光と闇の狭間で・・・ |
ぐいっ。 慧(さとし)の腕を掴む手に力が入った。 慧はその手から逃れようともがく。 「いやだ。・・・離せっ。」 この日、真実を知るために慧は意を決して敵陣へ乗り込んだのだ。 ピンポーン。 玄関チャイムを押すと程なくがちゃっという無機質な音と共にドアが開いた。そこにはVネックのオフホワイトのサマーセーターを着た長身の男が立っていた。 その部屋の主、日下賢二(くさか・けんじ)は無言で慧を迎えた。彼は慧の突然の訪問に全く驚いた様子はない。まるで慧が訪れることをわかっていたように・・・。 賢二は慧が玄関に入り込むのを確認することなく踵を返した。 慧がリビングへ入った時には、賢二はキッチンでコーヒーを淹れているところだった。慧はおとなしくソファーへ腰を下ろした。 慧がこの部屋に来たのはこれで二度目だ。一度目は姉と一緒にこのマンションを訪れたのだった。 カタリとカップを慧の前へ置くと、賢二は自分のカップを手に慧の向かい側に腰を下ろした。 リビングのカーテンは引かれておらず、マンション7階のこの部屋からは煌びやかな街の夜景を見渡すことができた。ネオンの光は美しく華やかに輝き、そこにいる人々の憂いも何もかも覆い隠しているようだ。 慧はコーヒーに手をつけることなく口を開いた。 「はっきり言います。僕はあなたの所為だと思っている。・・・本当に知らないんですか?」 ここ数日間ずっと悩んだ。ずっと考えてきた。しかし、答えは出ず、その代わりいつも同じ考えに辿り着く。他の可能性も最後にはこの考えに掻き消された。 賢二はちらりと慧に視線を送っただけで何も言わなかった。 その態度がまるで他人事のように、自分には関係ないといわんばかりのものに思えて慧は腹立たしくなった。 この男は以前からこんなに冷たい人間だっただろうか? 慧は数回しか会ったことのないこの男との場面を思い出してみた。確かに無口で気難しそうな印象を持ったが、会話の随所に見せる表情は優しそうなものだった。にっこりと微笑むのではなく、目が。何事も見透かすように鋭く光るその目が優しげに細められていた。 だから認めたのに。それなのに―。 賢二のその態度に苛立った慧は思わず立ち上がって言い放った。 「なぜ何も言わないんですか!あんたの所為じゃないのか。違うなら、そう言えばいいのに。なぜ何も言ってくれないんですかっ!!」 熱い雫が頬を伝う。その感覚で慧はようやく自分が泣いていることに気がついた。子供みたいに感情が昂ぶって泣くなんて・・・。 慧は途端に恥ずかしくなったが、涙はなかなか止まらなかった。止め処なく溢れてくる涙に成すすべもなく呆然と突っ立ったままの慧の肩にぽんと手が置かれた。 はっと顔を上げるといつの間にか賢二がそばに立っていた。 大きなその手。細く長い指。 少し骨ばったその指にタバコを挟んでいる賢二は大人の男の魅力に溢れており、以前何度も見とれたことがあったことを慧は思い出していた。 慧のたった一人の肉親である姉、千春(ちはる)が突然姿を消してから3日が経っていた。職場には辞職願が出されており正規の手続きは完了していた。つまり、千春は彼女自身の意思で失踪したことになる。慧にすら何も告げずに。 彼らの両親は慧が3歳の時に事故で死んだ。残されたのは姉と弟。7歳年上の千春は短大を卒業後、自動車メーカーに事務職として就職した。そして、それまで世話になっていた叔母夫婦から独立した千春は慧を引き取り、二人で暮らしていたのだった。 建築の勉強がしたいという慧を大学へ行くよう強く勧めたのは千春だった。慧は姉に迷惑をかけたくないという気持ちから大学進学は諦め就職するつもりだった。だが、千春は慧の夢は自分の夢でもあるのだからと遠慮する慧を説得したのだった。 千春が「話がある」と恥ずかしそうに打ち明けたのは、慧が20歳になったばかりの夜であった。結婚を前提に付き合っている男性がいることを打ち明け、今度の休みにその彼氏を紹介したいということだった。 いつもはきはきしている姉がこんなに女らしく幸せそうな様子に正直戸惑った。慧は例えようもない奇妙な違和感を胸の奥に感じたが、自分のため今まで必死に面倒を見てくれたことを思い、姉には女としての幸せを是が非でも掴んでほしいと願った。 約束の日、彼らの家を訪れた男を見た途端、慧は一瞬動けなくなった。そんな慧に気付いたのか、男が慧を見る。目が合った瞬間、周りの風景や音が全て消え去りその空間には男と自分以外存在しないようなそんな感じを受けた。その場にいた姉の千春の存在さえも消え去ってしまった。 そんな慧の心情を知るはずもない千春は紹介を始める。 「慧、こちら日下賢二さん。・・・賢二さん、これが弟の慧。」 黒い瞳が慧を射抜く。グレーの細いストライプが入ったダークスーツに身を包んだ長身の男。 「はじめまして、日下です。お話しはお姉さんから伺っています。」 艶のあるバリトンの響きが慧の中に染み込んだ。賢二はすっと慧の前に右手を差し出した。 「は、はじめまして。慧です。」 自分も右手を差し出して握手をした。ひんやり冷たい手・・・。 それが賢二との出会いだった。 慧が落ち着きを取り戻しソファーに座ると、賢二もその隣に腰を下ろした。 「千春がいなくなる前の晩に電話で話したのが最後だった。いつもと変わった様子はなかった。」 「・・・何の手がかりもないんです。あなたなら何か気がついたことがあるでしょう?何か思い出したこととかないんですか?」 慧は縋るように賢二を見つめた。 相変わらず無表情の賢二は首を横に振った。 「姉と何があったんですか?話して下さいっ!」 だが、賢二は口を噤んだままだ。 慧は決して目を逸らすまいと強く賢二を睨み付けた。 「・・・あなたが・・・あなたが姉に何かしたんですか?」 千春が姿を消す数日前、慧は考え込んでいる姉を見た。慧が声をかけると何事もなかったかのように振舞った。あの時は仕事のことを考えているのかと思い気にも止めなかったが。失踪と関係があったのかも知れない。 姉から賢二とのことを打ち明けられてから4ヶ月ほど経っているが、結婚の話はほとんど進んではいなかった。二人の間に何かあったのではないのかと慧が疑ったのはその所為だった。 沈黙を貫いていた賢二が漸く口を開く。 「・・・千春に別れを切り出した。彼女がいなくなる一週間くらい前に。」 「何で!・・・じゃあ、姉はその所為で・・・」 賢二は静かに首を横に振った。 「彼女はすぐに了解してくれたよ。互いに納得済だった。・・・言われたんだ。あなたが言い出さなかったら私が言っていたってね。」 慧にとってはまさに寝耳に水の話だった。 「そ、そんな・・・。僕には一言もそんなこと・・・・」 「君には自分から話すので決して言わないで欲しいと頼まれたんだ。」 千春の思惑が全く理解できずに慧は困惑した。 「どうして・・・・」 その後に続ける言葉が見つからない。二人の間に重苦しい沈黙が流れた。 「・・・なぜあなた達は別れたんですか?僕は姉の幸せを願っていたのに・・・」 今更彼を責めても仕方がないとわかっていても慧は言わずにはいられなかった。 賢二の視線とぶつかった。あの目が慧をじっと見つめている。 この瞳を見つめてはいけない。早く逸らさなくては・・・そう思っても体は動かなかった。 「千春は気付いたんだろう。・・・理由を知りたいか?」 賢二の穏やかな声が響く。 だめだ。聞いてはダメだ。慧は自分自身に懸命に訴えた。本能が警告を発している。慧はすぐさまこの場を立ち去るため立ち上がろうとした。 だが、腕を掴まれ引き戻されて、彼の身体がソファーに沈んだ。 賢二の手から逃れようともがくが、力の差は歴然だった。 「いっ・・・・離せっ」 賢二は慧を見つめたまま、その手に力を入れた。賢二の黒い瞳は一種の哀しさのような色を湛えていた。 そんな視線に絡め取られながらも慧は抗って言う。だがその言葉は意に反して縋るような響きが含まれていた。 「はなし・・・て」 ―離さないで・・・ 「あんたの話なんて聞きたくない!」 ―あなたのすべてが知りたい・・・ そして・・・ 慧は漸く己の本心に気がついた。 姉の告白を聞いたとき感じた違和感。賢二と出会ったときの感覚。そのどれもが慧の中の感情から派生して起こっていたのだった。 慧は自分自身に問い掛ける。 姉が幸せそうに話す様子を見ておまえは心の奥で何を思った?愛される喜びに満ちた姉に抱いたのは妬みの感情ではなかったか?自分だけを守ってくれていた姉を誰かに取られる恐怖ではなかったか? 己の薄情さ、浅ましさを突きつけられる結果となり慧は打ちのめされた。 なんて自分勝手な醜い心なんだろう。慧は負の感情で荒みきった自分の心を呪いたくなった。 千春は慧が気がつくずっと以前からそのことがわかっていたのだろう。そして、賢二の愛情が徐々に薄れていることも―。 慧の瞳から涙が溢れた。 賢二の指が伸ばされ優しく慈しむようにその涙を拭う。 包み込むように抱きしめられても慧は抵抗しなかった。諦めたように目を閉じる。賢二の胸で心地よさを感じながら、慧は思う。自分本位な僕はこの人の想いも優しさも利用して縋りつくだろう。いつか必ずこの罪の報いを受けることになる。知らずに過ごしていた頃には戻ることはできない。 姉の幸せを願っていた。だが、その幸せを奪ったのは他でもない自分なのだ・・・。 |
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暗い話が書きたくなったの。大変失礼しました。 思いつきで突っ走りました・・・すみません・・・。 なんか消化不良な部分もありますが・・・・。 どす黒くダークな心情をメインにしました。 他の誰を不幸にしても掴み取りたい幸福。いけないこととわかっていても止められない感情。 そんなことなど考えつつ書きました。なんかいろんなものがごっちゃになった感じですね。(笑) 初めはサスペンスを書こうと思ったのにさ。←ウソ 最後まで読んでいただきありがとうございます! って結局は書き逃げです。すんません・・・。 |
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