Fox & Mathematics
     〜べんきょう、しよう〜

  三角のお話


何を隠そう俺は一人暮らしだ。
「米がねえ……」
だからたまにこういう事態に陥ることもある。
時計を見れば夜8時50分。
死ぬ気で自転車をこげばスーパー閉店(9時)に間に合わないこともない。でも、店員の気分で2、3分早く閉店することも多いからな……
「仕方ない。佐倉さんに米を分けてもらおうか……」
いまいち気乗りはしなかったが、背に腹は変えられない。こういうときに限って非常食も尽きてるしな……明日は買出しだ。
ピンポーン
やたらうるさい玄関ベルを鳴らす。
油断してるときに鳴るとかなりビビルんだよな……
「はいはーい」
中からのん気そうな声が聞こえてきた。
「どちら様ですかー?」
「あ、都ですけど……」
「都君? ちょっと待ってね」
ごそごそとチェーンを外す音が聞こえてきた。
カチャリと小気味のいい音を立てて、鍵が開けられる。中からひょっこり顔を出したのは、いつもの佐倉さん。
「どうしたの?」
「いえ、それが……」
かいつまんで事情を話す。
情けないことこの上なかったが、コンビニで高い弁当を買ったり、この世の終わりかとも思えるぐらいに飢えたくはない。
「そうなんだ。たまにあるよね」
「なので、米を分けてもらえないかと……」
佐倉さんも自炊派だったはずだから、米がないってことはないと思うんだけど……
「うん。いいよ……あ、そうだ。なんならうちで食べていかない?」
意外なお言葉が。
「いいんですか?」
「うん。今稲穂ちゃんが作ってるから」
「稲穂が……」
一抹の不安を覚えたものの、気付いてみればなにやら良いだしの匂いが漂ってきている。
「どうぞどうぞ。上がって」
返事を待たず、佐倉さんは俺を招きいれた。
「あ、はあ、お邪魔します……」
そう言って靴を脱いだときだった。
「邪魔するんだったら帰ってー」
佐倉さんの姿で分からなかったが、コンロの前に稲穂の姿があった。もちろん、服装は佐倉さんのおさがり(?)だ。
ちなみにうちのアパートは玄関はいってすぐに台所がある。
「なんだと」
「あはは、こんばんは、達哉」
どうもギャグだったらしい。
「お前はどこの人間だ……」
この間の関西スーパーの件といい、ずいぶんと関西風味な奴だ。
「気にしない気にしない。今作ってるとこだから、もちっと待ってね」
そう言ってまた、だしを煮ていると思われる鍋と向きあった。
その後ろを抜け、佐倉さんに奥へと案内された。自分のところと同じつくりのワンルームの部屋。ちなみに、ここに入ったのは初めてというわけではない。以前にも夕飯をご馳走になったこともあるし、初年の文系教養科目の勉強を教えてもらったこともある。
別に付き合っているというわけじゃないが、同郷のせいか佐倉さんは良くしてくれる。
「メニューは何なんですか?」
「稲穂ちゃんの得意料理……というより、ただの好物かな」
含み笑いの佐倉さん。
「なんですか、そりゃあ……」
「出来てからのお楽しみ」
そしてまた、佐倉さんはふふっと笑った。
それにしても、この部屋で二人寝てるのか……狭いな。
あたりをキョロキョロ見回していると、佐倉さんが話し掛けてきた。
「そういえば、稲穂ちゃんの勉強は順調なの?」
「まあ、そこそこですね。少し土台はあるのか、大まかな理解度は高めです」
お母さんの家庭教師……か。まあ、中学生程度には数学が出来るみたいだが。
「ふーん……次は何を教えるの?」
「三角ですかね……そっから高校の力学に行こうと思ってます」
「サイン、コサインとかいうのでしょ? 私あれダメだったなあ……」
そう言って苦笑い。
文学部の佐倉さんとしては、やはり三角関数はダメらしい。
「そうですか? じゃあ佐倉さんも勉強します?」
思いつきで言ってみたが、
「あ、ううん。今分からないわけじゃないの。ただ、はじめに勉強したときはちんぷんかんぷんだったから」
とのこと。
「ああ、なるほど……」
どこまで理解しているのか疑問だが、とりあえずそれは聞かなかった。
「できたよー」
お盆に3つのどんぶりを載せ、稲穂が現れた。
「わー、きたきた」
手をあわせて喜ぶ佐倉さん。
目の前に置かれたそれは、とてもいい匂いを発していた。しかし、
「ほう……って、なんだこりゃ」
見た目が変だった。
「きつね丼」
きつね丼……噂には聞いたことがあるが。
「でもきつね丼の油揚げって、短冊状に切るんじゃあ……」
卵で閉じられ全形は見えないものの、何となく見えるその輪郭は、直角二等辺三角形。油揚げをななめに真っ二つ。豪快だ。
「贅沢だよー、都君」
抗議の声を上げる佐倉さん。
「いや、贅沢っていうか……」
「いいのいいの。いただきまーす」
構わずに食べ始める稲穂。
……まあ、この二人についていけないのは今に始まったことでもないか。俺も箸を手にとることにした。
「いただきます」
一応、稲穂に向かって手を合わせる。
そしてそのまま一口。だしの染みたご飯を卵、玉ねぎと一緒に口に運んだ。
「ん……美味い」
意外にも美味かった。いや、見た目のおかしさを除けば、いい匂いだし美味くて不思議でもないんだが。
「でしょ? 稲穂ちゃんの炊くご飯はすごく美味しいの」
と、佐倉さん。
試しにだしの染みてない部分のご飯を食べてみると……
「ほんとだ。美味い」
というか、こんなに美味しい米は久しぶりじゃなかろうか。
「えへへ……お米大好きだから」
誉められて照れる稲穂。
いや、それにしても美味い……普通の米と炊飯器でここまで美味く出来るとは、一体稲穂は何者だ?
「ま、名前からして『稲穂』だもんな」
美味しい米を炊きそうな名前だ。
「ほんと、きっと相性がいいのね」
佐倉さんも笑って同意してくれた。

「さて、今日の勉強は三角だ」
夕食を済ませて、今日はそのまま佐倉さんの部屋で勉強を教えることになった。
「三角? 三角形?」
首をかしげる稲穂。どうやら『お母さんの家庭教師』も、ここまでは及んでなかったらしい。
「そう。その三角」

まずは三平方の定理からだ。
こういう公式がある。


「えっと……なんで?」
「いいから覚えろ……と言いたいところだが、このくらいのレベルは証明しておいてやろう」

まず、こうなってるわけだろ?


それはこうだよな。


「つまり、一辺x+yの正方形の中に、ななめに一辺rの正方形が入ってる」
「ふんふん」
稲穂はじっと俺の書いた図を見つめている。
「でだ、これは4つの直角三角形に囲まれてる。でかい正方形から直角三角形を引けば、中の正方形の面積が残るよな」

つまり、式で表すと

と、こうなるわけだ。

「わかったー」
「そりゃ良かった」

さて、三角といえばもう一つ肝心なものがある。




「しん、こす、たん?」
俺も最初はそう読んだ気がする……
「サイン、コサイン、タンジェント。それぞれの辺の比だから、三角比と呼ばれてる」
「初めて聞いたよ……で、この丸いのはなに?」
そう稲穂が指差すその先……
「丸いの……ああ、シータ。ギリシャ文字だ」
「しーた……」
「まあ、これは定義だからな。そのまま覚えるしかない」
残念ながら、そういうことも多々ある。特に新しい概念のところは。

で、有名なのがこの角度たちだな。

30° 45° 60° 90°
sinθ
cosθ
tanθ

「……これ覚えるの?」
「覚えるというか……イメージだな」

「rは両方とも2で、xとyはそれぞれ1とルート3が反対だな。
サインは右上で『つ』のようなカーブを描く。コサインは左下で『く』のようなカーブを描く。タンジェントは右下で『ン』の『`』を抜いたようなカーブを描く」
口で言っても伝わりにくいので、稲穂には指を動かして教えた。
「ちなみにさっきの三平方の定理も満たしてるから確認してみな」
「こう?」
迷いながら図とにらめっこをして、稲穂はペンを動かした。

「よし、大丈夫だな」
「なんでタンジェントの90°は何もないの?」
ああ、それか……
「うーんとな、問題になる角が90°だとするだろ? そしたら三角形になれないんだ。想像してみろ。一本の線の端と端からまっすぐ上に線が伸びてる……」
『コ』を上向き(?)に倒したような線を描く。
「あ、ほんとだ。平行だから交わらないんだ」
その通り。それに、

こう定義できるから、コサインが0になる点でのタンジェントは定義できない。θを90°に近づけると、cosθが0に近づく。だからタンジェントはどんどん大きくなって無限大に近付いていくからな。

ちなみにそろそろ気付いているとは思うが、これらはいずれも角度……この場合ではθな。角度の関数になっている。
f(θ)=sinθとか表すと、分かりやすいかな。
「あ、ほんとだ。関数になってる」
「でまあ、これをグラフに表すと」


とまあ、こんな感じになる。
出発点は−180°で、終着点は180°な。
タンジェントはかなり特殊で、

こんな感じになる。
同じく範囲は−180°から180°な。
縦に細い線が引っ張ってあるのは90°のところ。これに沿って無限大に伸びていくわけだ。
すぐに分かると思うが、これらは周期関数で、その名の通り周期的にずっと続いてゆく。
サインもコサインも波が続いてゆくし、タンジェントもハニワの手みたいな関数がえんえん並ぶことになる。

「う、うーん……」
苦い顔の稲穂。
「ちょっと難しいか?」
「うん……」
まあ、初めての概念だったら仕方ないわな……

よし、じゃあちょっと視点を変えてみるか。
サインとコサインについてだ。
この2つは、半径1の円を書いて概念を掴んだほうが分かりやすいかもしれない。


こんな感じ。
で、角度を増やすってことは、斜めの線をぐりぐり反時計回りに回すってことだ。
この図でサインとコサインの表すところは……
サイン=点Aのy座標の値
コサイン=点Aのx座標の値
ってことだ。
θ=0からぐりぐり回していくと分かるが、サインのyは0から始まって、1、0、−1でまた最初の地点に戻る。
コサインのxは、1から始まって0、−1、0でまた1に戻る。
その一周の動きをグラフに表すと、


この通り。元の場所に戻ってるのが分かるだろ?
このまま角度が増えていっても、同じようにぐりぐり回すだけだから、同じ波がずっと続くことになる。

「う、うん。分かったような、分からないような……」
「じゃあここでいっちょ例題だ」
あんまり教えるばっかりでもな。やっぱ使ってみないと実感できないだろう。
「ここは見ての通り2階にある。高さが大体3mだと仮定して、ここまでくるのに60°の角度ではしごをかけるとすると、何mのはしごが必要だ?」
「えっと、高さが3mで……」
こっちを見る稲穂。
問題を反復するのは、暗に間違えてないか確認しているようだ。
「角度が60°でしょう? ってことは、yが3m……はしごは斜めにかかるから、三角形の長い辺……」
稲穂がペンを走らせる。


「こう?」
「まあ、正解だ。ちなみに」

「ってな感じに簡単な数にできるな」
「おー、すごい」
なんだか知らないが感動する稲穂。
「答えは2かけるルート3な。ルート3は大体1.73だから、必要なはしごは3.46mぐらいだな」
とりあえず三角比を使った計算は大丈夫そうか……
「それにしても稲穂。方程式立てるときは、『?』使わずにそのままrで良かったんだぞ」
「あ、そうか……」
しかし、ちゃんと移項が使えてるんだな。なかなか感心だ。
「すごいね、稲穂ちゃん」
後ろから声がした
「佐倉さん……いつからいたんですか」
「えっと……サインコサインが始まったぐらいかな」
「何で黙って見てるんですか」
ずっと後ろに立たれてたなんて……不覚。
「だって……邪魔しちゃ悪いかなって思ったから」
しょんぼりする佐倉さん。もう、この人は……
「別に怒ってるんじゃないですよ。ちょっと驚くから次からは一声掛けてください」
「うん……」
まあ、大丈夫だとは思うけど。
「私、お茶入れてくるね」
そう言うと佐倉さんは、台所へと向かった。
「いじめちゃダメだよ」
「そういうわけじゃないんだが」
気を取り直して、少し復習をした。
実はこの稲穂、飲み込みはそう悪くない。
ちゃんと前に教えたことも復習してるみたいだし、なかなか教えがいがある。
「お待たせ」
またのほほんとした空気に戻った佐倉さんが、お盆を持って戻ってきた。
そして湯飲みを稲穂に渡そうとしたそのとき……
「はい稲穂ちゃん……きゃっ」
足元に置いてあった稲穂の筆箱をふんずけ、佐倉さんがバランスを崩した。
「危ないっ」
とっさに佐倉さんを受け止める。
そこまではよかった。だが……
 ぱしゃっ……
そんな水音が聞こえた。
「ふぎゃああああ!」
同時に上がる妙な悲鳴。
「熱い熱い熱い!」
疾風の如き速さで風呂場に走る稲穂。
「い、稲穂ちゃん! 大丈夫!?」
それを追いかけて風呂場に向かう佐倉さん。
部屋に残されたのは、こぼれたお茶と、ヘアバンドと俺。
「…………」
とりあえずこの役不足ヘアバンドを持っていくか……
これがうち捨てられてるってことは、稲穂の奴、頭からお茶かぶったのか?
「おーい、大丈夫か?」
シャワーの音が聞こえる。多分そのまま水をかけてるんだろう。
「稲穂……?」
返事がないのを気にしながら、俺はそのまま風呂場を覗き込んだ。
「おー……いっ!?」
そしてそこで、わけのわからないものを見た。
「あ、達哉。なんとか大丈夫……」
「ちょっとぬるめのお茶だったから……って都君! それっ!」
佐倉さんが何か言っていた。
「え……ああっ! 私の!!」
稲穂も何か言っていた。
だが、何も耳に入ってこなかった。
ただただ俺は、耳を見ていた。
稲穂の耳……
人の物より少し位置が高く、濡れた金色の毛に覆われた、そうそれは……
狐の耳。

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