ベルクート×ハヅキ 著者:お茶様

馬蹄の音が響く。刃の擦れる音。悲鳴。怒号。
そこは戦場。ハヅキは改めてそれを思い知る。
齢17にして、彼女は前線で戦う兵として戦場へと送り込まれていた。

「深追いはするなよ!目的はあくまで住民が避難するまでの時間稼ぎだ!」
響いたのはミューラーの声だったか。向かい来る兵を斬り捨てながらハヅキはそんな事を思った。
もうどれくらいの時間、こうして戦っているのだろう。
あとどれくらいの時間、こうして戦っていればいいのだろう。
考えながら、その手は確実に敵を仕留めるべく刀を閃かせる。
鎧の隙間を狙って刀を突き入れる。喉元を断ち切る。苦痛の少ない様に、確実に、
短い時間で絶命するように。
逃げる兵を追う事はしない。あくまで、これは時間稼ぎなのだから。
少女の細い腕が刀を振るう度に、ゴドウィンの兵はひとり、またひとりと倒れてゆく。
早く、早く終って欲しい。逃げればいいのだ。逃げるのは悪いことではない。
望まずして戦場へ送られたのなら、恐れをなして逃げ出したところで誰も咎めはしないから。
これ以上向かってこないでくれ。もう終ってくれ。
早く、早く─────祈りにもにた思いを抱き、それでも、残酷なほどに的確に、
向かうものを全て斬り捨てる。
肉を斬り骨を絶つ感触。刃がずぶり、と肉に沈む。眉を顰めた。そのまま力任せに斬り捨てる。
あっけない程簡単に人の身体を形作るその支柱はぼろりと折れてしまう。
肉や魚を切るのとは違う。もっと重い、生々しい感触。
吹き上がる血はまだ暖かい。絶命してなおびくびくと痙攣する肉の塊となったそれを、
決して視界に捉えないように。自ら手にかけたそれを決して見てしまわないように。
ハヅキは必死に剣を振るった。

砂埃は赤く染まり、生々しい匂いを伴って戦場を漂う。赤く煙る戦場。
吐きそうだ──もう、嫌だ。

どれくらい時間が経ったのだろう。まわりに見える兵は敵ばかりで、
同じ戦場にいるはずの仲間が見えない。少しずつ、心が麻痺してゆく。
血を浴びるたびに、命を絶つたびに、少しずつハヅキの心が、その胸の内がひんやりと冷えてゆくような錯覚に囚われる。
もう、終わってくれ───何度目かのその胸の内の声に答えるかのように、声が響いた。
「住民の避難は終わりました、退がります!」
聞きなれた声にハヅキは安堵を覚えた。姿が見えなくても傍にいる。
そう感じたのだ。続いてヴィルヘルムが総員に撤退命令を出すのが聞こえた。
既にゴドウィンの兵は敗走を開始している。
終わった。逃げてゆく兵たちの背中を見送りながらハヅキは刀を下ろした。

「───ハヅキさん」
慌しく兵たちが駆け回る中届いた声にハヅキが顔を上げる。ベルクートだった。
部隊長として戦場に出るベルクートの副官として、ハヅキはここへ来たのだ。
刀を納めようと視線を落とし、手が止まる。苦悶の表情。おびただしい血を流した兵の死体。
それはひとつやふたつではなかった。己の手に握られた刀はその血で赤く濡れていた。
先端から滴る赤い雫は、つい先程まで人を斬っていたのだと思い起こさせるには十分だった。
「…戻りましょう」
ベルクートは強引にハヅキの顔を上向かせる。
そんなベルクートの剣も同じように、赤く染まっていた。
長い大振りのその剣は柄に至るまでが染まっており、彼がどれほどの数の敵を斬ったのか、
容易に伺わせた。視線に気付いたベルクートはそれをさりげなく隠すように、
ハヅキの背を押して歩き出した。
幸いしたのは、ハヅキが身に纏う服は暗い色だったということだろう。
鮮やかな赤い革鎧と、黒の着物は血の跡を隠した。彼女がどれほどの血を浴びたのか。
それを知るのは本人ではなく、背中に触れたベルクートだけだった。

レルカー防衛線を勝利で終えた王子軍は、レルカーの街を離れ、本拠地である城へ向けて帰還した。
状況はさほど変わっていない、無事にレルカーの民が避難を終えただけ。
近いうちにまた大規模な戦闘が行われる可能性は高い。
状況が状況だけに、それは止むを得ない事ではあった。
ベルクートは重い気持ちで戦果報告を終え軍儀の間を後にした。
いつも戦闘の後は気分が重く、苦しい。胸のあたりが圧迫されるような不快感。
生還した喜びなどない。
それはいつでも変わりはしないのだが、今日だけはいつもよりも強くそれを感じていた。
罪悪感。それ以上に感じたものは────。

「ベルクートさん、ちょっといいです?」
不意に呼び止められ、ベルクートは足を止めた。
振り返ると王子軍の頭脳であるルクレティアの姿があった。
少しお話したいことがあります。彼女はそう言うとベルクートを部屋へと誘った。
逡巡した後、ベルクートはそれに応じ、ルクレティアに続いた。

「あなたに謝らなければいけないと思っていたんです」
徐に、ルクレティアはそう切り出した。いつもの読めない飄々とした様子ではなく、
少しばかり消沈したような姿だった。
「私、私情を挟まないで下さい、って、出撃前にあなたに言いましたよね」
ベルクートはそれに答えなかった。
出撃前、編成を聞かされたベルクートは、珍しく怒りを露わにして王子とルクレティアに意見していた。
自分の隊にハヅキが配属されていることを。ハヅキを戦場へ送り出すという彼らの判断に反対し、
撤回することを求めたのだ。
ハヅキは腕の立つ剣士ではあるが、まだ幼い少女。まして人斬りの経験などないだろう。
穢れないその娘を、戦場に立たせることはしたくなかった。人を斬ることをさせたくはなかったのだ。
それが自分の勝手な思いであるとは判っていた。
だが、あまりに純粋で、無垢な少女に穢れを教えることはしたくなかったのだ。
血を浴びて戦うことの苦しみと、人を斬る痛みを、知ってほしくなかった。

我侭だというのは承知していた。だからこそ、きっと撤回することはないだろうと、それも判っていたのだ。
それでも言わずにはいられなかった。
思っていた通りその判断が覆されることはなかった。
それに加えて、王子やロイなども同じように戦場に出て戦っているのだと。
戦場では剣聖と恐れられるリヒャルトも、ハヅキと同じ年であるにも関わらず、戦場に出ているのだと。そう諭された。
彼女だけではないのだ。幼くして戦場へ向かう者は、と。

「あんな偉そうな事を言っておいてなんですが、今、少し後悔しています」
声の調子が低くなる。珍しい──ベルクートはそう思った。
いつも王子の為にはと、非情に徹することも厭わなかった彼女がそんな事を言うとは。
「ハヅキさんは強いですし、傍にあなたがいるなら大丈夫だと思ったんです。
実際、目立った怪我などはしていませんが───」
そこで一度、言葉を詰まらせた。ルクレティアが言わんとしている事は、十分に想像がついた。
そして、自分はそれを最も危惧していたのだ。
「……見えない所にも、傷は残ります」
ハヅキが女だということ。
それは剣士としての腕前には関わらない。実際に、ミアキスやイザベルなどは、
女性でありながら男性にも劣らぬ腕を持っている。
問題は、そこではない。

「…ハヅキさんは、人を斬ったことが一度もなかった」
ベルクートのその言葉に、ルクレティアは深く頷いた。
「私の思い込みです。ハヅキさんは心も強い子だから、大丈夫だと。
けれど、そうではなかったみたいです」
人を斬るのに慣れることほど残酷なことはない。
戦時中、従軍するものであれば、必ず一度は通る道だ。
ベルクートが初めて戦に関わったのは、奇しくも同じレルカーだった。
先の女王騎士ザハークとのレルカー会戦である。
その後、ドラート攻略、新女王親政と戦に関わってはいるが、未だに戦には慣れていない。
兵卒を務めるほどまでにはなったが、その心の内は変わってなどいない。
「こんな事を今更言うのもなんですけど……ハヅキさんの事、お願いしたいんです。
近いうちにまた戦いになるかもしれません。王子次第ですが…。残酷な事を言いますが、その時までに」
「わかっています。…もう、宜しいですか」
ルクレティアは頷き、ベルクートを下がらせた。彼が怒るのも無理はないと判っていた。
けれど、王子と自分の判断も間違っていなかったと信じている。
事実、レルカー防衛線での勝利に、ベルクートの部隊は大きく貢献している。
ハヅキ一人の力ではないだろうが、彼女が加わることでその結果が出たというのは事実なのだ。

きっと深く傷ついているであろう少女に、次の戦のために立ち直って貰わなければいけない。
そう思うと気が重い。
そしてそれを、彼女が出撃する事を最も拒んでいるベルクートに頼まなければならないことも、
ルクレティアの胸を痛めた。
ハヅキがこの城で最も信頼を寄せている相手は、王子でも自分でも、他の誰でもない。
ベルクートだ。それを知っているから、彼女が最も望む相手はベルクートだと判っているから、
ルクレティアはそうする事しか出来なかったのだ。
最も、自分が口を出さずとも、あの優しい男はそうしたのだろうが。

ひとつ大きな溜息をついて、ルクレティアは部屋を出た。
嫌われることには慣れているが、だからといって落ち込まないというわけではない。
けれど、重い気持ちを気取られてはいけない。何時もの表情に戻り、軍儀の間へと向かった。

「ここにいたんですか」
月が中空に昇る頃、既に夜の帳も下りた城の離れで、ベルクートは漸く求めた姿を見つける。
月明かりに照らされたその身体はとても小さく見えた。
鎧を外し、湯浴みを終えたハヅキは、部屋へ戻らずそこにずっと立ち尽くしていた。
湯上りの身体は既に冷え切っている。長い時間、そこで月を眺めていたのだろう。
呼び声に、ゆっくりとハヅキが振り返る。今にも泣き出しそうな顔で、それでも目が合うと、
弱さを押し隠すように表情を変える。
「…月が」
そうまで言って、その先を飲み込んだ。声が震えている。
ベルクートはゆっくりとその傍らに歩み寄る。
ハヅキは一瞬怯えたように身を強張らせたが、ふわりと頭を撫でられ、少しだけ力を抜いた。
「綺麗ですね」
先を繋ぐように言うとハヅキは俯き、頷いた。それ以上は何も言わなかった。
「風邪をひきますから、もう部屋に戻りましょう。……送りますから」
答えはないと判っていた。ベルクートは細い肩を抱き寄せると、歩き出す。
ハヅキはそれに従うように、けれどとても緩慢な動きで歩き出した。
きっと誰にも会いたくないだろう。
そう思ったベルクートは、敢えて遠回りする道を選んだ。
人気のない道を選んで歩く。その気遣いにハヅキは気付いていたが、
ただ、小さな肩を震わせながら歩くことしかできなかった。

ハヅキの部屋は、ベルクートの部屋にごく近い場所にあった。
なるべく近くがいいと言い張ったハヅキに気を使った王子が、与えた部屋だった。
扉に手をかけるとハヅキがまた身体を強張らせた。
「…戻りたくない」
部屋の中には、戦の中身に付けていた衣装と刀がある。今日だけはそれを見たくない。
そう思った。ひとりで、部屋の中で、それらを見るのが恐かったのだ。
「一人に…なりたくない……」
弱弱しく紡がれたその言葉に、ベルクートは思い切りハヅキを抱き締めた。
こんな時にかけてやる言葉を自分は知らない。どんな風に接してやればいいのかわからない。
ただ、離したくないと思った。腕の中で震えるハヅキを、離したくないと、そう思った。

ハヅキを抱きかかえベルクートは自分の部屋へと戻った。
一人になりたくないというハヅキを置いてゆくことはできなかった。
少しでも傍にいることで慰めになるのなら、幾らでもそうしてやろうと思っていたからだ。
「疲れているでしょう、ここで休んでもらって構いませんから」
ベッドに下ろしてそう言うと、ハヅキは頷いた。決して顔を上げようとしないのは、
泣き顔を見られたくないからだろうか。こんな時まで隠さなくても良いのに。
触れたハヅキの身体はひどく冷たかった。
濡れた髪をそのままに立ち尽くしていたハヅキの着物は濡れており、
それが更にハヅキの身体を冷やしている。
何か着替えを用意しようと離れかけたベルクートの服を、ハヅキが掴んだ。

「───ハヅキさん」
優しく呼びかけると、ハヅキの唇から嗚咽が洩れた。
必死に堪えていたものが溢れたかのように。
押し殺すようなそれは、今のハヅキの思いのすべてを伝えていた。
「わ…私は…っ」
初めて人を斬った。それも、一人や二人ではない。
生まれて初めて戦場に立ち、初めて人を殺した。
多くの人間の命を、自らの手で奪った。
大儀ある戦いと判っていながら、それでも逃げ出したくて仕方がなかった。
恐かった。人が人ではなくなる。命を奪われ、唯の肉塊となる。
その瞬間が何より恐ろしかった。
それでも刀を奮わなければ自分が死ぬ。
戦いたくない。これ以上、殺したくない。
そう思いながら、死ぬことを恐れて手を止めることができなかった。
肌にかかる生暖かい血の匂い。断末魔の絶叫。血で煙る戦場。
見回せば、敵ばかりで。
「私は……あんなにも、多くの」
血に濡れた刀。刀だけではない。身体が濡れていたのは、汗ではなかった。
無論それもあった事は確かだった。だが、鎧を、着物を脱ぎ自らの裸身を見た時、
ハヅキの脳裏に浮かんだのは、最後に見たあの兵の顔だった。
苦悶に満ちた顔。おびただしい血。縋るように伸ばされた腕。幾つもの物言わぬ骸。
染みた血はハヅキの白い肌に跡を残していた。悲鳴を上げることはなかった。
否、出なかった。
忘れたいと思った。風呂に誰もいなかったのは幸いだった。ハヅキは涙を零しながら、
一心不乱にその血の跡を落とした。何度も、何度も。
それでもまだ、血の匂いがする。そんな気がするのだ。忘れられない。
頭の中にこびりついてはなれない顔。身体に染み付いてはなれない匂い。
それらがハヅキの心を支配した。

「ハヅキさん」
「私は……っ、わたしは…!」
ひとりでいれば思い出してしまう。
眠ればきっと、夢に見てしまう。
目をそらすことで自分を保つことしかまだ知らないハヅキは、
それを認めてしまうことで、自らが折れてしまうような気がした。
もう刀を持つことができなくなる。そう思った。ただ、怖かった。何もかもが。
「ハヅキさん…」
取り乱したハヅキを抱き締めた。堪えきれるものではないのだ。
泣いてくれたらどんなに楽だろうと思った。
ハヅキは強いからそれすら出来ないだろうとも思ってはいたが。

「ベルクート…!」
腕を伸ばして縋りつく。声を上げて泣きながら、ハヅキは力いっぱいその身体にしがみついた。
張り詰めていた糸が切れたハヅキは震えながら、泣いた。
戦の後の重みは、男も女も関わらない。剣を振るい人の命を絶つ。
それが仕事なのだ。だが、それはハヅキが一人で負うには重過ぎる。
罪悪感と呼ぶべきなのだろうか。後悔と言うべきなのだろうか。
それを知るものは、本人だけ。
死と隣り合わせの恐怖と戦いながら、ハヅキはどれだけ苦悩しただろう、一人で。

「ずっと…ずっと、匂いがする…。体中、血の匂いがして…手にも…感触が、
まだ残って…」
背に回された手に力が篭る。思い出したのだろうか、震えが一際強くなる。
「何処に居ても、何をしていても、思い出してしまう…頭から離れない、
私が、私が、殺した……」
「ハヅキさん…もう、いいですよ」
それ以上は、言わなくていい。言わないで欲しい。
人を殺すのは誉められたことではない。本来ならば咎められるべき事だ。
それが例え戦であっても。それでも、戦わなければ死ぬ。
死ぬことも、殺すことも、普通の人間には恐ろしいと思えることだ。
今までハヅキはきっと、大事に育てられてきた娘だろう。
そんな娘には辛すぎることだった。それでも────。

「…勝手とわかっています。でも、貴方が無事でよかった」
背中を撫でながら耳元で囁いた。いつもきちんと結われている髪が、
近くで見ると随分と乱れていた。きっと自分を抑えることで精一杯だったのだろう。
震える手で、それでも外見だけはいつもと同じようにと結んだ髪。
ベルクートがその紐を解いてやると、碧緑の髪がさらりと流れた。
「貴方を失っていたら、私は」
ハヅキが伏せていた顔を上げた。涙で濡れた顔は初めて見せる、
歳相応の少女の顔だった。
不安に押し潰されそうな弱々しい光を宿した瞳は、いつもと全く違った顔を見せていた。
そんなハヅキを、愛しいと思った。失わずに済んだことを、この腕に抱けることを、
誰にともなく感謝する。
ハヅキが瞳を閉じる。吸い寄せられるように、ベルクートはそっとハヅキに口付けた。

────怖かった。
冷たくなってゆく身体が。染み付いた匂いが。
まるで自分までそうなってしまうのではないかと思うほど。
それでも、「日常」へ戻る気にはならなかった。なれなかった。
暖かいその場所へ戻る資格は自分にはないのかもしれない。そうとまで思った。
本当は、ベルクートにだけは会いたくなかった。見られたくなかった。
まだ汚れているような気がするこの身体を見られたくなかった。
もしかしたら、まだ血の匂いがするかもしれない。そう思うと傍に行けなかった。
けれど、そう思う心とはまた逆に、傍にいたいとも強く思った。
怖かったから。不安だったから。一人で居ると押し潰されてしまいそうだったから。
ベルクートの声はいつも、どんな時でも、ハヅキの心に安堵を与えた。
ふとした時に触れた手の温もりを思い出し、恋しいと思った。
叶うなら、その温もりに包まれたいとも。
訓練の時、戦闘の時、いつも自分を気遣って守ってくれる。
近付いて、ベルクートの匂いを感じると安心した。誰よりも、信じていたから。
だからこそ、汚れてしまった自分を見られたくないと、触れられたくないとも思った。
元が潔癖な少女だけに、その葛藤に苦しんだ。触れてほしいのに、
自分に触れることで彼も穢れてしまうのではないかとまで思った。

ベルクートは、冷え切ったハヅキの身体を包む着物に手をかけ、ゆっくりと脱がしてゆく。
それは思ったよりもずっと冷たく、湿っていた。
帯を解き、床に落とす。直に触れた肌は生気を感じさせない程に冷たい。
白い肌は冷えすぎて、まるで血が通っていないのではないかと思わせるほどだった。
長い口付けから解放し、ハヅキをもう一度抱き締める。

「……ベルクート……」
既に上半身を露わにされたハヅキは、抗うことはしなかった。
逆にその細い腕をベルクートの首に、躊躇いがちに回した。
そのまま膝立ちになるように抱え上げ、濡れた布地を下ろし下肢をも露わにする。
帯と同じようにそれを床に落とすと、ゆっくりとハヅキをベッドへと押し倒した。

「私は……卑怯ですね」
ベルクートの青い瞳が揺らぐ。こんな時に、こんな事を。そう呟いた。
組み敷いた身体は細く、頼りない。鍛えられた身体に無駄はなく引き締まっており、美しかった。
だが、それは欲情を誘うような美しさではない。頼りなく、弱い、
触れた途端に壊れてしまうのではないかと思う、まるで硝子細工のような美しさだった。
「…卑怯となど思わぬ…。お前はいつも、私の欲しいものを与えてくれる」
そう言ってハヅキは、今度は自分からベルクートに口付けた。ぎこちない口付け。
それは少女が生まれて初めて、自分から求めたもの。
冷たい身体に、ベルクートの腕は温かかった。欲しかったのはこの温もり。
「私は、死にたくなかった…。怖かったのだ。あれだけ人を殺しておきながら、
自分が死ぬのは嫌だと思った…」
部屋の明かりが逆光になってベルクートの顔がよく見えないが、
辛そうな顔をしているのは判った。
まるで自分のことのように苦しんでくれるのかと、ハヅキは胸が痛くなった。

「卑怯なのは、私の方だ」
この手にかけた者たちと同じように、冷えてゆく身体。ただ、それを受け入れながらも、
きっとベルクートなら暖めてくれるのだろうと思っていた。
その姿を見た時、声を聞いた時、そう思ったのだ。
結局、自分には逃げる場所がある。受け入れてくれる相手がいる。
弱い自分を見せれば、抱き締めてくれる相手が。
「お前は優しいから、私が弱さを見せれば慰めてくれるだろうと、思っていた…。
判っていたから…」
それを望んだのだ。一人になりたくないと言えば、傍に居てくれると思ったから。
そう言って、ハヅキは瞳を伏せた。私は、浅ましい女だ、と。

ベルクートは何も言わず、ただ微笑んだだけだった。
それだけでも、ハヅキには十分だった。

重ねた身体は、冷たかった。
ベルクートは、慈しむようにハヅキの華奢な身体に触れる。
その手が、唇が、触れるたびに、そこに熱が灯る。
「あ……っ」
首筋に口付けを落とされハヅキが吐息を漏らす。互いの指をじゃれあうように絡ませていた手が離れ
形のよい胸を包む。未だ熟れ切っていないそのふくらみは、身体の冷えも相俟ってか、
少しばかり張りが強かった。
優しく、暖めるように、ほぐすように揉みしだくと、ハヅキは切なげな声を漏らして、
唇を噛んだ。
「あまり強く噛むと、傷がついてしまいますよ」
言いながら空いた手で唇に触れ、緊張をほぐすように撫でる。
薄らと口元を緩めたのを確かめ、ベルクートは再び口付けた。
最初は触れるだけ。啄ばむような甘いキスを何度も繰り返す。

ハヅキの頬が紅潮し、瞳が熱っぽく潤む。ゆっくりと、慣らすように。
怯えさせないように。次第に口付けを深めてゆく。きっとハヅキは何もかもが初めてだろう。
触れられるのも、きっと見られることすらも。
口付けた首筋も、触れた胸も、ひどく冷たかった。
ベルクートはその冷感に思わず眉を顰める。
こんなにも冷えてしまうまでずっと外にいたのだと思うと、
どうしてもっと早くに見つけることが出来なかったのかと、否、帰還したその時から、
目を離さずに傍らに置いておけばよかったと、後悔に似た感情が過る。

ハヅキが長いキスに少し息苦しい様子を見せた。
初めてなのだから息の継ぎ方もわからないのだろう。
ベルクートは最後にハヅキの桜色の唇をぺろり、と舐めて解放した。
銀糸がつい、と二人の口元を繋ぐ。ハヅキはそれを見て一際顔を赤くして、
恥らうように瞳を閉じた。
部屋の明かりは灯したままだった。ハヅキがそれを望んだからだ。
暗闇に紛れてしまうのが怖いと訴えたから。
そのためお互いの顔も、身体も、よく見えてしまう。
ハヅキが瞳を閉じる前に見たベルクートの瞳は、いつもの優しい、
まるで子供を見守るような温かいものではなく、今までに一度も見たことがない男の、
押し隠した欲情の灯った瞳。
その目で至るところを見られているのだと思うと、自ら望んだ事とはいえ、
ひどく恥ずかしかった。
同時に、強く、男であるベルクートを意識してしまう。今までは傍に居ても、
それを感じさせることがなかった。
女で言うところの母性のようなもの、父性と呼ぶべきか、それに似たものばかり感じていたのだ。
だが、今は違う。

「───ハヅキさん」
耳たぶを甘く噛んで刺激しながら耳元で囁く。
ハヅキの身体がふる、と小さく震えた。その声もまたいつもとは違う声。
低い、熱の篭った甘い声。それだけでハヅキは胸が締まるような感覚に囚われる。
直接与えられる刺激だけではなく、耳に滑り込むその声も、ハヅキの身体に、心に、熱を灯してゆく。

「目を閉じないで…。それでは、灯かりをつけている意味がないですから」
瞼の裏に焼きついた記憶が、ハヅキの心をこれ以上傷付けることのないように。
囁きながら、首筋、肩口、鎖骨へと所有の印を落とす。
滑らかな肌を舌でなぞり、反応したそこへ口付けた。
その印はまるで、花の様に、ハヅキの白い肌に浮き上がる。
「ぁ…んっ…、ベルクート…」
胸に触れた手に、少しずつ力が篭る。淡く色付いた胸の頂きを、褐色の指がきゅ、と摘んだ。
「はあっ…!」
強い刺激に、ハヅキの身体が反る。ひときわ高い声が漏れ、自分でその声に驚いた。
自分のことなのに、こんな声が出るものなのかと。
男に抱かれる自分の姿など想像したこともなかった。
もともと興味の薄かったハヅキは、自らの手で触れることなどなかったし、
そんな気分になった事もないので、やはり自ら慰めたこともない。
本人ですらまだ触れていない身体。初めて聞く声。
戸惑うハヅキを優しく宥めながら、ベルクートは愛撫を続ける。
「あっ……!」
鎖骨から下へ。くすぐるように肌に触れる唇がすうっと下がる。
既に柔かく揉みほぐされた幼いふくらみに、舌が這う。背筋が震えた。
恐怖でも、羞恥でもない。
「ベルクート…!」
まるで泣き声のような呼び声に、ベルクートは顔を上げる。
瞳に涙を溜めて自分を見詰めるハヅキは、少し怯えているようだった。
震えているのは感じているからか、怯えているからか───。

「…すみません。怖がらせてしまいましたね」
怯えさせないように慎重に、優しく触れているつもりだったが、
自分の触れたいという欲求のみで、急いてしまったかもしれない。
これ以上はと手を止めようとしたベルクートに、ハヅキは目を閉じて首をふるふると横に振った。
投げ出されていた手がベルクートの髪に触れる。細い指にベルクートの髪が絡んだ。
「違う……わ、私は…初めてで…」
自分で触れたこともないから、そう言った。ハヅキが初めてだという事は、その反応を見れば明らかだった。
自慰さえ知らないハヅキの身体は敏感で、強い刺激に慣れていない。
指で触れられただけであんなに強く感じてしまったのに、口付けられたら───
そう思うと、少しだけ怖かったのだ。

「つ…続けて…いい…。もし…私が、嫌がっても、続けて、いいから…」
これ以上ない、というほど赤い顔でハヅキは言った。ベルクートは逡巡したが、
ハヅキに急かされて、再びその胸に顔を埋めた。
それをハヅキが望むなら。自分の欲求ではなく、ハヅキが望むのだから。
そんな言い訳がましいことを考えながら、既に固く尖った、果実のような頂きに舌を絡めた。
「ふぁ…っ!」
指で触れた時よりも大きく、ハヅキの肢体が弾んだ。浮いた腰に腕を回して抱き寄せながら、
丹念に舐め、口に含む。空いた手はもう片方の胸を揉み、時折先端を転がすように指で弄ぶ。
それを、双方の乳房に交互に繰り返しながら、そこにも所有の証を残す。

「あっ…!や、はぁあっ…ベルクート…!」
髪に絡めた指から力が抜け、再びベッドに投げ出される。
生まれて初めて味わう感覚。先程までのあやすような愛撫で感じたものとは違う。
強い、まるで痺れるような感覚。ゾクゾクと痺れのように背筋を伝うそれが、
快感であることを、ハヅキはそこで初めて知った。

既にハヅキの身体は熱を帯び、生気を感じなかった白い肌は仄かに赤く染まっていた。
先程までの、どこか現実離れした美しさではなく、生々しい色香を放つ、男を魅了する女の肢体。
これ以上は怯えるだろう。触れてはいけない──そう思いながらも、
胸を解放してその腕を脚へと滑らせる。
少女の瑞々しい腿を優しく撫で、脚を少しずつ開かせる。
「本当に嫌だと思ったら、言って下さい」
ハヅキが一瞬、身を強張らせたのを感じ、ベルクートはそう言った。
ハヅキ自身は、抵抗しても構わずに続けろとは言っていたが、ベルクートにはそのつもりはなかった。
ハヅキがこれ以上を拒むなら、続けるつもりはない。
心の内で、抗って欲しいと思う。反面、このまま抱きたいとも思う。
不安につけ込むような形で触れている今を、卑怯だと自分を謗りながら、
彼女が望んでくれたのだから、と、言い訳をする。
自分より一回り年下で、無垢で、穢れない純粋な少女。
その純潔は、自分などが奪ってよいものではない。
頭の中で、そう必死にブレーキをかけようとする。

ハヅキは抗わず、けれどゆっくりと、その腕に応えるように脚を開く。
投げ出していた腕で顔を隠しながら。きっと固く瞳を閉ざしているに違いない。
だが、ハヅキにはもうそんな記憶が蘇るほどの余裕がなかった。
知識がないまま、身体だけが覚え、先を求める。
ハヅキ自身が既に抗うことなど出来ない程に、その快楽に溺れていた。
正確には、ハヅキの身体が、と、言うべきなのかもしれないが。

部屋の灯りがついたままだという事が頭から離れない。
まるでそこだけを照らされているような気持ちにさえなってしまう。
風呂に入る時でもなければ、自分でも触れない、
まして見ることなどない秘められた部分が晒されている。
羞恥を覚えるのと同時に、眩暈がした。
それが何故であるか頭で理解するのと殆ど同時に、ベルクートの指がそこに触れた。

「ああああっ…!」
びくっ、とハヅキの身体が大きく跳ね、強張る。達したのだろう。
ぴんと張っていた背中が崩れるようにベッドに落ちた。
ベルクートはハヅキを抱き締めると、触れるだけの優しいキスをしながら、
背中を撫でてやる。
ここでやめるべきだろう。これ以上はさせてはいけない。
触れただけで達してしまったハヅキに、この先の行為を強いることはしたくない。
もう十分だろう、このまま寝かしつけてしまえばいい。
ベルクートとて男だ。この歳になればそれなりに経験もある。
つまり、自分の欲求を吐き出す方法は心得ているという事だ。
ハヅキが寝入ったら適当に処理すればいいのだから。

「もう休んでもいいんですよ。疲れたでしょう?」
耳元に囁く。眠ってくれたらいいと思いながら。
例えばハヅキがこの先を望んだとして、これ以上理性を保っていられるかどうかと聞かれれば、
その自信は全くないと言ってもいい。
いつまでも、ハヅキの望む理性ある男でいられる自信がないのだ。

「…まで…」
「ハヅキさん…?」
「最後、まで……」
抱いて欲しい。それは消え入りそうなほど小さな声だった。
「…ハヅキさん、それは…」
どういう事か、わかっているのか──そう問いかけようとして、飲み込んだ。
見上げてくるハヅキの瞳は、判らずに望んでいるものとは思えない、真剣な、
けれど何処か弱い、縋るような色を帯びていた。
達したことで冷静に戻ったのか。冷静に戻ったことで、また思い出してしまったのか。
どちらにせよ、拒んでしまえばきっと深く傷つくだろうという事だけは察して取れた。
それは同時に、最後の「言い訳」でもあった。拒んで傷付けるくらいなら、
望まれた通り抱いてしまえばいい。…それを許されたのだと。

「私は、きっとあなたが思ってるような男じゃありませんよ」
そんな立派な男じゃない。許されたなら、きっと思うがままにこの身体を貪るだろう。
傷付けてしまうかもしれない。
まして、経験のないハヅキを追い詰めるような事をするかもしれない。
これ以上自分の欲望を抑える自信などないのだ。
それでも構わないんですか?と、強い口調で問い掛ける。
余裕がないのは自分の方だ──そう思いながら。

「…お前が自分を、どう思っているのかは知らぬ。知らぬが───」
ハヅキはその言葉を、視線を受け止めながら、答えた。
「私自身も、お前が思っているような女では、ないと思う…」
顔を赤くして背けながら、ハヅキはベッドの傍に置かれていたランプに手を伸ばし、
火を消した。部屋に灯されていたランプは2つ。
ベッドから離れたテーブルに置かれた大きなランプと、ハヅキがたった今消した小さなランプ。
テーブルのランプは大きいためまだ部屋の中は薄明かりが灯ってはいるが、
その灯りはベッドまで完全に届かない。
まるでそこだけ別の空間のように薄暗くなる。
ハヅキはそっとベルクートの首に腕をまわしてすがりつき、二度目の自分からのキスをした。
「…これ以上、言わせるな…」
言い訳をしていたのは、自分だけではなかったのかもしれない.
──いや、なかったのだろう。ベルクートは言葉ではなく、抱擁でその答えを示した。
それを望むのなら、と。

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