■ 言の葉 ■ GAMUSYARA BUTTERFLY/tomoさん
「いただきますっ!」
小さな食堂スペースに響く子どもたちの声。
「テラコッタさーん、ごはんおかわりっ!」
「ほら、存分にお食べっ!」
「ちょっとそれあたしのっ!」
「俺今日から朝練あんだよっ、さっさと食わねえと遅れんだろ!」
「おや、気持ちいい胃袋だねっ!ほらこっち食べなさい!」
朝から喧しい食卓で、保育士である自分は次々に伸びる手への給仕に没頭する。
ご飯と味噌汁、焼鮭、納豆、卵におひたし、少しの果物。
テーブルに並ぶのは、優しいにおいのする食事。
それを口に運ぶのは、元気な表情の子どもたち。
傍から見れば幸せな団欒と映りそうな風景。
でも。
・・・・・・・ああ。
ほら、また。
冷めていく食事が一つ。
そこに遠慮なく伸びる手の持ち主に一つ鉄拳を食わせて、黙って見守る。
迫る登校時間にばたばたと食卓から人影が去って行く頃、冷めきった味噌汁に静かに箸が伸ばされた。それから、固くなった鮭に。
そんなものが美味しいはずもない。
いや、どんな食事でも、それを美味しいと感じられる気持ちがなければ消しゴムを食べているようにも思えるだろう。
河川敷に程近い静かな住宅街にある、この古くて長い建物は、児童養護施設。
昔は孤児院と呼ばれていたものだ。
ここにやってくるのは、消しゴムばかりを食べ続けてきた子どもたち。
いや、どんな物でも食べることができていたのなら、それはとても良いほうだ。
「・・・・・ごちそうさま。」
「待ちな。」
結局ほとんど箸をつけずに席を立とうとするのを制して、マグカップを一つ差し出す。中には温めたミルク。
「・・・学校に遅れる。」
「いいよ、遅れても。あたしが連絡しておくから安心して遅刻しな。」
「叱られるよ。」
「じゃあ風邪で欠席だ。」
「病気じゃない。」
「似たようなもんだよ。・・・・何かあったのかい?」
「ん・・・・」
「まあ、まず飲みな、冷める前にさ。」
浮いた体が座り直され、カップのミルクを半分ほどゆっくり飲むのを傍で待つ間、窓の外を眺める。
と、まだ花の咲かないこぶしの木が目に入った。
数日前の強風で歪みおかしな方向をむいた枝が、頼りなげに揺れている。
向かいに座る子に視線を戻し、目元が少し和らいだのをみてまた少しずつ言葉を促す。
しばらくしてぽつりぽつりと出てきた話の中身は、「何だ、そんなこと」と一笑に付されてもまるで不思議ではない出来事ばかりだ。
この子の、時間では短い過去に、どんなことがあったのかを知らなければ。
聞く。聞き続ける。正面に向き合って、ときどき「そうだね。」などと言葉をかけながら。それか、黙って頷きながら。
ゆっくり、時間をかけて、思いをうけとめる。
残りのミルクを飲みながら少しずつ出てくる言葉に、安堵した。
この子は、大丈夫だ。
そんなことを思うのはなんて傲慢なのだろうと自分を嫌悪しながら、それでも、安心するのだ。
自分を責めるだけしか言葉を持たない子もいる。
追従の言葉と曖昧な笑みは絶えなくても、本当の気持ちは決して口にしない子も。
ひたすらに心を閉ざし独りでいようとする子もいる。
今私に言葉を発しているこの子だって、それまでにどれだけの時間がかかったことか。
誰にも何も明かすことがないままここを離れる子だっている。
不意に、一人の子が頭に浮かんだ。
めずらしい緑の髪をして、真一文字に口を結んでいた男の子。
いつも一人でふらりとどこかに出かけては、空ろな眼で帰ってきた。
夜中にもよく抜け出して、よく愚痴をこぼしつつ上着を羽織ったものだ。
誰にも何も求めずに、そのくせ無鉄砲で、自分で自分に傷をつけるようなまねばかりしていたあの子。
ほんの一言でいい。その口から何か聞くことができたなら、変えられたのだろうか。
きっとたくさんの思いを抱えていただろう。でも、彼はいつもいなくて・・・・・いや。私がしたことといえば、決められた時間を守らない彼を叱りつけるぐらいのものだ。あの子にとってきっとこの建物は、牢獄のように息苦しい空間だったろう。
牢獄の看守に誰が心を開くものか。
あの頃、部屋のすぐそばの物置で夜中物音がした。
床に落ちていた上着の埃を払って玄関に回り、サンダルを引っかけて外に出れば、物音はもう止んでいる。
二階の窓の一つが開いていた。
黙って部屋に戻り、照明を消して待つ。
そろそろ夜も明けようかという頃、木を登り部屋へと戻る緑の髪を確かめて短い眠りについた。
そんな眠らない夜を明かすのもいつものことで。
叱ることは簡単だった。
実際時々は彼が木にたどり着く前に捕まえた。
部屋を変えるか木を切るのはもっと簡単。
それでも知らぬふりをしたのはやっぱり簡単な理由。
彼は必ず帰ってくるから。
帰ってきたいわけが無い。
牢獄の他に行き場のない彼を、これ以上追いつめる気にはなれなかった。
そんな彼が面接も試験養育もクリアして里親への委託が決まった時、真一文字の口端が緩んでいるのが見えた。
どれだけ嬉しかったことか。
やっとだね。良かったね。
看守の自分を思って言わなかった言葉。
言う必要のないと思った言葉。
悲しいことに正解だった。
タクシーから降りてきた感情のない眼にかける言葉も、なかった。
しばらくしてから、施設に一本の電話がかかってきた。
彼が面接を終えようとする頃に取り換えた、古ぼけた施設には不似合いの機能がついた電話機。
登録した番号は誰からなのか表示が出る。
まだ、消していなかった。
「はい。○○園です。」
声色を変えて応答した。
「あの・・・・、そちらで生活しているロロノア・ゾロ君に関係する者ですが・・・・今の様子をぜひ教えてほしいのです。」
震える声。
間違いない。
優しい表情の方たちだった。
受託が決まって本当に嬉しそうに笑っていた顔が思い浮かぶ。
本当に、彼を養子にしたいと願っていたろうと思う。
受託を続けられない旨を連絡されてきた時の、苦しい声も覚えている。
今の様子を伝えても、苦しさが増すだけだろう。
口先ばかり彼らを安心させることもできる。
でも、あの子はどうなるのか。
守るべきはどちらか、問うまでもないのだ。
里親になりたくても実際そうそう希望など叶えられないと知った候補の人々から、探りを入れられることもある。
もとより匿名の電話に答えるなど出来ない。
「申し訳ありません。前担当が退職したばかりでして、詳しいことはこちらでも分かりません。失礼いたします。」
低い、平坦な声で受話器を置いた。
短い会話の間に考えたことを振り返る。
間違ってはいない。
でも、正しいとも言えない。
守ろうというなら、伝えるべき言葉もあるだろう。
本当に悩み苦しんだ方たちに、伝えるべき言葉もあるだろう。
思うだけで何も伝えていない。
それでは分からないこともあるのに。
一番卑怯なのは、誰だ。
それから電話はかかってこなかった。
決して人の輪には入らず、施設を出るまで誰も近寄らせようとはしないまま、彼の牢獄での時間も終わった。
長くこの仕事をやってきて、普段意識の底にしまっている暗い蓋を開けば、同じような記憶は両手両足でも足りない。そんなふうに時を過ごさせてしまった子どもたちを思うたびに、胸が痛む。
彼らは今頃どうしているのだろう。
一人で強くなろうとして、強くなろうとしすぎて、脆いところまでそのまま厚い殻で覆ってしまった。いつか殻が割れて、あの子たちは壊れないだろうか。その時には、彼らを温かく包む存在がいてくれますように。殻を破るものが悲しみではなく、雛鳥の誕生のように、羽ばたく翼を持つものでありますように。
願うだけしかできない。
苦い、記憶だ。
向き合いながら。
頷きながら。
ただ。
うけとめる。
この仕事や、それと似たものを勉強する教科書では、「傾聴」や「共感」などと呼ばれて、本の厚みからは信じられないほど僅かにしか出ていないこと。
あんまりにも当たり前で、誰にでもできる。でもそれを実際行うのは、なんて難しいのだろう。
顔に皺が深く刻まれ黒より白のほうがずっと多い髪になっても、いや、そんな年齢になったからこそ、なおさらそのことを強く感じる。
「ごめんね、こんなつまんないこと言って。」
「何言ってるんだい、つまらないことに思えてもちゃんとそれを人に話せるってのは、すごいことじゃないかい?」
「そう?」
「そうだよ。」
「そっか・・・・・。」
カップの底にわずかに残っていたミルクを飲み干して席を立つ。
その顔に、また安堵する。
「やっぱり、学校行く!ご馳走様。」
「叱られないかい。いいよ、一日ぐらい休んだって。」
「ん、大丈夫。・・・・それより、帰ったら、また話聞いて。」
「もちろんさね。」
「ありがとう!」
そう言った瞬間の表情。眼の色。
ああ。
この子たちは知っているのだろうか。
こんなたった一言で、どんなに明るい気持ちになるか。
お礼をしなければいけないのは、私のほうだ。
背筋の伸びた背中を見送ってテーブルに戻り、また窓の外を見る。
ねじれたこぶしの枝に、芽吹き始めた小さい葉がついていた。
皆が戻ってきたら、今度はどんな話が聞けるのだろう。
朝練のあの子は来週試合だ。応援には行けないけれど、精一杯頑張った様子を教えてほしい。
そういえば前に施設を出て、今は里親の元にいる子から手紙が来ていた。
就職もできたそうだ。良かった、本当に良かった。
働いてた貯めたお金で、海外旅行に行ってみたいと書いてあった。
そうだよね、やっとパスポートも取れるようになったんだ。
願わくば。
皆に羽ばたける明日が来ますように。
テーブルを片付けて、遊んでいる幼ない子たちのところへ向かう。
もうすぐおむつの外れる子がいる。どんなふうに褒めようか。
抱きしめた時の柔らかい感触を思い浮かべながら、少し笑って歩き出した。
2006/06/07
END.
■ 最終回祭り ■
まやさん作第17話のゾロがいた孤児院の保母をtomoさんが味付け。
テラコッタさん。