翠玉の季節の中で






あの雨の夜以来、秋月は頻繁に俺のアパートにやってくるようになった。
彼に言わせると”先生においしいご飯食べさせてあげる”ということらしい。
まぁ、美味いものを食えることは大賛成だが。
お互いの立場があるので、秋月は一応誰にも見られないようにやって来る。”いろいろ言われるのは面倒だから用心ね”と彼は笑った。
最近秋月はよく笑うようになった。やはり俺に話したことでふっきれたのか、俺の前では学校では想像できないくらい無邪気な顔をするようになった。
だが、俺は感じていた。確かに前よりは打ち解けた。しかし、それはまだまだ浅い部分でしかないということだ。彼の中には扉があってそれより内側には決して踏み込めない。俺はまだその扉を叩くことができないでいた。
家庭の問題だけが彼をここまで頑なに心を閉ざさせている原因とは思えなくなっていた。いったい何がそこまで・・・。彼は何に怯えている?



まったく・・・みんなして俺に押し付けやがって。
俺はひどく腹を立てていた。
何でこの俺がせっかくの休みを返上してこんな朝っぱらから仕事しなきゃなんだよ!どこぞのお偉いさんだかなんだかしらねぇがいいかげんにしてくれよ。
そう、俺は理事長の知り合いのお客様が我が校の教育について知りたいという希望があったため、その対応で駆り出されたのだ。尤も運転手兼雑用係だが。
校内の案内を一通り終えて、昼食会の会場であるこの駅前のグランドホテルへとやってきたのだった。昼食会までまだ時間があるため、理事長をはじめ学長、校長らはお客様とラウンジのティールームにいる。
俺はめんどくさい役割からようやく開放されてほっと一息ついた。ゆっくり寛ごうと思い広いロビーの隅の目立たない場所のソファーをわざわざ選んだ。そこにどっかり腰を下ろすとポケットからタバコを取り出す。俺はヘビースモーカーではないが忙しいときやイライラしたときには本数は確実に増える。
ふーっ。
深く紫煙を吸い込みゆっくりと吐き出した。
遠くでチンと音がした。エレベーターがロビーに到着したようだ。
俺は早くも2本目のタバコに火をつけたところだった。何気なくエレベーターの方を見た俺は我が目を疑った。
秋月・・・・。
エレベーターから降りてきたのは秋月紘だった。彼は独りではない。その傍らにはあの夜タクシーに一緒に乗り込んだ青年が立っていた。
会計を済ませるのであろう。男がフロントへ向かい歩いていった。秋月はフロントそばのソファーへ歩いていきそこに座った。秋月はあの夜と同じように少し大人っぽい服装をしていた。男に合わせてでもいるのだろう。
こんなにも動悸が激しい。焼け付くような胸の痛み。驚きのあまりいつの間にか立ち上がっていた俺は突然感じたそんな苦しさをじっと堪えているしかなかった。
ロビー隅の俺のいるところからはフロント辺りはよく見渡せたが、逆に向こうからは見えづらい場所だ。お陰で俺は秋月に気付かれることはなかった。
フロントで会計を済ました男がくるりと振り返る。その男がこちらを向いたところで一瞬動きが止まった。立ちあがっていた所為で彼は俺に気が付いたらしい。俺達はほんの数秒間視線を交わしたが、男は何もなかったように俺から視線を外した。そして、彼は座っていた秋月を呼ぶと一緒に連れ立ってエントランスへと向かって行った。
自動ドアの向こうに消える直前、その男だけが俺をちらりと振り返った。



金曜日の夜。仕事から帰ると先日行なった確認テストの採点を始めた。うちの学校は定期テストの他、確認テストを各学期数回実施する。
先日のテスト結果をまとめて資料を作り月曜午後から行なわれる各教科ごとのミーティングで報告しなくてはならない。どの部分が弱いのか、バランスは問題ないかなどをチェックし、今後の授業の進め方に反映させるためだ。もちろん他のクラスの状況とも照らし合わされる。
漸く採点をほぼ終えた頃。
ピンポーン。
「はい。」
ガチャっとドアを開けると秋月が立っていた。手にはスーパーの買い物袋を持っていた。
「先生、こんばんは。」
「お前か。」
「ご飯まだでしょ?一緒にと思って。今作るね。」
腕時計を見ると7時半を過ぎたところだった。
秋月は俺の返事を待たずにするりと俺の脇を通り抜け部屋へ上がり込んだ。まっすぐキッチンへ行ってしまった。
俺はドアを閉めるとリビングへ戻る。キッチンでは秋月が料理を始めていた。
「先生、今日はハヤシライスね。僕、食べたかったから付き合ってね。材料も買ってきたし。すぐできるから。」
秋月はそういうとにっこりと笑った。
ホテルで秋月を見かけたのは1週間前。俺が秋月と会うのはあの日以来のことだった。やはり秋月は俺がホテルで彼を見かけたことに気付いていない。
あの日、俺はなんとなく気がついてしまった。秋月とあの男がどういう関係か。ホテルにいた理由を。そのことに思い当たって俺はひどく動揺した。どうして?
気持ちが乱れて落ち着かない。どうして?
俺はもう認めざるを得ない。もう自分を誤魔化せない。
これは・・・嫉妬だ。秋月を独占しているあの男が妬ましい。
この醜い感情はずっと俺の中で燻っている。あの日よりずっと前から持っていたものなのか。

秋月は俺に心を開かない。
どうしたら扉が開くんだろう?本当の彼を見ることができるのか?
あの男でなければ駄目なのか?俺では駄目なのか?
秋月と出逢って俺の何かが変わったと感じていた。それは今まで人と深い関わり合いを避けるようにしてきた俺にとって大きなことだった。誰かを心から想う事。己の全てを賭ける愛情。俺はずっと昔に無くしたままだった。しかし、秋月への想いは同時に醜く目を背けたくなるような感情をも蘇生させた。
誰かを愛することは綺麗事なんかじゃない。ましてこの想いは人道を外れていると言われるだろう。
それでも構わない。
キッチンの秋月の後姿を見ながら思う。
もう後戻りはできない。俺の全てを賭けて―。


「先生。そろそろできるからね。テーブルの上片付けておいて。」
キッチンから秋月が顔を覗かせながら言った。その声にはっと我に返る。
「あ、ああ。」
咄嗟のことでそんな返事しか返すことができなかった。テーブルの上には書類や答案用紙が散らばっている。俺は急いでそれらを片付け始めた。
テーブルには秋月の料理が並んだ。ハヤシライスにグリーンサラダ。
「いただきます。」
「おかわりたくさんありますよ。いっぱい食べてね。」
「悪いな。いっつも作ってもらって。」
「え?いえ。おいしそうに食べてくれるから僕のほうこそ嬉しいです。今日のは大丈夫です?」
「ああ、美味いよ。」
「あ〜、よかった。」
「お前もたくさん食っておっきくなれよ。」
「せんせー、オヤジくさい。それに子供扱いした!」
ぷうっと頬を膨らませる。
「事実だろ。それに俺はお前からみればもうオッサンだし。お前はかわいい教え子だ。」
からかうように言って秋月を見ると、秋月は悲しそうに俺を見ていた。
「どうした?」
秋月はスプーンをテーブルに置くと立ち上がった。
ソファーに座ったままの俺は彼を見上げる形になる。秋月は俯いたまま言った。
「先生。僕、帰らなきゃ。ごめんなさい。」
そう言うと彼の荷物であるリュックを掴むとそのままリビングを出て玄関へ向かった。
「おい!」
俺の声にも振り向かない。俺は思わず後を追いかけた。玄関の手前の廊下で秋月の腕を掴んだ。
「秋月!一体どうしたんだ?」
秋月は顔を伏せたまま答えない。唇を噛み締めたまま動かない。焦れた俺は秋月を振り向かせると両腕で彼の細い肩を掴んだまま言った。
「なぜだ?なぜ俺には何も言わない?俺じゃ駄目なのか?あいつじゃなきゃ駄目なのか?」
思わず零した俺の言葉に、秋月は驚いて顔を上げた。涙に潤んだ瞳は大きく見開かれている。
「先生。何言って・・・」
俺は目を閉じた。もう何もかも言ってしまおう。零れた言葉を消し去ることなどできはしない。俺は腹を括った。俺の中に潜むこの感情を全部曝け出してしまえ。
ゆっくり目を開け、今だ驚きを露わにした秋月の目をまっすぐに見詰めた。
「俺はお前の力になりたかったよ。この前家族のことを話してくれただろう?正直言って嬉しかったよ。俺を信用してくれたとおもったからさ。」
秋月はじっと俺を見たまま聞いている。
「でも、お前はまだ心を閉ざしたままだ。本当に肝心なものを押し込めたままつらそうにしてるんだよ!哀しそうに笑うんだよ!俺はお前を何とかしてやりたくて。お前に本当に楽しそうに笑って欲しいんだよ!でも、俺じゃ駄目なんだな・・・。俺は自分が無力なのが悔しいよ!こんなに想っているのに!こんなに大切なのに!こんなに好きなのに!」
激情のあまり思わず俺は秋月を力いっぱい抱きしめた。これが最後になっても彼をこの腕が憶えているようにぎゅっと力を入れた。
俺の腕の中で秋月は動かなかった。
俺は静かに腕を外し、秋月を解放した。
秋月は泣いていた。声も無くただ幾筋もの涙を流したまま立っている。
俺は彼の頬に手を当て、親指で涙を拭ってやった。
震える声で秋月が口を開いた。
「・・・そ・・だ。うそだ!先生だって同じだ!そんなこと言って捨てるくせに!僕のことなんか本気じゃないくせに!」
興奮して捲くし立てる秋月をまた押さえつける。秋月の背中を廊下の壁に押し付けた。
「うそじゃない!冗談なんかでこんなことが言えるか?お前は俺の生徒なんだぞ!本気じゃなきゃ言えないだろ!覚悟しなきゃ同じ男に好きだなんて言えないだろ!」
俺は堪えきれず再び秋月を抱きしめた。
「何度でも言ってやる。俺は本気だ。本気でお前が好きなんだ。俺はお前をずっと守ってやりたいんだ。ずっと・・・・。迷惑なら言って欲しい。もう二度と近づかないから。お前が苦しむなら・・・。」
俺は秋月から離れた。
秋月の目には困惑が浮かんでいた。
俺は後悔の念に駆られた。やはり俺の想いは彼を苦しませるものだったのだ。あれほど助けたいと切望した結果がこのざまだ。この感情は俺の胸にしまっておくべきだった。
身を引き裂かれるような痛みが俺を貫いた―。








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