花火を見に行こうって、あの人が誘ってくれた。
高崎の、大きな花火大会。一緒に行こうって。
……結局、その約束は流れてしまった。
理由?
花火の日程がプロジェクトDの遠征と完全に被ったから。
Dを再優先するのは当然だったし、おれもそれは不可抗力だと思ってた。
でもあの人、いとも簡単に言うんだ。だったらしょうがねーなって。未練なんかこれっぽっちもないって顔して平然と。
スケジュール的にも東京まで花火見に行く余裕なんかなかったし、前橋の花火大会はとっくに終わってる。この夏は、もうふたりきりで花火なんて見に行くことできなくなったってのに、あの人、そんなことなんかまるでどうでもいいって顔になって、前向いてもう車の話に集中してた。
あの人にとって、おれの存在なんてしょせんその程度のモンなのかなって、思い知らされたんだよ。その時。
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ギシ、と音をさせて拓海はワンボックスの扉を開いた。
時刻はすでに夜明け近くに差掛っていた。そんな時間帯にも関わらず、周囲ではざわざわと人の動く気配が絶えず響いている。遠征時の峠は、決して眠ることはない。朝までドライバーは練習走行を続け、Dのスタッフは本番に備えて夜通しマシンのセッティングやメンテに励むのだ。
車内に彼以外の姿は見当たらず、リアシートを外したワンボックスの後部座席で、毛布に包まり横になっているのは、高橋啓介に他ならなかった。
乗り込んできた拓海の気配にも気付かず、彼はその目蓋を閉ざし、浅い呼吸を繰り返す。拓海は後手にドアを閉めた。重い扉がスライドして、結構な物音を奏でる。しかし啓介が目覚める様子はなかった。
眠る啓介の両耳の脇に重く手をついて、拓海はゆっくりと唇を寄せた。温度が触れ合ったと思った瞬間、沈黙していたはずの彼の腕に突き飛ばされた。
黒に支配された車内、意外にも長い睫に縁取られた瞳が、責めるような色を孕んで拓海を見据える。
「……何してんだ、テメエ」
啓介の尖った声音に、拓海は薄っすらと笑みさえ浮かべてみせた。
完全なる眠りに囚われていたのならば、このような苛烈な拒絶を瞬時に返せるわけはなく。ということは、啓介ははじめから起きていたのだ。眠ったふりをしていたのは、自分と会話を持ちたくなかったからなのだろう、きっと。
「起きてたんだ?」
「さっき上がったばっかりだ。んな早く眠れるかよ、アニキじゃあるまいし」
「そうだね」
拓海は重ねて笑った。
啓介と自分は、すでにライバルという要素で成り立つだけの関係ではない。何度かふたりきりで会ってキスもしている。しかし、それだけだった。
啓介はそれ以上のことを決して許そうとせず、肉体関係に直結する雰囲気をいつも回避させようとしていた。
その態度はあからさますぎて、傷つくというより、むしろ呆れてしまうほどである。
拓海が腕を伸ばすと、啓介は体を引いた。だが退避スペースはなく、すぐに背後の扉に背中を打ちつける羽目となった。拓海を見る目が、警戒心に満ちている。構わずに、拓海は体を進めた。その首筋に口付けを落とした時、初めて啓介が非難を口にする。
「藤原……っ、お前、一体何考えて……っ」
「啓介さんが想像してる通りだよ、多分」
「……お前ここがどこだか分かってて……言ってんのか、シャレになってねーよ」
「分かってるよ。遠征中で、周りにDのみんながいるってこともね。それがどうかした?」
「……本気で言ってんのか……?」
「別にいいじゃん。たかが、それだけのことだろ」
信じられない、と啓介が瞠目した。
掛けっぱなしのエンジンを導いて、車内は微細な揺れに浮かされていた。夜の全てが、不安定を縁取っていた。
「……冗談じゃねえ。お前だって……みんなにバレるのは勘弁って言ってたじゃねーかよ……」
「うん、そーだね」
さもどうでもいいことに同意するようぞんざいに答え、拓海は啓介の体を押さえ付けた。上から全体重を掛けられて抵抗を封じられると、啓介は拓海の体を押し退けることができなくなる。それをいいことに、拓海は啓介の上着の内側に手を忍び込ませた。指先に、肌の感触。
走り込みの余韻なのか、少し火照っている。
「ふざけんな……っ、いや、だ、どけよ、藤原……っ」
「……じゃあ、あんた、どういうつもりで、おれと付きあってんの?
こういうのもナシでただ一緒に仲良く車のハナシしてりゃそれで気がすむわけ?」
「オレはただ……」
啓介がふっと視線を反らした。拓海から逃げるような仕草だった。
「……いつも、頭ん中にお前がいたから……自分の気持ちに従っただけだ。だからって……」
「だったら、最初から視てるだけで満足してりゃよかったんじゃないの?
あんたのオナニーに付き合わされたらたまんねーよ、こっちはさ」
「て、めえっ……」
彼の瞳が、怒りに燃え上がる。
「やめろ、っ、て言ってんだろ!」
啓介の罵倒を鼓膜のどこかに聞き取りながら、拓海は一切の無視を決め込んだ。口付けを濃くして、無遠慮に彼の下半身を探る。服の上から何度か揉みしだくように愛撫を加えると、啓介が思わず声を漏らした。動物が鼻を鳴らす時のような頼りない声。
「離せ、藤原!
てめえ、後でどうなるか分かってんのかよ!?」
指先で弾くようにして彼のジーンズのジッパーを解放し、軽い主張を示し始めている昂ぶりに手を掛ける。啓介の体が短く震えた。
「いい加減にしろよ!
いやだって言ってんだろーが
、いい加減しつけー……」
「……外に、聞こえるよ」
耳元で舐るように、拓海は言ってやった。途端に啓介の喉が引き攣る。狼狽えたように、抵抗が弱まった。
「あんたがみんなに見せたいって言うなら、おれはそれでも、いいけど」
「……っ、っあ」
指を這わせたそれを、根元から先端までじっくりと撫で上げると、瞬く間に熱を持つことが分かる。柔らかい下生えをなぞり、粘膜ごと手のひらの中で摩擦して追い上げる。
啓介の吐息が、闇の中で色付いて、やがて輪郭を失いはじめる。
艶やかに変化する彼の表情を追い掛けたいという欲求は確かに存在していたが、車内灯をつけたら、さすがにこの秘め事は周囲に知れることとなるだろう。誰の仕業かは不明だが、リアウインドウに張られたスモーク、それが外部との唯一の遮断壁となっていた。
「藤原……、いや、いや、だ……」
一方的に辱められていく啓介は、だがもう派手に暴れることができない状況を察していた。
車内の異常を第三者に悟られたら、拓海との関係は白日の元に晒される。強引に押し倒されているこの光景を目撃されれば加害者の拓海はプロジェクトから追放されるだろうし、同意の上だと釈明してみせた所で、周囲は自分達を奇異の目で見ることだろう。
狭い個室の中、この場の決定権を含めた全てを拓海に委ねるしかない状況。
啓介にとっては、屈辱的であったろう。
そんな啓介を見下ろし、拓海は自身の体の位置をずらした。
啓介の腰の間に頬を埋め、露出させたそれを口内に柔らかく迎え入れる。躊躇せずに、舌先で触れた。------熱い。
「っぁあ、や、っ……」
ねっとりと纏わりつくような濃厚な感触に包まれ、啓介の腰がシートの上で踊る。それを腕の力で抑制し、拓海は喉の奥深くまでそれを誘った。唇全体を行使し、絞り上げるように圧迫を加える。
「こんな所涼介さんに見られたらおれ、殴られるかな……」
「っは、ッ……やめ、ろ……、っぁあっ」
「あんたにとって、走りのフィールドは聖域だったろ。それを侵されるってどんな気分?」
拓海が言葉を綴る度に周囲の空気が振動し、啓介の熱を煽っていく。
返事をする余裕もないほど追い詰められた啓介の脚を抱え上げながら、拓海は舌を降下させた。滑る肌の感触がたまらなかった。彼の下肢は少し汗をかいて、湿る吐息に震えている。
「今日は、無理だけど。ここは、また今度ね」
「ひゃ……っ、っあ」
緊張してがちがちになった蕾みに吸いつき、軽く舌を差し込む。啓介が恥辱の声を刷いた。
唾液を塗り込めるように何度も何度も丁寧に解きほぐす。啓介の先走りと混じって濡れそぼったそこがひくひく蠢いて、拓海は
己の指の先端を軽く含ませた。異物を誘い込むように呼吸を繰り返している、そこ。貪欲なその動きを意識して、何かが真っ白に焼き切れそうになる。
拓海が漏らした吐息は、疼痛の飢えをはっきりと滲ませていた。
マシンの状態を報告している松本の声が聞こえる。頷く史浩の声も。すぐそばに。この車のドア一枚隔てた、すぐそばに。慣れた日常に外堀を固められたこの空間、絡み合う温度だけは非日常を導いていた。
このドアを開けられたら、もう破滅だ。走りのことだって、この環境だって、とてもとても大切に育んでいたはずなのに、どうしてこんな。
こんな、愚かで子供じみた真似をしているんだろう。
「頼むか……ら……こんな、の……やめ、ろよ……ふじ……」
「……そろそろ達きたいだろ?
いいよ、達っても」
刹那の主導権を握ったことを確信した拓海は、不遜な態度で許しを与えてみせた。啓介の唇は荒い呼吸を繰り返すだけで、すでに烈火のごとく閃く憤りの勢いは奪われている。
「なに……、っは、っ」
「全部飲んであげるよ」
それだけは優しさを滲ませて。拓海はもう一度、張り詰める啓介を唇に含んだ。
一呼吸置いて、彼の愛液がじわっと舌の上に広がっていく。一滴も逃さぬよう、拓海は放出の全てが終わるまで、解放を許しはしなかった。
啓介は腕で瞳を覆って、肩で呼吸を整えている。泣いているのだろうか、彼は。
このまま、彼の体内を己の昂ぶりで貫いてしまいたい欲望が強く脳裏を焦がしていたが、明日の遠征本番を控えたこのタイミングで、さすがにそこまで及んでしまうことは躊躇われた。
拓海は自身を能動的に刺激すると、剥き出しの啓介の腹の上に射精した。白濁した濃い迸りが、啓介の乾いた肌を汚していく。
臍の窪みに溜まったその残骸を指に取り、拓海は伸び上がってそれを啓介の唇に塗りつけた。濡れた彼の唇の表面は、可もなく不可もなく、その動きを受け入れる。啓介は事切れたようにただ弛緩した体をぐったりと横たえ、身じろぎすらしなかった。
拓海が支えていた腕の力を抜くと、薄い服越しに互いの体が密着する。刻む鼓動が緩やかに重なり合ったが、決して啓介が抱き締め返してくれることはなかった。
臆病なのは、お互い様だったのかもしれない。
こんな、エンジンも切らないまま、無理矢理彼に触れた自分も、本当は怖くて。戸惑いを嘲笑うように、小さく響いているかけっぱなしのラジオが、呑気に明日の天気予報なんか告げて。車の周りを行き交う人々の呼吸を現すように、時々車内の天井に光と闇が交錯して。滑稽過ぎるほど、浮いた時間だった。
恋愛なんて、脆くて淡くて、切ないものだって、きっと知っていた。
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啓介さんは、あれから一言も口をきいてくれなかった。 まあ、当然かなとは思うんだけど。
仕方ないから、うちの冷奴と、ビールの缶と、あとコンビニで買った花火持って、啓介さんちに行ったんだよ。
スーパーの袋下げて玄関先に立った間抜けなおれを、あの人は無表情で見下ろして------いきなり三発見舞われた。しかもグーで思いっきり、容赦なく。
殴られた勢いで口ん中切った。もっと殴られるかと思ったけど、意外にも啓介さんは「これ以上殴ってもオレの手が痛えだけだ」とか言って、すっと冷静な顔に戻った。
この人は、どうでもいい奴の前では、こうやって感情を消してしまう。啓介さんが素を見せるのは、涼介さんや史浩さん、……ごく少ない人達の前でしかなかった。だから、無表情で武装されて、おれはちょっと、泣きそうになった。
もうおれたち終わりかなって、終わったのかなって、その瞬間は思ったんだけど。
地面に散乱したおれの手土産、啓介さんはその長い腕で拾って。形が壊れてぐちゃぐちゃになった豆腐を見ながら、あーあこりゃ麻婆豆腐にしか使えねーな、とかいつもの口調で続けて。
あっけにとられてるおれを見て、決まりの悪そうな顔をして、言った。
「花火、やるんだろ?」って、無愛想に一言。
今日は、ちゃんと話し合おうと思った。色んなこと。
今迄おれらがさんざんはぐらかしてきたことを、全部。
ちゃんとこの人の目を見て、好きだって言いたい。
トランジスタ
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