■ 安息 ■ Pillow Biter/picoさん
もう少しだ。
もう少しでこの苦痛から抜け出せる。
さっきまで心地よく暮らしていたその場所は、時が来た今、
暗くて熱くて湿っぽくて息苦しくて、一秒だって留まっていたくは無い地獄へと化していた。
だから早く抜け出さなくちゃならない。
目の前に憚る硬い壁を、割らなくちゃならないんだ。
けれどようやく地獄から開放されたと思ったのに、
抜け出したその先はさっきまでの方がよっぽどマシだと思うくらいに酷い場所だった。
外に出た瞬間から周りにはピーピーと泣き喚く黄色のもこもこふわふわした生き物たち。
うるさいなァと思いながら、このどうにもならない苦しみや不安を訴えて気が付けば自分も同じように鳴いていた。
与えられた何かに周りにつられ口をつければ、ようやく身体だけは満たされた気がした。
けれど不安はいつまでも付き纏い、どうしてだか鳴く事をやめられない。
俺の周りにはたくさんの黄色い物体がいる。
そいつらと同じように鳴いているのだし、自分もきっとそんな風な形をしているんだろうなと少しずつ思い始めた。
腹がすく頃になると大きな身体をした、俺たちとは違う形をした生き物がお腹を満たしてくれるものを持ってくる。
彼らがどこからやってくるのかなんて判らなかった。
俺たちは今いる場所以外のところの事なんて、何一つとして知らなかったから。
ただ空きっ腹を満たし、不安を訴え鳴き喚いて過ごす。
今こうして置かれている現状だけが俺たちの世界で、それ以外の事なんて考えられないのだから。
けれどそんな生活も長くは続かなかった。
周りにいた仲間たちは、一匹、二匹と次第に弱り始めていったのだ。
お腹を満たしてくれるエサと呼ばれるものを与えられても口をつける元気すらないようで、
エサを食べなくなった仲間たちは次々と動かなくなっていった。
そうするといつもエサを持ってきてくれる大きな生き物は、弱った仲間たちを毎日どこかに連れて行く。
ここから出られる事が幸せであるのか怖い事なのかも判らないで、
彼らと同じようにだんだんとしんどくなっていく身体をなんとか支えて持ち堪えながら、俺は毎日それらを眺めていた。
傍観していた生活もまたすぐに終止符を打つ。
仲間の数が半分までに減った頃、俺たちはみんなしてその場所から外の世界に連れ出された。
大きな生き物に掴まれ暗く狭い場所に押し込まれ、俺たちは揺れる地面に慄きながらどこかに移動していた。
屋根は蓋をされたようで空気の通りがなく、暗くて熱くて湿っぽくて息苦しくて、昔感じた事のある何かを思い出させる、最悪の場所だった。
早く出して。
ここは苦しい。嫌なんだ。
そう訴えたくて鳴き続けても、同じく周りで鳴き続けている仲間たちの声に掻き消され、俺の声なんて誰にも届きはしなかった。
次にその場所から出して貰えた時、そこにはまた大きな生き物たちがいた。
そいつらは俺たちの仲間を一匹ずつ箱から取り出して、その身体に何か得体の知れないものをシューシューと吹きかけていく。
何をされるのか判らなくて怖くて、また俺たちは鳴いていた。
けれどとうとう俺の番が来て、大きな生き物の大きな手に掴まれる。
強い力で握られて、暴れたってビクともしない。
苦しさに鳴き喚いていたら、シューっと吹きかけられた何かが口の中に入って酷く苦しくなった。
ようやく全てが終わって地面に下ろされた時、周りにいる仲間たちはさっきまでと全然違った姿になっていた。
みんなあの柔らかな黄色でなく、見た事もないような目の痛くなる派手な色に変わっている。
まさか自分もそうなっているのかと不安で鳴き続けていると、大きな手は俺たちを浅い箱に移した。
何が始まるのか判らなくて、不安で堪らなくてピーピー鳴き叫ぶ。
不安で押し潰されそうになっていた俺たちを待っていたのは、今度こそ本物の地獄だった。
突然目が眩む程の明かりに照らされ視界を奪われる。
何が起こったのか判らないまま俺たちは、さっきまでとは全く別の色をしている仲間たちと身を寄せ合った。
キャーキャーと俺たちの鳴き声より遥かに大きく、耳障りな金切り声を上げる生き物が大勢近付いてくる。
奴らは俺たちの入れられている箱に手を突っ込み、ベタベタと弄繰り回しては信じられない力で仲間を握り締めた。
俺たちはその手に捕まらないよう必死で逃げ回った。
狭い箱の中を駆けずり回り、必死で角や隅の方に仲間同士身を寄せる。
周りには捕まった後、信じられないくらいの高さから落とされ、動けなくなっている仲間がいる。
弄られ追い掛け回されているうちに、弱って動けなくなった仲間もいる。
何匹かは箱の中から連れ出され、あの恐ろしい手に捕まってどこかに連れて行かれた。
その箱の中は正に地獄で、俺は恐怖に頭がおかしくなってしまいそうだった。
なんとか逃げ回っていた俺の身体もとうとう動かなくなり、加減を知らない小さな手に握り潰されるように捕まれる。
グエッと口から何かが飛び出しそうに気持ち悪くて、鳴く事も出来ないまま箱の中に落とされた。
それだけでもう俺は動けなくなってしまった。
起き上がる事が億劫で、この地獄はいつまで続くのだろうと、早く終わってくれと、そう願うばかりだった。
長く長い耐え難い時間が過ぎ、俺たちはようやくカンカンと照り付けられたライトの下から暗闇に移された。
これでもうあの恐ろしい無数の手から逃げなくても良いのだとホッとした矢先、突如地面がひっくり返り今度は更に硬い地面に叩き付けられる。
何が起こったのだと体勢を立て直しているうちに、グシャッと鈍い音が耳に届いた。
音のした方に視線を移すと、そこには大きな大きな足が、三匹の仲間たちを一気に踏み潰しているところだった。
仲間たちはグエッとかピッとか、本当に小さな断末魔の叫びを漏らし次々と踏み潰され事切れていく。
まだ地獄は終わってなどいなかったのだと、絶望的な気持ちになりながらとうとう俺の上にも大きな足が降りてきた。
ポキッと軽い音が響き、身体を支えられずその場に倒れる。
どうやら踏まれたのは足だけだったようで、ズキズキと信じられない痛みを醸し出す下半身を引きずりながら、俺はよたよたとその場から逃げ出した。
茂みの中に隠れてそちらを見守っていれば、弱って動く事の出来ない仲間たちは次々と踏み潰され、それらは最後とうとう屍の山と化した。
隠れた俺には気付かなかったらしく、大きな足は仲間たちの体液を地面に擦り付けながら遠ざかっていった。
俺は怖くて堪らなくて、しばらくその場から動けなかった。
しばらくその場で震えていた俺は、次第に動かなくなっていっている身体に気付く。
お腹もすいたし、命の縮まるような恐怖の連続に身体はどんどん衰弱しているようだった。
しかしその時、小さな足が仲間たちの屍に近付いてきた。
死体の山の前に立ち尽くすその姿に、そのとき俺は何を求めていたんだろう。
きっと心細かったから。
お腹がすいて寒くて、このままここに隠れていてももうどうにもならない事が判り始めていたのだろうか。
もう一秒たりともその場に痛くなくて、とにかく俺は茂みから抜け出し、その足に縋るように近付く。
すると小さな手は俺を優しく抱き上げ、温かい息をはあっと吹きかけてくれた。
その温もりに途端に全身から力が抜けるのを感じ、俺は小さくぴいと鳴いてその手の温もりに縋ったのであった。
その温かい手は俺の折れた足に何かを巻いた。
すると足は引きずっても痛くなくなり、俺はホッとしてもう一度元気良く鳴いた。
温かく優しい手は俺を大切に包み込み、どこかに連れて行ってくれるようだった。
とにかくあの地獄から抜け出したくて、けれども自分ではどうしようもなかった俺を連れ出してくれた存在。
俺にはもうその手だけが唯一頼れる場所だった。
けれどその手はどこか知らない場所に着くと、何か小さく呟いてから暗く狭く冷たい場所に俺を置いてどこかに行ってしまった。
独り取り残された俺は不安で堪らなくて怖くて怖くて、助けを求めて頻りにピーピーと鳴き喚いた。
けれどあの温かい手はいつまでたっても現れず、俺はもう鳴く事しか出来なくて喉がかれて声が出なくなっても鳴き続ける。
どれくらい時間が経っただろう。
真っ暗闇の中、突然揺れた地面に身体を転がされた。
折れた足が痛くて堪らなくて、またどこに連れて行かれるのか判らなくて不安で鳴き喚く。
しかししばらくすると暗く閉ざされていた天井が開き、あの温かい手の持ち主がじっと俺の方を見下ろしていた。
やっとホッとして、その温もりに触れたくて痛む足もものともせず箱をよじ登る。
ぽとんと落ちた場所はあの温かい手の上で、ようやく落ち着ける場所を見つけた俺は身体の力を抜いてそこにうずくまった。
その手は細かく震え出したけれど気にせず、その温もりを全身で感じる。
生まれて初めて、こんなに落ち着ける場所を見つけられた。
今日までどれくらいの時間であったか判らないけれど、いつも俺たちは不安と焦燥に駆られ、何かから逃げるように生き長らえてきた。
生きる意味すらも判らないまま、今日まで苦痛と恐怖と戦ってきた。
けれどこの掌の温もりがあるのなら、それだけで今日まで生きてきた意味はあるんじゃないかと、そう思えるくらいにそこは心地の良い場所だった。
だから突然目の前が真っ暗になっても、俺は自分がどうされてしまったかなんて事には、最後まで気付かなかったんだ。
だけど俺は別に、俺の生を絶ったあの温かい手を憎んでなんかいない。
俺の唯一の居場所であったその手は、俺に更なる安息を与えてくれたのだから。
永遠の、安らぎを。
2006/02/01
END.
■ 最終回祭り ■
まやさん作第17話に出てきたカラーひよこをpicoちゃんが味付け。