T 運命の輪
それはある晴れた夏の日のことだった。
今日は広場に市が立つらしく、まだ朝だというのに、窓の外は大勢の人で賑っていた。ときおり吹く乾いた風が、軒に干してある薬草の微かな香りを運んで来る。
いつもと変わらぬ朝。
「――今、何て言ったの? リオ」
窓際でせっせと編み物をしていたネリアは手を休めることなく、そう聞き返した。
「だからね、旅に出たいんだ、母さん」
リオこと、リオグラーナはもう一度同じ言葉を繰り返す。それはリオグラーナにとって、一大決心のつもりだったが。
「あらあら・・・・・・。気をつけて行くのよ、おやつもいるかしら?」
のん気な母親の言葉に、リオグラーナはがくっとうなだれる。
「――母さん、遊びに行くわけじゃないんだから・・・・・・。東の大陸へ行きたいの」
「東の大陸・・・・・・ですって?」
そこで初めてネリアは編みかけのレースをテーブルに置き、娘の顔をしげしげと見た。
リオグラーナは少年にしか見えない顔立ちをしているが、れっきとした少女である。無造作に短く切られたリオグラーナの髪をなで、ネリアは小さくため息をついた。
「本気なのね、リオ」
「冗談を言ってどうするのさ・・・・・・・」
ネリアは頭を押さえて、深く椅子に倒れ込んだ。
「――ああ、急に持病の心臓発作が・・・・・・」
(心臓が頭にあるかいッ!)
リオグラーナは何だかどっと疲れた気がした。
「母さん、その手には乗らないよ」
「まあ、つまらないわ。小さい頃はよく引っ掛かってくれたのに」
(こ、この人はッ・・・・・・)
ネリアは全然悪びれずに、ころころと笑った。町一番の美女と名高いネリアだが、その性格は娘のリオグラーナでさえ計り知れない。
「――それで?
どうして突然そんなこと思い立ったの?」
「前に母さんが話してくれただろ。あの物語は作り話じゃなく、父さんのことだって」
「そうね。そんなこと言ったかもしれないわね。――いつかリオにも父さんのような探検家になってほしいから、あなたを男として育てたとか」
「――それは初耳だよ」
(ぼくの人生っていったい・・・・・・)
リオグラーナはそう思ったものの、心の中の一人称までしっかり《ぼく》と定着してしまっているのに気付き、さらに落ち込んだ。
「じゃあ何かしら・・・・・・」
ネリアの表情がやや真剣味を帯びた。外の喧騒が急に遠ざかったような錯覚を覚える。
「――父さんの残した探検記のことさ」
リオグラーナの父は自らの体験を文章に書くことで、世間にその不思議な大陸の存在を主張した。
「誰も信じてくれなかったんだろ? 父さんの話を」
「しかたないわ。あの大陸は全くの別世界と言ってもいいくらいに、この国とはかけ離れた存在ですもの」
「だからって父さんのことを、ほら吹きだの嘘つきだの言うなんて・・・・・・」
「まあ、誰がそんなことを」
(それだけじゃない・・・・・・)
リオグラーナは言おうとして口をつぐむ。かわりに、強い意志をたたえた瞳でネリアを見た。
「父さんが探検記に書いた聖宝を持ち帰れば、きっとみんなも信じてくれる」
「まあ、聖宝! 聖宝ですって!」
ネリアはリオグラーナの言葉に思わず吹き出した。
なぜ笑われるのか分からないまま、リオグラーナは続ける。
「――そ、そうだよ。絶対探し出してみせるよ」
なおも大笑いしていたネリアは、リオグラーナの声に真剣な響きを感じ取り、やっとのことで笑いを止めた。
「決心はかたいようね。私に止める理由はないわ」
ネリアは少し寂しそうに微笑んだ。しかしそれは一瞬のことで、すぐに普段の表情に戻る。
「あそこには恐ろしい魔物や動物なんかがいるし、得たいの知れない魔法使いに、呪いをかけられたりするかもしれないけれど―気をつけて行くのよ、リオ」
「・・・・・・母さん」
(それは娘を案じる親心というより、ただ脅かしているだけなんじゃ・・・・・・)
ネリアはリオグラーナの顔をちらりと見やって、真顔で言う。
「あら、脅しじゃないわよ」
言いながらネリアは、紙にインクをたっぷり含ませたペンを走らせた。すぐに短い手紙を書き上げる。
「国を出る前に、これを持ってお祖父様の所へ寄りなさい」
祖父と聞いたとたん、リオグラーナは嫌そうに顔をしかめた。
「えー」
「えー、じゃありません。じゃあね、行ってらっしゃい」
いくら旅立つ準備ができていたとはいえ、あまりに素っ気ない母親の言葉に、リオグラーナは呆然とする。
しかしいつまでも突っ立っているわけにもいかず、そろそろと扉へ向かう。
「い、いってきます・・・・・・」
――言った後、決心が鈍るのを恐れて、リオグラーナは振り返ることなく走りだした。
ひらひらと手を振ってリオグラーナを見送ると、ネリアは編み針を持ち直した。
窓の外に目をやると、雑踏の中を駆けて行くリオグラーナの姿が遠くに見える。
「あなた自身の聖宝が見つかることを祈っているわ」
そう言ってネリアは、ふっと微笑んだ。
「やだなー、お祖父様に会うの」
リオグラーナはため息まじりに呟いた。
「おや、リオ。どこか行くのかい?」
町角の肉屋の主人が声をかける。
「うん。ちょっと旅に出るんだ」
「それにしちゃ、ずいぶん大層な荷物だなー。ほれ、肉の干したの持って行きな、せんべつだ」
「ありがとう」
乾し肉とソーセージの包みを受け取り、リオグラーナは笑顔で礼を言う。
名も無い小さなこの町は、ずいぶんと気のいい人が多い。父親のいない寂しさなど気にせず育ったのは、こういった温かい人々に囲まれていたからだ。
(でも・・・・・・)
『お前の父ちゃん、嘘つきなんだろ。俺の母ちゃんが言ってぜ。旅のしすぎで頭おかしくなったんだろってな』
『もしあの話が本当なら、お前の母ちゃんは何者だよ。東の大陸の野蛮人だろー』
『みんな言ってるぜ。あんな綺麗な人間がいるわけがねえ、妖精じゃねーかってな』
『親が親なら子供まで、女か男か分かんねーガキだってな』
大きな町の学校で、子供たちが言った言葉。それはそのまま、その子供たちの親が思っていることだ。
(ぼくのことはともかく、母さんたちの悪口まで・・・・・・)
こうして父親の名誉のため、旅立ちを決心したのであるが。
――大体、母親のネリアの性格からして、そんな陰口を気にするような繊細さは持ち合わせていないだろう、ということにリオグラーナは全く気付かなかった。
国境近くの町へ入り、祖父のいる教会が見えてきた。
クラウドの町の教会と言えば、その美しい外観で有名だが、その工事の資金がどうして作られたのかはリオグラーナの知るところではない。
ただ相当あくどいことをしているらしいと噂に聞いたことがある。
『あの教会の屋根があんなに美しい赤色をしているのは、わしらの流した血のせいじゃよ』
――リオグラーナの祖父、ラドノームは教会の司祭である。
(あの人ならやりかねない)
そんな人物をこれから相手にしなければならない、と思うと足取りも重くなる。
握りしめてクシャクシャにしてしまった手紙を伸ばし、リオグラーナは教会の中へと入って行った。
「こんにちは、お祖父様」
「何じゃ、リオ」
リオグラーナを見て、開口一番ラドノームはそう言った。よく来た、とか久しぶりという歓迎の言葉はない。
(もう慣れてるけどさ)
だからリオグラーナも、あいさつは手短に済ませ、ネリアからの手紙を渡す。
ラドノームは少し興味を持った様子で、熱心に読み始めた。
「ふむふむ。・・・・・・ふぉ、ふぉ」
ネリアからの手紙を読みながら司祭は、時おり奇妙な笑い声を洩らした。
言いようもない不安を覚えながら、リオグラーナは祖父が手紙を読み終えるのを待った。
「なるほど、事情は分かった」
そう言うとラドノームは祭壇に置かれた小箱を持って来た。
「これはお前の父親が東の大陸で見つけたものじゃ」
リオグラーナは手渡された小箱を開けてみる。
腕輪が一つ。
メビウスの輪のようなデザイン。
飾りに小さな碧い石が一つだけついていた。
「持っていくがいい。もともとお前とネリアに、と残したものじゃ」
「本当にいいの?」
ケチな祖父が何かをくれるなんて、初めてのことだ。
母のネリアと違って、分かりやすい祖父の性格を、よーく知っているリオグラーナは思わず疑いの眼差しで見た。
「うむ。確かに最初はお前達に内緒で、他の奴に高く売りつけてやったんじゃが、買った者が次々と原因不明の死を遂げてな・・・・・・」
「ああ、それで厄介払いしたかったんだね」
「まあそういうことじゃな、わはははは」
「・・・・・・」
育ちのいいリオグラーナは『わははははじゃねーよ、このクソじじい』などと下品なことは言わなかった。
――が、呪いの腕輪まがいの物をもらって何だか泣きたい気分になる。
(どうしよう、これ・・・・・・)
「ついでに、聖宝を見つけて無事に父の汚名を晴らせたら、それをワシに譲ってくれ、いいじゃろう?」
「・・・・・・いいけど」
確かリオグラーナの父親は、司祭の息子でもあるはずだ。この老人には親の情など無いのだろうか・・・・・・。
「約束じゃよ。よーし、果敢な少年リオグラーナの門出を祝って、ばんざーい」
(・・・・・・何だかなあ)
ついでに言うと少年でなく少女なんだけどな、一応。
言いたいことはたくさんあったが、どっと疲れた気分でリオグラーナは教会を後にした。
――司祭はまだ叫んでいる。
国境の門を越え、東の方へ歩き出す。
太陽の昇る方角へ。