HALF MOON |
低く流れているjazzが心地いい。 小さな喫茶店には俺のほかにカップルが1組いるだけだった。 アイスティのグラスで氷が音を立てた。 夕闇が街を包み始めた。昼間の太陽の熱がまだ消え去ることなく残っているだろう。 忙しなく通りを行き交う人々。 繰り返される単調な日々。 途切れることなく流れていく人の波を見つめながらふと胸に浮かぶのは・・・・。 2ヶ月前の彼の眩しい笑顔だった。 今まで、俺という人間が突然いなくなったところで誰も悲しまないし、何の支障もない・・・そんな風にずっと思っていた。 人との関わりからできるだけ避けるように生きてきた俺の心にどういうわけか雅弥はすんなり入ってきた。いつの間にか俺の扉をすり抜けて。 ひとなつっこいわけでもないのに、気がつくと俺のそばにいた。 今思えば、俺もはじめから気になっていたんだろう。彼の態度がおかしくなったのに気づいたときは心配でいてもたってもいられなくなった。 あんな理屈じゃ説明できない気持ちを感じたことなど今までになかった。 悩んでいる様子の彼の力になってあげたいと飲みに誘ったあの夜。あれがすべての始まりだった。いや、俺達が出逢ったときに既に始まっていたのかも知れない。 真摯な瞳で俺を好きだと言った彼。俺は何度も確かめた。本気かと。 俺の過去も打ち明けた。それでもいいのかと。後悔しないかと。 俺は彼の心を疑ったのだ。 俺自身が傷つくことが怖かったから。我ながら最低だ。 彼はそんな卑怯な俺を責めることはなかった。ただ少し哀しそうな目をしただけだった。それでも彼ははっきりと言ったのだ。俺が好きだと、気持ちは変わらないと。 ああ、あのときの気持ちはなんと表現すればいいのだろう。嬉しかった。・・・そう嬉しく感じたのだ。彼にそういう風に思われていたことを。 だが、俺は思う。 人の心は縛れない。人の心は変わるものだから。それは誰が悪いわけでもない。あの時神の前で永遠を誓った夫婦ですら・・・。 だから、時が経てば彼の愛情も薄れてしまうのではないか。 でも、彼を信じたいと思った。ほんのひとときだとしても真摯な彼に愛されたかった。あのときはこの気持ちの本当の意味に気付いてはいなかったが、今ならわかる。 彼を好きだと。既に彼を愛していたのだと。 限られた恋愛だった。俺が本社に戻るまで1ヶ月もなかった。終わりが見えているのに俺達の愛は深まっていった。それは道ならぬ恋。 俺の心の隅に同時に浮かぶ不安―。 それは次第に広がっていく。 俺は彼の重荷になっていないか?彼の未来に影を落とす元凶とならないか? 所詮、俺達はすぐに消えてしまう幻でしかないのかもしれない。 いや、むしろ幻のままのほうが・・・。 プルルルル・・・ 突然の電子音にはっと我に返った。俺の携帯電話が鳴ったのだ。急いで通話ボタンを押す。 「はい、結城です・・・」 『山崎です。お疲れ様です。』 「お疲れ様。どうした?」 『すいませんお帰りになったところなのに。それが・・・・ちょっとはまっちゃいまして・・・』 「いや、気にするな。それで、どこだ?現象は?」 『安田商事のラインプリンタです。印字できないんですよ。』 「そこは締め業務があるからそれはまずいな。クリーニングは?」 『もちろん。リセットしてもだめなんです。』 「じゃあユニットごと交換するしかないな。緊急対応だ。早くしろ、クレームになるぞ。センターに連絡して至急部品手配しろ。」 『わ、わかりました。すぐやります。』 「今から俺もそっちに行く。心配だからな。」 『すみません。よろしくお願いします。』 プッ・・・・。 現実に身を沈めて生きていく。こうやってこの先もずっと・・・・。 俺は伝票を掴むと立ち上がった。 店を出るとむっとした熱気が俺を取り囲んだ。すっかり闇に支配された空には月が静かに佇んでいる。まるで夏の熱気に溶けたようなHALF MOON。 あの日から胸の中の虚無が消えない。ずっと気付かない振りを続けていくんだ。 俺は彼の笑顔を心の奥にしまいこむとそっと鍵をかけた―。 |
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ふつう一人前の技術員がこの現象ではまることはありませんね。 すいません。仕事の話は嘘っぱちです。かる〜く流してね・・・・。 |
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