Fox & Mathematics 〜べんきょう、しよう〜 力学初歩のお話2 パンパン! 静かな神社に柏手が響く。 「あ、達哉、おはよう」 お社の中から出てきたのは、いつもの稲穂。 「どこに入ってるんだ、お前は」 「ここしか寝るとこないんだもん」 お賽銭箱の横を抜けて降りてきた。 「はあ、さいですか……」 よく分からん奴だ。今に始まったことじゃないが。 「静かだしね。柏手以外は聞こえないんだ」 「なんだそりゃ」 「ん、まあよくわかんないけど、そういうところ」 まあ、科学では説明できんことは山ほどあるわな。 「…………」 その権化が目の前にいるわけだが。 「どうかした?」 視線に気付いて首をかしげる稲穂。 「いや」 事実はちゃんと受け止めないとな。うん。 駅への商店街を歩く俺と稲穂。 「今日はどこで勉強するの?」 夏休みの商店街。高校時代は見たこともなかった。だから高校生の姿がない商店街は、なんだか不思議な感じだ。 「我が母校」 「え?」 「志乃上高校」 「あ、そうなんだ」 交通費がかかるからと佐倉さんが悩んでいたらしい。そのくらい気にしなくてもいいのに…… まあ、稲穂の分の電車とバスを合わせると、やや重たい額になるが。 「あ、こんにちは」 「こんにちは」 と、駅で待ち合わせていたのは志津子ちゃん。 『さん』は他人行儀だ。と本人から言われたので、ちゃん付けで呼ぶことになった。 しかも、 「後輩だったとは」 そう。 志津子ちゃんはなんと、現役志乃上高生。正真正銘の後輩。 今2年らしいから、同じ時期に通っていたわけじゃないけど。それにしたって驚きだ。 「てっきりお姉ちゃんから聞いてるもんだと思ってました」 「いや全然」 「そうなんですかー」 というか、妹がいるってことも、夏休み入ってから知ったしな。 卒業以来の母校。 女の子二人にはさまれながらなんて、もちろん初めてだ。 「私服で良かったですよね。うちの学校」 「だね。制服だとばれる」 結局俺が制服を着たのは中学校のときだけってことになるな…… 普通の奴より半分ってわけだ。多分。 「でも先輩、知り合いの先生とかいるんじゃ」 先輩だって。 いや、当たり前なんだけどなんだか新鮮だなあ。 「うん、いるね」 「見つかったら」 「ま、なんとかなるでしょ」 笑って済ます。 そんな先生が多かったような気がする。 というか、卒業生は入っちゃだめ……なんて聞いたこともないし。全く部外者ってわけじゃないからな。むしろ、 「なんとかならないのは」 「私だけ?」 二人の視線を集め、首をかしげる稲穂。 ま、なんとかなるでしょ。 「はー、この坂、久しぶりだと疲れるな」 母校志乃上高校と、駅を結ぶ道。 長い坂があるのだが…… 「毎日だと慣れますよ」 そりゃそうだろう。 俺だって慣れた。いや、慣れていた。 「でも3年離れるとすっかり」 「運動不足ですか?」 「大いに」 言うとおり……だな。体育の授業なんて、1年の前期に取ってそれっきりだし。思えば高校時代はよく体育やってたよなあ。週2だか週3だか。 「あ、見えてきた。あれ?」 遠くに見える、見慣れた学校。 「だな」 それは懐かしさ漂う志乃上高校だった。 さて、無事校舎内に進入できた。 なんだか拍子抜けだ。まあ、夏休みにうじゃうじゃ先生がいるとも思えないが。 「図書室でしょうか」 と、志津子ちゃん。まあ無難なとこだな。 勉強してても怪しまれないし。 「かな。今日は開いてる日?」 「はい。そのはず」 夏休みも開いていたような覚えがちょっとある。 もっとも、現役時代夏休みに図書室を利用したかと言えば……ないんだが。 ちなみに大学に入ってからは、空調が効いているという理由から、長期休みはお世話になることが多い。 階段を上って、ちょっと歩けばすぐ図書室。 いや、懐かしい。 「誰もいないよ」 何の躊躇もなく、扉を開く稲穂。 怖い奴だ。 「ま、好都合」 俺たち三人は図書室に入ると、手近な机にノートを広げた。 さて、始めようか。 この前の続き……でもないけど、関連して力学的エネルギーの話の補足。 というかだ。先にばねの話をしようかと思う。 これがなんと言うか、基本の図。 ![]() x0ってのは、つりあいの位置のことな。自然長とか呼ぶ。 で、とりあえずここを原点に取る。x=0ってことな。右がプラスで左がマイナス。ここからのずれをxとすると、物体にかかる力は、 ![]() こんな式で表される。 kってのはばねの強さによって変わる定数な。きついばねはkが大きくて、ゆるゆるのばねはkが小さい。 「一次関数?」 「だな」 すぐ数学に結び付けられるようになってきた。 なかなかいいことだ。 「見ての通り。力は場所の関数ってわけだ」 「うん。そうだね」 「じゃあ稲穂。ばねが伸びたとき」 ばねが少し伸びた図を書く。 「どういう力が働く?」 図とにらめっこする稲穂。やがて、 ![]() 「……こうだよね」 矢印を書き込んだ絵を見せてきた。 「ま、そうだな。元の位置に戻ろうとする力。復元力が働く」 もちろん、ばねが縮んでいるときは反対方向に力が働く。なんというか、原点に向かって力がかかるわけだ。 kの前のマイナスはそのためな。 「じゃあ志津子ちゃん、この位置……x'とでもしようか。ここでの位置エネルギーは?」 「え、っと……この高さはいくつですか」 いきなり大ボケかまされた。 「いや、重力の位置エネルギーじゃなくて、ばねによる位置エネルギー。弾性エネルギーとか呼ぶけどね」 「ばね……」 あまりよくわかってない様子。どうしたもんか。 「んー、じゃあ、ばねから力はこうかかってゆくわけ」 ![]() ということはだ。 x'まで持っていくときには、こう力をかけなきゃならない。 ![]() 赤いのがかけなきゃいけない力。式にすると、 ![]() と、いうことは? 「あ、えっと、積分でしたっけ」 「うん。やってみて」 力の関数は上の通り。 ま、積分は簡単だな。 ![]() 「……こうですか?」 予想通り、簡単に解けた。 まあ、一次関数の積分だもんなあ。 「OK。その通り。ばねによる位置エネルギーは、こうなる」 志津子ちゃんは何とか飲み込めた様子。 良かった良かった。 まあ見ての通り、エネルギーは二次関数。 グラフは適当に書くけどこんな感じな。 ![]() 「じゃあ稲穂に問題。x'の位置まで引っ張りました。手を放すと元に戻ろうとする力が働きます」 「うん」 「原点での速さは?」 エネルギー保存だな。 前に教えたとき、志津子ちゃんがやったのと同じ。 「え、えっと……」 戸惑いながらも式を書き出す稲穂。 ![]() 「こう、だよね」 一番上は全エネルギー。二段目はばねを伸ばしきった状態だな。 で、最後が原点での運動エネルギー。位置エネルギーはもちろんゼロ。 ![]() 「えっと、向きは……ばねが縮む方」 「ん、まあいいだろう。よく出来たな」 「うん」 ほっと胸をなでおろす稲穂。 「でまあ、原点でスピードがあるってことはだ」 運動エネルギーが有り余ってる。 「縮みますよね……ばね」 と志津子ちゃん。 「うん。そういうこと」 運動としては、ずっとびよんびよんして止まらないわけだ。摩擦とか考えないから。さっきのグラフを持ってくると、ポテンシャルがこうなってるわけだ。 ![]() ポテンシャルってのはまあ、こういう坂があるイメージをしてみるといい。それにボールでも置くイメージをしてみると、右と左を行ったりきたりするよね。 結局は同じなんだよ。ばねの弾性エネルギーも重力の位置エネルギーもポテンシャルエネルギーだから、運動エネルギーに変わったり、運動エネルギーから変わったりしていくんだ。 で、これをばね振り子だとか、調和振動子だとか呼ぶ。格好いいから調和振動子って呼ぶことにする。 でまあ、この調和振動子。運動方程式はこうなる。 ![]() さて、これを解いてみようか。 解くってのは、xを求めることに他ならない。 あ、志津子ちゃんはこの式大丈夫? ……そう。加速度は位置の時間微分2階ね。右辺は力そのまんま。 でまあ、解くには見たまんま微分方程式を使わなきゃならんのだが……ま、このレベルなら大丈夫だろう。 まず、さっきの式を変形する。 ![]() 「さて、こう考えられる。係数はとりあえず置いておくとして、xってのは、tで2回微分すると、元の関数のマイナスと同じになる……こんな関数、あったよな」 シーンと静まり返る。 もしかして志津子ちゃん、2年だから三角の微分習ってなかったりするかも…… 「三角?」 「そうだ」 とりあえず、稲穂から答えが出た。 「2回微分すると……あ、そうか。そうですよね」 なんだか納得している様子の志津子ちゃん。ということは、大丈夫なのかな。 サインでもコサインでもいいんだが、とりあえずコサインを使おうか。 で、係数をこう置く。 ![]() ωは普通『振動数』とか呼ばれるな。さて、代入するとこうなる。 ![]() だから…… ![]() 確認してみる。 ![]() ん、OK。 分かると思うが、サインでもOKな。 つまりは、周期的な運動をすることになる。 「これでまあ、ばねにつながれた物体の挙動がわかったってわけだ」 「へぇ……」 「なるほど……」 必死にノートを取る二人。 うん、感心感心。 ちなみにこの調和振動子、いろんなとこで出てくるから。 さて、話はがらっと変わって、摩擦の話。 摩擦。まあ、俺たちが立っていられるのも摩擦のおかげ。 摩擦がなかったら恐ろしい世界になるな。 置いといて。 まあ、この力の正体ってのは分子間力。ファンデルワールス力とか呼ばれてるが、それはこの際どうでもいい。電磁気的な力だが、とりあえず置いておく。 でだ。摩擦は、物体の底面と床の間に働く。 図にするとこう。 ![]() 赤いのが摩擦力な。大きさは、こうなってる。 ![]() まんまだが質量mに比例な。 Nってのは床からの垂直抗力。まあなんというか、物体には重力がかかってるわけだが、上下には動いてないよな。つまりは床から同じだけの力で押されてるってこと。 で、摩擦はその力に比例する。 ちなみに、常に動いているほう(動かそうとするほう)と逆にかかる。 この辺はイメージしやすいと思う。 でだ。このμは摩擦係数と呼んでるわけだが、どういうわけか困ったことがあるんだ。 それは、止まってるときと動いてるときで、摩擦係数が違う。 動摩擦係数(μ)と静止摩擦係数(μ0)と言うんだが。 一般的には静止摩擦係数の方が大きい。 止まってるものの方が、動かすのが大変ってわけだ。 グラフにしてみるか。こんな感じな。 ![]() F0(=μ0・Nね)まで静止摩擦力が頑張ってる。で、限界に達して動き出すと、あとは動摩擦力が一定の大きさで働く。と。 じゃあ、この摩擦力とエネルギー。 上の図で、x動かしたときの摩擦のした仕事は? 「え? 仕事?」 「ああ、仕事」 「定義から行くと……」 ![]() 「ですよね」 志津子ノートに書き示される定義式。 「でも動いてる方向真逆だよ」 「ってことは?」 力のかかる向きと、動く向きの成す角は…… 「シータは……」 考え込む志津子ちゃん。 「360°?」 「1回転してどうする」 大ボケの稲穂。 「180°ですか」 「だね」 「ん? ってことは……」 稲穂ノートにぐりぐり計算。 大丈夫かな、こいつ…… ![]() 「仕事マイナスって……ありなの?」 「ありなの」 健闘空しく力がかかってるほうと逆に動いて行った場合、その力のした仕事はマイナスになる。 「うーん……」 「ま、分かりやすく言うと……ずりずり押してるわけだが、摩擦があるせいであんまり動かないよな」 「うん」 うなずく二人。 摩擦がある運動は実際に見れるから、イメージしやすいだろう。 「本来ならもっと速く動けていたわけだ。ところがどっこい摩擦のせいで速く進まない」 「あ、じゃあその差? ……あー、そっか。本当の運動エネルギーから引くんだ」 なんとなくわかった様子。よかったよかった。 「ま、そういうことだな。ちなみに摩擦で使われたエネルギーは、熱やらなんやらになってどっかいってしまう。保存力じゃないってわけだな」 んー、じゃあ最後に、慣性力の話をして終わろうか こりゃまた説明のしづらい面倒な力なんだけど…… 志津子ちゃん。バスに乗ってて、急ブレーキがかかったら、どうなる? うん。前につんのめるよね。 加速度の働いている系を加速度系と呼ぶんだけど、あ、つまり加速中の電車やらバスを想像してみればいい。 急ブレーキってことは、後ろに加速度ね。前の速度が減ってるんだから。 で、加速度系でaという加速度がかかったとき、系の物体には、 こんな力がかかる。 ![]() 系の加速度と反対方向な。 図示すると、こう。 ![]() でまあ、これはいろいろ扱いが難しいんだよね。 何によっての力なのかわかんないでしょ? 見かけ上の力だとか、ややこしい議論があるけど、まああるものと思ってくれ。 でまあ、加速度系の反対の言葉は、慣性系。 等速運動している系と、静止してる系は運動的に区別できないから。 まあ、こういう力が働くということで。 まあ、この辺まで。 今回のまとめ。 ばねの弾性エネルギー。 ![]() 摩擦力。 ![]() で、慣性力。 ![]() 次はどうしようか。 みっちり力学やってもいいけど、他のもやっといたほうがいいだろうしなあ。 はあーっと二人が息をついた。 ちょっと急いだ感はあるな……教えるのも少し疲れる。 改めて回りを見回す。 誰もいない図書室。懐かしい空気。聞こえてくるのは時々通る車の音だけ。今日は部活もないらしい。 そんな静かな空気が破ったのは、ドアが開く音。 誰が入ってきたんだと顔を向ける前に、声が飛んできた。 「こら部外者」 「えっ!?」 バレた!? 俺か? 稲穂か!? つかつか歩み寄ってくる声の主に、俺は見覚えがあった。 というか、 「なんだ、よりりんか」 担任だった。 「そうさ、よりりんさ。みゃーこ」 不敵な笑みを浮かべて、恥ずかしいニックネームを呼んできた。 声の主は雲浦依子先生。通称よりりん。 1年と3年のとき担任だった。担当教科は数学で、授業では3年間通じて数学のお世話になった……時々稲穂への説明に出てくる『神経質な数学屋』とは、何を隠そうこの人のことだ。 「みゃーこはやめてくださいよ……」 丸いめがねをくいっと上げると、楽しそうに笑う。 「先にニックネームで呼んだのはどっちかな」 無造作に束ねられた髪、化粧っけのない顔。おおよそ色気というものが感じられない。でも、だからだろうか。俺たち生徒との距離はほんと短く感じたんだよなあ。ニックネームで呼び合うことにも違和感はないし。 「みゃーこ?」 首をかしげる稲穂。 しまった。懐かしさに浸っている場合じゃなかった…… 「都がなまってみゃーこ。で、なにやってんの、みゃーこ?」 物珍しそうに机の上を覗いてくる。 そこには広げられた稲穂ノートと志津子ノート(仮)。 「だからみゃーこは」 「かわいい」 「うるさい」 口を挟む稲穂。 さて、どう説明したものか…… 「えっとまあ、家庭教師の家庭じゃない版ですよ」 なんだそりゃ。心の中でセルフ突っ込みを入れる。 「そりゃ教師じゃないか」 ……ごもっとも。 「まあいいや。でまあ、この現役お二人さんに勉強を教えていたと。両手に花だね」 どうやら稲穂のこともここの生徒だと思っている様子。助かった…… さて、その現役お二人さんはというと、 「花だって、志津子ちゃん」 「ですって、稲穂さん」 手を取り合って仲良くしていた。 ああ、幸せそうで何よりだ…… 「で、よりりんはこの夏休みの学校へ何しに?」 しかも図書室。 「あたしは毎年恒例のアレをね」 「ああ、アレか……」 文化祭のアレですか…… 「でまあ、細かいところをちょっと忘れたから、図鑑でもないかと探しに来たわけさ」 「はあ、なるほど」 「ちなみにみゃーこの年よりも大きいわよ」 まあ、細かいところってんだからそうだよなあ。 ちなみに俺の代では手のひらサイズだった。 「毎年巨大化?」 「はは、そろそろ極大値だねえ」 ちなみに普通の人は極大値なんて言葉は使わない。 「小さくなっていくのか。で、5年後ぐらいは小指の爪に乗ったり?」 「その前に極小値があるでしょ」 よりりんならやりかねんが…… 「何次関数ですか」 「発散させる気? 三角よ。きっと」 あー、それもそうか。発散したらえらいことになるな。 「えらく長波長……ってか、重ね合わせてるだけかもしれませんね」 「あはは、みゃーこも上手いこと言うようになったねえ」 けらけら笑うよりりん。 卒業してから3年経ったってのに、相変わらずだなあ。 「……どうしよう、凄い変な会話してる」 「でも意味はわかるよ」 「そりゃ、分からなくもないけど……」 ついてこれてるのか分からない二人。 その二人のノートを覗き込むよりりん。 なぜだか俺が恥ずかしい。 「ふうん、物理ねえ……次は何するのさ」 「そうだなあ……」 考えてなかった。 何がいいかなあ。 そうだな。 「円運動やってから、重力の話ですかね」 「ほうほう。そりゃ興味深い。ってか、受験に使うのかね」 「さあ、出ないような気もする」 というか、量子までの道のりで必要なのかも分からない。 「ま、いいけどね……と、図鑑探してくるわ。気が向いたら文化祭に来なよ」 そう言うとよりりんは俺たちの机から離れて行った。 「……じゃあ、そろそろ帰るか」 「あ、うん」 「そうですね」 クーラーの軽く効いた図書室。 離れるのは名残惜しかったが、いつまでもいるわけにはいかない。 割と居心地も良かったし、また使わせてもらおう。 そんなことを思いながら、我が母校、志乃上高校を後にした。 戻る |