Fox & Mathematics
     〜べんきょう、しよう〜

  指数のお話



俺たちは、初めて出会った場所に来ていた。
「……ほんとに行くの?」
「ああ」
渋る稲穂に、平然と答えた。
俺もあまり気乗りしないが……やはりこのままでも良くないだろう。
「うー……」
ヘアバンドをつけたまま、稲穂は唸っていた。


「稲穂、明日神社に行くぞ」
勉強のない日、俺は佐倉さんの家に行って、稲穂にそう言った。
「えっ……」
驚いた稲穂だったが、断固拒否。というわけではなかった。
少し前に俺が言ったように、稲穂のお母さんに一言言っておくためだ。
「うん……」
少しは覚悟していたのか、稲穂は頷いた。
「まあ、帰って来られなくはないだろう。その時は勉強が終わるまで許してくれって俺も頭下げるつもりだし」
まだまだ先は長い。
俺としても、こんな中途半端なところで中断したくはなかった。
「達哉……」
心配そうな表情で、稲穂がこちらを見た。
「なんだよ。そんな顔すんなよ」
そう言って俺が笑うと、
「うん……ありがと」
少しだけ稲穂も微笑んだ。


ついてこようとする佐倉さんを何とか説得し、二人で神社まで来たというわけだ。あの人がいてもややこしくなるだけだしな、多分。
住宅街の外れにぽつんとある、どこにでもあるような普通の神社。
ここを守っているのが狐とはなあ……
「じゃあ、行くか」
「うん……」
ぎゅっと裾を掴まれたが、気にせずそのまま鳥居をくぐった。
心と静まり返った境内。人の姿は全くなかった。
「あら、お帰り稲穂」
どこからか声がした。
「姉ちゃん!」
後ろを振り返る稲穂。同じように後ろを見るが、今くぐってきた鳥居があるだけで誰もいない。
「誰それ。彼氏?」
「ち、違うよっ!」
声は上のほうから聞こえたな……
と、思い顔を上げると、
「おわっ!」
空から人が降ってきた。
「失礼ね、人の顔見て驚くなんて」
「姉ちゃん、いきなり目の前に現れたら誰だって驚くと思うよ……」
平然と会話を続ける二人。
「あの……」
ようやく声を出せた。
「どこにいたんだ?」
俺の質問に、きょとんとする稲穂姉。
「あそこだけど」
そう言って指差したのは、鳥居の上。
「お姉ちゃんあそこ好きだよね」
「風が気持ちいいからね」
ほう、つまり、鳥居の上に乗っかってたというわけか。
それなら気付かなくて当然だな。
……って、3メートルはあるが。
「一応聞いておくが、お前の姉さんは狐なのか?」
「まー、そんなとこ」
稲穂ではなく姉本人が答えた。
「音羽初穂。稲穂の姉よ」
なるほど……
まじまじと見てみる。
紫色の袴をはいた、稲穂の姉。初穂さん。
見比べてみればまあ、似てないこともない。
ただ、稲穂はおかっぱ頭、姉はロングヘアー。そのせいか第一印象がだいぶ違う。
「そういえば、家出してたんだって?」
「うん。今もだけど」
変な会話だな……
「帰ってきてびっくりしたよ。あんたいないんだもん」
「姉ちゃん今回はどこ行ってたの?」
「ん? 京香ちんとこ。電車は良いわねー。速くて」
……いつの時代の人間だ。普段電車使わないのか? まあ、狐ならそれも不思議じゃないが……むしろ電車を使う狐の方が不思議だ。
「遊びに行ってきたの?」
「まあ、そんなとこ。でさ、京香ちんの許婚見ちゃった」
「えー、ほんと! どんな人だったの?」
目を輝かせる稲穂。
「それがね……」
盛り上がってきたところで悪いが、雑談しに来たわけじゃない。
「あのー、いいか?」
横から割り込むと、稲穂は不思議そうな顔。
「ん、何? 達哉」
「本来の目的を……」
「あ、そうだったね」
言われてはっとなる稲穂。こいつは……
「姉ちゃん、お母さんいる?」
初穂さんの方を向いてたずねた。
「いるわよ。行ってきたら?」
「うん」
建物のほうへ向かう稲穂についていく。
やっぱりというかなんというか、本殿とは別の建物だ。
「ああ、そうだ」
後ろから初穂さんの声が聞こえた。
「後でその彼氏、紹介しなさいね」
思わず転びそうになった。
慌てて振り返ると、もう初穂さんの姿はなかった。なんなんだ、一体……

「姉ちゃんは4こ上でね。すごく頭が良いんだ」
玄関の戸に手を掛けて、稲穂が立ち止まった。
「吸い取られたか」
「そうかも」
振り返って苦笑いする稲穂。
一つ息をつくと、そのまま戸を横に開いた。
「ただいまー……」
「おかえり」
扉を開いて目の前に、女の人が立っていた。
「うわ」
「何よ。そんなに驚かなくてもいいじゃない」
と言いながら、してやったりの表情。
年の頃は二十代半ば。長い髪を緩やかに束ねている。初穂さんとは違って紋付(?)の袴だ。
「だって、いきなり玄関にいるとは思わないよ」
「そう? あら、そちらは?」
こちらを向く女の人。
「あ、えっと……」
なぜか口ごもる稲穂。
「都達哉です。なんというか……今日はお話があって来ました」
「ふうん……まあ、上がってくださいな」
にこっと笑うその表情は、どことなく稲穂に似ていた。

家の中を、二人について歩いてゆく。ひんやりとした木の廊下の途中でヘアバンドを取った稲穂に話し掛けた。
「稲穂、この人お前のお母さんなのか?」
「そうだけど……どうして?」
首をかしげる稲穂。いや、どうしてって……
「むちゃくちゃ若いじゃないか……それに、狐って言ってなかったか?」
「人間用に作られた家だから、人間の姿の方が住みやすいんだよ」
あっさりと言い放つ稲穂。
「そういうもんか……」
まあ、そう言われてみればそうなのかもしれないが……
「あと、若いのは見た目だけ……あいてっ」
稲穂の頭になぜかしゃもじが飛んできた。
「稲穂、余計なこと言わないの」
先を向いたまま、稲穂のお母さんが言ってきた。
「……ってわけ」
頭をさすりながら、稲穂が笑う。
「なるほど」
なかなか謎の多い一族である。

ふすまを開けるとそこは、客間らしき部屋だった。
なぜか座布団が3枚、すでに用意されているのが気になったが……
俺と稲穂が並んで座り、稲穂のお母さんが向かい座った。
この構図はなんというか、娘さんを下さい状態だ。
「さてと、稲穂」
名前を呼ばれ、稲穂がぴくっと震えた。
「今までどこでどうしていたのか、説明してもらいましょうか。あと、そちらの方のことも」
「……うん」
頷く稲穂。
そして、少しずつ事のてん末を話し始めた。
俺は特に口出しをするようなこともなく、黙って稲穂の言葉を聞いていた。
それにしても妙な光景だ。何が妙かって、一番浮いているのは稲穂だろう。俺は人間だから当然として、稲穂のお母さんもどう見たって人間だ。
狐の耳を生やした女の子が、畳の部屋で座布団に座りながら話をする様子は、やっぱり妙な光景に思えた。
「……というわけ」
ほんの10分ほどだっただろうか。
稲穂が話を終えた。
「大体の事はわかったわ」
少し間をおいてから、稲穂のお母さんが口を開いた。
「でもね、稲穂。あなた、勉強が嫌で出て行ったんじゃなかったの?」
「使えないから、面白くなかっただけ」
稲穂が即答した。
何の勉強なのか想像もつかないが、なんかいろいろ大変なんだろう。
「じゃあ、そちらは面白いの?」
「うん、とっても。ちゃんと理解できると気持ちいいし」
また即答。
正直言って、その言葉は嬉しかった。
初めはただの勢いだけで決めたんだろうけど、その過程も楽しんでくれているんだな……なんか安心した。
「ふうん……」
意味深な笑みを浮かべる稲穂のお母さん。
「えっと、都さんだったかしら」
「はい」
急に話を振られるとは思わなかった。
姿勢を正してそちらを向く。
「本人はこう申しておりますけど……出来の方はどうでしょうか」
「はぁ……」
なんか三者面談みたいだな……
「悪くはないですよ、今のところは。復習もしているみたいだし」
「そうですか。復習……」
そうつぶやくと、じっと稲穂のほうを見た。
横を向くと、緊張した面持ちの稲穂。
「私のときはしていたかしら」
「して……ない。です……」
なぜに敬語。
「そうよね」
「だって、でも、必要なんだもん。1回じゃわかんないし、後でも使うって言ってるし……」
「あら、こちらだってそうじゃないかしら?」
一応表情は笑ったままなんだが……なんというか、わずかな威圧感があった。
「う……だから、使えないもん」
「そっちだって……なんといったかしら。量子力学? それを使えてどうなるというの?」
はっきり言ってくれるなあ……
まあ、普通の人は量子使えても何にもないわけだが。
「う……」
口ごもる稲穂に、さらに言葉を続けた。
「あなたの生活に役に立つとは思えないわ。それなら、こちらの勉強をしていたほうが有益ではないかしら。いずれ時が経てばあなたも……」
「やめてよ!」
言葉をさえぎって、稲穂が立ち上がった。
「そうやって敷かれた道を進むのは嫌なの! 私は私のやりたいことを勉強したい!」
「稲穂……」
「だから……」
じっとお母さんの目を見て、稲穂が言った。
「だから私、量子力学に行くまで帰ってこないから!」
「稲穂!」
お母さんの言葉に振り返りもせず、稲穂は部屋から走って出て行った。
しばらくして、バンッと強く玄関の戸を閉めた音が聞こえた。
部屋に取り残された、俺と稲穂のお母さん。
はっと思い出したことがあり、ポケットを探る……あった。
「……あの」
「はい?」
俺より少し背の低い、稲穂母。
俺はポケットからメモした紙を取り出すと、そっと前に差し出した。
「これ、うちの住所です。俺は201に住んでて、稲穂は202に居候してます。あと、俺の携帯電話の番号も。一応何かあったらここへ」
やっぱり、連絡先は知らせておかないとな。
「都さん……」
そっとそれを受け取ると、稲穂のお母さんは頭を下げた。
「ご迷惑をおかけします……それと、先ほどの無礼な言葉、お許しください」
一瞬何のことか分からなかったが、多分量子力学が役に立たないと言ったことだろう。
「いえ、そんな。役に立たないってのもまあ、事実ですし……あと、あいつがいて楽しいってのも本音ですから……俺からもお願いします。もう少しだけ、見守ってやってください」
稲穂母は顔を上げると、ふっと優しく微笑んだ。
「わかりました……よろしくお願いします」

稲穂が立っていたのは、例の大きな鳥居の下だった。
俺の姿を見つけると、とことこと歩いてきた。
何か言いたそうだったが、俺から先に口を開いた。
「稲穂。ちょっと勉強していくか」
「えっ、こ、ここで?」
さすがに面食らった様子の稲穂。
「ああ」
ノートも何もないが、なんとかなるだろう。
俺は小枝を拾うと、砂地に数式を書いてみた……まあ、いけるだろう。
「簡単な話だから。指数についてだ」
「指数……うん」

こういうのは知ってるよな。

xの2乗。横書きの文章中ならx^2なんて書いたりもするな。
この2のことを指数という。

で、こういうのを指数関数と呼ぶ。
一般に指数関数はものすごい速さで増えていく。


「ほんとだ。でもマイナスの方はなんでなくなってるの?」
「ああ、それか」

指数にはいくつか約束事がある。

大まかにはこんなとこな。
マイナス乗は分母ってことになる。分母がすごい勢いで増えていったら、数値は0に近付いていくだろ?
それから、0乗は1だ。そもそも何乗ってのは、1にその数を何回かけたかってことだろ? 1回もかけてないんなら、何も出てこない。1だ。
0の0乗は、今はやらない。極限ときに覚えてたらやる。
最後のは何乗根ってやつだな。
bに何も書いてないのは2乗根。2乗すればその数になるってやつだ。4の2乗根はプラスマイナス2な。同じように、bが3……3乗根の場合は、3回掛けたらその数になる。27の3乗根は3な。

「うーん……」
「わかるか?」
「少しずつ。やっぱりノートないと辛いね」

まあ、続きというか、さっきの証明というか。

この性質は結構重要だからな。覚えておくように。
これもまあ、簡単だよな。

こんな感じ。結局何回掛けたかってことだからな。
で、この性質を使えば、

一番上。aのx乗を掛けて1になるんだから、その逆数。aのx乗分の1だよな。
二番目。aのx乗を掛けてaのx乗になるんだから、元の数は1。ってことだ。
三番目。b乗するってことは、b回掛けるってことだ。で、b回掛けてaになるんだから、aのb乗根だよな。
まあ、ここまで話してなんなんだが、何乗根なんて、ほとんど使わない。せいぜい3乗根だな。ほかは何分の1乗で放置だ。
さらに言ってしまうと、ルートでさえ、2分の1乗でほっとくことが多いな。

「ここまで」
「え、そうなの?」
意外そうな顔をする稲穂。そりゃまあ、そうか。いつもに比べると半分ぐらいだ。
「言ったじゃないか。簡単だって」
「うん、そうだけど……」
砂地に書かれた数式たちを見て、稲穂の家族はどう思うだろう。
これぐらい書いていれば、稲穂の勉強に対して理解してくれるだろうか。
「じゃあ、そろそろ行くか。佐倉さんも待っているだろうし」
「うん」
地面に書かれた数式をそのままにして、俺たちは家路についた。
そろそろあれを教えてもいいかもしれないな……
あれというのは、
微分への最後のステップともいえる、極限だ。
……ちゃんと教えてやらないとな。
今日稲穂の家族と話して、少しだけ責任を感じた。
少し弱くなった日差しを浴びながら、ぼんやりとそんなことを考えた。


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