First Love



太陽が傾いて世界を緋色に染めていた。
世界は本当に本当に小さなもの。だが、それは僕の、僕たちのすべてだ。
その小さな世界で僕はひっそり生きていた。
そう。
彼を想いながら・・・・。
それは僕の初恋だった。




赤い世界が徐々に闇を含んできた。
カタン。
「そろそろ帰らなくちゃ。」
そう呟くと少年は椅子から立ち上がった。薄暗くなってきた生徒会室には少年以外人影はない。
4階にあるこの部屋からは夕闇に包まれていく街が一望できた。
少年は窓に近づきシャーっとカーテンを閉めた。
机に戻ると先程まで読んでいた本をカバンに入れて部屋を出る。
コツコツコツ・・・・。階段を下りる足音が人影のない校舎に響いた。
僕の生きている小さな小さな世界。学校という名のこの小さな世界。大人には分からない僕たちの世界。
その少年、野々村希(ののむら・のぞみ)は毎日をただ過ごしていた。書道の家元である彼の父親は厳格で、気難しい性格だ。いつも書のことしか頭になく、家族のことなど気に止めたこともない。そんな父親との間にすっかり冷め切っている母親は己のプライドを守ることが彼女の全てとなっていた。家元の妻としての地位、そして母親としても完璧であることを求めた。彼女のその矛先は一人息子である希にも当然向けられた。家元の後継ぎとして常に優秀であることを彼に課したのである。常に纏わりつくそのプレッシャーに希は疲れ果てていた。だが、14歳の少年にはその大きな重圧から逃れる術はなかった。ただじっと耐えていた。彼もまた、己自身を変えるということが出来ないでいたのだ。
希は上履きから靴に履き替えて、昇降口を出た。
すると、花壇の方から人影が近づいてくるのに気がついた。その人物が声を掛ける。
「やあ。今帰りかい?」
「はい。」
声を掛けてきた人物は加藤という用務員のおじさんだ。穏やかなその中年男性はこの中学の卒業生だそうだ。
「今日も遅くまで勉強してたのかい?もう暗いから気をつけて帰るんだよ。」
「はい。さようなら。」
加藤は希に別れを告げると昇降口から校舎へ入って行った。これから見回りをするのだろう。
希は正門の方へは行かず、自転車置き場の脇を通って校舎の裏のほうへ歩いて行った。自転車置き場に自転車はほとんど残っていない。部活をしている生徒もほとんど帰宅したのだろう。
やがてグランドが見えてきた。がらんとして人はいない。野球部とサッカー部の部室に灯りがついていた。練習を終えた部員達が着替えているらしい。彼らも間もなく帰るだろう。
でも。でも、彼はまだいる。
希は確信があった。まだ彼はいるだろう。
スパーン。・・・・ほら。彼だ。今日も彼に逢える。
スパーン・・・。その音はグランドの向こうにあるテニスコートから聞こえている。
少年が一人ボールを打っていた。徐々に暗くなっているため、彼の姿はシルエットのように浮かび上がっていた。
希は大きくなる胸の高鳴りをぐっと押さえていた。
一人黙々と練習を続ける少年は、テニス部の部長で菅井洋介(すがい・ようすけ)。希の初恋の相手。彼は今の希の全てとなっていた。
希が洋介を知ったのは1年前。彼が希の中学に転校してきたのだ。転校当時から洋介は話題の人物であった。彼は県内の大会で常に上位にランクインする有名プレイヤーだった。ここの中学に来てからも何度か有名テニスチームのコーチという人たちが彼の練習を見に来ていたようだ。
華々しい表舞台に立つ洋介に希が憧れたのも無理はないことだった。だが、希の憧れは時が経つにつれ恋へと形を変えていった。
初めて芽生えたこの想いを胸に抱き、希は日々を過ごしていた。




ドン!
突然の衝撃に希はふらついてそのまましりもちをついてしまった。
「ごめん!」
声に顔を上げると、洋介が手を差し伸べて立っていた・・・・。
夜中から降りだした雨は昼になってもいっこうに止まなかった。しとしとと降り続き、日曜日だというのに辺りをひっそりと静まらせていた。
希にはこんな雨の日は特に自分が余計に惨めに思えた。自分が泣けない代わりに空が涙を流しているようだった。暗い気持ちのまま希が2階の自分の部屋を出ると、階下から母のヒステリックな叫び声が聞こえた。
「・・・!あなたはいつもそうだわ!都合が悪くなるといつも黙り込むのよ!!・・・・・」
もうイヤだ。もうたくさんだ。
散々父親にくってかかった後は、自分にその怒りの矛先を向けるに違いない。母親はいつもそうだった。
希は思わず家を飛び出していた。
雨の中、傘だけを持って家を出た。どこにも行く当てもない希は、ただ歩いた。何も考えずに。あのまま家にはいたくはなかった。
そのときのことだ。ぼーっとしていた希にはわき道から出てきた人物に気がつかずぶつかってしまった。
それが洋介だった。
「ごめん。俺、気がつかなくて・・・・。大丈夫?」
突然現われた洋介に驚いた希は返事を返すことができない。
「・・・・・・。」
「立てる?」
差し出された洋介の手に向かって希は思わず自分の手を伸ばした。洋介は希の手を握り締め引っ張って、濡れた道路にしりもちをついたままの希を立ち上がらせた。傘も拾いあげて希に渡す。
「あー、濡れちまったなぁ・・・・。ごめんな。・・・・・仕方ねぇ。お前、これから用事ある?」
洋介の問いに希はただ首を横に振った。
「じゃ、時間はあるんだな。・・・・よし、ちょっと来て」
握ったままだった希の手をそのまま引いて、洋介は歩き出した。
希は導かれるまま彼について行った。
洋介が向かったのは住宅街の中にある少し古びたアパートだった。
トントン・・・と階段を上る。その階段は長いこと吹きっさらしで錆び付いていた。洋介はガチャっと鍵を開けると、その2階の一番奥の部屋に希を招き入れた。
「・・・何ボーっとしてんだ?早く入れよ。」
言われるがまま希は靴を脱ぎ、部屋へと上がった。2間しかない小さな部屋だが、綺麗に片付けられていた。余計なものはほとんどない。
「・・・・ここは?・・・」
小さな声で希が問い掛けた。
「お、やっとしゃべった。・・・・ここは俺んち。」
「え?」
「いいから。ほら、濡れた服早く脱げよ。乾かすから。」
思ってもみないことを言われて固まってしまった希にタオルと服が飛んできた。
「ほら、早く!俺のスウェット貸してやる。頭も拭いとけ。」
希はしぶしぶ服を脱ぎ着替えた。洋介は希の服を拾い上げると洗面所のほうへ行き、乾燥機へ放り込むとスイッチを入れた。
洋介が洗面所から戻ると、希は着替えを終え、言われたとおりがしがしと髪を拭いていた。170cmの洋介のスウェットを10cmも背の低い華奢な希が着ているのだ。親の言いつけを素直に守る子供のようなその姿に、洋介は思わず笑みを浮かべた。
「今、乾かしてるからもう少し待って。」
「うん。」
希は素直に答えた。
だんだん落ち着いてきた希は、ふとあることに気がついた。希は洋介を知っているが、彼は自分のことを知っているのだろうか。自分はここにいてもいいのだろうか。
「あの・・・僕こと知って・・・・」
恐る恐る訊ねる希に返ってきたのは意外な答えだった。
「俺、お前のこと知ってるよ。っていうか、知らない人のこと家に連れてくるわけないだろ。」
洋介はあっさり言い放った。
「・・・だって、クラス違うし、僕目立たないから。・・・菅井君は知らないんだと思ってた。」
「ああ、確かにお前おとなしいからな。・・・でも、お前生徒会の会計だろ。総会でいっつも前にいるじゃん。それに、毎日のように俺の練習見てくだろ。いくら薄暗いからっていっても、ちゃんと見えてるよ。」
気付かれてた!どうしよう・・・
希は顔がかあっと熱くなった。
「あ、あれは、だって・・・・かっこよかったから。・・・・菅井君みたいに才能がある人すごい。僕なんてなんの取り柄もないから・・・」
な、何言ってんだろ・・・僕。どうしよう・・・・変なこと言っちゃったカナ・・。
「あはははは。・・・お前、おもしろい奴だな。・・・でも、俺は才能があるわけじゃない。」
「え?そんなことないよ。・・・だって、すっごく上手だもん。」
洋介は首を横に振る。
「才能なんてない!・・・・だから一生懸命練習してんだ。」
洋介の少し強い口調に希はびくっとした。
「・・・・・・・」
「・・・・何か飲むか?」
そう言うと希の答えも待たず、立ち上がって台所へ向かった。
少しして希の前に置かれたのは紅茶のマグカップだった。
希は礼を言って、そのマグカップを両手で包むようにして受け取った。少し冷えていた手には熱く感じる。きっと紅茶も熱いだろう。猫舌の希にはまだ飲めそうもなかった。
なかなか口をつけない様子の希に、洋介は声を掛けた。
「紅茶、ダメだった?」
「ううん。・・・・そうじゃなくて・・・・」
「お前・・・ひょっとして猫舌?」
「・・・うん。」
洋介はくすっと笑うと、立ち上がった。
「ミルクティー好き?」
「うん!」
冷蔵庫から牛乳パックを取り出すとパックごと持ってきて、希のカップに注いだ。
「はい。ミルクティーになった。それに、今度は飲めるだろ?」
冷えた牛乳でちょうどいい温度になった紅茶を飲む。
洋介は自分のカップにも牛乳を入れた。
「・・・実は、俺も猫舌なの・・・・」
そう言ってちょっと照れたように笑った。その笑顔があまりにも可愛くて、希も思わず微笑んだ。
洋介に会う前までの憂鬱な気分はどこかへ行ってしまっていた。暖かなミルクティーは希を幸せな気分にし、なによりも大好きな人と過ごす時間はこれほど満ち足りたものなのだ。
さっきまではこんな風に話ができるなんて思ってもいなかった。まして、彼が自分のことを知っているなんて。
「お前、ちゃんと笑えるじゃん。」
「え?」
「そんなふうに楽しそうに笑えるんだなって言ったの。学校じゃ笑わないだろ。」
「・・・うん。・・・」
ずばり言い当てられて、希は少したじろいだ。なんでわかったんだろ・・・・。
「学校、楽しくない?」
「ううん・・・ただ・・・」
「ただ?」
「・・・・ただ、笑えないだけ。・・・・ごめん、わかんないよね。・・・・ごめん。」
希は両手で持ったままのカップに目を落とした。
「・・・・いや。・・・・あー、うん。なんとなくわかった。」
その答えに希は顔を上げた。
この人は・・・・この人はどうしてこうなんだろう。どうして・・・・。
突然泣き出したい衝動に駆られた。思い切り大声を出して泣きじゃくりたい。
だが、それをぐっとこらえた。
ただ、涙だけが・・・・。涙だけはこらえきれずに、希の瞳から零れ落ちた。
「!」
洋介が思わず目をみはった。
だが、次の瞬間、洋介は手を伸ばすと、希の頭をポンポンとやさしく撫でた。
暖かいぬくもりが希を包み込む。
「あんま無理すんな。・・・・ここの場所、覚えただろ?」
「?」
「また、遊びに来いよ。」
「!」
「ここに笑いに来い。」
「うん。」
涙をいっぱい溜めたままの希は、それでも精一杯笑って見せた。自分の最高の笑顔を彼に見せたかった。
「うん、また笑いに来るね・・・」
希のその答えに洋介も微笑んでこくりと頷いた。




この場所は、彼の隣は穏やかな時間が流れている。ここにいれば辛いことは何もかも忘れることができる。
だが、家に戻ればまたあの重圧に苦しめられるだろう。今のままじゃ何の解決にもならないことは希自身にも分かっていた。
・・・・だから・・・・・。
僕は変わろう。
僕自身が変わらなきゃダメなんだ。もっと強くならなくちゃ。
彼に近づくために。
彼のそばにいるために・・・・。







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