桜の下のソワレ・後編




 いつもより人の少ない職員室。春休みののんびりした空気は、ここでも例外ではなかった。
「うん、良いんじゃないかしら」
 持ってきた台本を一通り見終えると、あたしの担任でもある顧問の先生はうなずいた。
「ありがとうございます」
「気になるのは音響と照明のタイミングだけど……」
 先生は特に最後のあたりを気にしているようだった。
「ええ、それは信頼できるお手伝いさんがいますので」
 と、こまっちゃん。その信頼できるお手伝いさんは、今部室の掃除をしているはずだけど。
「それならいいけど」
「それに……」
 一応、例のテープについて説明をする。
「へえ、面白いことやるわね」
「はい、いい考えだと思って」
 そう言ってこまっちゃんが笑う。先生もこの考えに対して大きな問題はないと考えているようだった。
「そういえば、創立したての頃、似たようなことをやっていたわね」
「あ、そうなんですか」
「ええ。初代部長の子が一生懸命考えてね」
 懐かしむように先生が言った。
「へえ」
 初代部長……かあ。
 先輩たちが自分たちと同じような方法で少人数での舞台を成功させたってのは、ちょっと安心する。しかしまあ、また同じことをやるなんて、その先輩も思ってなかっただろう。
 初代部長はあんな人だこんな人だとこまっちゃんと想像を膨らませながら、部室へと戻る。
 ふと会話が途切れ、何気なく外を見てつぶやいた。
「ここって桜が少ないわよね」
「あー、そうだね」
 春を呼ぶ強い風が木々を揺らす。もうすぐ気温も上がってくるようなことを天気予報でも言っていた。
「春の学校といえば、桜吹雪の入学式と卒業式でしょうに」
 校内を見渡しても、あの明るいピンクの花は見当たらない。そろそろ開花の前線が差しかかる頃なのに。
「そうだね。なんだか寂しいね」
「願わくば」
 後ろから声がした。
「え?」
 振り返るとそこに、ミッキーがいた。
「桜の下にて春死なん……なんて」
「なんだそれ」
「えっと、西行……だっけ」
 こまっちゃんがそう言うと、ふっと微笑んでミッキーがうなずいた。
「はい。素敵な歌ですよね。素敵で、悲しい歌」
「言ってる事がよく分からないな。死ぬなら桜の下で死にたいってだけじゃないか」
 それにメイドが和歌を詠むか。ミスマッチもいいとこだ。
「桜の下で死ねるのなら、素敵だと思いませんか?」
「死ぬときのことなんか、考えたくもないね」
 死ぬことなんか考えてたってきりがない。そんなことよりも答えのはっきり出る数学について考える方が、はるかに有意義だ。
「そう。自分の死ぬ時の事を考えているなんて、とても悲しい歌。依子さんは海でおぼれて魚につつかれて死にたいですか?」
「極端だな……」
 それは嫌なことは間違いないけどさ……
「まあ、現実は病院のベッドなんだろうけど」
「そうだよね。あまりロマンチックじゃないよね」
「私は」
 一瞬、いつもと雰囲気が違うように感じた。
「桜の下で死ねたらって……思ってましたよ」
 廊下に吹き込んできた強い風が、三人の髪を踊らせる。
「……」
 お互いを見合うあたしら。静かな廊下。
 窓を揺らす風が弱くなったとき、小さくため息をついた。
「はぁ……」
 ずれていた眼鏡をかけなおすと、二人に向かって言った。
「なんであたしらが死に際トークなぞせにゃならん。もう少し女子高生っぽくしな」
 それを聞いて、顔を見合わせる二人。
「よりりんに言われてもなあ」
「ですよね」
「なによ」
 風に揺られる窓の音よりも、あたしらのはしゃぐ声の方が断然大きいみたいだった。女子生徒で華やかだから、お嬢の丘は桜がないのかもね。

 視聴覚室を出ると、もう真っ暗だった。春前の肌寒い空気が、通し練習でほてった体に気持ちいい。
「お疲れ様でした」
「はあ、疲れた疲れた」
 後片付けを終えたあと視聴覚室の鍵をかけ、こまっちゃんと共に新校舎を出る。
「ミッキーは完璧だね。あとは私達が上手く立てればいいんだけど」
「そうね。まあ、まだバミも貼るわけにいかないし」
 ミッキーの待つ部室に、明かりが付いているのが渡り廊下から見えた。紅茶の一つでも入れてくれてるのなら嬉しいけど。
「すっかり遅くなっちゃった」
「ん。さっさと着替えて帰ろうか」
 雲間から見える月を眺め、息をついた。
「あと二週間……か」
 ぼんやりと立ち止まっていると、後ろから「調子はどう?」と、声がかかった。
「あ、先生」
 振り返るとそこに、顧問の先生の姿があった。活動の様子を見に来たのかもしれない。
「上々ですよ」
 特に問題もない。あとは練習を重ねるだけ。
「そう。それなら良いけれど……ああ、そうそう」
 思い出したと言わんばかりに手を叩く先生。
「二人芝居って、昔にやったことがあるのよ。あなた達の先輩が。それで、多分部室にその時の台本とか、もしかしたらビデオなんかも残ってるんじゃないかと思って」
 なかなか重要な情報だった。二人芝居ならば恐らく視聴覚室か普通の教室で上演されたものだろう。そのときのビデオがあれば、かなり参考になるはず……
「そうなんですか」
「じゃあ、一度探してみます」
 希望に満ちた目をするこまっちゃん。でも、資料が山積みになった一角を思い出すと、あんまり喜べないあたし。
「何か参考になればいいわね」
「はい。ありがとうございます」
 まあ、探してみる価値はあるかな。
 文化祭まで、あと二週間。


 来た時は南中にあった太陽が、やや傾いて地面にはっきりと影を作る。
 もう四時。にもかかわらず、今日の成果はなかった。
「んー、ないなあ」
 ほこりの付いた眼鏡を拭いて、大きくため息をついた。
「ない? というか、多すぎよね」
 現実はそう甘くなかったようだ。
「たった五年でこんなに……一度も整理してないんじゃないか」
 ほこりっぽい空気に耐え切れなかったのか、こまっちゃんが奥の窓を開いた。と同時に部室の入り口から声がした。
「どうかしたんですか?」
「あ、ミッキー」
 珍しく遅刻してきたミッキーだった。
 惨状を見回しながら、経緯を説明する。ふんふんとうなずくミッキーは、どこか楽しそうだった。
「……というわけなのよ」
「あー、それは多分……」
 ダンボールの一つに手を突っ込むと、中から台本らしきものを取りだした。
「これじゃないですか?」
「うわ、一瞬」
 あたしらの数時間は一体なんだったのよ。
「ミッキー、すごい」
 微笑みながら、ページを確認するミッキー。
「前に掃除したとき、ちょっと整理したんですよ」
 と、得意そうな顔。整理するならちょっとでなく全部してくれればよかったのに……
 その手に持った台本は、何度も読み返したようにくたびれていた。ミッキーから受け取ったそれを、まじまじと見る。
「ふーん……『幹島みどり』って書いてあるね。この人が初代の部長さんかな」
「多分ね」
 マジックで表紙に書かれた名前は、几帳面そうな丁寧な文字。
 ゆっくりとページをめくってゆく。
「マメな人だなあ」
 台本の中身もあちこちに書き込みがある。この芝居の隅々まで描かれているような印象だ。
「本当。あ、テープのことも書いてるね」
 そのノートに書かれていた方法は、テープの再生を始めたあと視聴覚室の前扉から廊下に出る。そして急いで後ろの扉から入り、照明につくというものだった。なるほど、今回あたしたちがやろうとしてることそのままだ。
「よし、このアイデアもらい」
「だね」
 確かに視聴覚室内で急いでごそごそ動くよりは数倍マシだろう。顔も知らない先輩の案が、あっという間に採用された。
「このときから部員少なかったんだな」
 台本自体にそれほど厚みはないが、全ての書き込みに目を通すとなると、それなりに時間がかかりそうだった。
「参考になることはありましたか?」
「多少はね。でもすごい先輩だな」
「うん。演劇部作っちゃうぐらいの人だもんね」
 行動力と几帳面さと情熱。この台本一冊でその人となりが感じられる。こまっちゃんがふぅっと息をついた。
「ふふ……今日の練習はどうしますか?」
 目を細めて笑うミッキー。
 あたしは古い台本をパタンと閉じると、自分達の使うまだ新しい台本を手に取った。
「じゃあそろそろ行こうか」
「うん」
 少しだけ、謎が解けたような気がした。


 新しい学年、始業式を終えると途端に忙しくなる。状況が把握できない新入生を差し置いて、学校はお祭りの雰囲気を漂わせ始める。めでたく三年になった喜びやらをかみしめる暇もなく、春祭の準備は進んでゆく。
「花見に行こう」
 めでたく同じクラスになったこまっちゃんと、相変わらずクラス不明のメイド。いつもの三人組の会話は、あたしのこの一言で始まった。
「お花見……ですか」
「ああ、あたしら三人でね」
 キョトンとするミッキーに、そう笑いかける。
「……」
「えっと、ダメかな?」
 返事がないのを不安そうにするこまっちゃん。言いだしっぺだけに心配しているんだろう。
「いえ、とっても素敵だと思います」
 その心配も無駄になった。明るい笑顔と共に帰ってきた返事。
「よし、じゃあいつにしようか」
 天気予報の桜見頃予想を思い出しながら、壁にかけてあるカレンダーをめくる。
「できれば」
「うん?」
「できれば、文化祭の夜に」
「文化祭の夜?」
 あたしの記憶が正しければ、ミッキーの言う日は確かに桜が満開のタイミングだった。まあ、打ち上げも兼ねることができるし、夜桜もいいかもしれない。
「いいけど……近場にいいところなんてあったっけ」
「ええ、ちょうどその頃が見頃の、大きな大きな山桜が」
「へえ、どこに?」
 考えてみれば、学校の近辺で思い当たるようなところはなかった。こまっちゃんも同じらしい。
「それは、企業秘密です」
 そんなあたしらを見て、ミッキーは楽しそうに人差し指を口に当てた。謎メイド発揮。
「企業秘密ね……わかった。じゃあ場所はミッキーに任せる」
「はいっ」
 部室の黒板に落書きされた一首。
 『高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 立たたずもあらなむ』
 誰の仕業かは明白だったけど、まあ和歌を詠むメイドが一人ぐらいいてもいいだろう。なんて、最近思うようになってきていた。


 ほんの少しの思いつきだった。
「先生、初代の部長さんのこと知っていらっしゃいます?」
「え、どうしたの?」
「いえ、見に来てもらおうかなって思って……」
 こまっちゃんと二人で訪れた職員室。生徒の数が多いのは、差し迫ってきている文化祭の打ち合わせ関係だろう。
「ああ……」
 先生は一つ息をつくと、少し迷ったあと口を開いた。
「彼女ね、亡くなったのよ」
「……え」
 強く胸を押さえられるような感覚。
 亡くなった……?
 こまっちゃんの方を見る。何も言えないほどに驚いて、力なくあたしの方を見ている。
 多分、あたしも同じ表情をしているんだろう。
「……もともと余り体が丈夫ではなかったのだけれど」
「そうですか……」
 余りにも大きな出来事だった。会ったこともない人なのに。やりきれないほどに悲しくて、なぜだか悔しい。
 いろいろなことが織り交ざって言葉にできない。
「きっと、見守ってくれているわよ。後輩思いの優しい子だったから」
「はい……」
 あたしたちはただ、先生の言葉にうなずくだけだった。
 陳腐で月並みだけど、見守ってくれていると信じながら。


 仕舞ってあった大量の衣装に囲まれて、最後の衣装合わせ。
「うわあ、依子さんかわいい!」
 大正時代にいそうな女学生の制服を着て丁寧に髪をといたあたし。まあ、時間のかかったこと……
 で、後ろではしゃぎたてるこのメイド。
「うるさいな……お世辞言っても何も出ないぞ」
「お世辞じゃないですよ。普段からおしゃれすればいいのに」
 普段はおしゃれやらファッションやら全く気を使わないけど、さすがに舞台の上ではそういうわけにもいかない。
「大きなお世話よ」
 着飾って何になるというのか。必要以上の装飾は、時間とお金の無駄としか思えない。
「ねえ、初佳さんもそう思いますよね?」
「よりりんはね、数学よりきれいなものがないから、着飾る意味がないんだって」
 苦笑いのこまっちゃん。そういえば、ちょっと前にこまっちゃんからも言われたなあ……
「意味が分かりませんよ」
「それ以上でも以下でもないんだよ」
「勿体無いなあ……」
 残念そうにため息をつくミッキーを、こまっちゃんは楽しそうに見ていた。何か考えていそうな、それを楽しんでいそうな表情。さっきまで衣装の整理をしていたみたいだけど……
 で、こまっちゃんの衣装合わせ。ミッキーはやっぱり同じようにはしゃぐのだった。
 気付けば、文化祭はもう明後日。


 文化祭前日。全授業が休みになり、校内は明日の準備に追われる。きっと明日は、いい日になるだろう。今までずっと三人協力して頑張ってきた。
 自分達が出る時間を確認し、少し使う道具を視聴覚室近くの教室へと移動させる。
 やることはすべて終えた。
 あとは、本番だけ。

 その日その場所その時間。来ないでくれと願いながら楽しみにしていた場所は、もう目の前にあった。
 照明の落ちた視聴覚室。そして、数十人の気配。
「ああ、もう、緊張するなあ」
 衣装と髪をしっかりと整え、最初のやりとりを軽く思い出す。両手で自分のほほを叩くと、しっかりと自分の立つ舞台を見た。
「そう? 私は楽しみだけど」
 腹立つほどいつも通りのこまっちゃん。内から湧き上がる感情を抑えられないような笑顔。本当に心から楽しんでるなあ……
「久々だからね……それに、原作があるとはいえ自分の書いた物だ。緊張しないはずがない」
 まあ、この公演に関しては何も心配することはないんだけど。共演者も、裏方もね。
「でも嬉しそう」
 こまっちゃんの言う通り、なかなかに嬉しい。
「そりゃあ」
 静かだった教室に、最初の音楽が流れ出す。
「嬉しいと緊張は矛盾しないからね」
 そしてあたし達二人は、舞台に飛び出した。


 滞りなく、全てが終わろうとしていた。
 あたしは舞台袖へ走り、こまっちゃんが上手で立ちつくす。
 ここから、問題のラストシーン。
 幾度も練習したタイミング。ウェーブのかかった髪をふわりと揺らしながら、こまっちゃんがセリフをつぶやくシーン。
 同時にテープの再生を始め、照明作業へと移る。教室の後ろへ、廊下に出るはずだった。
 練習した通りにテープが始まる。タイミングは完璧。
 でも、前の扉は開かなかった。そして、後ろの扉から入って来た影はなかった。
 そして幕は、静かに下りた。
 解いてみれば、単純な方程式だったのかもしれない……なんて思う。


 住み慣れた演劇部部室の中は、外の騒がしさと切り離されたような静けさだった。
「改めてお疲れ様」
「うん、お疲れ」
 やれやれ。
「お疲れ様でしたぁー」
 変わらずの平和な声。
 無事に公演を終えた演劇部三人は買って来たジュースを紙コップにつぎ、小さな乾杯をした。
「ちょっと疲れたね」
「……というよりは、解放されて今までのがどっと押し寄せてきた感じ」
「そうかもしれませんね」
 大きく息をつくあたし達を、ミッキーは笑顔で見ていた。
「文化祭はあと二時間ぐらいで終わっちゃうけど……どうする?」
 時計を眺めながら、こまっちゃんがつぶやく。
「このまま帰ってしまったところで、それほど問題はないね」
「そうなんだよね」
 なんとなくミッキーに目をやると、
「……じゃあ、少し早いですけど、お花見に行きましょうか」
 応えるような満面の笑み。
 そうこなくっちゃ。
「いいんじゃないかな」
「だね」
 こまっちゃんも、もとよりそのつもりだったんだろう。
 十分後にはもう仕度ができていた。
「んで、場所は?」
「こっちですよ」
 ミッキーに導かれるままに、どんどん歩いてゆく。廊下を進んでゆくにつれ、文化祭の雑踏はどんどんその姿を減らしていた。
 やがて全く誰もいない校舎裏にたどり着く。
「ここからですね……ちょっと登るんです」
 学校と林の曖昧な境界。
 ミッキーの指差したそこは、やっと人が通れそうな道のようなものがあった。
「こんなとこあったんだ……」
 こまっちゃんの言う通り、普通は気付かないような木の陰にある小さな道。どうやら丘の上の方へ続いてるみたいだけど……
「で、先には桜が待ってるって?」
 その問いに答えることはなく、笑顔のままで促すミッキー。
 ……ま、いいか。
 半信半疑のままに、桜のない丘の上を目指す。その道は思ったよりも歩きやすく、また距離も短かった。いろいろと話をしながら、ゆっくりと歩いたつもりだったけど、ほんの五分歩いたぐらいに感じられた。
 着いたそこには、
「うわ……」
「ほんとにあった……」
 思わず息を飲むほどに咲き誇る、一本の桜があった。
「綺麗でしょう?」
 胸を張るミッキー。
「え、なんで? こんなとこあったなんて、全然知らなかった」
「穴場ですから」
 確かに、誰も足を踏み入れた様子がない。少し向こうで祭りがあるとは思えないほどの静けさと、手付かずの美しさ。
 あたしら三人はこの丘唯一の桜を静かに見入っていた。
 強い風が一陣、丘を撫でるように吹きつけた。呼応するように舞い散る桜。
「それじゃあまあ……」
 その様子を目を細めて見ると、
「寝ますか」
 そう言って笑った。
「あ、私もそれ言おうと思った。結構限界かも」
 楽しそうに笑うこまっちゃん。
 最近睡眠時間が少なかったし、今日は早起きだったしで、正直なところそろそろ限界だった。
「ふふ、じゃあみんなでお昼寝しましょうか」
 たまった疲れが一度に噴き出したような感覚。ミッキーの用意した敷き物に、三人仲良く寝転がった。
「もう夕方だけど、昼寝って言っちゃっていいのかな」
 あくびをかみ殺しながら、こまっちゃんが笑う。
「はは、それは言いっこなしで」
 寝ながら見上げた夜桜は、沈む陽の光を十分に反射して、暗くなり始めた空に輝いて見えた。
「はあ……」
「綺麗……」
 桜の香に包まれながら重くなるまぶた。心地良い地面の感触に、逆らうことなく眠りに落ちた。

 空は夜の闇に染まり、隠された月が雲の輪郭を映し出す。瞬く星があちらこちらに見え初めた頃。すっと起き上がる音と影。
 その影は座ったままで、じっと空を見つめ桜を見つめ……そして地を見つめ。少しの間のあと、音もなく立ち上がった。
「こら」
「……えっ?」
 影が振り向いた。
「どこ行く気よ」
 ふいっと体を起こす。
「えっと……」
 やがて月が現れる。その光ははっとするほど明るく桜を輝かせ、桜の下にいるあたし達をぼんやりと映し出した。
 あたしが呼び止めた影は、メイドの衣装を身にまとったままのミッキー。
「中途半端なところで舞台降りるなんて、それでも役者?」
「私、裏方ですよ?」
 責める口調を、さらっと笑顔でかわすミッキー。
 やれやれ、この期に及んでまだとぼけるか……
「……はぁ、付き合ってやろうかと思ってたけど、もう終わり」
 大きく息をつくと、ぱたぱたと服についた桜を払って立ち上がった。
「よ、よりりん……」
 あわてて体を起こすこまっちゃん。やっぱり起きてたか。
「どうしても行くってんなら、きちんと幕にしてからよ」
「幕……ですか」
 困ったように笑う。
「そうよ。洗いざらい全部話す。生憎お嬢の演劇部では理不尽系は取り扱ってないのでね」
 淡い光に照らされた桜下の三人。
 こまっちゃんも静かに立ち上がる。じっとそっちを見ると、小さくその名を口にした。
「ミッキー……いえ、幹島さん」
 呼ばれた彼女は桜を見上げると、小さく息をついた。
「あー……ばれてたんですか」
 いつもの笑顔が、少し困っていた。そんな元演劇部部長に笑いかける、現演劇部部長。
「やっぱりそうだったんだ」
「えっ」
 数秒の沈黙、
「カマかけましたか」
 やっと理解できたようだ。意外な人物にやられた……なんて、そんな風に笑う幹島みどり先輩。
「ミッキー・グリーンランドか。緑島で幹島みどり……単純ね」
「最初に演じた役名なんですよ。私の、私だけの役」
 懐かしむように桜を見上げ、先輩は自分の衣装を軽く撫でた。こまっちゃんが整理した衣装箱からなくなっていた、メイド服を。
「で、なんでいるんですか、先輩?」
 髪や服に花びらがつく。そんなものに構わず単刀直入に聞いた。
「あは、『先輩』かあ……私、『部長』って呼ばれたことしかなかったから、新鮮」
 同じく全身を花びらに飾られながら、先輩が微笑んだ。
「今は私が部長ですから」
「そうだね、小松川さん」
 舞い散っても舞い散っても花を減らしたように見えない桜。
 手のひらで花びらを受けながら、先輩はあたし達を見た。
「じゃあ、もう少し舞台に立つね。私の最後の……少しの時間だけ」
 そう前置くと、先輩は静かに語り始めた。
「むかしむかし、逢見はね『桜見』って書いたんだよ」
 思わずこまっちゃんと顔を見合わせる。そんなあたし達を見ながら、ミッキーは微笑んで話を続ける。
「その名の通り桜を見る丘。それがこの場所。もうこの一本桜しか残ってないんだけどね」
 花びらをふわっと宙に舞わせるミッキー。
「このあたりの人はね、昔から桜が好きだったみたい。だから、死んだ人もお花見するんだって。お彼岸で帰ってきて、しばらくいるんだよ。このあたりの人は」
 ミッキーの言うこのあたりがどの程度の範囲なのか分からなかったけど、それでも見上げた桜の美しさに『そういう話もあるかも知れない』なんて思う。
「面白いでしょう? 死んだはずの人を見た……なんて昔話も、その季節が一番多いんだよ」
 そう言いながら自分を指差すのを見て、思わずぷっと吹き出した。今更ながら、面白いメイドだ。
「だからね、桜の花を見ながら、ご先祖様を送ったんだよ。それが、お嬢の文化祭が春にある理由。知ってた?」
 もちろん初耳もいいとこだ。
 本当にただの新入生歓迎と三年生の最後の楽しみのためだと思っていた……まあ、迎える送るという意味では通じているのかもしれないけれど。
「ミッキーも、そうなんですか? ……そうなの?」
 最後の舞台はもう少しで幕を迎える。
 呼応するように風が止まり、桜の降る勢いが弱くなる。
「私は桜というより、あなた達を見たかったから……でしょうか」
「どうでした?」
「安心しました。そして……楽しくて、嬉しかったです」
 それは演技でもなんでもなく、先輩の正直な感想なんだろう。
 時間を越えて時間を共にした、一瞬の数奇な演劇部。
「それはありがたいこと」
「私達も楽しかったよ」
「そうですかあ」
 桜の下で、お互い笑いあう。
 やがてその声も止み、来る前のような静寂があたりを包む。
「……あんまり空ばっかり見てると、霞かけるよ」
 黙って月を見上げるミッキーに、笑いながらそう言った。
「依子さんは本当にしそうだから怖いですよね」
「ほんとほんと」
 ミッキーの言葉にうなずくこまっちゃん。
「でも……」
 改めてあたし達をじっと見たミッキーは、
「そろそろ幕です」
 小さく、そう口にした。
「お花見、楽しかったよ。食べ物も飲み物もなかったけど……」
 こまっちゃんがそう言って微笑んだ。
「別に飲み食いするだけが花見じゃないさ」
 何もいらなかった。何かが欲しいと思わなかった。この場所に三人で立てたことが、本当に楽しかった。
「うん、そうだけど……そうなんだけど、やっぱり一緒にご飯食べて、ジュース飲んで、それから……」
「初佳さん」
 また風が出はじめた。
 夜の空に消える、こまっちゃんの声。
「演技とかね、教えてもらうの。私達ももう三年だけど、まだまだ勉強不足だし……あ、でも扉を開けないで移動するのはミッキーにしか、無理……だよね」
 その声は、
「こまっちゃん」
 もう言葉にならず、
「それからね、えっとね……えっと……」
 その目には涙があふれていた。
「こまっちゃん。もういい。強がるな」
 こまっちゃんの肩に軽く手を乗せる。
「よりりん……」
 すがるように、その手を握ってくるこまっちゃん。
「初佳さん」
 ふわりとミッキーの足が離れた。扉を開けずに移動するようなメイドだ。今更空に浮いたところで不思議でもない。
 ただ、寂しいだけだ。
「やっぱり人はあるべき場所にいないとダメなんだと思います。それと、あるべき表情も。笑顔じゃない初佳さんなんて、私は認めませんよ?」
 時間がないのは明白だった。気のせいか今にも消えそうなミッキーの姿。
「ミッキー……ありがとう」
「うん」
 ミッキーはいつものように明るく微笑んだ。
「……じゃ、この公演はこれにて幕。メイドのミッキーはもういない」
 そう前置くと、あたしは先輩の方をしっかりと向いた。
「幹島先輩」
「うん?」
「ありがとう……ございました」
 深く頭を下げる。
 ほほを伝う感触があった。
 足元ではじける、水滴。
「こちらこそ」
 あたしに倣うように先輩も頭を下げる。
「草葉の陰から見守るね」
 その言葉に、強く笑って見せた。
「いつでも出てきていいですよ」
 最後の最後まで、言ってくれる人だ。
「あはは、うん」
 先輩はそう笑って、こまっちゃんの方を向いた。
「小松川さん」
 まだ整理がついていないのだろう。今にも崩れてしまいそうなこまっちゃんを、消えそうな手でそっと撫でた
「演劇部のこと……よろしくね」
「……はい」
 ぽろぽろと涙をあふれさせながら、大きくうなずくこまっちゃん。
 強い風が吹き、地に落ちていた花びらさえも宙に舞う。
「じゃあね」
「はい、お元気で」
 踊る桜の中、不思議な心地良さがあたりを包む。
 夢の中にいるような錯覚の後、
「ばいばい」
 そう、声が聞こえた。

 星が瞬いていた。
 嘘のように止んだ風と、祭りのあとを思わせる静けさ。
「いっちゃった」
「……うん」
 これで、お嬢の文化祭が終わる。昔から受け継がれてきたその役割を、誰にも知られることなく静かに終えて。
 あたし達はずっと、空へと立った先輩を見送っていた。丘の上に立つ、一本の淡い桜と共に。桜見の丘から、ずっと。


おわり


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