生きた証



20011113

創価大学をやめようかどうか迷う。

3年間迷ってきたがやっと結論が出そうだ。

あとは今後どうやって生きていくかを詳細に決めなければならない。それは誰かに説明するためだ。

自分への説明などいらない。

一生涯、哲学するのみだ。


東京大学を受験しようと思う。

すべてやりなおす。

実行あるのみ。


そのまえに、ある哲学者のもとへ行こうと思う。

私の哲学者としての適正を見てもらうために。

正直に言えば、哲学するかどうか、迷っている。

すでに答えを9割がた決めた上での迷い。

それでもやはり哲学なのか?

私には他のどんなことも満たしてはくれない。

だから哲学しかない。

それでも哲学なのか?



20011112

そうだ思い出した。
私は高校3年生の時、大学では心理学を勉強しようと決めていた。
その時の私は「多重人格」という言葉にひっかかっていた。
多重人格とはいかなるものか?
私の中の人格(と恐らく呼ばれるもの)はひとつしかないのに
多重人格者とはどのようにして2つ以上の人格を持ちえるのか?

もっと突き詰めて考えれば、人格とは自我のことである。
平たく言えば、「こころ」だろうか。

では自我はどこにあるのか?「こころ」はどこにあるのか?
脳みそにあるのか?左胸の心臓周辺にあるのか?
科学的に言えば人体はすべて物質から出来ている。
その物質のかたまりである身体の一体どの部分に「こころ」はあるのか?「私」は大脳のどこにいるのか?
多重人格者が持っているたくさんの「私」という感じはいったいどこから来ているのか?


こんなような考えだったような気がする。

受験した心理学科はすべて不合格だった。

私はそのとき気づくべきだった。
心理学ではない、哲学をしたかったのだということを。


その後、1年間の浪人生活を経て創価大学へ入学した。
法学部だった。
法律なんかどうでもよかった。
浪人時代に歴史とくに世界史の面白さにとりつかれ、心理学科志望を一転、大学では国際政治学を学ぼうと決意した。

その国際政治に愕然とした。
ポストモダンの時代?価値相対化?だから何を言ってもOK?
すべての主義主張に対してそう言う根拠はどこにあるのかと問いただしたい。
ある人がAと主張すれば、そのAの根拠は何かと問う。
Aの根拠はBだと答えれば、そのBの根拠は何かと問う。
Bの根拠はCだと答えれば、そのCの根拠は何かと問う。
たいていはこんな議論にさえならない。

何事かを語りだすためにはまず膨大な言葉の定義をしなくてはならない。大学は教授は学生はそれを怠っているのだ。

大学の講義なんて聴いているだけでイライラして我慢がならない。

私はいずれ死ぬのだ。死は突然なのだ。
明日死ぬかもしれないのにそんなツマラナイ講義を聞いてられるか。

私には時間がないのだ。

死んだらもう「私」は存在しないのだ。

だから私は常に焦っているのだ。


20011111

キルケゴール「死に至る病」を読む。

それは間違いなく神の啓示だった。

心臓が高鳴った。手が震えた。

これこそ!これこそが今の私だ!

キルケゴールなんて過去の人間は会ったこともなければ
どんな人間なのかすらまったく知らないが
彼は間違いなく私のことを書いたのだ。

自分の今の状態がありありと寸分違わず書かれてあった。

私は哲学するしかないと決めた。

もうそれ以外は残されていないのだ。

私に選ぶ権利はないのだ。

哲学しながら死ぬのだ。

それはとても重大だった。

身が震えるほどの大歓喜。

そして想像を絶する恐怖。

歓喜と恐怖のはざまで眩暈がした。

もう後戻りは出来ない。絶望だ。

宗教に救いを求めることすら許されない。

一切の救いを拒否しなければ哲学は出来ない。

それこそが絶望だ。

私はとっさに「親に申し訳ない」という気持ちになった。

信仰を捨てるのだ。

そうでなくてはならない。

死への恐怖をずっと持ちつづけなければならない。

すべての宗教はそれを救い、許し、誤魔化す。

そんなことがあってはならないのだ。




20011110

今期に入ってからゼミ以外一度も授業に出席していない。
さらにゼミへも足が向かなくなって何かと私に期待してくださる教授には大変申し訳ないと思っている。

最近は一日中本を読みふけっている。
食べることも寝ることも怠ってただただ次から次へと
目を泳がせることだけに集中している。
手当たり次第に読破していって何かがわかる、というよりは
何もわからなくなるというのが私の現状だ。

なぜ大学の講義へ出席しないのかといえば
単純に大学で教わるべきものが私には見当たらない。
社会科学とりわけ国際政治がそれに当たるだろうと考えていたが
それ自体、私には「大それていた」ことなのかもしれない。

私は以前から直感的に国際政治のキーワードは
「歴史」と「価値」だと感じていた。

そこでいう歴史とはたとえば、
ポエニ戦争が紀元前246年に勃発したとか
ナチス=ドイツが1939年にポーランドに侵攻したことで第二次世界大戦がはじまったとかいう単なる事柄の記述ではなく
それを書いた歴史家の目のことであり歴史観とも言える。

歴史観とはある事柄を特定の価値判断において歴史とみなす必然性のようなものでその価値に見合わない膨大な数の事柄は歴史の名において抹消され続ける。

そこで価値だが。
正直にいうとまったくわからない。
この辺で私は3年間行き詰まっているような気がする。
(たかだか3年間だが)

「歴史」も「価値」も人間が創り出したものであるにもかかわらず
まるで別の意志をもった生き物のように当たり前に私達の社会で作用している。

先ほど私が国際政治をやることが「大それ」ていると言ったのは
たとえば「アメリカのアフガニスタンへの空爆は是か非か」という議論の前に「是とは何か」「非とは何か」を考えるべきだと思うからだ。もっと簡単にいえば「なぜ人を殺したら悪なのか」ということだ。そこには国際政治では前提とされている「善とは何か」「悪とは何か」という「価値判断」がすでに内在している。

大学で教えているのはそれらをすでに飛び越えたところにある
法律や政治や経済やその他一般的な学問だ。
ことに創価大学は個々人に宗教的な観念が立ち入っているために
「善悪」という哲学的大問題がその宗教的信条のもとに
軽々しく覆い隠される傾向にある。
(私は宗教を否定しないが)。
また社会に出てもそこには道徳や倫理というすでに大昔からあったような(?)価値基準が存在している(もしくは存在しているように見える)。
(さらに私にも道徳心や倫理観はあるが)。


思考停止。

先生は私に何を期待してくださっているのだろうか。
たぶん私はこの大学の学生の誰より無能だと思う。
私が大学へ来たのは世界平和のためでも人助けのためでもなんでもなく純粋に知りたいことがあるから来たのだ。
そして得られるものが少ないから行かなくなった。
それだけのこと。

それは大学のレベルが低いとか教授が怠慢だとか言うわけではなく
私には総じてつまらないものに感じてしまうのだ。
かといって自分の問題意識がどこにあるのかさえもはっきりしていない。


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