パトリシア・ハースト
「オマエは誰だ?」 あたしは車の中でナイフを突き付けられて、言葉に詰まった。 けれど、この男は今にもナイフをあたしの首に突き立ててきそうだ。 ゴクリと音がするほど大きく唾を飲み込んだあたしは震える声で名乗った。 「じ、成島緋菜」 「成島?成島検事の身内か?」 検事?ああ、お義兄さんの事? ヤダ!お義兄さん絡みなの? コクコクと頷いたあたしに、その男はニヤリと笑った。 「ま、いいか。最初の予定とは違ったが・・・悪いがオマエには人質になって貰うからな」 そう言ったその男は、あたしの両手と両脚を縛り、口を塞いで、あたしを後部座席に転がした。 車は得体の知れない暴漢の運転によって走り出す。 どうしてこんな事になっちゃったの? あたしはお姉ちゃんの車で、お姉ちゃんと甥っ子の蒼史を待っていただけなのに! お義兄さんの所為? やっぱり、あたしはあの人が嫌いだわ。 暫く車を走らせていたその男は、舗装されていない道に入ると車を乗り換えた。 計画的犯行ってこと? 目隠しを追加されたあたしは、どこをどう走っているのか判らない。 車が再び止まった場所で、あたしは足の拘束を解かれて「降りろ」と言われ、腕を引き摺られる様にして歩かされた。 足の下には砂利の感覚。 目隠しをされて手を拘束されていては逃げ出す事も出来ない。 第一、この男はナイフを持っているし。 大人しく従っていると、建物の中に入った。 「座れ」 突き飛ばされる様に腰を下ろしたのはソファーらしきものの上。 再び足を拘束されたけれど、目隠しと口を塞いでいたものは外して貰えた。 あたしは少しホッとして、相手を見た。 思っていたよりも・・・若い。 長い髪は肩まで届いているし、服装は上下ともベタな黒、顔は当然ながら怖くてキツイ。 犯罪者の顔だわ。 「オマエ、成島検事の妹か?嫁さんじゃないよな?」 ジロジロあたしを見ていた男の言葉にあたしはカッとなった。 この男はお姉ちゃんを攫うつもりだったの? 冗談じゃないわ! それにあたしがあんな人と結婚している訳が無いでしょう! 「義理の妹よ!成島和晴はあたしの姉の旦那さんよ!」 あたしとは本来、赤の他人なんですからね。 あたしが鼻息も荒くそう告げると、その男は鼻先で笑った。 「安心しろ、オマエはアイツの嫁さんには見えないから。そんなガキじゃな」 失礼ね!あたしはもう18になるのよ! と、この男に言ってみた所で始まらないのは判っている。 「こんな事をしてどうするつもりなの?」 この男はお姉ちゃんを攫ってお義兄さんを脅すつもりだったの? お義兄さんは、この男にどんな恨みを買ったのかしら? まさか、殺すつもり・・・とかじゃないわよね? あたしは縛り上げられた時に身体を探られて携帯や財布を取り上げられて、乗り捨てられた車に置かれたままだ。 連れ込まれた場所は廃屋の様で、床には土と埃とゴミが散乱している。 あたしが座っているソファーがある事自体奇跡の様なもの。 座っていると服が汚れそうなシロモノだけど。 窓は高く、外はあまり見えない。 電気も通って無いんじゃないかしら? 夜になったらどうするつもりだろう? 日が暮れればかなり冷え込む時期なのに。 「俺はただアイツが困る顔が見たかっただけさ。殺したりはしないから安心しろ」 そうは言われても 「誘拐は重罪よ」 既にこの男は立派な犯罪者だわ。 あたしの言葉にその男は鼻先で笑っただけで、何も言い返さない。 罰を受ける覚悟が出来ていると言う事かしら? 男はあたしから離れた壁に凭れて立ったまま動かない。 「ねえ」 あたしは沈黙が気づまりでその男に話しかけた。 「お義兄さんはあなたに何をしたの?」 俯いていたその男は顔を上げてあたしを見た。 「なにも」 その表情は、今までの怒ったり、怖い顔をしたり、皮肉気に笑ったりといったものではなく、感情の抜け落ちた様なものだった。 あたしはちょっと驚いた。 「なにも・・・って」 ならどうしてこんな事を? 「アイツは俺の両親を殺した男の事件の担当だった、それだけだ」 それだけって・・・なら、どうして? この男が事件の被害者の家族であるなら、普通は犯人の弁護士を恨むものじゃないの? どうして検事を恨むの? あたしの疑問は次の言葉によって解決された。 「検察の求刑は『業務上過失致死』だった。『危険運転致死傷罪』が適用されなかったんだ」 それって・・・ 「飲酒運転だったの?」 交通事故でご両親を亡くしたのなら、この人も気の毒な立場なのかしら? 「いや、抗ヒスタミン薬を飲んでいただけだ」 薬?薬を飲んでいても『危険運転致死傷罪』になるの? 抗ヒスタミン薬って? 聞いた事がある様な気がするけど。 「風邪薬のコトだ」 あたしが首を傾げたので説明を追加してくれた。 そう言えば風邪薬には、飲んだら車を運転してはいけないと書いてあるものがあった様な。 「オマエは変なヤツだな。俺が怖くないのか?」 最初にナイフを突きつけられた時以外、脅えた様子を見せずに問い続けるあたしを不思議に思ったのか、その男はあたしに近づいてナイフを取り出した。 あたしはナイフを見てちょっと驚いたけれど、その後の男の行動にはもっと驚いた。 なんと、あたしの手と足を拘束していた縄を切ったのだ。 そして、あたしの腕を掴んで立ち上がらせた。 「出て行け。オマエにはもう用はない」 え?え?ど、どうして? 「こんなガキを人質にするとは失敗した。さっさと帰れ」 そう言って、その男はあたしが座っていたソファーに腰を下ろした。 そして目を閉じた。 突然解放されたあたしは戸惑って、立ったまま動けないで居たが、それを感じた男が目を開けてあたしを睨みつける。 「何をしている?俺の気が変わらないうちにさっさと行かないか」 その声は不機嫌そうに低かったけれど、あたしはアレ?っと思った。 息が・・・呼吸が苦しそう? あたしは意を決して、その男の額に手を当てた。 「なに・・・」 「あなた、熱いわよ!熱があるの?」 驚いて、思わず大きな声を出してしまったあたしの耳に、ヘリコプターの音が聞こえた。 「気がつきましたか?まだ熱が高いですから安静にして下さい」 ぼんやりとした俺の視界に映るのは看護師らしき人の影と白い天井と壁、点滴のパック。 硬いベッドの感触に『病院か』と結論付けて目を閉じる。 あの時、ガキが何やら喚き散らして、誰かに支えられるままに移動して・・・ヘリの音がしていたような気がするが・・・フワリとした浮遊感に意識を手放した。 ああ、やっぱりインフルエンザに感染してたか、マズイな。 時期外れに流行り出した今年のインフルエンザは研修先の病院でも蔓延していた。 気を付けていたつもりだったが、最近の気温の低下と湿度の低さに遣られたか。 あのガキは平気だっただろうか? あんな事、しなきゃよかったのか? バチが当たった、ってとこか? でも、あの時、偶然見かけたアイツのあの顔を見たら我慢出来なかった。 法廷で冷酷なまでに感情を窺わせずに淡々としていたアイツが、幸せそうに笑っている姿を見たら、無性に腹が立って。 美人の嫁さんと可愛い子供と一緒の幸せそうな笑顔。 俺が一瞬で失くしてしまったもの。 不当な八つ当たりなのは十分に承知している。 でも、許せなかったんだ。 今の俺の何十分の一でもいいから、アイツに味遭わせてやりたかった。 家族を失った悲しみを。 それから熱が下がった俺は、あの日から既に3日が経ち、逮捕された訳ではない事を聞いて驚いた。 どうしてだ? 俺がした事は立派な犯罪だぞ? 攫ったガキだって言ってた通り、略取誘拐だ。 それに多分、あのガキは中学生ぐらいだから未成年誘拐にはなるんじゃないか? そんな疑問を抱えていると、俺の病室にアイツがやって来た。 成島和晴、ヤツは俺を睨みつけると皮肉気に笑ってこう言った。 「やってくれたな」 俺はヤツの言葉を鼻で笑ってやった。 コイツは俺の本意を解かっているらしい。 「どうして、さっさと俺をブタ箱に放り込まないんだ?」 その言葉にヤツは苦虫を噛み潰したような顔をした。 「・・・それはな」 ヤツが説明しようとした時、病室のドアが開いて、大きな声が響き渡った。 「あ〜!ずるいわ、お義兄さん!あたしよりも先に隆志ちゃんに会うなんて!」 た、隆志ちゃん?? 入ってきたのは俺が攫ったガキだった。 「あたしだって彼が治るまで会いたいのをじっと我慢してたのに、ずるいわずるいわ、職権乱用よ!」 義理の妹に詰め寄られてタジタジとなったヤツは見物だった。 「で、でもね、緋菜ちゃん。コイツは・・・」 「コイツなんて言わないで!あたしの大切なダーリンなんだから!」 ダ、ダーリンって、なんでだ? 呆然としてしまった俺は、ガキが俺のベッドに座り込んで、俺に抱きついて来るのをただ黙って受け入れる事しか出来なかった。 「心配してたのよ?熱が下がってよかったわ」 そう言ってガキは俺の頬に音を立ててキスをした。 そして囁かれた一言。 『話を合わせて』 「まだ怒ってるの?でも、隆志ちゃんだって酷いわよ。あたしをいきなり拉致したりするから、大騒ぎになっちゃったじゃないの」 ガキは俺に訳の判らない事を言い出して、義理の兄を振り返った。 「お義兄さん、いつまであたし達の邪魔をするつもりなの?」 義理の妹にそう言われたヤツは肩を竦めて病室を出て行った。 「どう言う事だ?」 俺は、俺に貼りついているガキを引き剥がして睨みつけた。 ガキはニッコリと微笑んだ。 「あのね、あなたはあたしの恋人なの。ちょっとした事で喧嘩をしちゃって、それで仲直りをする為に誰もいない場所で話し合っていたけれど、途中であなたがインフルエンザの熱で倒れた、と言うのが今回の筋書き」 何だ?それは。 「だって、こうでもしないと、あなた捕まっちゃうでしょう?」 今更何を言い出す。 「俺は捕まって当然の事をしたはずだがな」 日頃から目つきが悪いと言われている俺の睨みに怯みもしないガキに俺は呆れながらも、睨み続けたまま聞いた。 「それに俺はロリコンじゃない」 オマエはどう見ても中学生だぞ。 「失礼ね!あたしはこれでも高校3年生なのよ」 憤慨するガキの年を聞いて、俺は少し驚いた。 童顔にも程があるだろう? いや、しかし、さっき俺に抱きついて来た身体はそんなにガキっぽくなかったか? 俺はガキの顔と身体をジロジロと見詰めた。 そんな俺の態度に腹を立てながらも、ガキは、成島緋菜とか言う小娘は、俺の置かれた立場を説明した。 小娘曰く、俺が熱を出してヘタっていた時、小娘の身体に仕込まれていた発信器を辿って警備会社がヘリで駆け付けたらしい。 あの音は空耳じゃなかったのか。 「あたし、実はお嬢様なのよ」 と言う小娘の家は旧家の資産家らしく、誘拐の恐れがあるので常日頃から万全の警備態勢が敷かれているのだと言う。 だから俺に脅えたり、無駄な抵抗をしなかったのか? はっ、俺もつくづく運が無い。 「でも、あなたは運が良かったのよ?」 何故、そう言える? 「あたしじゃなく、お姉ちゃんを攫っていたら、あなたはタダじゃ済まなかったと思うわ」 アレでもお義兄さんは愛妻家だから、などとほざく。 「バカ、だから狙ったんだよ」 外しちまったがな。 俺の言葉に小娘は呆れていた。 「そんなに捨て鉢になってどうするの?」 関係ないだろう、お前には。 フイッと視線を逸らせた俺の手を握りしめた小娘は 「あたしがあなたに生きる希望を与えてあげるわ」 などと宣わった。 は? 「あたし、あなたの事が気に入っちゃったの。冷たそうに見えて優しい所とか、目つきが悪い所とか、頬の傷も素敵よ」 頭のイカれた小娘はそう言って俺の頬に在る傷を撫でた。 「これ、ご両親の事故の時の傷ですってね。お義兄さんに聞いたわ」 そうだ、俺だけが生き残った事故だったからな。 「・・・この俺が優しいだなんてどうして言えるんだ?」 オマエを攫った男だぞ? 「あなたはあたしの質問に丁寧に答えてくれたわ。そして自分の病気をあたしにうつさない為にあたしを解放しようとしたんでしょう?」 あなたは優しくて立派なお医者様になれるわ、などとほざいて笑った。 バカな小娘だ。 「放って置いてくれ」 俺は小娘の手を振り払った。 「いや!言ったでしょう?あたしはあなたが気に入ったの!好きになっちゃったんだもの、諦めないから!」 オイオイ、ちょっと待ってくれよ。 「俺はお前なんか好きじゃない」 迷惑だし、アイツの義妹なんてゴメンだ。 お嬢様の気紛れも大概にして欲しい。 「でも、あたしはあなたが好きなの。覚悟してね」 小娘はそう言って俺にキスをしてきた。 勘弁してくれ。 俺はどうやらとんでもない奴に捕まったらしい。 |
Postscript
パトリシア・ハーストとは、銀行強盗の人質となったにも拘らず、犯人と一緒に強盗を働いた女性の名前です。 ストックホルム症候群の代表的な存在として有名な方。 突発的なSSの第一弾は緋菜のお話です。 犯人はあのシリーズでもう一人の主役だった人(苦笑) このお話は、「はた迷惑な女達」を書き始めてからずっと考えていました。 誘拐ネタですので、期間的には短いものです。 検事と言う職業は恨みを買い易い。 緋菜は葵と間違えられて攫われました。 婿養子の立場はますます複雑? ここでの緋菜は随分と積極的で、容姿だけでなく性格も母親に似てしまったようです(苦笑) 某伍長に似ているとばかりに、隆志に惚れ込んでしまいました(大笑) ホントはヘリで運ばれている時に、熱に魘された隆志が零した呟きに緋菜の母性本能が擽られて・・・などと考えていましたが、こんな感じで。 押せ押せゴーゴーな緋菜ちゃんのアタックは果たして成功するのか? 乞うご期待! でも、あまり長くは続きませんのであしからず。 以上が別館掲載時の後書き。 訂正をいくつか、パトリシア・ハーストは「誘拐されて」犯人と行動を共にしたのでした(スミマセン) それと、交通事故で被害者が死亡した場合は『業務上過失致死』ではなく、今では『自動車運転過失致死傷罪』になる可能性も高い。 知識が古くて申し訳ありませんでした。 あのシリーズでこの二人の話を現代版に持って来るつもりはありませんでした。 何故なら、あっちでハッピーエンドになったとこまで書いたから(苦笑) こちらに持ってきたおかげで隆志の設定が大幅に変更となりました。 「俺様で尊大なヤツ」が「暗くてホントは優しいヤツ」に(大笑) 別館連載期間 2009.9.3-9.9 HP2009.10.1 up |