ひたひたと、廊下を渡る足音に気付いた若は魔法書から顔を上げた。
行きて戻りつ。戻りて行きつ。
息を殺し耳を澄まさねば聞き取れぬ程の微かな足音は、扉の前で立ち尽くしては、離れてゆく。そのくり返し。
決して知らぬ足音ではないが故に、敢えて若は沈黙を守っていたのだが暦の上では春とはいえ、この時刻ではまだ薄氷も張るものだ。
このままでは風邪をひかせてしまう。
諦めて若は読みかけの魔法書をそのままに、部屋の扉を開いた。
以前は毎日の事だった。
来るなと告げたのは自分だった。
「千里。何をしている?」
遠ざかりかけていた背中に声をかければ、小さな肩がびくりと揺れる。
こちらの様子を伺うように恐る恐ると言った様子で振り向いた顔は、嬉しさと不安が綯い交ぜになった何とも複雑なものだった。
来るなと言われていたのに来てしまった。
声をかけようか。やめようか。
約束をしたのだし。でも。やっぱり。
何度も廊下を行き来して。
もし。廊下でばったり出会ってしまったら?
何て言い訳をすれば良いのだろう?
約束を守れないのかと、怒られたりするだろうか。
嫌われたりするだろうか。
そんな不安が無かったわけではない。
会ってしまったら、自分は何がしたかったのだろう?
「逢いたい」と、言葉を音に出してしまったら、もう耐え切れなかった。
顔が見たかった。
声が聞きたかった。
ただ、それだけなのだけれど。
「何をしている?」
そんな筈は無いのに。
言外に責められている気がして。
千里は身を固く縮めてしまった。
「あ、あの…若様……」
言いかけた千里の肩に手を伸ばして、そのすっかり冷え切った体に、若は僅かに眉を寄せた。
一体どれほどの時間、此処でこうしていたのか?気付いてやれなかった、否。気付いていながらも態と知らぬふりをしていた自分に嫌悪する。
「…とにかく、中に入れ」
廊下よりは暖かいだろう。
一旦離してしまった千里を再び部屋に入れてしまって、理性が保てるか些か不安であるのだが。小さく溜息をつく。
幸いというか机の上には読みかけの魔法書がそのままになっている。
勉強中と言う事で、早々に部屋に追い返してしまえばそれで良い。
ひとまず千里を座らせて、肩に上着をかけてやる。
じっと自分を見つめる千里の視線を敢えてやり過ごし、若は台所に立つと湯を沸かし、紅茶の用意を始めた。
程なくして湯が沸き、二つのカップに注いだ紅茶をテーブルの上に並べるその間も、千里とは一切視線をあわさない。
そうして若は再び魔法書に視線を落とした。
不自然なまでに……意識を千里から引き離すために。
「それで、何の用だ?」
視線は本に落としたままで、感情を押し殺して千里に問い掛ける。
冷たい声音に、千里の心に冷えた何かがコトリと落ちる。眼前のカップからは湯気が立ち上っているのに、どうしてだろう?暖かさを感じられずにいた。
矢張り怒っているのだと不安が渦巻く。中に入れてはくれたものの、千里には気付かれぬよう、小さく溜息をついたのも知っている。
……来るんじゃ無かった。そして後悔。
「ごめんなさい……」
「何を謝る」
矢張り若の視線は本に向けられたままで、千里は段々居た堪れない気持ちになり、小さな肩を竦めた。
「来るなって言われてたのに……」
「そうだな」
ずきん
胸に痛みが走る。
胸が痛い。
嫌だ。若様。
―――キライニ ナラナイデ――
―――イケナイコダナンテ オモワナイデ―――
泣き出したくなる自分を叱咤する。これ以上若に嫌な思いをさせてはいけないと。
胸元で拳を握り締めると水干の中でかさりと音がする。震える手でその音の主を取り出した。
両手で強く抱きしめて、唇が必死に言葉を探す。
笑って何事も無いように、単なるおしゃべりのように話せるだろうか?
「あ……あのね。お母さんから聞いたの。向こうの世界では今日は女の子のお祭りの日なんだって。
女の子が…幸せなお嫁さんに……なれる………ようにって………」
段々と千里の声が小さくなってゆく。声と一緒にその体も小さくなっていくようで、ふと、若の視線が千里を向いた。
碧い、今にも泣き出しそうな大きな瞳が若を見つめている。
「私、いつになったら若様のお嫁さんになれるの?」
不安の混じる瞳に今度は若の胸にぴりりと痛みが走った。千里にそんな顔をさせる自分の不甲斐なさに、一瞬だけ唇を噛み、重ねていた視線を引き剥がす。
「前にも言っただろう。あと六年待てと」
そんなつもりは無かったのに、自分の声に苛立ちが混じっているのを若は感じていた。早く千里を追い出さなくては。でなければ。
気ばかりが焦る。
「大人になったら?」
「大人になるまで」
待ちきれないのは自分の方だ―――。
本当は今すぐにでもそうしてしまいたいのだ。
抱き寄せて、口づけて、少女を愛したい。………奪ってしまいたい。辛うじて、ぎりぎりの所で自分を押し留めている。
あと六年も待つのだ。
六年もたてば、二人を取り巻く状況はどれくらい変わっているだろう。
目の前の少女はきっと、匂い立つような娘に成長をしているだろう。その魅力に多くの者達は惹きつけられて止まない。今でもそうであるのに――。
相手の気持ちを信じていないわけではない
ただ
自分に自信が持てないだけだ。
じりじりと焦燥が若の身を苛み始めていた。今手を伸ばせばすぐ其処に、愛しさの止まない存在がある。
早く千里を部屋に戻さないと、また自制がきかなくなる。今度こそ、何をするか解らない。そんな自覚だけは確かにあった。
「ちさ――――」
もう、自分の部屋に戻れ。そう言いきる前に、千里が若の言葉を遮る。
「若様じゃなきゃ嫌なの」
千里の両手の中からこぼれ落ちたのは千代紙で折られた小さな一対の雛人形。
読みかけの魔法書の上に両手をついて、千里は若に向かって身を乗り出す。
「どれだけ待っても、若様しかいないの」
思いつめた瞳がまっすぐに視線を合わせて来る。その次の瞬間。
柔らかな感触が、若の頬にあった。
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