聖母の微笑
前編



それを聞いた時、オレは「へぇ、そうなんだ」と不思議と腹も立たず納得した。


遡れる限りの古い記憶の中でも、オレの家族は母親と双子の弟と妹の4人しかいなかった。
今から思えば小さな古いアパート暮らしだったが、飢えた記憶はない。
もちろん、母親が一人で働いて家計を支えていたから裕福な生活とは言い難かったが。


弟や妹と一緒に預けられていた保育所には片親の子供が多かったし、父親がいない事を不思議に思った事はなかったが、両親が揃っていないと子供が生まれないと聞いた後に母親に訊ねた事があった。

「オレたちの父さんてどんな人だったの?」

母親はオレのその言葉を聞いて泣き出してしまった。

「ごめんね。ごめんね」

そしてただ謝るだけで何も答えてはくれなかった。

オレはそれを見て、二度と父親について訊ねる事はなかったし、弟と妹にも母親に聞かないように厳しく言い渡した。
きっと死んでしまったんだと思っていたし、父親が欲しいとも思わなかったから。
母親と弟と妹の4人の生活で十分だと思っていた。


だけど、オレが小学校に入った頃、母親はオレに一枚の名刺を渡した。

「もし、母さんに何かあったらこの人に連絡をしてね」

その頃のオレにはその名刺に書いてある名前が読めなかった。
もちろん、ローマ字の読み仮名すらも読めない。

「そこに電話をすればいいのよ。そして自分の名前を言うの」

母親はそう言ってオレに一切の質問を許さなかった。


思えば母親は何かを予感していたのだろうか。
母親が帰宅途中で心臓の発作を起こして亡くなったのは、名刺を受取ってから1ヶ月も経っていない頃だった。


オレは冷たくなった母親を病院の遺体安置所で見せられてから、母親に言われたとおりに名刺の相手に電話をした。

「オレの名前は波生和晴といいます。母さんが死にました」

電話の相手はオレの居場所を聞いて1時間ほどで病院に来てくれた。

「和晴くんだね?大きくなって・・・」

来てくれたのは随分と年を取ったおじさんだった。

「あなたがオレ達の父親ですか?」

てっきりそうだとオレは思っていたのだが違っていた。

「いや、君のお父さんは今、日本に居ないんだよ。急いで連絡を取っているが、いつこちらに来られるかまだ判らないんだよ。すまないね」

「いえ」

オレは少しがっかりしていたのかもしれない。
名刺を渡された時から、これは父親のものだと思っていたから。

「私は西塔と言って、君のお父さんの知り合いなんだよ。だから安心して私に任せてくれていいからね」

西塔と名乗ったその人は母親の葬式からオレ達の喪服まで手配してくれた。
弟と妹は母親が死んでしまった事をよく解かっていないのか、泣きもせずに知らない人達に囲まれて困ったような顔をしていた。

だから、棺に眠る母親を良く見せて「母さんにお別れをするんだよ」と言ってやった。
でも、そう言ったオレもまだ母親の死を実感してはいなかったのかもしれない。

母さんが死んでしまった事は解かっている。
ただ、死がどういうものなのか理解してはいなかったのかもしれない。
大人達に言われた通り通夜と葬式と告別式に出て、不安がっている弟と妹の手をずっと握っていただけで涙も出て来なかった。

「しっかりしているね」
「えらいわね」

そう言われて、すっかり慣れた会葬客への会釈するだけだった。


骨になった母親を抱えてアパートに戻ろうとすると西塔さんがオレ達を引き留めた。
これからは父親の家に住むのだと言って。

「お母さんが亡くなったのだし、君たちはこれからお父さんと一緒に暮らすんだよ」

それがさも当然であるかのように西塔さんはそう言った。

「一緒に暮さなくちゃ駄目ですか?」

今まで会った事もない父親と暮らす事に、母親の葬式に顔も出さない父親に会う事に抵抗があった。

「お父さんと一緒に暮らしたくないのかい?でも、君達だけでどうするつもりだい?君は小学校に入ったばかりだろう?靖治くんや静香ちゃんだってまだ保育園に通っているのに」

西塔さんにそう言われてオレはグッと唇を噛みしめた。

「施設に行きます」

オレは悔し紛れに耳にした事があった言葉を口にした。
確か、『施設』は親のいない子供が行くところだと聞いた事があったから。

「施設がどんなところか知っているのかい?お父さんは君達を引き取って育てると言っているんだよ。君達のお母さんとお父さんはちゃんとした結婚をしていなかったけど、君達の事は認知しているんだ。君達の父親が法律上確かに存在して育てると言っているのに施設に行く事は出来ないよ」

西塔さんが言った言葉は少し難しくて全部を解かる事が出来なかったけど、オレ達だけで生きていく事も施設に行く事も出来ないのだと言う事はよく解かった。


「心配しないでも大丈夫だよ。君達のお父さんはお金持ちだからね、生活に困る事はないよ」



そう言われて連れて行かされた場所は大きな家だった。

「すごいね、お兄ちゃん。ここがこれから僕たちのおうちになるの?」

今まで黙ってオレと西塔さんの話を聞いていたノブが家を見た途端にそう驚きの声を上げた。

「そうだよ、今日からここが君達のおうちになるんだよ」

西塔さんはノブの言葉に嬉しそうに答えている。

オレは何だか悔しくて拳を強く握りしめた。
静香は黙ったまま、オレの手を強く握りしめている。

ノブは大きな家に喜んでいる。
静香は新しい場所に不安がっている。

オレは子供で、ノブと静香の2人を育てるどころか自分1人で暮らしていく事だって出来ないだろう自分に腹が立ってしょうがなかった。
母親が働き過ぎで発作を起こして死んでしまうまで放っておいた父親に世話にならなければならない事や、その父親が金持ちなのも気に入らなかった。

どうして母さんは1人でオレ達を育てていたのか?
その間、父親は何をしていたのか?
どうして父親と母さんが結婚していなかったのか?
オレには判らない事が多過ぎた。


オレ達が住む事になった大きな家には沢山の使用人がいた。
料理を作る人、部屋を掃除する人、庭を手入れする人、そしてオレ達の面倒を見る人が。
その人達にオレ達は名前に「様」を付けて呼ばれた。

住む家が変わったので、学校も転校するように西塔さんに言われた。
試験を受けて、制服が届いて、オレは『名門私立小学校』に車で通う事になった。

母親の骨がお墓に納められて暫くした頃、やっとオレ達の父親が外国から戻るという。

「今日の夕食にはお会いになれますよ」

そう言われてドキドキしながら夕食を待った。

西塔さんや使用人の人達から父親がアメリカ人だとは聞いていた。
日本で仕事をしているので日本語が喋れる事も聞いたし、写真も見せて貰っていた。

引き取って貰ったお礼を言うべきか?それとも、今までオレ達と母さんを放っておいた事に文句を言うべきなのか?
オレは悩んでいた。


オレ達の父親は、母さんが死んで悲しかっただろうか?
オレ達と一緒に暮せなくて寂しかっただろうか?

母さんは父親の事を聞いたオレに謝っていた。
父親と一緒に暮せなかった事情があるんだろうか?

オレ達を引き取ってくれた父親と一緒に仲良く暮らす事が出来るんだろうか?


オレはこの時までまだ会った事のない父親に期待していた。
それがどんなに愚かな事だとも知らずに。



オレ達の母親がどうして父親と結婚しなかったのか?
オレ1人ならともかく、ノブと静香と、子供を3人も作っておきながら、認知だけしてどうして結婚しなかったのか?
オレ達の母親はどうして働き過ぎで亡くなってしまうほど必死に働いて1人で子供を育てていたのか?
オレ達の母親はどうして『何かあったら』父親ではなく西塔さんに連絡するように言ったのか?

オレはまだ子供で、本当に何も解かっていなかった。





大きな食堂で初めて顔を合わせた父親は、オレを見るなり「靖治か?」と聞いてきた。

白っぽい髪と色の薄い目の外人が日本語を喋るのが不思議だと思いながら「和晴です」と答えた。

ノブと静香はオレの後ろからそっと顔を覗かせて父親を見ていた。

弟と妹には何と声を掛けるのか、と思っていると

「小さいな。早く座りなさい」

それだけを言って食事を運ぶように使用人に指示をした。


がっかりしているノブと静香を座らせて食事を始めた。

だけど、食事中に父親からオレ達に話し掛けられる事はなかった。


食事が終わりそうになってオレは慌てて父親に話し掛けた。

「あの!」

「なんだ?」

何を言うべきなんだろう?
感謝か?恨み事か?

「どうしてオレ達を引き取ったんですか?」

父親はオレ達に会っても少しも嬉しそうにしていない。
嬉しいどころかむしろ・・・迷惑そうにしている。

それならどうしてオレ達を引き取ったのか?


「私がお前達の父親らしいのは確かだから、認知をした。お前達の母親が亡くなったのならば父親の私が引き取って育てる義務と責任があるだろう。私は責任を放棄したりしない」

「・・・義務と責任ですか?」

「そうだ。難しくて解からないか?」

「・・・いいえ、よく解かりました」


オレはもう父親に話し掛けようとは思わなかった。


オレ達の父親はとても冷たい人間だと言う事が良く解かったから。

義務と責任という言葉は確かに少し難しかったけど、父親がオレ達を引き取ったのは、オレ達と一緒に暮らしたいからではない事が解かったから。


父親だから、義務と責任があるから、父親から言われた言葉が頭の中で繰り返しながら響く。


オレは母親が死んで、父親が母親と同じものを与えてくれると思っていた。

住む所と食事と笑顔と暖かい温もりと・・・愛情を。

確かに父親は住む所と食事は十分なものを与えてくれた。

でも、母さんの笑顔と温もりはもう二度と、父親はおろか誰からも与えられないものなのだと初めて分かった。

オレはその夜、母親が死んで初めて涙を流した。


母親を失った事を悲しんで・・・そして父親に期待していた馬鹿な自分を可哀そうだと思って。





父親に期待をしなくなったオレは、自分と弟と妹の為に生きていけばいいのだと考えるようにした。

早く大人になって、この家から出ていく事を考える様になった。

義務だと言う父親が出してくれる金を遠慮なく使って大人になる事だけを考えるようにした。

その為に勉強をしたり、弟と妹の面倒を見たりしていると、周りが口々にこう言いだした。

父親の跡を継ぐから一生懸命勉強しているだの、跡取りに相応しいだの。


馬鹿馬鹿しい!

父親の財産に興味なんて無いのに。

育てて貰っている間に掛かった費用を働いて突き返してやりたいくらいなのに。


それでも、オレが成長するに従って『跡を継ぐ』という言葉が多く言われるようになった。

オレが勉強しているのは自分の為であって、父親の為なんかでは決してないのに。

オレが優秀なのはオレ自身が努力しているからであって、父親の血を引いているからでは決して有り得ないのに。


仕舞いには、オレ達以外にも父親の息子だと言う子供が出て来る始末。

その子供も父親はちゃんと認知をしたらしい。

思わず笑っちまうぜ。

オレ達の父親は本当にサイテーな野郎だったらしい。


昔は一度だけ結婚した事もあったらしいが、離婚した後は結婚もせずに子供だけ作っているなんて。

サイテーで最悪だ。


認知されたオレ達の異母弟の母親がサイテー野郎に結婚を迫っていて、財産は全てその異母弟が継ぐべきだと言っているとかいないとか周りが知りたくもないのに教えてくれる。

勝手にしてくれ。

オレには関係ない。


だが、周りはオレを放って置いてくれない。

ピーチクパーチクと煩い。



そして聞かされた話にオレはすんなりと素直に納得した。

それでか。

それでなのか。


くっだらねぇ。

あーあー

オレ、なんか面倒になってきた。

がむしゃらになって今までやってきた全部がどーでもよくなってきた。

もういいや。

人生止めてもいいかな?

死んでも構わないけど、馬鹿らしいかな?

オレの今までの人生って何だったのかな?

折角大学まで入ったのにさ、それも結構いいところに。

頑張ったのにさ。


馬鹿馬鹿しいと、意味がないと、止めてしまいたいと思っているのに。
悲しいかな、全てを捨てる事が出来ない。

人間って意地汚く出来てるよな。

まだしがみ付くモノなんて、この世にあるのか?


厭世的になりながらもオレはダラダラと生きていた。



そしてオレは聖母に出会った。









































Postscript


カズ兄の生い立ちについて語らせました。
暗い過去なのでシリアスです。
エッチもなければヒロインすら登場していません。

コレを書くのはどうしようかと悩んだのですが、一応背景を書いておかないとなぁ、と思って書きました。
ページをわざわざ分けたのは色気がなさ過ぎるからです(苦笑)

実は父親の名前がまだ決まっていません。
まぁ、誰も名前で呼ぶ人がいないのでいいかな?と(酷い扱い)

ここで出てきた「西塔さん」は皐では当然ありません。
彼のお父さんです。
父親の部下ではなく、父親の知り合いで母親も知っている事情が判っている人と言う設定。


カズ兄が厭世的になったのは父親の過去を知ったからです。
どうして外国人の彼が日本で仕事をしているのか、その訳を。
その理由については会話で語らせるかどうするか・・・悩み中です。



2009.7.12 up



  

 

 

 

 

 

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