翠玉の季節の中で






闇の中で孤高の存在としてその優雅で切なげな姿を映していた月は徐々に薄らいでいき、やがて見えなくなった。確かにそこに在るのに。
東の空が明るくなり、雲の隙間からは明るい光が幾筋も漏れている。
その光はこの部屋にもカーテンの僅かな隙間をぬうように差し込んできた。
大切そうに自分を抱きしめて隣で眠る男をゆっくりと映し出した。
昨夜のことは決して夢なんかじゃなく、間違いなく起こったこと。
僕はいつもより幼く見える先生の寝顔を見つめながら思った。
俊彰。ありがとう。



―あの日のこと。
シーツの擦れる音がした。
先程自分を散々鳴かせた男がするりとベットから起き上がると流れるような動作でローブを羽織った。
いつものように僕は俊彰と逢ってグランドホテルに泊まっていた。
今日僕はあることを密かに心に誓っていた。僕は彼に伝えなければいけないことがあった。このことは少し前から考えていたことだったがなかなか言い出すことができずにいたのだ。
「・・・あ、あの・・・・。」
僕の掠れた声にミネラルウォーターを飲んでいた俊彰が動きを止める。
「なに?」
言わなければ、彼に伝えなければ。
「俊彰、話があるんだけど・・・。僕、もう俊彰とは・・・・。」
「俺とは寝たくないか?」
「・・・・」
僕は言葉に詰まった。この気持ちを一体どういう風に伝えればいいのだろう?
グラスを置くと俊彰はベットへ戻ってきた。まだ身体がだるく動くことが億劫な僕を抱き寄せて言った。
「ちょっとからかっただけだ。気にするな。まぁそろそろ言い出す頃とは思っていた。俺とはもう逢わないということだろう?違うか?」
「・・・うん、ごめんなさい。」
僕はなぜだか罪悪感を感じた。彼をひとり残して自分だけ前へ進む。彼を取り残していくんだ・・・。
「なぜ謝る?別にお前が悪いわけじゃない。俺達の関係はお互いの利害から成り立っていたんだ。それが成り立たなくなったのだから終わりでいいだろう?」
「で、でも・・・僕だけが・・・」
「別に構わん。俺はもうこうやって生きることしかできない。この生き方をもう何とも思わない。・・・だが、お前は違う。諦めていないだろう。信じることを。それともあの男を諦め切れるのか?」
僕はびくっとなった。俊彰は気付いていたんだ・・・・。
「俺が気付かないとでも思ったか?とにかく俺のことは気にするな。お前はお前のやりたいようにやればいいさ。お前が望むように。」
「うん。でも先生は・・・・」
先生は僕のことなんて・・・・・
「あんなに臆病になっていたお前がなぜあの男にだけは反応した?」
「・・・わからない。」
「それがお前の本心だ。お前は直感で感じたんだろう。その自分を信じてみろ。」
「としあき・・・」
俊彰はニヤリと笑うとからかうように言った。
「感謝しろよ。本来俺はこんなにおせっかいじゃないんだ。これもかわいいお前のことを思ってさ。」
「うん、ありがと。俊彰。今までほんとにありがとう。」
俊彰はゆっくりと髪を撫ででくれる。
「いや、礼を言うのは俺のほうかもな。」
「どうして?」
「・・・いや、何でもない。いいか、怖がるな。自分の気持ちをそのまま伝えるんだ。ここで逃げ出したらお前は一生後悔するぞ。この暗いループの中から抜け出せるチャンスを逃すな。年寄りの忠告は聞いておいて損はない。」
「うん」
こんなに話をしたのは初めてだった。
正直、俊彰には相手を切り捨てる非情のイメージが僕の中では強かったし互いに干渉することもなかった。だが、僕のことを誰よりも理解してくれるのも彼に違い無かった。
これ以上孤独に震えるのは嫌だった。
先生に全てを話そう。僕の気持ちを伝えよう。
初めて彼を見たときは驚いた。あの人に似てたから。そう、昔僕を裏切って捨てていったあの人に。
でも、先生は暖かかった。先生といると心が凪いで優しく包んでくれるようだ。彼を取り巻くオーラは美しく輝いているように思う。
先生なら・・・先生と一緒なら僕もあの空へ飛びたてるかも知れない。いつしかそんな希望が僕の心に生まれていた。あの冷たく孤独な場所からいつも見上げていた空へ―。
欲望に汚れた僕はもう戻れないのかも知れないけれど、彼に愛してもらう資格などないのかも知れないけれど。
僕は先生に愛されたい。
今まで感じたことのないこの強い想い。
他の誰かではない。大河内純一という男に愛されたい。彼でなければ駄目だ。



僕は先生のアパートへ向かった。
今夜、先生に伝えるんだ。僕の想いを。
拳をぎゅっと握り締め心を決めると、僕はドアをノックしたのだった。



暖かい朝の光が僕にそっと話し掛ける。
―ほら、もう信じられるわね?もう大丈夫ね?
僕は先生にぴったりと寄り添いながら瞳を閉じた。
うん。もう大丈夫。この人のそばにいる。






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