐倉さんの挙動が怪しくなった。
「えっ、それはその……」
目が泳いでいる。
「なんですか?」
「さっきね……変な子がいたのよ。こうやって、扉にくっついて……」
変な子ね……
「その子が変だとしたら、佐倉さんも相当変ですよね」
「いや、だからその……なにかあるのかなって思って……」
ちょっと苦しい言い訳だな。
「ふーん……」
無感動にそう言うと、
「信じてくれない……」
涙目になる佐倉さん。
はたから見るとどっちが年上なのか分からないな……
同じ大学に通う佐倉さんは、一つ年上の大学4年。学科は忘れたけど文学部だったはず。実家からも通えない距離じゃないらしいけど、便利だから一人暮らししてるんだそうだ。背中まで伸ばしたストレートの髪は、天然栗毛である。
「信じます信じますから……」
とりあえず佐倉さんをなだめると、俺は扉の鍵を閉めた。
「じゃ、俺コンビニ行くんで」
少し忘れていたが、相当腹が減っていた。何で食料を買い込んでおかなかったんだろうな、俺……
「気をつけてね」
さっきまでの表情はどこへやら。笑顔で見送ってくれる佐倉さんに、
「ええ、どうも……」
とりあえず適当に挨拶をして、コンビニへ向かった。

近所のコンビニは、徒歩で5分少々。近いとは言い難いが、それなりに便利な場所にある。全国展開するようなチェーンの店ではなく、最近ようやく公共料金も扱い始めた個人のコンビニだ。
何となく目に付いた鶏五目おにぎりと、ペットボトルのウーロン茶を買って、あくびをかみ殺しながら店を出る。
夏前の湿った空気を肌で感じながら、静かな街を歩いていく。
物騒な世の中だとはよく聞くが、幸いうちの近所でそういうことは全くない。この地に引っ越してきてはや2年とちょっと。改めて考えると、平和なところで良かった。
とはいえ、空き巣とかあっても、俺の耳に入ってないだけなのかもしれないが。
空き巣といえばあれだな。こう、針金で鍵のところをいじるんだよな……
そう、あの俺の部屋の前に張り付いてる子みたいに……
「って……なんだありゃ」
アパートの下から見上げてみれば、2階にある俺の部屋のドアに、女の子らしき人影が張り付いていた。
「……あれが佐倉さんの言ってた変な子?」
佐倉さんの言ってたことは本当だったのか……
疑ってすみません。と、心の中で一応謝っておく。
「女の子……だよな」
なんというか、線が細い。暗くてよく見えないんだけど……とりあえず、階段を上って声掛けてみるか……
トントンと小さく音を立てながら階段を上り、部屋の前まで来てみると、その陰はやっぱり女の子であることが分かった。俺が近付いても気付く様子はなく、ドアの端から端までを丹念に調べているようだった。
その必死さ……というより鈍感さに呆れながら、俺は小さく声をかけることにした。
「ちょっと」
「ひゃいっ!」
返事とも悲鳴ともつかない声を上げるその子……って、あれ?
「えっと……あれ、昼間の?」
よくよく見れば、昼間神社の前で激突した子じゃないか……?
「あ……そう、それ!」
嬉しそうに笑う女の子。
『それ』ってなんだよ『それ』って……
「あのっ」
突っ込もうとしたところで、女の子が声を上げた。
「あなたの家に置いてください!」
髪が踊るほど勢いよく下げられる頭。
その軌道をぼんやり見ながら、今彼女が言った言葉の意味を考えた。
「はっ……?」
家に? 置く? 何を?
「だから、あなたの家に私を……」
「ちょ、ちょっと待て。何を言って……」
「だから……」
やばい。キリがない。
「いや、それはもういい」
ぴしゃりと言うと、その子に向かってはっきり言った。
「何を言わんとしているかは分かる。だけどダメ」
どう好意的に解釈しても拒否の意思しかとれない。
これは対新聞勧誘の正しい姿勢でもある。ちなみに、うかつに扉を開けると殴られる危険性すらあるので、扉越しに交渉するのが一番良い。1年の頃経験した、対朝曰新聞勧誘員戦からの教訓だ。
でもまあ、扉の外でこんなことになるとは、思ってもみなかったが。
「というわけで、帰れ」
「どうして?」
「いや、どうしてっていうか……」
危うく聖京新聞とってますからと答えそうになった。
それにしても意味がわからん。
知り合いでもなんでもないのに、家になんか置けるか。そもそも男女二人というのが……ん?
「…………」
何か聞こえると思って道路のほうを見ると……犬の散歩にでも出てきたであろうおばちゃん二人が、こちらを見ながらこそこそ話しているのが見えた。
……やばくないか?
「ま、まあここで話すのもなんだし、中で……」
急いで鍵を開けると、
「はいっ!」
嬉しそうな女の子の声が聞こえた。

「……で、どっから来たの? 名前は?」
ティーパックで入れた紅茶を2つ用意して、テーブル越しに向き合った。
もちろん、使用したティーパックは1つだ。
「音羽稲穂。神社から来ました」
神社ねえ……ってことは、昼間にぶつかったあの神社なんだろう。それにしても神社にから来たってことは、そこに住んでるのか?
改めて、女の子の服装を眺める。
一見は普通の巫女さんの格好。緋袴ではなく黄土色の袴であることを除けば。
おかっぱ頭になぜか赤いヘアバンド。全く意味がなさそうだ。
「……じゃあ、神社に帰ればいいんじゃないの?」
「やだ」
即答。
「やだって……なんで」
「勉強がつまらないもの。あんなこと、何の足しにもならないわ」
勉強……って、この子一体何歳だろう。16か17ぐらいに見えるけど……学校行かなきゃいい話じゃないのか?
いやまあ、お稽古事とかがきついのかもしれないが……
「何の勉強?」
「それはその……」
言いよどむその子。言いたくないなら別に構わないが……言えないような勉強って何なんだろうか。
「まあ、いいけどさ……それで、何で俺の家なわけ?」
「なんとなく」
即答。
だが『何となく』ときた。もしかして俺、おちょくられてるのか?
「……ほう」
とりあえず平静を保ったまま話を聞く。
「いい匂いがしたから、ついてきたの」
何を言ってるのか、そろそろ理解できなくなってきた……
「変な奴だな……」
今まで見たことも聞いたこともないぐらい変な奴だ。
「それで、あなたのお名前は?」
「俺? 俺は都達哉……いや、だから」
……流されて自己紹介なんぞしてしまった。何で人の家に来て自分のペースを保てるんだ、この稲穂って子は……
「じゃ達哉君、よろしくねっ」
「『よろしく』じゃないだろ。早く神社に帰れ」
「やだ。帰らない」
ぷいと横を向く稲穂。
「お前は小学生か……」
勉強が嫌で家出することといい、知らない人間にほいほいついてくることといい……まま小学生じゃないか。
「あ、ねえねえ、これ何?」
「何って教科書だよ……」
まあ、この家には特に遊ぶものもないし、きっと1時間で飽きて帰るだろう。
「ハカるコ……チカラガク?」
無理やりだな……『学』しか合ってないじゃないか。
「量子力学。言っても分からないだろうから説明しない。さ、早く帰れ」
俺の言葉に、ぷうっと頬を膨らませる稲穂。
「馬鹿にしてる……やだって言ってるでしょ! 決めた。これ勉強するまで帰らない」
教科書を掲げて、高らかに宣言する稲穂。
「はあ!?」
な、何を言ってるんだ、こいつは……
「だから、この教科書の中身が分かるようになるまで帰らないって言ったの」
「お前、これが何かわかってんのか……?」
理系嫌いの人は名前聞いただけで苦笑いする、量子力学だぞ……
「わかんない。でも決めた」
また即答。無知とは恐ろしい……
「だめだ。無理だ。帰れ」
「だからやだって言ってるでしょ!」
本当に小学生を相手にしてるような気分になってきた。
頭を抱える俺に構わず、稲穂は続けた。
「聞いてくれないとこの家燃やすわよ! 私だってそれくらいできるんだから」
また意味不明なことを言い出した……
「ほう、面白い。どうするのか見せてもらおうじゃないか」
まあ、どうせ適当なことを言ってるんだろう。そう高をくくっていると、
「むかっ! 見てなさい!」
「!?」
稲穂が叫ぶと同時に、部屋の空気が変わった。
なんか……やばい!
「ちょ、ちょっと待て!」
「もう遅い!」
瞬間、我が目を疑った。
どこからともなく沸いて出た火。
稲穂の周りに、いくつかの火の玉が現れたのだ。
「待てってばっ!!」
ど、どうすりゃいいんだ!
そうだマヨネーズ。マヨネーズを投げれば鎮火するはず!
よし、ちょうどいいところにあった!
なぜか手近にあったマヨネーズを投げようと、振りかぶった瞬間、
「こらっ!」
という声と、バシャァッという激しい水音が聞こえた。
一瞬何が起こったのかわからず、思考が停止する。
「へくちっ」
目の前には、水浸しになった稲穂。
俺の手にはマヨネーズ……じゃない。ケチャップだった。
しかも強く握りすぎて中身がぼたぼた出ている。
「だめじゃないの、ケンカしちゃ」
どうも怒っているんじゃないかという様子の佐倉さん。手にはどこから持ってきたのかバケツを持っている。
「さ、佐倉さん……?」
えっと……あれで水をバシャっと掛けたわけか……
「それに、部屋の中で火遊びしちゃ危ないわよ」
にこっと笑う佐倉さんを前に、俺と稲穂は揃ってへなへなと座り込んだ。
「……どうしたの?」
独り首をかしげる佐倉さんであった。

「ふーん、そうなんだ……」
うんうんと首を縦に振る佐倉さん。
「まあ、確かに問題といえば、問題よね」
3人で囲んだ小さなテーブルは、先ほどの佐倉さんの活躍(?)により、そのほとんどの範囲が濡れている。
「でしょう? だから……」
佐倉さんも味方についたことだし、これで一気にこいつを追い出して……
俺はそう考え、さらに追い討ちをかけようとしたその時、
「じゃあ稲穂ちゃん、私と暮らさない?」
佐倉さんがわけのわからないことを口にした。
「あなたと?」
「うん。それで、都君がここに帰ってきてから、勉強教わるの」
勝手に話が進んでゆく。
「ちょ、ちょっと、佐倉さん……」
慌てて止めるも、佐倉さんはにっこりと笑った。
「私4年だから時間あるし、構わないよ」
いやいや。違うでしょ。
「そういう問題じゃ……」
家出したことは問題じゃないわけ? そもそもこんな小娘に量子力学教えられると本気で思ってるわけ……って、佐倉さんもろ文系じゃん!
「うん。いいよ。そうする」
稲穂もなんか笑ってるし!
待て待て待て。俺みたいなただの一学部生が量子力学なんて教えられるのか? だって物理と数学の積み重ねだぞ……何年かかるんだよ。
「佐倉さん、ありがとう」
「ゆかりでいいわよ」
「じゃあ、ゆかりちゃん。ありがと!」
なんか仲良くなってるし! 当事者の俺はほったらかしかよ。
いや、どこに住むかの問題だったら、当事者でもないか……違う! だからそういう問題じゃなくて……
「じゃあね、都君」
「じゃあねー」
「あ、ああ……」
え?
気付くと二人の姿はなかった。
独り置いていかれた俺。いや、自分の部屋で置いていかれたもなにもないだろうが。だがこの疎外感は……
雰囲気から言って、俺があいつに量子力学を教えるのは決定みたいだし……
その稲穂は隣で佐倉さんと一緒に住むし……
カーペットに残るケチャップのシミと、湿った水の痕。
あの時の炎は幻覚ではなかったのか、壁に残る焦げ痕。
ほんの2時間で、だいぶその姿を変えてしまった部屋と激変した俺を取り巻く環境……
「……どうなってんだ」
そうつぶやくのが精一杯だった。

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