哲学




20011218

やっぱり信じられない。
光子、本当に死んじゃったの?

洪水のような涙の後で、私の心、少し乾いてしまった。
乾燥して荒地のような心になってしまった。

光子、どこにいる?
死んでからも想いは残るって誰かが言ってた。
想うことはできるのに何もできないのってきっと苦しいね。

きっと今の私と少し似てる。

光子のこと想っても、もう手も足もでないよ。



自殺って悲しいね。
こんなに悲しいものなんだね。


My dearest friend

I still can't believe that you no longer exist anymore.

To be honest I DO have regrets.

You will live in my heart from now on...

At least you won't be lonely here any more.

Please don't ever do this again.

Eventhough you already left there are so many people with scars in their heart.

This is what you did.

This is how you ended your life.

With big regrets and a lot of tears

I'm willing to take on the resposibility.

I'm ready to live the LIFE you're going to miss from now on.

I'm ready to carry on

with love for you and the memories we have together.

Don't worry you'll catch on with my life after I see the face of my great great great children.

With so much LOVE
JUN




大親友へ

あなたがもうこの世にいないこと、まだ信じられません。

本当に後悔ばかりしています。

これからもずっとあなたは私の心の中で生き続けるでしょう。

少なくとももうこれ以上孤独だなんて思わないでしょう。

だからもう二度と同じ過ちは繰り返さないで。

あなたは突然消えてしまったから、みんなの心の中に傷が残った。

これが、あなたのしたこと。

これが、あなたの人生の終わりかた。

大きな後悔とたくさんの涙には私が責任を持って応えます。

あなたが間違ってなくしてしまった生命を私が生きていきます。

あなたへの友情と共に過ごした思い出の数々を忘れません。

心配しないで、私たちは必ずもう一度巡り会えるから。


たくさんの愛を込めて

ジュン




これはジュンが光子に宛てて書いた日記。
勝手に訳しちゃったけど、たぶん間違ってない。

光子、ホントにあんたはみんなの心にでっかい「?」を残したよ。
どうして?ってみんな思ってるよ。
みんなの心を少しずつ傷つけて死んでいったんだよ。

光子が自殺して、幸せになった人なんて誰一人いないんだよ。
みんなを不幸にして、巻き添えにして死んでいったんだよ。

光子の死でみんなが悲しくなった、不幸になった。

あんたの夢は世界平和だったはずでしょ?
人間革命だったはずでしょ?
ひとりひとりの幸福だったはずでしょ?


こんなに正反対の結果はないよ。
そんだけ、間違えたんだよ。

親を不幸にして、彼を不幸にして、友達を不幸にして、
先生を不幸にして、みんな光子のことで心を痛めたんだよ。

これ以上、ひどいことはないよ。

あんた、最低だよ。本当に最低な死に方をしたんだよ。

もう二度と同じ過ちは繰り返さないで。
光子は自殺するために生まれてきたんじゃない。

生きていればたくさんの選択肢があって悩むこともある。
生きていればつらい事だってたくさんある。
みんなそれぞれ、それに打ち勝って生きているんだよ。

でも光子は逃げる方へ逃げる方へ選んでしまった。
あなたは結局、逃げた。

ずっと悩んでいたのは知っているよ、光子。
でもね、光子は逃げながら悩んでいた。
だからどんどん状況は悪化していったでしょう?

どこかで勝ち進まなければならなかったのに。
最期まで逃げてしまった。

光子、あんたは頭いいよ。
キレイだし、思いやりもあってみんなに好かれたでしょう。
でも自分から逃げてしまったのは
誰のせいでもない、光子のせいだよ。

あたしの励ましを聞かなかったのも
親の手助けを受けなかったのも
先生の指導を守らなかったのも

誰のせいでもない、光子、全部あんたのせいだよ。

光子が選んだのは逃げることだった。
温かい励ましも思いやりもすべて拒否して逃げることだった。

魔に負けつづけたのは、誰のせいでもない。
みんなの力不足じゃない。
光子のせいだよ。

仏法はそんなに生易しくない。

真剣に生きていなければ幸福になんてなれない。

逃げていた光子には幸福がどんどん遠ざかっていったでしょう。
それは光子が自分で選んだ道。


あたしはそう思う。

親友だからこそ、そう思うよ。



光子が死んでから、あたしも潤も相当悩んでいるんだよ。

もっと光子にしてあげれたことがあったんじゃないか?
もっと光子に何かできたんじゃないか?
もっと光子に・・・

でもね、やっぱり自殺は光子の責任だよ。
周りがどんなに手を差し伸べても目をつぶっていたら見えない。
私たちみんな、手を差し伸べていたんだよ?
なのにどうして死んだの?

逃げてばかり。

ほんっとうにバカだよ。
正真正銘のバカだよ、あんたは。


だけど光子がどんなにバカなことしてもあたしは光子の親友だよ。






20011215

そういえば、12月13日はあたしの22歳の誕生日だよ。

13日の夜、「お誕生日オメデトウ」って電話くれたね。

あれが最後の電話。

光子、あれからいったい何をしたの?

電話を切った後に何を考えたの?

あたしに誕生日オメデトウって言ってから、

死ぬまでの間、光子に何があったの?




20011215

お父さんから高村先生に直接電話があったんだって、光子。
高村先生は本当にすごいね。

やっぱり深く信仰を貫いている人は強いよ。
とっても強い。
高村先生はとっても明るい声だったけど
すごく重みのある声にも聞こえた。
私の胸には響いてくるものがあったよ。


私?

私だって大丈夫だよ。

今日はもう誰とも話したくないだけ。
光子のことに関しては。

光子のことをその友人達とどんなに共有しようとしたって
それぞれの光子がたくさんいるだけで
光子は優しかっただとか、あんなに明るい子だったのにとか、
最近話したのはいつだったかとか、

あたしの中の光子はただ一人で、
いつも孤独だとつぶやいていたよ。
泣いてたよ。狂ってたよ。
包丁振り回したこともあったし、
睡眠薬たくさん飲んじゃったの、ふみ、ゴメンって
ろれつの回らない口調で電話もあったし、
彼の文句もさんざん聞いたし、

ああそうだ、光子が最後に好きになった山中さんの話、
結局ふられちゃって、落ち込んでいたし、
最後に話したときもお母さんの悪口を言っていたし、
でも絶対にお父さんの悪口は言わなかったのは覚えてる。
尊敬してたんだねきっと。

それから最後の電話で、
「池田先生に会いたい」って何度も言ってたね、
あれは良く覚えてる。
すごい強い調子で話してたから。
本当に逢えればよかったのにね。
生きていれば、逢えたはずなのに。

潤は題目あげよう、って言ってたよ。
さっきまで一緒にごはん食べながら
光子のことを話していたよ。

あたしと潤は光子、あんたの大親友だよ。

だから死んでからも光子は私たちで守る、そう約束したよ。
それはちょうど一年前に二人で光子に内緒で交わした約束。
光子を守ろう。
でも結局死んじゃったけど、まだ遅くないよね。
うちらにはまだやることが残っているよ。

まさえちゃんから泣きながら電話があってね、
彼女、光子と学園時代の友達でしょ、
まさえちゃん、光子のことがショックで自分を見失っていて
手当たり次第いろんな人に光子の自殺のこと話しちゃったんだよ。

それでね、私と潤は噂がこれ以上広まらないように
今、いろんな人に電話してるからね。

まさえちゃんは最近の光子を知らなかったから
きっと突然すぎてショックが大きかったんだと思うよ。
だから誰かに慰めて欲しかったんじゃないかな。
一緒に泣いてくれる誰かを探して電話をかけちゃったんだと思う。


あたしは潤と慰めあったりしないよ。
お互いに、まず自分の弱い心と戦うので精一杯だから。
話している途中でどちらか片方が、
話しながら無意識に涙が出てることがあるよ。
そういうときはね、無言でティッシュ渡すだけ。

後は知らん振りして話を続けるの。
お互いに自分と戦っているんだよ。


光子、もうすぐこの世からいなくなって24時間が経とうとしてる。いま、どんな気分?

まだまだ苦しいはずだよ。
絶対に自分からは逃れられないんだから。
死んだからって自分じゃなくなるなんてことはきっとないと思う。
光子、あんたは完璧に間違ったよ。

あたしは悔しくてたまらない。

あんだけ言ったのに。


だから祈るからね。
私は心の中で。潤はご本尊様の前に座って。
光子にはあたしと潤とゆりっていう本物の友達がいたんだね。
ゆりは今ごろ飛行機の中で祈ってるよ。

祈りは不思議。

本当に不思議だよ。

私の心には仏法がしみついていたんだなぁ。

今の光子を助けるのは本物の祈りしかないって、そう思うよ。

今、どこにいるの。今、どんなかたちでいるの。
でもいるのは間違いない。

変だな、あたしはあれだけ死は誰にもわからないって言ってたのに
あたしは光子が死んでもなおちゃんといることはわかるんだよ。

これって盲信?
それともそう信じることが私の救いになってるの?

こういう得体の知れない寂しさに陥った時は
必ず光子に電話をしていたのに。

今も携帯に手を伸ばしてしまいそうだよ。
そしたら電話に出てくれそうな気がする。

これってあたしが悲しみに浸ってるだけだと思う?
どう思う?

やっぱ、人の勘って信じるべきだと思う。
死んでもなお「光子は必ずどこかにいる」っていうあたしの感覚。
研ぎ澄まされていく。

哲学はもっと人間の勘や心の感じ方を取り入れた方がいいね。

人間が中心なんだから。
言葉遊びじゃないね、哲学は。

一緒に池田先生に手紙を書こうねって約束、覚えてる?
死んだら字も書けないのか。
死ぬってそういうことか。
自分の淋しさを誰にも伝えられないのか。
誰にも分かってもらえなくなるのか。
死ぬってそんなに恐ろしいことなのか。

やっぱり死ぬことは大昔から人間にとって恐怖だよ。
未知だから恐怖だと思っていたけど
そうじゃなくてもっと単純に恐怖だよ。

自殺は成仏できないって聞いたよ。
光子自身もそれで相当悩んでいたよね。

実際にまだ成仏できていないでしょう。
あたしにはわかるよ。

これからが勝負だねって潤と話してたの。
大丈夫、絶対成仏させてやるから、もうちょっとそこで待ってて。


光子の今の苦しみはきっと少しずつ消えていくよ。
みんなの題目がそれを消していってるよ。

次はどんな使命を持って生まれてくるのかしら。
きっとすごいよ。
そうだね、それが今は唯一の楽しみ。


あたしは初めて大親友を失った。

もう手の届かない場所へ。

きっとたとえば、あたしがおばあちゃんになって
自分の親が死んだり、
自分の周りの友達がどんどん死んでいったり、
もしかして大好きな旦那さんに先立たれたり、
もっと嫌なのは自分の子供に先立たれたり、

歳を取ればそういう悲しい別れをたくさん経験していくよね。
それってずっと遠い未来のことだと思っていたけど、
これが親友を失った悲しみか。

これが、そうなのね。

言葉にしがたいね。
悲しい?うーんちょっと違う。
淋しい?うーんそうとも言えるけど、
つらい?うーん元気に振舞っていられるし、
孤独?うーんそうかもしれない。

大親友の、光子の死。

私はさっきからたえず光子にだけ話し掛けてるよ、今も。

そう、たえず死者に話し掛けている状態が
悲しいと表現されるなら、きっとあたしは悲しくて
淋しいと表現されるなら、きっとあたしは淋しくて
つらいと表現されるなら、きっとあたしはつらい。

でもそれだけじゃないんだ。

筆舌に尽くしがたい。

きっと意味を探しているんだと思う。
光子の死の意味を。
それでたえず光子にだけ話し掛けてるんだと思う。

自殺なんてバカなことしやがって!
ふざけんな、冗談じゃない、戻って来い!
間違ってる、絶対に間違ってるよ、光子。

あの時は自信なかったけど今なら絶対に間違ってるって言えるよ。


とうとう間違えちゃったね、光子。



潤がさ、さっきあたしに言ってくれた。
「今は光子にもっとああしてあげれば良かった、
もっと自分は何かできたんじゃないか、って考えたらダメだよ」

そういう想いで祈ると結局、空回りしちゃうんだって。

だからうちらの想いはひとつ。
光子が成仏できますように。


また未来で逢おうね。




20011215

彼女がこの世からいなくなって
もうすぐ1日が経とうとしてる。

少数の友達だけが知っている。

私はたぶん彼女と最後に会話した友達だろう。

彼女が事実、自殺してから数十時間、私は何も知らずに
自分の仕事をしていた。
私は寝て、起きて、食べて、仕事に行って、帰って、また寝て。


ここ2,3日ようやく楽に眠れるようになってきていたのは
きっと疲れていたからだろう。


彼女の死を知ったのはついさっきのはずだった。
でも私はもうずっと前から知っていたかのような、
とても落ち着いていて、とても自制が効いていて、
大泣きしながら軽々しく知り合いにこの話を広めている友人を
厳しく叱り、慰め、いろいろな所に気を回した。


電話したいけど、今は電話してはいけない。
彼女の家族も、彼も、先生も
彼女のことを深く受け止めていた人たちには
絶対に電話してはいけない。

誰かと共有するような悲しさじゃない。

この悲しさは私が彼女と知りあって3年が経ち
何度も何度も数え切れないほど深い話をして築き上げた絆は
誰とも共有できない。

唯一、彼女としか。



だから誰から彼女の話を聞いても私はまったく動じない。
私の中には私だけが知っている光子がずっといる。

光子、逃げようと思って自殺したんだから
今が相当苦しいでしょう。

生きている時よりもきっとずっと苦しいでしょう。

今、もがいているでしょう。
叫んでいるでしょう。

光子、光子、光子。

光子、生きていれば叫び声が聞こえたのに。
あたし、飛んでいったのに。
光子があたしが叫んだ時にむかえに来てくれたように。
あたしも光子を助けに行ったはずだよ、絶対に。


なのに光子、この3年間、いっぱい電話をくれたのに
何度も死にたいって打ち明けてくれたのに
それで何度も「今から自殺する」って電話をくれたのに



なのに光子、結局最後は電話しなかったんだね。


あたし、スヤスヤ眠っていたよ、その時間。
だって知らなかったんだから。



今、きっと苦しいでしょう。
光子は逃げたんだから。

あんなに逃げちゃだめだよって言ったのに。
最後はお題目だけだよって言ったのに。

あたしの忠告を無視しちゃったんだから
きっとあたしが想像するよりももっとずっと苦しいはずだよ。



今日、もう電話をしてもこの世にいない時間に
あたしは光子に電話をしていた。

光子の死を知ったのはその数分後だよ。

もう死んでいたんだね。

携帯はずっと呼び出していたのに。


ちょうど一週間くらい前に「死とはなにか」について話したね。
あたしが薦めたニーチェは読んだ?
キルケゴールは読んだ?

読んだらきっともっと考え方も変わっていたかもしれないね。

光子、光子はもっといろんな人に出会うべきだったよ。
ちょっとあきらめるのが早すぎたんじゃない?

もっといい彼氏が見つかったんじゃない?
お母さんとも仲良くなれたんじゃない?
小説家にもなれたんじゃない?
おしゃれもたくさんできたんじゃない?

あたしと一緒に世界の平和を創っていけたんじゃない?



私に出来ることは光子、ほんの少しの間泣くことだけだよ。
あとはね、まだやることがいっぱいあるんだ。

光子のことが学校中に広まらないように
もうすでに知っているみんなには厳しく口止めをしなきゃ。
何でかって言うとね、
ご両親がとっても悲しんでいるからだよ。
光子は学園生だから仲良しの友達も一緒に祈った同志も
いっぱいいただろうけどね、光子、
ご両親は家族だけでお通夜とお葬式をしたいんだって。

それだけ悲しみが深いんだよ。

あんた最低の親不孝をしたね。



光子が死んで泣いている人がいるよ。
もしかして助けてって電話したら助けてくれる人は
たくさんいたんじゃない?

孤独なんかじゃなかったみたいだよ。


光子はもうお題目唱えられない姿になったね。
光子の代わりにたくさんのお題目が送られているよ。

私は、何ができるかこれから探さなくちゃいけない。

光子は私に死を教えてくれた。
死とは何か、死んだらどうなるのか、
これできっと一生涯考えつづけることになるよ。








本当に死んでしまうなんて!




















20011211

私はちょうど登山者のようである。

先人賢者の歩いた道を易々と登ることもあれば
まだ誰も足跡をつけていない鬱蒼とした道を草木を掻き分けて登ることもある。

いずれも歓喜と苦悩があった。

さてここまでは来た。

ところで山頂を見上げると厚い霧が垂れ込めている。

私は幸福という名の山を登っていたはずだったのに
何と言うことだろう、その山頂はまったく見えない。



これが最大の謎である。

いったい人間の幸福とは何であろうか。


人間は過去現在において様々なものによって不幸であった。
歴史とは不幸の代名詞である。

しかし私の目指すべき頂きに何が待っているのか。

何をもって人間は幸福と呼ぶのだろうか。

生ある者はすべからく幸福を目指して生きる。

しかし私は今、幸福だろうか?

これが?

この状態が幸福と呼べるだろうか?

私は過去に幸福であった時があったのだろうか?

あの体験は幸福であったのだろうか?

それともあの出来事を幸福と呼んでいいのだろうか?



誰に聞いたらよいのだろうか。

人類の歴史において幸福を体験した者はいるのだろうか。

それはいかなる体験なのだろうか。

死のさし迫った者が「我は幸福であった」と実感するというのは
本当だろうか。

それはどんな感情なのか。

それはどんな生なのか。

しかしながら死者の口は鋼の如く堅い。



私はここでしばし立ち止まらざるを得ない。



20011211

人間は果たして平等だろうか?

否。

人間には富める者と貧しいものがいる。

人間には有知者と無知者とがいる。

人間には美しい者と醜い者とがいる。

人間には健康な者と不具な者とがいる。

人間には幸運な者と不運な者とがいる。

人間には善き者と悪しき者とがいる。

その現実を誤認してはならない。


すなわち、人間はその属性に関していえば平等ではない。


では平等とは何か。
それはつまりこうである。

人間は"人間である"というただ一点においてのみ平等である。

すべて生ある者として世界に存在し、その生を全うする。

人間として生まれたことだけが人間を平等に扱う理由である。

それ以外の一切の事柄、
人間にまつわる一切の属性は考慮されるべきではない。
事実の誤認は差別へとつながる。

人間の上に法はない。
したがって人間は法のもとに平等なのではない。



では平等思想は人間に何をもたらすのか。

等しく教育が与えられ、等しく経済活動する機会が与えられ
等しく国政に参加する権利が与えられた。

しかしどうだろう?

人間は果たして真の教育を受けたか。
人間は果たして真の経済活動をなし得たか。
人間は果たして真の国家を築き上げたか。

「権利の上での平等」は人間に何ももたらさなかった。

それどころか、人間はその権利を寝床にし権利の上にのさばった。

与えられるものだけで満足してしまったではないか。

その結果がこうだ。

自らの権利を声高に主張しそれを行使するが
他人の権利は平気で侵害する。

万人の支持するところのジャーナリズムは
悪趣味なプライバシーの侵害と嘲笑と対岸の火事をただただ傍観するだけだ。

そんな愚民に成り下がってしまった。

皆が皆、等しく愚民ではないか。

これが真に平等と言えるのだろうか。


しかし平等とは何だ。

それは目の見えない者に一切の美しい自然と一切の残酷な自然破壊とを見せてあげることだろうか。

それは耳の聞こえない者に一切の鳥の鳴き声と一切の騒がしい都会の雑音とを聞かせてあげることだろうか。

醜い顔を美しい顔に作り変えることだろうか。

苦悩するものから苦悩を取り去ることだろうか。

不遇な人生をすべてバラ色に変えることだろうか。


「それは違う」と私の中の一匹の獅子は言う。

平等とは人間を幸福へと導くものでなくてはならない。

人間は「人間であること」だけが真に平等でなければならない。

目の見えないものはその生を受け入れなければ幸福にはなれない。
すべて現実の否定は夢、幻想でしかない。
その夢が甘美であればるほど、願望に満ちているほど
夢が覚めれば残酷だ。

私が「私である」ことに正当な認識をもたなければ一切意味がない。

現実の否定は多くの宗教を生み出した。

神を作り、真理を作り、それらを人間の手の届かぬ高みへ置いた。

安易な平等思想もまた一種の願望のかたまりでしかない。

「こうであったらいいのに!」という願望を満足させるただの夢でしかない。

それは結局人間を縛りつけるものになった。

幻想を追い求めていけば必ず道を誤る。

多くの主義主張のもとに、多くの神という名のもとに
人が殺されてきているではないか。



人間は「人間であること」、この現実だけで十分ではないか。


そして人間であることこそが幸福になり得る唯一の前提でなければならない。


幸福・・・!


20011209

正直にいこう。

私はまだ何もなしていない。

これから何をすべきか。


今の私にどんな功績が必要だというのか。

私に賞賛など要らない。
地位も名誉も名声も富みもまったく必要ない。

そして私は無力だ。


牧口は死んだ。
その言葉を戸田が語った。

戸田も死んだ。
その言葉を池田が語った。

池田大作もやがて死ぬ。

その言葉を語る者は誰か。

人々が忘れてしまわぬように
その時は私が語ろう。

だから今はじっと耐えていてもいいのだ。
言葉足らずな私に対する無理解には。


焦らずに学ばなければならない。

今の私には学ぶことしかできないのだ。

先人の言葉をその正しさだけ抽出して
私は私のやり方で新しい価値を創造していかなければならない。



今や人類の最高学府たる大学は、
動物園とかわらなくなってしまった。

おどけた顔で快楽のみを追求する猿。
教科書丸暗記のオウム。
安眠を貪る獅子。


青年ならば、猿回しの猿になるな。
オウム返しのオウムになるな。
眠れる獅子となるな。


大学は悪を斬り捨てる獅子の住処でなくてはならない。

唯一、人類の未来でなくてはならない。

創立者はそう思って大学を建立したはずだ。


その想いを真摯に受け止めよう。

学びに徹する。




20011206

何ということだろう!

自分の思うところを試すべく語ったのに。

偽善?

偽善。

偽りの善。

私は何を偽っていると言うのか!

傲慢?

私のどこが傲慢なのか!


価値の創造。

この思想のどこに偽った善があるのか。

大衆批判はすぐには受け入れられないだろう。

しかし大衆は依然として愚民だ。

民主主義は強大な悪を平然となし得る力を持っている。

しかしソクラテスは言った。

民衆が大悪をなし得る力を持っていることはすなわち
大善をなし得る力をも持っているということだ。


だからこそ大衆批判が必要なのだ。

眠っている者たちを起こしていくのだ。

そして二度と眠らせない。

死が彼らに眠りを与えるまでは。

生きている間は、その生を全うすべきだ。

生を全うするとはすなわち自己を開放していくことだ。

自己の開放、すなわち人間革命だ。

人間革命、すなわち人類の幸福だ。

人類の幸福、すなわち価値創造だ。

新たな価値が必要なのだ。

人間が人間を喰って生きているじゃないか!

そんなものは絶対に許せない。

これを実感する者はいないのか!



私は創立者とまったく同じことを言っているというのに、
(それは私が学び知っていく中で池田大作の正しさを、日蓮の正しさを実感するからだ。)

創立者の言葉には疑問を抱かない。

私の言葉には偽善という非難が浴びせられる。


何ということだろうか。


結局、他人はその思想の内容を吟味せず、
ただただ「私」という人間によって判断しているということか。

ならば池田大作の思想も結局のところ、その思想の内容は吟味されず、ただただ「池田大作」という偉大な名において受け止められ賞賛されているというのか!


何という無理解だろう。

それこそ偽善ではないか。

傲慢ではないか。


私はそんなものには負けない。

私の思想を真っ向から試す人間はまだいないじゃないか。

そして私自身すら、人類的な価値の創造とはなんであるかという答えをまだ見つけられずにいるじゃないか。

もっと闇を見つめるのだ。

私はもっと孤独に陥らなくてはならない。

最低のところから、最深のところから、
最高へと登りつめるのだ。








20011201

人間を不幸ならしめる一切に抵抗する。

やはり私は堂々と戦うべきだ。

黙っているのは獅子ではない。


人間の、人類の不幸を知っておきながら
それを背負って黙々と歩くのはただの駱駝だ。

駱駝はやがて疲れ果てて砂漠にうずくまる。

私はどうやらうずくまってしまったようだ。

それがこの例えようもないほどの孤独だ。

しかしこの孤独がなければ孤高の獅子へと変化できないだろう。

獅子!

獅子になるべき時だ。






20011130

私にはいつでも前言を撤回する用意がある。

しかし私の言葉に反論できるのは今のところ唯一私だけだ。

まだだ。

まだ口外してはならない。

価値創造の思想はもっとゆっくりと温めなくては。

自らの手で何度でも斬る。
その思想の確かさを、正しさを試さなくてはならない。


しかし何という孤独だろうか。

孤独が私を眠らせない。

そんなときこそ私はもっとも師匠を求める。

先生!

私は何をすべきですか?

どうやればいいのですか?







20011129

「何のために」哲学をするのか。

それをもう一度きちんと自問する必要がある。

何のためか。

それは「私が」幸福になるためである。

「私が」幸福になるということはすなわち、
「人類が」幸福になるということと同義でなければならない。


仏法では環境と自分とは不ニであると説く。

幸福とは自分と自分の周りの環境とを変革していく先にある。

ならば戦争が起きているアフガニスタンもパレスティナも同じ自分の環境ととらえるべきではないか。

それを他人事だと片付けるのは、虫が良すぎる。

自分に都合よく仏法を利用してはならない。



哲学も宗教も幸福を目指さない人間にとってはただの幻想に過ぎない。

しかし「幸福を目指さない人間」など存在するのだろうか?

そんなものはもはや人間ではない。

私は「何のために!」と幾度となく連呼した。

歴史において人間のなした善事も悪事もすべては自己の幸福のためではないか。

ならば哲学は人間を幸福にするものでなくてはならない。

それ以外の目的がどこにあるというのか。

ニヒリズムに侵されたつまらない哲「学者」は大学で何を教えようというのか!

哲学は自ずから人間性の解放を語る。
価値創造をせよと命ずる。

命ずるのは人間だ。

人間が哲学し、価値を創造せよと自らに命ずるのだ。


いったい価値創造を語らない哲「学者」など何の意味があるのか。


私の目指すべきところは「哲学」者である。

革命家である。

人間を不幸にする革命が歴史上数限りなくあった。

私は人間を幸福にする革命家になると誓う。

何に誓うのか。

自らに誓う。








20011127

なんだこれは?

私は誰だ。

友人が自殺するとき、私は一切がわからなくなってしまった。

生と死を前にして、ただただ涙を流すばかりだ。

それぐらいせつない。

せつないものだ。

結局、宗教は彼女を苦しめるばかりであった。

彼女だけが絶望の意味を知っていた。

死ねばいい。
死にたいのなら死ねばいいじゃないか!

人間は自由だ。

途方もないくらい自由だ。


私はその自由さに身動きが取れない。



誰か助けて欲しい。

でも誰も助けられないのはわかっている。

それでも誰か。

誰もいないのか!

私には何もないのか!

自由すぎて誰も何も私には近寄れないのか!

彼女はどこにいるのか。

私はどこにいるのか。



世界が揺らいでいる。
一切が揺らいでいる。

私には危うすぎる。

すべてが不安に不規則に動いて見える。

私は狂っているのか。

狂うほどの自由。

自由が重過ぎる。

自由が自由であるから窒息しそうだ。

誰かわかるのか。

私を誰かわかるのか。

救いを求めるほどに自由。

救いが欲しい。



嗚呼、私は彼女を救えない。
哲学は彼女を救えない。

哲学は生きるためのものではないのだ。

哲学は救いではないのだ。


ならば何を持って救いなのだ。

何が彼女を救うのだ。

私には無理だ。

自分自身になりきることしかないのだ。

彼女は自分の死を見つめていて
私は自分の死を見つめられない。

私には死がない。

死がないから死を見つめられない。

それが天と地ほどの差になって永遠に近づけない。

孤独。




無。




眠れない、と私はつぶやく。

死ねない、と彼女はつぶやく。


20011126

時間は長さではない。
時間は測れない。

時間は長さではなく、深さだ。
でも深さでもない。深さは測れるから。

時間は深さではなく、広がりだ。
でも広がりでもない。広がりもまた測れる。

時間は広がりではなく、永遠だ。
永遠は測れない。

時間は永遠だ。

私は眠れない間、現実の中で夢を見ていた。

私にはニーチェの言う超人がよくわかる瞬間が何度もあった。
そしてそれを言葉に捉えようとするとすぐに忘れていた。

あの一瞬よ、もう一度!


ニーチェの永遠回帰。


20011125

映画は暴力だ。

映画はセックスと似ている。



何か悦びが感じられるかもしれないと期待して
待っていても結局、最後には空虚感しか残らない。

途中つまらなくても我慢していた。

でもなんだ、時間の無駄だ。

私はもう一生映画は見ない。

映画は芸術には到底なりえない。
雑念が多すぎる。
無駄が多すぎる。


さらに映画館でポップコーンを食ってる音があちらこちらから
聞こえてくると吐き気がする。

感動し涙を流しながらも食欲は健在なのか。

私には理解しがたい。


映画とセックスほど退屈なものはない。




20011123

自分の中から「大人」的な部分は一切排除してしまえ。
私はそれがいいと思う。

「大人」は妥協する。
「大人」は自分に嘘をつく。
「大人」はやがてあきらめる。

私はそういう「大人」的属性が自分にもあることを認める。
そしてそれを一切無くしてしまえと心の内に叫ぶのだ。

いつまでも自分の好きなことをだけをやっていたい。
邪魔されたくない。
他人に煩わされたくない。

私は私自身を生き切るためにのみ、生を敢行する。


親は言う。
「好きなことだけをやっていたらダメだ」と。

先生は言う。
「とりあえず卒業だけはしたほうがいい」と。

周りは口を揃えて言う。
「おまえは自分に甘い、いい加減大人になれ」と。



じゃあ「大人」はどうなのだ?
周りが私に必死になってススメル「大人」とはそんなに素晴らしいものか?


私には見える。

友人達に見下されまいと躍起になって自分の欠点を取り繕う姿が。

自分のいいと思うことを押し殺してまで他人に同調する姿が。

理不尽な決定に従うバカな大人達の姿が。

それらはすべてをあきらめの方向へと結論付ける。

すべて大人は自己犠牲だ。

しかも誰の役にも立たないつまらない自己犠牲だ。

そんな自己犠牲が作り上げた社会はどうだ?世界はどうだ?

日本を見よ。世界を見よ。

「大人」に「ほんとう」を見抜く力はもはやない。


そして「大人」たちは自分達の犠牲によって作られた虚しい世界を守るために「子供」に向かって「大人になれ」という。

これは道連れの精神ではないか。
悪へのいざないではないか。

「受験戦争」という装置で子供は望まない勉強を強制させられ
やがておなじ「大人」になる。


「大人」は私を憐れむのか?
「はやく大人になりなさい」と。
「さっさとあきらめなさい」と。

私は抵抗する。

私は断言する。
「大人たちよ、自らを憐れむがよい」

憐れな大人たちには「宗教」による慰めがお似合いだ。

私には必要ない。



妥協と嘘とあきらめによって成り立っている世界は糞尿だ。
「大人」たちは糞尿の中で必死になって他人に自分の糞を投げつけあっているのだ。

糞尿の品評会だ。

他人の糞と自分の糞を比べて他人のが大きければ悔しがるのだ。

そして必然的に出てきた「宗教」は、糞の大小に苦悩する「大人」に向かって言うのだ。

すべての糞尿は平等たれ!と。




私はそんな汚らしい糞尿まみれの「大人」たちの中にあって
一人、子供らしい清らかさを守る。


私は自分が認めていない一切を拒否する。

しかし私は絶対にそれらと戦わない。

過去の逸脱した天才的思想家や芸術家のようなバカな真似はしない。

社会の変革など望まない。

そんなことはほとんどちっぽけなことだ。私にとっては。



何の疑いもなく「大人」になってしまった輩に
私が学校へ行かない理由などわかるわけがない。
私の怒りは届かない。


そしてまた今日もこう言われた。

「自分の好きなことだけやっていたいというのは甘えだ。

 いい加減に大人になりなさい」











20011122

善悪の問題

僧侶的価値評価

ルサンチマンの出現

価値逆転

禁欲主義

自然科学その他の近代科学の発達=形而上学の否定

「真理」への誠実さ(=新しい「信仰」)

ニヒリズム
(一切を無価値へと)

無神論・懐疑主義・デカダン・ニヒリズム

しかし

「人間は何も欲しないよりはむしろ虚無を欲する」

ニヒリズムの極地。




さて人間はその存在に意味を求める生き物である。

なんのために生きているのか?」

なんのために苦悩するのか?」


何のためでもない。神は死んだのだから。

しかし無こそが存在理由であるという現実は人間には耐えられない。そこで近代科学は存在意味の根拠を捏造する。
つまり、「神はいないが真理はある」と。

同じ罠。


生の苦悩(否定)→救済(願望)→真理


しかし真理はどのようにして確かめうるのか?

それは高揚された権力の感情によって。
有用性によって。
不可欠性によって。

要するに「利益」でもって確かなものとなる。

それは「最大多数の最大幸福」を目的としている。


先日私が述べたように「神様は一人ではない」とするなら
「真理もまた一つではない」。

真理と呼ばれていたものは実はもっとも強力な「解釈」にすぎない。

なぜ人間は混沌世界に解釈を与えるのか?

そこにニーチェ流の「力への意志」が働くからだ。


疲れた。
気が付けば一日中、価値について考えていた。
今日はここでやめ。


私は精神科へ通院したこともある。

しかし今思えば、その事実は私がいかに諸矛盾に対して誠実であったかの証明にほかならない。


世界は矛盾に満ちていると人は言う。

しかしその世界とは自己の勝手な解釈にしか過ぎない。

ならば矛盾しているのは世界ではなく、自分だろう、オマエ。

無頓着で平和な人間は、この内なる矛盾をなんとのん気に、なんと巧みに交して生きているのだろうと驚く。

私のような人間は精神科行きだ。

なぜなら自分に誠実だからだ。



ニーチェの永遠回帰がまだ飲み込めない。

しかし慎重にならねばならない。

誤解してはならない。

私の考えもまだニーチェ止まりだ。

だがこの続きにまだ直感がある。

それが形として見えるまで私は黙していなければならない。



20011122

私の言うところの「絶対性の克服」は、ニーチェの言うところの「超人」の思想に極めて近いことがわかった。

要するに新たな価値創造。

それは牧口常三郎の言うところの価値創造とも一致しそうだ。
しかし創価学会はどこでどう間違えたのだろうか?

結局は人間の救済にしか意味を持たない。

それではキリスト教でもイスラム教でもなんでもよろしい。


人間の救済は宗教に任せておけばよいが
しかしそれこそがまさに悪の根源とも言える。

今もまさに人間は宗教によって束縛され殺しあってるじゃないか。

やはり宗教の壁を越えなくてはならない。


ニーチェとはもう少しお友達でいよう。

いずれ訣別することになるが。



20011120

国木田独歩の欺かざるの記は大いに自己を欺いていると思うが。

この生きた証もそういえば私の人生の中での思考の一部しか記さないという意味では大いに自己弁護。

それはいいとして。


さて今日の問題。

「人間間に争いが生じるのはなぜか」

それは価値の相違である。
そこに絶対性を見出すからである。

絶対性は代替不可なもの。譲りえないもの。

人間にとって真に譲りえないものとは「生」であるが
「生」と同義に(もしくはそれより上位に)「生」にとって代わる「精神的なもの」に固執し「生」を投げ打ってでもそれを獲得しようとする。


さて「価値」とは?

信じること。
世界のすべてを有意味なものとして認識する。
認識とは信じることに他ならない。

仮に自分の信じる価値(認識)がすべて崩壊したらどうだろうか?

イスだと信じていたものがイスではなく
人間だと信じていたものが人間ではない。

もはや世界は存在しえない。

しかしその危険性はすでに「信じる」という行為それ自体に内在している。
夢と現実の区別など誰もつけられず、この世がフィクションだとしても文句は言えまい。

飛躍するのを恐れずに展開。

人間が価値を持ってそれを信じそこに絶対性を見出していることによって他の価値との摩擦が生じるのであれば、その絶対性を克服しなければならない。

絶対性の克服?

絶対性が絶対たり得るには、信じる主体としての自己がなくてはならない。

自己は絶対的超越的な存在でなくては自己ではない。

人間は自己に重大な絶対性を持たせるために存在に価値を与えるのではないか?

ああ、わかんなくなってきた。


価値相対化について。

冷戦後の2極イデオロギー崩壊から価値相対化の時代へ。

しかし価値を相対化するとは、他にも絶対性が存在するという意味で真の絶対性克服には至らない。

つまり、「神は一人ではない」らしい。

絶対的な神は世界にその宗教の数だけ存在し、さらに絶対性とは他の一切の否定でしか成り立たない。
とするならば価値相対化など戯言以前の問題ではないか。

グローバリゼーションを考える。

地球市民という言いまわしはどうもうさんくさい。

これもやめ。

さてアメリカが国を挙げて信奉する自由と民主主義の精神だが。
自己は絶対的超越的存在であり、また完全自由な唯一の存在であるとするならこの世のものではない。
実存世界にそんなもんが存在してたまるか。気持ち悪い。

さらに愛もまた痛みもこの世のものではない。
愛は目に見えずただ感じることによってのみそれを知りうるのである。
痛みも目に見えずただ感じることによってのみそれを知りうるのである。
それは自己にしか了解できない。
じゃあどこにあるんだ?愛。自由。痛み。そして「私」。

話が飛んだ。

自由・民主主義の要求とは究極のところ絶対性である。
人間の尊厳?とかいう自己満足な言い方もできるが。

それともアメリカはまだフロンティア精神を持って世界征服を企んでいるとでも言うのか。
ひとりで皮肉こねていてもしょうがない。

それにしても自由を希求するとはおかしなことだ。
人間はその唯一絶対的超越的な自己として絶対的に自由なのに。

価値の絶対性を固守するためには共同体の自由が保障されなくてはならない。
それが平和への希求。
それを実現するためには
共同体の外にはみだした他の絶対性は絶対に認めてはならない。
だから戦争。

これ以上、人を殺してはならない。




20011113

創価大学をやめようかどうか迷う。

3年間迷ってきたがやっと結論が出そうだ。

あとは今後どうやって生きていくかを詳細に決めなければならない。それは誰かに説明するためだ。

自分への説明などいらない。

一生涯、哲学するのみだ。

すべてやりなおす。

実行あるのみ。


そのまえに、ある哲学者のもとへ行こうと思う。

私の哲学者としての適正を見てもらうために。

正直に言えば、哲学するかどうか、迷っている。

すでに答えを9割がた決めた上での迷い。

それでもやはり哲学なのか?

私には他のどんなことも満たしてはくれない。

だから哲学しかない。

それでも哲学なのか?



20011112

そうだ思い出した。
私は高校3年生の時、大学では心理学を勉強しようと決めていた。
その時の私は「多重人格」という言葉にひっかかっていた。
多重人格とはいかなるものか?
私の中の人格(と恐らく呼ばれるもの)はひとつしかないのに
多重人格者とはどのようにして2つ以上の人格を持ちえるのか?

もっと突き詰めて考えれば、人格とは自我のことである。
平たく言えば、「こころ」だろうか。

では自我はどこにあるのか?「こころ」はどこにあるのか?
脳みそにあるのか?左胸の心臓周辺にあるのか?
科学的に言えば人体はすべて物質から出来ている。
その物質のかたまりである身体の一体どの部分に「こころ」はあるのか?「私」は大脳のどこにいるのか?
多重人格者が持っているたくさんの「私」という感じはいったいどこから来ているのか?


こんなような考えだったような気がする。

受験した心理学科はすべて不合格だった。

私はそのとき気づくべきだった。
心理学ではない、哲学をしたかったのだということを。


その後、1年間の浪人生活を経て創価大学へ入学した。
法学部だった。
法律なんかどうでもよかった。
浪人時代に歴史とくに世界史の面白さにとりつかれ、心理学科志望を一転、大学では国際政治学を学ぼうと決意した。

その国際政治に愕然とした。
ポストモダンの時代?価値相対化?だから何を言ってもOK?
すべての主義主張に対してそう言う根拠はどこにあるのかと問いただしたい。
ある人がAと主張すれば、そのAの根拠は何かと問う。
Aの根拠はBだと答えれば、そのBの根拠は何かと問う。
Bの根拠はCだと答えれば、そのCの根拠は何かと問う。
たいていはこんな議論にさえならない。

何事かを語りだすためにはまず膨大な言葉の定義をしなくてはならない。大学は教授は学生はそれを怠っているのだ。

大学の講義なんて聴いているだけでイライラして我慢がならない。

私はいずれ死ぬのだ。死は突然なのだ。
明日死ぬかもしれないのにそんなツマラナイ講義を聞いてられるか。

私には時間がないのだ。

死んだらもう「私」は存在しないのだ。

だから私は常に焦っているのだ。


20011111

キルケゴール「死に至る病」を読む。

それは間違いなく神の啓示だった。

心臓が高鳴った。手が震えた。

これこそ!これこそが今の私だ!

キルケゴールなんて過去の人間は会ったこともなければ
どんな人間なのかすらまったく知らないが
彼は間違いなく私のことを書いたのだ。

自分の今の状態がありありと寸分違わず書かれてあった。

私は哲学するしかないと決めた。

もうそれ以外は残されていないのだ。

私に選ぶ権利はないのだ。

哲学しながら死ぬのだ。

それはとても重大だった。

身が震えるほどの大歓喜。

そして想像を絶する恐怖。

歓喜と恐怖のはざまで眩暈がした。

もう後戻りは出来ない。絶望だ。

宗教に救いを求めることすら許されない。

一切の救いを拒否しなければ哲学は出来ない。

それこそが絶望だ。

私はとっさに「親に申し訳ない」という気持ちになった。

信仰を捨てるのだ。

そうでなくてはならない。

死への恐怖をずっと持ちつづけなければならない。

すべての宗教はそれを救い、許し、誤魔化す。

そんなことがあってはならないのだ。




20011110

今期に入ってからゼミ以外一度も授業に出席していない。
さらにゼミへも足が向かなくなって何かと私に期待してくださる教授には大変申し訳ないと思っている。

最近は一日中本を読みふけっている。
食べることも寝ることも怠ってただただ次から次へと
目を泳がせることだけに集中している。
手当たり次第に読破していって何かがわかる、というよりは
何もわからなくなるというのが私の現状だ。

なぜ大学の講義へ出席しないのかといえば
単純に大学で教わるべきものが私には見当たらない。
社会科学とりわけ国際政治がそれに当たるだろうと考えていたが
それ自体、私には「大それていた」ことなのかもしれない。

私は以前から直感的に国際政治のキーワードは
「歴史」と「価値」だと感じていた。

そこでいう歴史とはたとえば、
ポエニ戦争が紀元前246年に勃発したとか
ナチス=ドイツが1939年にポーランドに侵攻したことで第二次世界大戦がはじまったとかいう単なる事柄の記述ではなく
それを書いた歴史家の目のことであり歴史観とも言える。

歴史観とはある事柄を特定の価値判断において歴史とみなす必然性のようなものでその価値に見合わない膨大な数の事柄は歴史の名において抹消され続ける。

そこで価値だが。
正直にいうとまったくわからない。
この辺で私は3年間行き詰まっているような気がする。
(たかだか3年間だが)

「歴史」も「価値」も人間が創り出したものであるにもかかわらず
まるで別の意志をもった生き物のように当たり前に私達の社会で作用している。

先ほど私が国際政治をやることが「大それ」ていると言ったのは
たとえば「アメリカのアフガニスタンへの空爆は是か非か」という議論の前に「是とは何か」「非とは何か」を考えるべきだと思うからだ。もっと簡単にいえば「なぜ人を殺したら悪なのか」ということだ。そこには国際政治では前提とされている「善とは何か」「悪とは何か」という「価値判断」がすでに内在している。

大学で教えているのはそれらをすでに飛び越えたところにある
法律や政治や経済やその他一般的な学問だ。
ことに創価大学は個々人に宗教的な観念が立ち入っているために
「善悪」という哲学的大問題がその宗教的信条のもとに
軽々しく覆い隠される傾向にある。
(私は宗教を否定しないが)。
また社会に出てもそこには道徳や倫理というすでに大昔からあったような(?)価値基準が存在している(もしくは存在しているように見える)。
(さらに私にも道徳心や倫理観はあるが)。


思考停止。

先生は私に何を期待してくださっているのだろうか。
たぶん私はこの大学の学生の誰より無能だと思う。
私が大学へ来たのは世界平和のためでも人助けのためでもなんでもなく純粋に知りたいことがあるから来たのだ。
そして得られるものが少ないから行かなくなった。
それだけのこと。

それは大学のレベルが低いとか教授が怠慢だとか言うわけではなく
私には総じてつまらないものに感じてしまうのだ。
かといって自分の問題意識がどこにあるのかさえもはっきりしていない。


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