Fox & Mathematics 〜べんきょう、しよう〜 力学初歩のお話 授業が終わって帰り支度をしていると、 「……はぁ」 思わず出てくるため息。 「全く、意味がわからん……」 それはもちろん、昨日のことだ。 「な、なんなんだそれはっ!?」 風呂場にいる稲穂。その頭にある、狐の耳。 「えっと、都君、落ち着いて。ね?」 佐倉さんはちょっとおろおろ。 「そ、そうだよ達哉。ちょっと落ち着いてよ」 稲穂も少しあせっている。 「落ち着いていられるかっ! な、なんなんだそれは!」 「……耳だけど」 ボソッとそう聞こえてきた。 「んなこたぁわかっとる!」 「ひゃっ」 と、声を上げたのは佐倉さん。 「……分かってるなら、聞かないでよ」 ちょっと不機嫌になる稲穂。 「そういう問題じゃなくてだな!」 「ちょっと、都君。あんまりうるさくすると誰か来ちゃうよ……?」 「そうだそうだー」 「くっ……」 た、確かに誰か来るとマズイ。女性の部屋に俺がいるってのもマズイ。何より稲穂の耳がばれて騒ぎになることがマズイ。 俺は押し黙らざるを得なかった。 「……落ち着いた?」 「なんとか」 佐倉さんが改めて入れなおしたお茶で、何とか話し合いが出来る状況になった。 だが、俺の間の前には相変わらず信じがたい稲穂の頭。 「で、それは一体なんなんだ? というか、どういうことなのか説明してもらおうか」 「わかった……」 あっさりと稲穂はうなずいた。まあ、今更どうしようもないことは明白だが。 「佐倉さんも知ってましたね?」 「うん……」 すると、佐倉さんが言ってた稲穂の秘密ってのは、これだったのか…… お茶を一口すすると、稲穂が口を開いた。 「私が神社から来たって言ったのは覚えてるよね」 「ああ」 というか、その神社のまん前でぶつかったわけだしな。 「それでね、信じてもらえないかもしれないんだけど……私のお母さん、狐なの」 「はっ……?」 意味がわからなかった。狐? はあ、狐…… 頭についてんのは確かに狐の耳だろうが、うーん…… 「話は長くなるから省略するんだけど……あ、お父さんは人間……ってお母さんは言ってた」 「お前は知らないのか?」 「うん……」 少し寂しそうな稲穂。 「はっ……」 なんというか、まあ、おかしな話ではあるよな。 おかしな話ではある。だが…… 「信じない?」 「信じるも何も……」 稲穂の耳を引っ張ってみる。 「い、いたたた……やめてよ、達哉」 思ったより硬かった。これをヘアバンドでおさえていたんだから、かなりの苦労だ。 「火も出せただろ?」 初めて家に来た日のことを思い出しながら、稲穂に聞いた。 「え……うん。見る?」 「いや、いい」 まあなんというか、昔話に出てくる狐みたいなもんなんだろう。きっと。 「狐か……」 遺伝子の形がどうこうで不可能だとか聞いたこともあるが……まあ、目の前にある事実だけはどうしようもないしな。 じっと稲穂を見つめる。 見つめられた稲穂は、少し緊張しているように見える。追い出されるとでも思っているんだろうか。 「お前的にはどっちなんだ?」 「え?」 質問の意味がわからず、きょとんとする稲穂。 「狐なのか、人間なのか」 「うーん……人間、かな。狐としては半人前すぎるの……いろんな点で」 半人前ねえ。 「人間としても半人前じゃないか」 苦笑しながらそう言うと、 「あ、ひどーい」 少し表情がほぐれた。 「そうだよ、都君」 黙って見守っていた佐倉さんも苦笑する。 二人とも冗談だとわかってるようだ。 「それでね……お母さんは、そっちの勉強……あ、狐としてのね。そればっかりさせるから」 まあ、お母さんが狐ならそうだわな……というか、そのお母さんに家庭教師してもらったのか……? 最近の狐は中学生レベルの学力があるのか。 「自分が使えない、わかんない勉強しても、楽しくないでしょ?」 「それで、家出?」 佐倉さんが聞くと、 「うん……そうなる、かな」 目を伏せてうなずいた。 まあ、大体の事情はわかった。 いや、分からない部分は多々あるんだが…… 「稲穂」 「うん?」 おかっぱの髪を揺らして、稲穂が顔を上げた。 「すぐじゃなくてもいいが、お母さんには言っとけ。ここで勉強してるって」 「うん……」 何も連絡してる様子はないからな。多少なりと心配してるだろう…… それともう一つ。俺は役不足ヘアバンドを手に取った。 「これ、苦しいんじゃないのか?」 「あ、うん……ちょっとね」 そりゃそうだろうな、これだけ立派な耳を押さえつけてたんだから。しかし、こんなヘアバンドごときで隠れてたとは、一種のミステリーでもある。 「じゃあ取っちまえ」 「え……」 ぴくっと稲穂の耳が動いた。 「勉強は、やりやすい環境でやるべきだ」 「あ……うんっ」 今日一番の嬉しそうな声だった。 まあ、乗りかかった船というか……仕方ないか。 多少情が移っているのも否定できない。 なんとなくそう思っていると、稲穂が立ち上がった。 「それとね、もう一つ……」 「よお、どうしたんだ? ため息なんかついちまって」 教室を出たところで、米崎が話し掛けてきた。 「おう……まあ、悩める青年だからな」 冗談めかしたつもりだったが、あまり通じなかったようだ。 「意味が良くわからんが、まあがんばれや。そういや、カテキョの方はどうなのよ?」 「ああ、まあ、順調……かな」 勉強の方は。 「結構なことじゃないか」 けらけら笑う米崎。まあ、大まかな理解度は良いみたいだし、その点はいい。いいんだが…… 「問題がないわけじゃない」 「へえ、好きにでもなっちまったか?」 笑いながらそんなことを聞いてきた。 「なんでそうなるんだよ……」 稲穂をねえ…… まあ、全くないとは言い切れないだろうが。あの性格は嫌いじゃないし。 しかし、好きとかそれ以前の問題だ。 「さて、物理をやるぞ」 「おおー……」 なにが『おおー』なのか分からないが、とりあえずやる気はあるようだ。 「まずは基本中の基本。力学だ」 「どんとこーい」 「ハイだな、お前……」 ちょっと引くぞ。 「自由に出していいんだもん、そりゃハイにもなるよ」 そう言ってぱたぱたと揺らす。尻尾を。 「さいですか……」 耳と尻尾……なんというか、意外と目のやり場に困った。 いきなりだが、根幹とも言える運動の三法則だ 慣性の法則 運動の法則 作用反作用の法則 「……覚えるの?」 ちょっと苦い顔をする稲穂。暗記は苦手なのかもしれない。 「覚えるんだ。まあ意味さえ覚えれば名前なんてどうでもいいし、そもそも名前なんて意味からつけられたものだから、意味がわかれば名前も分かる」 一つずつ説明していくことにした。 「慣性の法則ってのは、力がかからない物体は、ずっと同じ状態が続くってことだ。つまり、物は押さなきゃ動かない」 「うん、そうだよね」 これはまあ、イメージしやすいか。 「または、そのまま」 「そのまま?」 期待通り、その言葉に引っかかってくれた。 「スケートとかしたことあるか?」 なさそうだが。 「ない……けど知ってる」 「そうか……じゃあ、スケート場で人に押されたらどうなると思う?」 「氷の上でだよね……うーん、ずっと滑ってっちゃうかな」 正解。イメージする力はそこそこあるんだよな。 「まあ、そうだよな。実際は多少なりと摩擦があるからそうはいかないが。押されてそこからは止まらない」 しかし、説明しにくいな…… 「地球の上じゃあ、どうしても重力があるから想像し辛いんだが、宇宙なんかではそうだよな。宇宙でボール投げたらどこまでも飛んでいく」 「あ、それは聞いたことあるよ」 稲穂の言動から判断するに、別にずっと神社にこもっていたってわけじゃないんだろう。 「んでまあそれは、次の運動の法則にも含まれている。運動の法則ってのは、運動方程式のことで、つまりこれだ」 ![]() 「Fとaはベクトルを表しているんだが……まあ今はそれを気にしなくてもいい」 「うん」 簡単な式をノートに書き写して、稲穂はうなずいた。 「Fは力。mは質量……まあ、重さだな。aは加速度を表している」 「なんで?」 「なんでって……何が?」 予期しないところで質問が出た。 「記号。日本語とかじゃダメなの?」 そうきたか…… 「FはForce(フォース)、mはMass(マス)、aはAcceleration(アクセレーション)。全部英語から来てるの。もし日本語で表してみろ『ち=しか』なんていう意味不明なものになっちまうぞ」 「それは変だね」 「だろ?」 分かってるなら聞くなよ…… 「でまあ、力をかけた方向に、加速度が生じるってことだ。だから、力をかけなきゃ加速度は生じない。慣性の法則な」 「うんうん。当たり前だよね」 お。言い切ったな…… ![]() 「この方が分かりやすいかな。力を質量で割ると、加速度が出る」 「何となく分かったよ。質量が大きいと、加速が鈍くなるんだよね?」 おお、えらく勘がいいじゃないか。 「そうだ。逆に力が大きいと、加速も大きくなる」 今感じているのが教師冥利という奴だろうか。ちょっとじーんと来たぞ。 と、こんな序盤でそんなこと言ってても仕方ないな。 「単位の話になるが、Fは[N]でニュートン。mは[kg]でキログラム。aは[m/s^2]でメートル毎秒毎秒とか、メートル毎セカンド二乗とかいろいろ言い方はある。ああ『^2』は二乗の意味な。単位のm(メートル)と式のm(質量)は別物だから注意するように」 ノートに書き取りながら、稲穂が苦い顔をする。 「うー、単位……? キログラムとメートルしか知らないよ」 まあ、秒を『セカンド』とは言うまいよ…… 「稲穂の体重は?」 「私はよんじゅう……って、何言わせるの!」 怒った。稲穂もやはり女の子ということか。 「sは秒。英語のSecond(セカンド)な」 「英語嫌い……」 予想通りの反応。 「俺もだ。単語ぐらい我慢しろ。というか、意味はどうでもいいんだ。質量はmで、キログラム、sは秒で……って覚えろ」 「う、うん……」 で、単位だけ見てみると、 ![]() とまあ、Nの次元が分かる。 次元と言うのはつまり、長さ、重さ、時間がその物理量に対して何次なのかということだ。ま、あまりごちゃごちゃ言っても仕方ないから省略。 「次元……? 大介?」 「違う」 このボケ屋め…… 「この次元は結構重要だからな。今は大した事ないと思うかもしれないが、この概念があるのとないのとではかなり違う」 次元を気にしていると、物理の理解が早くなる気がする。気がするだけだが。 「ちなみにニュートンは後からといってつけられた単位だ。1mと1kgと1秒に無理やり合わせた結果、新しい使いやすい力の単位、ニュートンが生まれたわけだ。知ってると思うが人名な。人名由来の単位は大文字。それ以外は小文字」 「後からつけられた……?」 わからない様子の稲穂。 「うーん、じゃあ説明しておくか」 ![]() そもそもこんな感じだったんだ。 力の大きさの単位なんて、決まってなかったから。この法則が発見されたの、すげえ昔だし。基本的な意味はさっき説明した通り。加速度は力に比例して質量に反比例します。と。 kってのは比例定数で……まあ、説明すると長くなるから省略。とりあえずこのkで法則性を保ってたわけだ。だが、使いにくい。いちいちkなんてつけていたらな。 で、メートルとか秒とかキログラムとか決めた後、Fの中にこのkを含ませてしまったわけだ。恒久的にk=1になるような単位設定にした……それが[N]ニュートン。ってわけだ。 「う、うーん……」 一通り説明を終えると、稲穂は唸っていた。 「分かり辛いか?」 「うん、ちょっと……」 まあ、俺も説明が上手いってわけでもないしな…… じゃあ極端な例をあげるとするか。 「つまりだ。それまでの力の単位が『きつね』だったとしよう」 「き、きつねっ?」 驚く稲穂。ぴくぴくと耳が動く。 気になって仕方ない。 「そう。で、1kgの物体に、1m/s^2の加速度を与える力が0.07832きつねだったとしよう」 「う、うん。変な数だね……」 神妙にうなずく稲穂。 そんなに真面目に聞かれてもなあ…… 「変だろ? 運動方程式は」 ![]() ますます変になる。使いにくい。だから考えた。 0.07832きつねが1ニュートンなら使いやすいんじゃねーの? と。そうすると、 ![]() 「こうなる。旧単位『きつね』は引退……まあ、実際なんていう単位が使われてたのかは知らないが。さらに俺らはMKS世代だからな」 「えむけーえす?」 首をかしげる稲穂。 今説明しても仕方ないんだけどな…… 「俺らの先生はcgs単位系っての使ってたの。センチメートル、グラム、セカンド。俺らのMKSは、メートル、キログラム、セカンド」 「……わかんない」 そらそうだろう。もう少し物理の問題に慣れないと。 「ま、勉強には直接関係ないからいいさ」 この話にはあまりこだわらず、さっさと次の話に移った。 「でだ、運動方程式でずいぶん時間がかかったが最後は作用反作用」 これもまあ、単純な話だが。 「まああれだ。俺が稲穂を押すとするだろ? そしたら俺も力を受ける。壁に全速力でぶつかると、ばしーんと跳ね返されるだろ? あれも作用反作用。自分が力をかけるとそれと同じ大きさの力が返ってくる」 「それだけ?」 案の定、稲穂も拍子抜けしたような表情。 「ああ、それだけだ。基礎なんてそんなもの。後で使うから」 まあ、3法則はセットだしな…… 「ふーん……」 「まああれだ。宇宙でボール投げるとずっと飛んでいくだろ? で、投げたほうも反対側に飛んでいく。回転運動は別にして。あれは初歩的な法則によってるわけだな」 それから、力の大きさや方向は、複数の力がかかる場合はその和……全部足したものになる。たとえば、上と下へ同じ大きさの力がかかってる場合、見た目上力はかかってないよな? だから力は0になる。 右と左に力がかかって、右への力がちょっとだけ強かったら、右に小さい力がかかっているように見える。 ![]() Fcの大きさはもちろん、Fb−Faな。 この辺はまた、ベクトル教えるときにやるから。 じゃあ問題。 5kgの物体がある。初めは止まってたんだが、力を加えて4秒で10m/sになった。 かかった力はいくらだ? 「え……うーん。4秒で10メートル毎秒」 こういうとき次元……というか単位をみれば一発なんだがな。 ![]() こういう構成。 だから、5[kg]に10[m/s]を掛け、4[s]で割ればすぐ出てくる。 えーっと、25/2[N]か。半端な数にしちまったな。 一方稲穂は、まだ唸っていた。 「mは5kgでしょ……aは、うんと」 ![]() 「4秒で10m/sになるんだよね……」 「加速度は、一秒で何m/sになるか……だぞ」 「うん……4秒で10……」 ![]() 「これ?」 「正解。別に12.5とか直さなくていいぞ」 意外とやるじゃないか。 「わかったか?」 「うん……なんとなく」 ま、そのうち慣れればいいさ。 「運動方程式に関してはとりあえずここまで。後はまた次だな」 次は……重力と運動かな。ベクトルはその後ってとこか。 学習プランを胸に、今日の勉強はお開きとなった。 戻る |