∞ 銀鮭 ∞

 

─────その瞬間、心が震えた─────。

 

 

ギンは、自分の目の前に、今、奇跡が立っている事を実感していた。

─────サンジさん…!

この広いグランドラインで、再びあの人に出会える日が来ようとは。

まだ自分の目が信じられない。

けれど、自分のほんの少し先の魚屋の店先に佇んでいるのは、確かにサンジだった。

 

サンジに気づかれないように、ギンは咄嗟に物陰に身を隠した。

あの人のかけがえのない人の義足を折り、大恩あるあの人に刃を向けた自分には、あの人に声をかける資格など、ないのだ。

けれど、サンジが、生きて、目の前にいる。

それをこうして再び見る事ができた。

それだけでギンは天にも昇るほどの幸せを感じていた。

 

こうしてグランドラインにいるのを見れば、サンジがあのレストランを出て、自分の夢を追いかけ始めたのだろうとわかる。

 

きっと、あの麦わらの人と一緒に海に出たのだろう。

麦わらの人の噂は、グランドラインのあちこちで聞くようになった。

手配書も見た。

麦わらの人も変わらずに元気でいるようだ。

当たり前だ。

サンジさんの飯を毎日食って、サンジさんのあの光り輝くような笑顔を毎日見ているのだ。

元気じゃないはずはない。

 

ああ、サンジさん。

あんたは少しも変わっちゃいねぇ。

天使のような可憐さのままだ。

 

可憐な天使は荒くれどもを大股開きで蹴散らしたりしないと思うのだが、何しろギンの目には恋という名の特殊フィルターがついている。

 

何度も何度も夢に見た。

絹糸のように艶やかに流れる金の髪を。

「クソうめェだろ」と言った時の花がほころぶような愛らしい笑みを。

天女の舞もかくやと思うほどの華やかな戦い方を。

夢は特殊フィルターだけでなく、妄想も加味されて、もうサンジの美しさはまばゆいばかりだ。

 

そのサンジが今、こうして目の前にいる。

本当にいる。

自分の目が信じられなくて、ギンは何度も何度も目を擦った。

自分が昼間から夢を見ているのではないかと思う。

いつもの都合のいい夢の続きなのではないかと。

 

けれど夢ではない証拠に、目の前のサンジは、あの頃よりも尚一層美しくなっていた。

ギンの特殊フィルターはもはや末期である。

 

バラティエにいた頃のような、どこかギリギリで切羽詰ったような感じがなくなっている。

鋭角さが取れ、幼ささえ感じさせるほどに可愛らしさが増している。

輝くような金髪は相変わらずだ。

風になびいてきらきらと陽の光を跳ね返している。

幾分痩せただろうか。

黒いスーツも相変わらずだが、気のせいか、あの頃よりも妙に…

 

─────い、い、色っぽく…おなりで…

 

サンジはさっきから魚屋の前で、並べられた魚介類を見ている。

何故か憂いを含んで伏し目がちで。

その目元が、どきりとするほど艶かしい。

 

どうしたんだ、サンジさん。

何があんたにそんな顔をさせるんだ…。

 

サンジは、魚屋の女主人と二言三言交わすと、明らかに失望したような顔をして店を去っていった。

ギンはそれを見て、急いで魚屋に駆け込む。

「おい、今の人と何を話していたんだ?」

魚屋の女主人は、丸い顔に人のよさそうな笑みを浮かべる。

「うっとこには鮭はないちゅうたよ。」

「鮭…?」

いきなりな言葉に、ギンは一瞬呆ける。

が、すぐに並べられた魚達に目を落とした。

そして首をかしげる。

「あるじゃねぇか。鮭。」

指差したその先には、『銀鮭 3切 298ベリー』の文字が。

問われて、女主人の顔が少し困ったような笑みになった。

 

「銀鮭ちゅうのは、鮭じゃないわいね。」

 

「鮭じゃ、ない?」

「だいね。鮭じゃのうて、鱒だわいね。」

「ます?」

「ほうだいね。銀鮭ちゅうのは、鮭じゃのうて鱒だわいね。」

 

あっけらかんと女主人は答える。

「あん人は、鮭が欲しかとね。だでん、こん島じゃあ、鮭は手に入らんちゅうたね。」

 

それを聞くなりギンは駆け出した。

 

鮭じゃないものを何故鮭という名で売っているんだ…。

いや、そんな事はどうでもいい。

魚業界の裏側など知ったことか。

サンジさんが鮭を求めている。

あんなにもせつなげな目をして、鮭を求めている。

あの人がそんなにまで求めているというのに、鮭が手に入らないなんて、そんなバカな話があるだろうか。

 

ああ、サンジさん。

 

それを俺が手に入れて、あの人の元へ届けるのは奢った行為だろうか。

 

鮭、鮭、鮭。

サンジさんに鮭を。

おいしい鮭を。

 

もうギンの心は鮭の事しか考えられない。

 

ああ、サンジさん。

俺の天使、俺の女神、俺のプリマヴェーラ。

俺が…俺があなたに、最高級の鮭を捧げてみせる…。

 

その日からギンは、島中の魚屋を回る彷徨い人となった。

 

サンジさん。待っていてください。

俺がきっと、必ず、あなたに鮭を。

 

けれど、鮭はなかなか手に入らなかった。

「鮭をくれ」と言うと、どこの魚屋も、「銀鮭」を出してくる。

けれど、「銀鮭」が鮭ではなく鱒である事は、ギンはもう知っていた。

 

銀鮭、ではダメなのだ。

サンジさんが求めているのは「鮭」なのだ。

 

「鮭はあるか?」

何十軒めかに入った魚屋で、何度も繰り返したセリフを言う。

「おめさんの前にあるんが鮭だいね。」

これもまた、もはや聞きなれたセリフ。

そうして見てみると、大概それは、銀鮭なのだ。

今回もそうか、と半ば落胆しながら視線を落とす。

 

と、ギンの目に映ったのは、「紅鮭」の文字。

 

「銀鮭」ではない。

 

ギンの心に震えが走った。

今度こそ…今度こそ本当にあの美しい人の求めるものだろうか。

 

「これが鮭か? 本当だな?」

思わず声が震えてしまう。

「本当だいね。」

魚屋の親父があっさり答える。

そのあっさりした答えに、逆にギンの心に疑念が湧いた。

「…鱒じゃねぇだろうな。」

「鱒だいね。」

またしてもあっさり返ってきて、ギンは目を剥いた。

「鱒なのか??」

「鱒だいね。」

「鮭じゃないのか?」

「鮭だいね。」

もうわけがわからない。

「今、鱒って言ったじゃねぇか!」

「鱒だわいね。」

全身から力が抜けそうだ。

「…鮭が欲しいんだ。」

「おめさんの前にあるんが鮭だいね。」

 

ギンはキレた。

 

「鱒だって言ったじゃねぇか!」

「鱒だわいね。」

 

要領を得ないにもほどがある。

ギンは眩暈を堪えるだけでいっぱいいっぱいだった。

からかわれているのかと凄んで見せれば、魚屋は怯えた様子で同じように繰り返す。

 

「俺は鮭が欲しいんだ!」

 

何度かの押し問答のあと、ようやっと魚屋が得心のいった顔をした。

 

「おめさんがゆうちゅうは、白鮭の事だいか。」

 

「しろ…ざけ?」

「身が淡いピンク色をしちゅう鮭だいね。こん鮭よっかもっとずっと淡いピンク色だわいね。」

 

目の前の“紅鮭”の切り身は、なるほど“紅”というだけあって、身は濃い紅色をしていた。

“白鮭”はそうではないという。

淡いピンクなのだという。

白、とわざわざ名がつくくらいなのだ。

きっとそれは本当に淡い、淡い、桜色なのだろう。

そう、きっと、恥らうあの人の染まった頬のように、ふんわりとほのかに淡い色に違いない。

 

それだ。

あの人が求めているのはきっとその鮭だ。

そうに違いない。

 

「白鮭をくれ!」

すると魚屋は、困った顔をした。

「白鮭はないわいえ。」

「ない?」

 

「こん島じゃあ天然の鮭はもう何年も前からとれんようになっちゅうがね。銀鮭と紅鮭は養殖しちゅうで出回っとうが、白鮭は養殖ができんでね。やから、白鮭はこん島じゃあ手に入らんわいね。」

 

白鮭はこの島では手に入らない。

 

ギンは目の前が真っ暗になるのを感じた。

クリークが麦わらの人に倒された時だって、こんな絶望的に気持ちにはならなかったのに。

 

何故だ…?

何故なんだ…?

 

サンジさん…サンジさん…

俺はただ…俺はただ、あなたの笑顔を見たいだけなのに…

 

「じゃあ…じゃあ、どうしてもこの島でその鮭は手に入らないのか?」

呆然と尋ねると、魚屋は、しばし思案のあと、こう答えた。

「時期はちょうど今時期だいなあ…。沖で一本釣りしたら、運がよきゃあ1匹くらいは回遊してきちゅうんが釣れるかもしれんわいね。」

 

その一言で、ギンは迷わず釣竿を握り締めた。

そしてギンは海に挑む釣り人となった。

 

来る日も来る日も、ギンは海へ釣り糸を垂れた。

寝食を忘れて釣り続けた。

鮭以外の魚には見向きもせずに釣り続けた。

行き交う漁師達の奇異の目を気にもせずに、釣り続けた。

 

やがてギンの姿は、漁師達の噂の的になった。

幻の魚を追い求める伝説の釣り師という名がつけられた。

最初は奇異の目で見ていた漁師たちも、ギンの姿に打たれ、やがてギンを応援するようになった。

ギンも、漁師達から鮭に関してありとあらゆる知識を得た。

アドバイスにしたがって、ポイントを変え、仕掛けを変え、針を変えた。

 

伝説の釣り師ギンは、ただひたすらにひたむきに釣り続けた。

 

そして彼は、ついに、白鮭を釣りあげたのだった。

 

周りの漁船から、拍手と歓声が沸いた。

極度の興奮の余り、一瞬、ギンの目の下の隈がすっきりと消え去った。

 

─────サンジさん…! 俺は今こそあなたにこの鮭を…っ!

 

飛ぶような勢いで、ギンは港へと取って返した。

麦わらの人の船は、海賊船のくせに偽装もせずに堂々と港に止めてあるはずだ。

高々と上げた手に鮭を掲げ、意気揚揚と駆け込んだギンが見たものは───── 、

 

 

 

 

空っぽの、港だった。

 

 

 

ぼたり、とギンの手から鮭が落ちた。

呆然としつつ、手近にいた奴を捕まえる。

 

「おい! ここに停泊していた海賊船は!? 麦わらのドクロの旗の!」

 

いきなり喉元を締め上げられた男は、目を白黒させながら、息も絶え絶えに答える。

「そ、そ、そ、そいなら、昨日、出航したわいね。」

「何でだ!?」

 

「な、な、なんでって、…ログが、たまったからでねぇか…?」

 

ぼたり、とギンの手から男が落ちる。

続いて、ぼたり、とギンが膝をついた。

 

ログ。

 

すっかり失念していた。そんなものがあるなど。

そうだよ。あるんだよ。そーゆーもんが。

だってそれに従って旅してるんだもん。

 

「サンジさん………」

呆然と、ギンは何も見えない水平線に目をやる。

「サンジさん……………」

その水平線が、ぼやけた。

「サンジさん…………………」

もう、何も、見えない。

 

サンジさん…この数日で俺はいろいろなことを知りました…

 

サンジさん…鮭と鱒は、どっちもサケ科で、生物学上区別しないんです…

 

サンジさん…鮭は一尾を丸ごとさばくと、捨てるところはないんです…

 

サンジさん…天然の鮭には寄生虫のアニサキスがついている事があるので生は要注意です…

 

サンジさん…マイナス20度以下で12時間以上冷凍すれば寄生虫は死滅します…

 

サンジさん…サンジさん…サンジさん…

 

 

ギンは、長い間、沖に向って号泣していた。

 

 

 

 

 

その後、グランドラインを航行中のゴーイングメリー号に、「お歳暮」と書かれた立派な新巻鮭が届いたとか届かなかったとか…。

 

 

 

END.

2004/09/30


報われないギンが好きです。


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