Cast a spell on Wedding Dress 5
「・・・これは・・・」 失礼しました、と謝ろうと思ったのに、謝る相手はこちらを見もしない。 ドイツに向かう飛行機の中、航空会社の手違いのお陰で手に入れたビジネスクラスのシートの隣は無口な眼鏡のジャパニーズ・ビジネスマンだった。 離陸してから、ずっとノートパソコンと睨めっこをしている。 私が溢したジュースの滴が彼のスーツに掛かっても気にも止めない程の熱中振り。 こんな人は亡くなった父親を思い出させるから嫌だわ。 事業に成功したばっかりに、仕事にのめりこんで終いには体を壊して突然亡くなってしまった父親に。 こんな人がまだいるから、日本人はエコノミックアニマルだとかワーカーホリックだとか言われてしまうのよ。 折角のビジネスクラスのシートなのに何だか台無しにされた気分だわ。 私には母親同士が仲の良い友人である事が切欠で付き合いが続いている友人がドイツにいる。 時々、お互いの家を行き来して付き合いは続いているが、いかんせん遠いので、1・2年に一度ぐらいしか会えない。 でも、私も就職したし、収入があるようになったから、もっと頻繁に行き来が出来るといいんだけど。 勤めてるとそんなに休みは貰えないかしら? 今回の休みも1週間欲しいといったら上司に呆れられてしまったし。 働き過ぎの日本人は作られるべくして作られていくのかしら? 「千歳!待ってたのよ」 母親の友達の一人娘であるシアは、私より少し年上だから私を妹みたいに可愛がってくれる優しい人。 「図々しくまたお邪魔しに来たわ」 この前来たのは大学の卒業旅行の時だった。 あれから1年と少ししか経ってない。 「貴女に見せたいものがあるの」 シアは何だかとても興奮したように私を部屋まで急いで案内した。 叔父様や叔母様に挨拶が済んでいないのにも関わらず。 いつも泊めさせてもらう客室に案内されると、その部屋のベッドの上には一つの箱が置いてあった。 「なあに?これ」 と聞いてもシアは笑って教えてくれない。 「開けてもいいの?」 と訊ねると頷いたので、箱を開くと、そこには見た事がある衣装が入っていた。 「これって・・・あのウエディングドレス?」 去年来た時、試着させてもらった、シアの親友のマリーが着たウエディングドレス。 色々と謂れのあるドレス。 「そうよ!去年、それを着た時、千歳にぴったりだったでしょう?やっぱり次は貴女の番だったのよ!マリーが貴女がこれを着て教会の祭壇に立つ姿を見たんですって!それも昨日よ?貴女が今日到着するって聞いて、マリーが今朝、慌てて届けに来たんだから!」 シアはまるで自分の事のように興奮していた。 私はまだ信じられなくて、どうしてシアがそんなに興奮するのかまだよく解らないでいた。 時差ぼけで頭がはっきりしていなかった所為かしら? 「貴女にはボーイフレンドがいるんでしょう?お相手は彼かしら?」 シアの言葉で、私が何故、素直に手放しで喜べないのか判った気がした。 私が彼との結婚を考えた事がなかったからだ。 付き合いは高校時代から続いていて長いけれど、友達付き合いに留まったままで少しも進展していない。 嫌いではないし、付き合いを止めるつもりもないけれど、結婚まで考えた事はなかった。 もちろん、このままいけば、いずれは結婚する事になるのだろうけれど。 渡されたウエディングドレスは、これを譲り受けてから出会った人と必ず結ばれる、という不思議な魔法のウエディングドレスと呼ばれるもので、今まで数々のロマンスを生んできた。 そんな、ドラマチックな経歴を持つウエディングドレスを身につける資格は私にはないと思う。 確かに、去年、興味があって試着させてもらった時に、サイズが私にぴったりでビックリしたけれど、肝心の送られた主のマリーにだってピッタリサイズが合っていたから、私にサイズが合ったのはただの偶然だと思っていたのに。 「マリーはね、お相手は日本人に見えたって言ってたわ。はっきり顔は見えなかったらしいけど。こっちの人なら千歳もこのままここで暮らせるのにね?」 この国は好きだけど、私にはまだ母親が日本にいるし、外国に嫁ぐ訳には行かない。 「マリーは明日来るわ、その時に詳しく話を聞きましょうよ!今日はまず、私と一緒に食事へ行きましょう」 荷物を置いて私はシアと街に出た。 シアとの付き合いのお陰で、私は日常会話ぐらいなら話せるけれど、書く事は難しい。 学校で習った英語も会話程度どまりだし、どれもみんな中途半端だわ。 シアと話す時も解らない単語が出てくると、彼女は英語で言い直してくれたりする時がある程度だし。 レストランで興奮しながら早口で喋るシアの言葉を聞きながらちょっと落ち込む。 『失礼ですが、飛行機でご一緒だった方ですね?』 ぼんやりシアの話を聞いていると日本語で話し掛けられた。 慌てて顔を上げて正面を向くと、そこにはビジネスクラスで隣の席だった人が立っている。 『は、はい。何でしょうか?』 チラリとシアに視線を走らせると、案の定、興味津々の表情でこちらを見ている。 『突然で申し訳ないが、こちらで手配した通訳が急病で・・・いきなりで本当に申し訳ないが、あなたはドイツ語が堪能なようですし、通訳の代わりをお願いしたいんですが。勿論、報酬は払います』 そう言われても・・・ 『私は観光で来ているだけの人間ですから・・・通訳が出来るほど喋れません。ちゃんとした方を手配なさっては?』 ビジネス会話だなんてとても無理だわ。 『手配している時間がないんです。あと30分で会議が始まるので。話す事が出来れば構いません、無理を承知でお願いします』 困っているのは判るけど・・・ 私が返事に困っていると、日本語が殆ど判らないシアが訊ねてくる。 「どうしたの?」 そうだ、彼女に手配をお願いできるかしら? 「あのね、こちらの方は飛行機で一緒だった人なんだけど、通訳が急に必要なんですって。シア、誰か心当たりはない?」 説明するとシアはにっこり笑って私を見た。 「貴女が適任じゃないかしら。千歳」 そんな! 「大丈夫よ、貴女のドイツ語はちゃんとドイツ人に通じるから」 私はシアにそう言って送り出され、隣の席の人と一緒にレストランを追い出されてしまった。 酷いわ。 会議の場所に向かうタクシーの中で、不安な私に彼は追い討ちを掛ける。 『今日の会議はこのレポートを元に行われます、出来れば事前に目を通して置いてください。それとこれも』 渡されたレポートは当然日本語ではなくて。 『あの・・・私、文章は・・・』 この細かい文字が英語かドイツ語かも判別出来ない。 『読めませんか?では仕方ありませんね。会話の取り次ぎだけでもお願いします』 私は恥ずかしくて分厚いレポートに顔を埋めてしまいたくなった。 だって、こんなに細かい文字を移動する車の中で読んだりしたら、車酔いしてしまうわ、きっと。 『申し遅れましたが、私はこういうものです』 そう言って名刺を差し出された。 藤原幸鷹・・・スゴイ!代表取締役ですって! まだ若そうに見えるのに。 『あ、私は平、平千歳と申します』 そう言えば私も名乗ってなかった。 『平さん、ゆっくりで構いませんので正確にお願いします』 一言でも間違ったら殺されそうな顔でそう言われた。 でも、会議は思っていたほど専門用語も出ずに、穏やかに進んでいった。 ただ、不思議に思ったのが、私が訳して伝えるよりも早く、藤原さんが答えようとするように口を開いた事が何度かあった事。 もしかして・・・この人、ドイツ語喋れるんじゃないの? 通訳なんて必要ないのかも。 だから、会議が終わって藤原さんから 『お疲れ様でした。明日もお願いします』 と言われた時には驚いたわ。 『でも、もう通訳は必要ないんじゃありませんか?あなたはドイツ語がお判りになるんでしょう?』 そうよ、この人は自分が喋れないとは一言も言わなかったわ。 ただ通訳が急病で代わりが必要だと言っただけ。 『通訳を使うのは儀礼のようなものです。形式ですよ。相手先も私が喋れる事を知ってますし、私も相手が日本語も話す事を知ってますが、会話が感情的にならないためにも通訳を置く事が一番無難な方法なんです』 そう言うものなのかしら? 『明日は午前10時に迎えに伺います』 え?ウソ!そんなに早く? 私が異議を唱える間もなく、仕事中毒患者のような藤原氏は私をシアの家まで送ると素早く引き上げた。 家に戻ると、シアが話を聞きたがっていたけれど、今日飛行機で着いたばかりの私は倒れこむようにベッドに崩れ落ちた。 私は飛行機で少し寝れたけど、あの人は眠らなかったんじゃないかしら? 本当に、お父さんにそっくりだわ。 半強制的な滅私奉公はその後、2日も続き、私の貴重な休暇が半分潰された。 でも、最後に報酬、と言って渡された金額にはちょっと驚いた。 ユーロで1,000、円に換算すれば・・・13万5千円!! 3日間だけなのに! 『無理を言って申し訳ありませんでした』 この人の言葉はとても丁寧だけど、感情が篭っていないから、とても冷たく聞こえる。 とってもビジネスライクだわ。 貰い過ぎだと、返そうかとも思ったけど、ありがたく頂いておく事にした。 『いいえ、お役に立てて何よりでした』 まだ休暇が残っているから満喫できるし。 これで解放されたと思っていたのに。 『宜しければ連絡先を』 と言われて手帳を差し出された。 多過ぎる報酬に少し良心が咎めたから一応、日本の住所を書いたけど・・・断った方がよかったかしら? 休暇に戻った私にはシアとマリーの質問攻めが待っていた。 どうやら私が慣れない通訳でこき使われている間、彼女達は私と彼のロマンスを勝手にでっち上げていたらしい。 「そんなんじゃないのよ」 どれだけ説明しても信じて貰えない。 「だって、あのドレスを受け取った後に知り合った人でしょう?絶対に何かあるわよ」 絶対に何もありません。 「食事にも誘われなかったし、再会の約束もなかったわ。もう会う事もないんじゃないかしら?」 余り逢いたくない人種だし。 「それより、マリー。おめでたなんでしょう?身体は大丈夫なの?」 会話の矛先を変えると、マリーは幸せそうに笑った。 「そうなの、悪阻が大変よ〜あたしだけじゃなくてクライスにまで移っちゃって」 その言葉を皮切りに半分惚気て、半分愚痴るマリーの話を聞かさせた。 いいな、羨ましい。 私も彼女のように幸せな結婚が出来るかしら? 当分は無理かな? でも、いつかはきっと・・・ 差し当たっては、臨時収入の使い道でも考えようかしら? お母さんを誘って温泉旅行もいいわよね。 1泊なら会社を休まなくてもいいし。 やだわ、私ったら・・・彼を誘ってもいいかもしれないじゃない? 二人っきりで旅行に行けば、友達からもっと先に進めるかもしれないし。 そうよ、そうしよう! 結婚するつもりなら、女性からだって働きかけなきゃ。 そんな計画を立てながら成田に降り立つと、意外な人が出迎えに来ていた。 母親でも彼でもない、あの人が。 今度は何の用があるのかしら? 「今日の便で帰国されると聞いていたので、お宅までお送りしましょう」 そう言えば、帰る日は教えたけど、どの便かまでは言わなかったのに。 「随分、待たれました?」 なんだか申し訳ない気分になって恐る恐る訊ねると。 「いえ、直行便ならどれも似たような時間帯ですから」 そう言われても・・・私に何の用なのかしら? 「あの・・・また通訳が必要なんですか?」 それで空港で待っていたとか? 「いいえ、仕事ではなく。貴女にもう一度お会いしたいと思って・・・ご迷惑ですか?」 私はそれを聞いて思わず俯いてしまった。 きっと顔が赤くなってる。 でも・・・断らなきゃ! 私には付き合ってる人がちゃんといるんだから! 例え、友達同士のような付き合いでも。 そう思っていたのに・・・ 「いいえ」 と答えてしまったの。 私、どうかしてる。 この人は近づいたらいけない人なのに。 私を家まで送ると藤原さんは母に挨拶だけしてすぐに帰って行った。 母は彼がどんな人なのかとても知りたがっていたけど、私が 「とても仕事熱心な人なの、お父さんみたいに」 そう言うと、私の腕を強く掴んで首を振った。 「駄目よ、千歳。あの人は駄目。貴女に私みたいな思いはさせたくないわ」 そう言って泣き出してしまった。 判っているわ、お母さん。 私だってお父さんの事は忘れられないんですもの。 それから藤原さんは私を夕食に誘ってくれた。 逢えない日には携帯に電話をくれる。 「おやすみなさい」のたった一言だけでも毎日彼の声が聞ける事が嬉しいと思うようになっている事に気付かされたのは、彼が1週間の海外出張に出かけた時だった。 今ならまだ間に合う。 あの人を諦めて忘れる事が出来る筈。 私は高校時代からのボーイフレンドと逢う約束をした。 「どうだった?休暇は」 お互いにまだ社会人1年生だから、学生時代と変らないようなファーストフードでのデート。 でも、それが返って懐かしくてホッとする。 「楽しかったわ、友達とも会えたし。そうそう、その友達からウエディングドレスを貰ったのよ」 私から話題を向ければ、彼はきっと断らない。 「それでね、私も考えてみたの。自分の将来について」 嘘じゃない、飛行機の中では彼との将来について考えていたんだから。 「決心がついたの?」 そう聞かれて頷く。 「じゃあ・・・式はいつにしようか?」 「そうね」 これでいいんだわ。 結局、具体的な事は何も決まらなかったけど、彼と駅で別れて家まで歩いていると、一台の車が近づいて止まった。 車から降りた人を見て私は驚いた。 「藤原さん!来週までNYじゃなかったんですか?」 帰国するのは4日後の筈なのに。 珍しく、息を切らせたように慌てている彼は、私をじっと見詰めてホッと安心したように息を吐いた。 「何だか判らないが物凄い胸騒ぎがして・・・慌てて帰ってきたんですよ」 無事で良かった、と言われて私は思わず罪悪感に顔を歪めてしまった。 「どうしました?なにかあったんですか?」 訊ねられて正直に答えなければ、と思う。 「私・・・私、婚約しました。高校時代から付き合っている人と・・・来年には結婚するつもりです」 声が震えるのは泣きたいからじゃない筈だわ。 だって、涙は出てこないもの。 「そうですか・・・おやすみなさい」 彼はそれだけ言うと車に乗って走り去った。 私は間違ってないわ、これが正しい答えなのよ。 それから家に戻って、その夜はずっと眠る事が出来ずにじっと考えつづけていた。 夜が明けてベッドから出ると、私は電話をかけた。 『もしもし?千歳?どうした?』 その声を聞いて涙が零れ落ちた。 「ごめんなさい・・・ごめんなさい、ごめんなさい・・・」 一つの言葉以外、口からは出てこない。 涙は止まらずに零れ続ける。 『判った、婚約は解消しよう』 「・・・ごめんなさい」 後はもう、嗚咽しか出てこない。 『ホントは昨日、別れ話になるかと思っていたから驚いたんだ。君が早く気付いて良かったよ』 「ごめんなさい」 『気にすんなよ、友達だろ?俺たち』 「ん・・・」 彼は優しくていい人だ。 付き合いも長いから、気心も知れている。 彼と一緒になれれば、幸せになれるはずなのに。 どうして駄目なんだろう? 泣き腫らした目で出勤し、帰る時間にようやく引いた腫れにホッとする。 家に戻ってから、電話をかける。 『はい』 「・・・私、婚約を解消しました」 『これから迎えに・・・いや、部屋で待っていてくれますか?』 「はい」 家を出る時、母に一言だけ告げた。 「お母さん、私、あの人の所へ行きます」 母は黙って、暫く私の顔を見ていたけど 「そう・・・辛くなったらいつでも戻っていらっしゃい」 そう言ってくれた。 私は頷いて家を出た。 住所を頼りに初めて訪れた彼の部屋は都心の高層マンションの一室だった。 管理人さんに鍵を開けてもらって入った部屋は、広いけれど家具が少ない寂しい部屋。 夜景だけが地上の星のようにキラキラ光っている。 彼が部屋に戻ったのは日付が変った時間だった。 「遅くなって・・・」 胸の底に重く圧し掛かるものが消えないけれど、慌てて駆け込んできた彼の姿を見て首を振る。 大丈夫、きっと。 「千歳!」 彼に名前を呼ばれてその腕の中に飛び込む。 大丈夫、彼に抱き抱えられて胸の奥の重みは消え去ってしまったから。 「私、あなたが好きです」 そっと呟いた囁きに、彼はそれ以上の言葉を言わせまいとするかのように、唇を塞いだ。 「あ・・・やっ」 大きなキングサイズのベッドでは、腕を振り回しても泳ぐようにシーツを掻くだけで頼りない。 溺れたように、腕を伸ばして、彼の背中にしがみ付く。 こうしていれば、不安は全て取り除かれる。 彼の身体と自分の体をぴったり合わせて、一つになっていれば。 「もう、家には帰しませんよ。貴女は放って置くと他の男と勝手に婚約してしまいそうですからね」 堅く抱き寄せられて、そう言われる。 「式を挙げる日が決まるまで、ここに居て下さい」 頷いて、身体を摺り寄せると安らかな眠りが訪れて来た。 大丈夫、きっと、大丈夫だからと言い聞かせて。 朝、共に目を覚まして、一緒に出かけて、夕食の仕度をして帰りを待つ。 ままごとのように生活が1週間ほど続いた。 彼の帰りは遅くてもその日のうちだったし、週末には一緒に買い物に出かけられた。 新しい住まいの計画を立てたりして、1ヶ月は過ごせた。 だが、出張が決まり、帰る時間が段々遅くなると、仕事をしている身ではいつまでも待ち続けていられない日が出てきた。 「先に休んでいてください」 そう言われても、顔も見られない日が続いては一緒に暮らしている意味がない。 「私の父についてお話ししましたっけ?」 ある日、思い切って言い出した。 「いや、確かもう亡くなったとは聞きましたけど」 そう、まだそれしか話していない。 「父が亡くなったのは私が中学生の時でした。働き過ぎて、急な発作を起こしてあっという間でした。家族の為だと言って休みを返上してまで働き続けた・・・私、あなたに父のようになって欲しくないんです!」 このままではいつかきっと・・・ 「大丈夫ですよ、無理はしていませんから」 幸鷹の言葉に千歳は首を激しく振った。 「無理をしてます!もう!」 「帰りはいつも12時過ぎで、朝は6時前には起きている。土曜日や日曜まで仕事をしているじゃありませんか!このままじゃ・・・一緒に暮らす意味がありません。私は自分の子供に自分と同じような思いをさせたくない」 こうなる事は判っていた筈なのに。 「子供が出来たんですか?」 「いいえ」 出来てからでは遅いんです。 「私、あなたのような人が世の中に必要だと言う事も判っているつもりです。仕事をする事自体は悪い事じゃありませんし、大切な事ですもの。でも、少しでいいから自分の体や家族の事も考えて欲しいんです。自分を大切にして、無理をしないで、お願いですから」 思わず浮かんで来た涙を溢しながら訴える。 だが、彼は視線を逸らせて、感情の見えない声で冷たく答えた。 「仕事の大切さが判っているなら、黙っていて下さい」 「私の言った事を考えていただけないなら、私は家に戻ります」 やはり、自分が彼を変えられるなんて考えたのが甘かった。 今のままの彼の傍には居られない。 「どうしても出て行くつもりですか?」 彼の言葉に振り返らずに頷く。 振り返って、彼の顔を見たら意思が挫けてしまいそうで。 だが、大きなガラスの割れる音に驚いて思わず振り返る。 ガラスのテーブルの上にあった花瓶が粉々に割れて、幸鷹が恐ろしい形相で立っていた。 「どうして?もう少しで落ち着くと言っているでしょう?」 彼がこんなに大きな声を出すのを初めて聞いた。 「ええ、何度も聞きました。でも、次から次へと新しい仕事が始まって、いつ終わりが来るんです?自分でコントロールをしないと、あなたが死んでしまうまで続きます、きっと」 そうなってから悔やんでも意味がない。 「早く気付いて欲しいんです。仕事を減らしてゆっくり休みを取って欲しいの。少しづつでいいんです、仕事を減らして、そして・・・」 「貴女と二人っきりでゆっくりしろ、と?」 彼が引き取った言葉に続きにゆっくりと大きく頷く。 ガラスや花瓶の破片が散らばる中、幸鷹は千歳に向かって歩み寄った。 「危ないです、破片が・・・」 そう止めるのも聞かずに。 そして彼女の前で立ち止まり、そっと彼女の身体に腕を回した。 「私は・・・私が考えていた結婚はもっと先のはずでした。もっと会社が落ち着いてから、それから相手を探そうと思っていた。見つからなければそれでもいいと、そんな程度にしか考えていませんでしたよ。結婚なんて。貴女に会うまでは」 彼は千歳の頭の上で大きな溜息を吐いて言葉を続けた。 「どうしても忘れられなくて、また逢いたかった。逢うとまた逢いたくなる、逢えなければせめて声だけでも聞きたいと思う。忙しいのに、それどころじゃないと言うのにね」 「私だって・・・あなたに逢いたかった。逢うとこうなる事が判っていたのに・・・」 目の前の身体にしがみ付いて、彼のシャツに涙を溢す。 少し、身体を離して彼女の涙を拭ってから 「貴女に出来るだけの事をしてあげたかった。出来るだけの贅沢をさせて・・・」 「私、物よりもあなたと一緒の時間の方が欲しいです!」 彼女の言葉に、そっとその髪を掻き分けて額に口づけた。 「貴女とふたりっきりで一緒にいると・・・贅沢過ぎる気がするんですよ。そんな贅沢はまだ許されないだろうと思ってしまうんです」 そう言って自嘲する。 「貴女と一緒に居ると時間を忘れてしまう・・・この柔かい身体を抱きしめているとあっという間に時が経って・・・ずっと抱き続けていたいのに・・・貴女の身体は触れると壊れてしまいそうだから、大切に扱わなくてはならないのに、時々無性に叩き壊してしまいたい衝動にも駆られる・・・怖くて近寄れませんよ」 そう言いつつ、彼は彼女の身体に縋るように抱きしめたまま、ズルズルと膝をついた。 まるで、子供が母親に甘えるように、彼女の腰を抱いて。 「私・・・私、お願いを聞いて貰わなければ、出て行きます。この決心は変りません」 そして彼女は母親が子供にするように、優しく頭を撫でて、そっとその天辺にキスをした。 「どうしても?」 許しを乞うように下から彼女を見上げるように覗いた目は、それでも笑っていた。 「どうしても!です。一緒に居る時間を増やすつもりがないなら、あなたとの婚約は破棄して・・・」 「駄目ですよ!」 婚約破棄の言葉に強く反応した彼は、彼女の身体を揺さぶって言葉を遮った。 「貴女の趣味は婚約を破棄する事ですか?それとも次々と婚約する事ですか?目を離すと何をするか判らない人ですね」 呆れたように言い放つ彼に、千歳は真っ赤になって反論した。 「私の趣味はそんな事じゃありません!」 「それじゃ、なんです?」 彼の挑発に乗るように言い返そうとした所で電話が鳴った。 「一時休戦ですね」 そう言って立ち上がった彼を一睨みしてから受話器を取ると国際電話だった。 マリーからの。 『ねぇ、まだ式の日取りは決まらないの?』 「今決めている最中なの」 そう答えながらチラリ、と彼の様子を窺う。 こちらに背中を向けているけれど、会話に耳を欹てているようだ。 『ええ〜!まだ決まってないの?決まったら知らせてくれるんでしょう?招待してくれるわよね?』 「そうね・・・どうするか彼に相談しないと・・・物凄いやきもち焼きだから、誰も招待しないと言い出すかもしれないわ」 クスリ、と笑ってそう答えると、後ろから攫うように腰を抱かれる。 「どうして知ってるんです?」 受話器を当てていない耳にそう囁かれる。 『あ〜ら、ご馳走様!式に呼んでくれなくても写真くらいは送ってよね、貴女があのドレスを着たところを見せてもらう権利くらいがあたしにはある筈だわ』 ぴったりと彼女に張り付いて、電話の言葉を聞いていた幸鷹はその答えを問い掛ける視線を投げた。 「そうね、貴女にはその権利があるわ、マリー。必ず写真は送るから、またね」 そう言って受話器を置いた。 「あのドレスってなんですか?」 訊ねられて、千歳はクスッと笑った。 そう言えばまだ彼に話してない。 あの不思議な魔法のウエディングドレスの事を。 「そうね・・・どこから話せばいいのか・・・」 彼が素直に信じてくれるとは思えないけれど・・・ 思い起こせば、マリーが私の花嫁姿を見たのは、彼と一緒に飛行機に乗っている時だったんじゃないかしら? だとしたら、物凄い魔法の力があるんだわ。 私なんかが抗える筈のないくらいの力を持った魔法が。 「昔々、あるところに・・・」 魔法の力は信じなくても、きっと彼なら信じてくれると思う。 私のこの気持ちは。 |
Postscript
『魔法のウエディングドレス』企画最終章の第5弾は幸鷹X千歳です。 こちらも前作と同様、モトネタがあります。 ハーレクイン・イマージュの「運命の結婚相手」 仕事中毒人間の男性と破局を見据えながら結婚する女性のお話でした。 仕事で成功するためには家庭が多少犠牲になっても仕方がないと思うのは私が日本人だからでしょうか? 原作を書かれたデビー・マッコーマーはアメリカ人女性なので、キャリアを捨てて家庭を取れ、と言ってます(つまり、そーゆーラストでした) 仕事中毒人間が幸鷹クンには似合いそうで、このキャスティング。 千歳も最初は我慢できても、そのうちキレる役がお似合いです(別に悪気があるわけじゃありませんが) 前作のクラマリ版でこの話の前振りを入れました。 モトネタは結婚してからの話が結構長いのですが、こちらではカットしてしまいました。 企画自体が結婚がゴールだと言ってるようなものなので。 ちなみに、この企画のお話を全て読まれた方はもうお気づきでしょうが、5つのお話にドレス以外の共通点を持たせています。 それはで出し。 ヒロインによる同じセリフで始まります。 思いつきで始めたのですが、一番苦労したのがはじめちゃんの時でした。 やらなきゃ良かった・・・ この話で千歳が臨時の通訳をしていますが、今の世の中、通訳を使ったビジネスは流石に少なくなってきているのでしょう。 日本に進出する企業だって日本語を使うような時代ですから。 でも、私は通訳の意義はあると思うのです。幸鷹クンに言わせたような意義が。 現代、という設定ですが実際とは(かなり)かけ離れている部分があると思いますが、そこはフィクションだと笑って許して下さい。 これのモトネタには、流石に『魔法の・・・』だと思わせるエピソードがいくつか入っています。 他の男と婚約した途端に海外出張から突然帰ってくるのもその一つ。 中々、メロドラマっぽくて気に入っているんです(笑) 本当なら、もっと色々と幸鷹クンは告白しなければならないはずなんですが、あまり喋ってないな・・・や、千歳ちゃんも無口だから(面倒だと言えばよい) モトネタもそうでしたが、ちょっと意思の疎通が足りない二人です。 モトネタのエピソードを削った代わりに、色々と余計なものを付け足したら、何だか長くなってしまいました・・・いや、最後だから良いんですけど。 妙な喧嘩は始めるし・・・最後の台詞は一番最初に思い浮かんだ台詞が恥ずかし過ぎてどうしても使えませんでした・・・纏めるのが下手な私。 2004.11.19 up |