「あに〜?あちしのひゃけがのれらいっへのぉ〜?」
もはや呂律が回らず、何を言っているのかすら判らない。
「飲み過ぎですよ、マルローネさん」
クライスは視線も定まらず、顔を真っ赤にしている大学の研究室で2つ年上の先輩に眉を顰めた。
「うひあへでおひゃけをろまらいでろうすんろ〜?」
翻訳が困難な言葉を叫んで大声で笑い出す。
これだから、酔っ払いは始末に終えない。
だが、周りを見渡すと誰もが彼女と似たり寄ったりの状況になっている。
大声で喚き散らす者、笑っている者、泣いている者、寝ている者。
第三者に酌をしようと声をかけている分だけ、彼女はまだマシな方かも知れない。
無理もない、今回の飲み会は実験が終わってからすぐに行われた打ち上げだ。
皆、徹夜続きで体力が落ちている所に入ったアルコールは吸収が良く、回りも速い。
『酒は人格を豹変させると言いますが、満更嘘ではないようですね』
一人、未成年だからと言い張ってウーロン茶を飲み続けているクライスは冷静に判断を下す。
普段は真面目でお堅い助手が下着姿で踊り出したり、日頃紳士な教授が女生徒を侍らせて鼻の下を伸ばしている様は彼にとっても少しばかりショッキングな出来事だった。
徹夜続きの実験が成功に終わって、テンションが上がったままの先輩達に引きづられるようにして連れて来られた飲み会だった。
これも経験と付き合いだと思って初めて参加したが、そろそろ潮時のようだ。
腰を上げようとすると、さっきしつこく酌を進めて来ていた先輩が自分に寄りかかって熟睡している。
女性だから軽くて気づかなかったのか?
困惑していると、宴席の端から声が掛けられた。
「おい、新人。帰るなら身の回りくらい片付けて行け」
声の方を見ると、黙々と顔色一つ変えずに杯を傾けている先輩が一人。
「身の回りですか?」
もしかしてマルローネさんの事だろうか?と眠っている彼女を指差すと頷き返される。
「俺は会計を済ませて他の全員をタクシーに詰め込むんだ。素面のお前に一人くらい受け持ってもらわないとな」
嫌なら素直に酔って置けば良かったんだ、と言われては反論出来ない。
「マルローネさん、起きて下さい」
揺すって起こそうとするが
「う〜ん、もう飲めにゃい〜」
むにゃむにゃと呟いて起きる気配はない。
救いを求めるように長い黒髪の先輩を窺ってもギロリと睨まれて首を横に振るだけだった。
諦めたクライスは彼女の腕を救い上げて、彼女のものらしきバックを拾う。
中に入っていた学生証で住所を確認すると自分の家から意外と近い。
電車はまだあるが、泥酔している者を抱えているのではタクシーが一番だろう。
意識を失くした彼女を抱えてタクシーを拾い、マンションの前に止める。
部屋の鍵を開けてワンルームの奥にあるベッドの上に落とす。
「これで役目は果たせましたね」
フゥーっと溜息を吐いて、目を覚まさないマルローネを見下ろす。
これ以上の親切は送り狼になってしまいますね、と心の中で苦笑しながら。
だが、突然、寝ていたはずのマルローネが起き上がって
「はぐ!」
と言い出したので、クライスは慌てて彼女をトイレに連れ込んだ。
便器に顔を突っ込むマルローネの背中を擦りながら
『どうしてこんな・・・車の中でなかっただけ、マシなのかも知れませんが』
と、良いのか悪いのか、自分の運命を考えていた。
吐き気の治まったマルローネに、水で濡らして絞ったタオルとコップに水を汲んだものを与えながら
「大丈夫ですか?」
と尋ねると
「うん・・・あれ、なんでアンタがここにいるの?ハレ?あたしんちじゃない?いつの間に帰ってきたの?」
酔いから醒めたマルローネの言葉にクライスはムッとするが。
「あ〜アンタが送ってくれたの?サンキュ!助かったわぁ〜ちょ〜っとばっかし飲みすぎたわねぇ」
徹夜明けだモンねぇ・・・と呟いたマルローネを呆れた目線で眺めながら
「正気を取り戻されたのなら私はこれで失礼します」
と辞去しようとするが
「送ってくれたお礼に何か飲んでかない?さっきも全然飲んでなかったみたいじゃない?何にもないけど、ビールくらいはあるからさ、あたしも飲み直すし」
マルローネはクライスの腕を引いて冷蔵庫の前に連れてきた。
あれだけ飲んだのにまだ飲むのか?
とクライスは呆れていたが
「ホレホレ、飲んで飲んで」
とビールのプルトップを開けたものを差し出されて、眉を顰めて一旦受け取るが
「私は未成年ですから飲みません」
そう言ってつき返す。
「アタマ硬いわねぇ・・・そんなんじゃ上手くやってけないよ」
マルローネはグビリとビールを空け始める。
「アンタ、クライスってったっけ?優秀なのかもしんないけど、実験とかって共同作業なんだし、みんなと上手く協力してやってくのには歩調を合わせるって事もしなくちゃダメだよ」
マルローネはつき返されたビール缶をまた差し出すが、クライスはビール缶を睨み付けて受け取ろうとはしない。
「研究室を出てまで歩調を合わせる必要を感じませんが。それに無理に飲酒を薦めるのはどうかと、アルコールは脳細胞を破壊するものですし」
嫌悪感を露にするクライスをマルローネは一笑に付した。
「アハハ、バッカねぇ〜お酒は脳細胞を破壊するんじゃなくて心や理性の壁を取り払ってくれんのよ。普段、どんなに取り繕ってたって『お酒の上の出来事』なら大抵の人は多めに見てくれるじゃない?それにこれは『百薬の長』なのよ?面倒な俗世の悩みから解放してくれるお薬なんだから」
それが判らないなんてかわいそ〜とマルローネは呟きながらグビグビとビールを空けていく。
「貴女にも悩みなんてあるんですか?」
いかにも能天気そうな人なのに『俗世の悩み』とやらを持っているらしい。
クライスはふと、興味がわいた。
「そりゃあ、あたしだって悩みのひとつやふたつやみっつくらい、ありますともさ」
フーっと酒臭い息を吐いて少し赤らんだ顔でビール缶をまた一つ開ける。
「卒業後の事も考えないといけないし、今は就職難だしさ。実験が忙しいと泊まり込みが続いてデートも出来ないから彼氏も出来ないし。今回の実験は上手くいったけど、次はどうなるか判んないし、大学の予算がちゃんと回ってくるか不安だし。悩みは尽きないのよぉ〜」
一旦、吐いて正気に戻ったとはいえ、僅かな睡眠だけでは体力も完璧に回復していた訳ではないらしい。
愚痴り始めたマルローネは段々と床に這いずり始めた。
「コレでも飲んでウサ晴らししなきゃ、やってけないわよぉ」
ビール缶を掲げたマルローネは天井を見上げて叫んだ。
「アルコールに依存するのは弱者のする事です」
理路整然と言い切るクライスにマルローネは顔を顰めた。
「かっわいくないなぁ・・・アンタは辛い思いをした事とかないわけ?酔って忘れたい事とか、酒の勢いに任せてどうにかしちゃおうとか、例えばこんな風に」
マルローネはクライスにしな垂れかかるようにして彼の肩に両手を掛けた。
「『あたしを好きにしていいのよ?』なんて言われたらどうすんの?」
酔って上気した頬を間近に寄せられて、クライスは一瞬ドキっとした。
能天気そうで年上でも、マルローネは中々整った顔立ちをしたスタイルのよい女性だったりする訳で。
「男なら、女にここまで言われて黙ったままで居るなんてのはダメだよ」
キュッとしがみ付いて来られて、彼女の豊かな体のラインを肌に感じて、これは彼女のからかいかも知れないと思いつつも、顔が上気してくるのを止められるわけでもなく。
「マ、マルローネさん・・・」
彼女の背中に手を伸ばそうとして、静かになったマルローネの寝息に気づく。
クライスはフッと溜息を吐いて、熟睡したマルローネを抱き上げてベットに寝かせた。
そして暫くその寝顔を眺めてから部屋を出て行った。
「ゴメンね〜クライス〜昨夜送ってくれたんだって?アタシ、全然覚えてなくってさ〜何か迷惑かけてない?あ、そうそうタクシー代幾らだった?」
翌日、マルローネからそう声を掛けられてクライスは彼女の顔をじっと見返してから不意に顔を逸らせて答えた。
「私の家の傍でしたからタクシー代は結構ですよ」
「そう?」
マルローネはクライスのよそよそしい態度に『何か失礼な事をしたらしいけど、嫌味を言われるほどじゃないのかなぁ』と漠然と思い、それ以上追求しなかった。
彼女にとって『酒の上での出来事』はみんな忘れてしまえる程度の事でしかなかったから。
ただ、それ以降、クライスが時々じっとこちらを見ている事に気づくと、口も利きたくなくなる程彼に嫌われるような酷い事をしたのだろうか?と思い、記憶をなくすほど飲むのは少し控えるべきだと反省した。
なので、その次に行われた飲み会では少しペースを落とす事にしたのだが。
「いよぉ!飲んでないなマリー!」
と言われて、ジョッキになみなみとビールを注がれる。
「い、いやぁ、ちょっと体調悪くって・・・」
遠慮がちに断ろうとすると
「体調が悪い?飲んで治せよ!なんたって『百薬の長』なんだぜぇ、酒は」
どっかで聞いたなぁ?と思いながら飲んだ振りを続けていると、参加率が悪くて飲まないはずのクライスがグラスを勢いよく煽っているのに気づく。
「ち、ちょっとクライス。そんなに飲んで大丈夫?」
アンタ飲めないはずじゃなかったの?
嫌われていても先日の恩があるからなぁ、と心配して声をかけると眼鏡の奥からギロリと睨まれて
「お構いなく、今まで飲まなかったのは別に飲めないからではありませんから」
と言われて、マルローネは嫌われてるなぁあたし、何したんだろう?と考え込む羽目になった。
「それに『酒は百薬の長』だそうじゃありませんか。飲んで治るものなら治したいんです」
そう呟いたクライスの言葉を聞き止めたマルローネはせめてもと
「なになに?何を治したいんだって?お姉さんに言ってごらん?相談に乗ってあげるからさ」
声をかけた。
クライスはそんな明るく尋ねてくるマルローネに向かって少々酒臭い溜息を吐いた。
「お構いなく、と言いたい所ですが、そうですね、貴女も女性ですからご存知かもしれません」
彼の引っかかる言い方にカチンときながらも、いやいやここは先輩として寛大になってとマルローネは尋ねた。
「何?」
笑顔を浮かべているマルローネをじっと見たままクライスは尋ねた。
「女性は何とも思っていない男性に酒に酔った勢いで簡単に誘いを掛けられるものなんですか?」
おや、男女についての質問をあたしにするなんて意外だわ、嫌味かなと思いながらもマルローネは答えた。
「う〜ん、難しいわね。でも、何とも思ってないなら酔ってても誘ったりしないんじゃない?不安なら素面の時に聞いてみれば良いじゃないの?」
本人に直接聞くのが一番よね、とマルローネは結論付けた。
「それもそうですね、ではマルローネさん、貴女は私のことをどう思っているんですか?単なる後輩ですか?それともからかい易い堅物だとでも?」
騒々しい居酒屋の中でクライスの声は小さかったけれどもマルローネにきちんと届いた。
「え?あたし?」
誘ったの?酔っ払って?このクライスを?
少し赤いとはいえ、真剣な眼差しを向けてくるクライスにマルローネは逃げ出す事も出来ない。
「そうです、貴女は今、素面に近いのではないんですか?」
この前のように酔っていないようですから、とクライスが呟いてマルローネは言葉に詰まる。
「忘れてしまった事は思い出せませんか?」
クライスから重ねて尋ねられて、マルローネは俯いた。
先日の飲み会で自分を自宅まで送ってくれたのがクライスだとエンデルク先輩から聞かされた時、驚いたけれど嬉しかったのだ。
頭が良いのをひけらかしただけの嫌味なだけのヤツじゃなくて、ホントはイイ奴だと判って。
それからクライスが自分を見ている事に気づくとちょっとドキドキした。
軽蔑されているなら悲しいけど、あんなに度々見てるのはもしかしたら・・・もしかして・・・そうだったら、いいかも。
「この間、あたしがアンタに何をしたかは思い出せないけど・・・あたし、アンタの事、別にからかい易い後輩だとか思ってないよ」
ヤダなぁ、顔が赤くなってきちゃうよ。
俯いてるから見えないと思うけどさ。
「・・・では、今日は私を送ってくれますか?私の家まで」
「へ?」
クライスの言葉に思わず顔を上げたマルローネは彼と目が合って慌てて目を逸らした。
「・・・いいよ、送ってあげる」
この前のお返しだもんね、送るくらいは。と思っていたマルローネは立ち上がるクライスの気配に顔を上げると、彼は壁に寄りかかっていた。
「手を貸して下さい。少し飲みすぎました」
「う、うん。いいけど」
クライスの肩に手を添えると、彼の唇がマルローネの耳を掠めるように近付いて囁いた。
「もし、眠ってしまったら起きるまで傍に居て下さい。酔いが醒めたら聞いて欲しい事がありますから」
「・・・今じゃダメなの?」
クライスの吐く息で酔ってしまいそうだと思いながら、マルローネは小さい声で尋ねる。
「ダメです。酔った勢いでは信じてもらえないかもしれませんから」
酔いが醒めてから、聞いて下さいとクライスがマルローネに凭れ掛りながら念を押した。
信じるよ、クライスの言う事なら何だってさ。
マルローネはそう答えようかと思ったが
「醒めるまで傍に居てあげるよ」
と優しく微笑んだ。
そしてあたしが欲しい言葉を聞かせてくれるんだよね?
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