夜光虫



初冬の風が吹いて、窓から見える銀杏の木は
濃い黄色の残り少ない葉をまた幾枚か宙に手放した。
枝は、吹いてくる北風に耐えるように身を固くして、まだ遠い春を待っている。
例年よりも秋の訪れが早かった今年は、同様に冬の訪れも早そうだった。

ちょうど、『ドナドナ』で子牛が市場に売られて行く時間、
街の中心地よりも僅かにはずれた場所に位置する小さなビルの3階の一室は、
20代の女性をひとり、客人として迎えていた。

「これが…兄の写真です。兄と、義姉さんと私3人で今年の春に遊びに行ったときの…」

城島雪美、と名乗った女性がバッグからとり出した写真を受け取って、
黒いスーツを身にまとった男はそれに目を落とした。
有名なテーマパークを背景に、3人の人物が並んで写っている。
いちばん右が、目の前の、彼女。とすればそのとなりの女が彼女の義姉、
そして左端が兄であろう。

「…この写真は、お預かりしても?」

黒斑眼鏡の奥の目を細めて男が言うと、彼女はこくりと頷いた。

「はい。兄はもともと写真を撮りたがらないもので、最近の写真はそれくらいしかなくて…」
「これで充分ですよ。ご心配なさらずに」

微笑ってみせた男は、その名を遊汝と言った。
本名ではなく、一種のコードネームである。
少し長めの黒髪はきちんとセットされていて、隙を与えない。
彼は笑みを崩さないまま手帳に何か書きこんで、そこに写真をはさめた。
不要になったボールペンと手帳を内ポケットに納めた男に、
彼女は座っていたソファーから立ちあがると深々と頭を下げた。

「どうか…よろしくお願いします。…私には、とても信じられなくて…」
「わかりました。調査させていただきます」

同じように立ちあがった遊汝は、極上の笑顔を向けた。
畳にして10畳ほどのその部屋の、更に奥に繋がるドアが開いたのは、
城島雪美が『夜光虫』と書かれたドアから出ていった直後であった。

「『調査させていただきます』って! 遊汝さん、カッコつけ過ぎっ」

罪の無い無邪気さで笑って出てきたのは、零名、というコードネームの男である。
年の頃は、二十歳前後といったところか。
どちらかと言えば線の細い遊汝よりも更に小柄で、顔にもまだ幼さが残る。
3つほどしか遊汝と違わないはずだが、紫に近い水色の髪の毛さえ黒ければ、
まだ高校生に見えるかもしれない。
零名にカッコつけすぎ、と揶揄された遊汝は、苦笑したが否定はしなかった。

「…まぁ、美人だったしなぁ」

男が、美人に対して愛想よくなるのを咎めるわけにはいかない。
男の本能というものである。
確かに、城島雪美は色白で利発そうな印象を与える美女であった。
肩より僅かに長い髪をすっきりと後ろに束ねて、上品なバレッタで止めている。
道を踏み外さずにここまで来た、という感じだ。
歳は25。現在銀行に勤めていると言っていた。
学生時代はさぞかし模範的な優等生であっただろう。

「…で、その人が俺らに何の『依頼』だったの?」

本来ならば、ここは普通に明るい人生を送っている人間が来るべきところではない。
零名は先刻まで彼女が座っていた黒い皮製のソファーに腰掛けると、小さく首を傾げた。

『夜光虫』。

外に繋がるドアには、それだけしか書かれていない。ビルのテナント契約証書には、
「自営業・事務所」とだけある。
普通の人ならば、ここがどういう「自営業」の「事務所」なのか分かるはずもない。
隠しているわけではないが、あまり堂々と公表するわけにはいかない理由があった。


探偵。


俗な言い方をすると、そんな言葉で片付けられるかもしれない。
ここは、『Soleil』という大型調査組織の支部所である。
仕事内容は、本部から送られてきた依頼による事件・人物の調査と対策。
場合によってはそれ以上も請け負う。
メンバーは5人。
報酬は、その時々の仕事内容によって異なる。下限も上限もない。
全ては、「裏」世界の仕事で、それを総括しているのが『Soleil』の組織長であった。
実のところ、こういった『依頼』がどうやって持ち込まれるのか、いくつかある
支部の中でも知っている人間はいない。
組織長が指名した支部のリーダーが、直々に調査依頼書を受け取る、という仕組みである。
遊汝が、『Soleil』組織長・戒樹から依頼書を受け取ったのは2日前。
今日が、この仕事の初打ち合わせであった。

「依頼内容は簡単に言えば、城島雪美の実兄の、自殺原因調査」
先刻上着の内ポケットに入れた手帳を取り出して、遊汝はぱらりと捲った。
「あの人のお兄さん、自殺しちゃったの?」
「ん。ただ、さっき来た城島雪美は、それを信じてない。
依頼は、納得のいかねぇ所をくわしく調べて欲しい、ってとこだな。
まぁ、詳しいことはあいつらがそろってから話す」

城島雪美に対する言葉遣いとはうって変わっている。もちろん、こちらが「本物」だ。
相手によって使う言葉を変えることなど、遊汝には造作もないことであった。
逆に、その程度のことが出来なければ、こんな仕事を請け負う資格などない。
「…大きい?」
零名が尋ねた。
「いや、そうでもない。あれはせいぜい…Bカップ程度だな」
ふーん、と頷きかけて、零名ははっとした。
「ちっがーう!! そうじゃなくて!!」
零名が尋ねたかったのは彼女の胸のサイズでも、身長でもない。
それを承知でボケた遊汝に、零名は絵に描いたような典型的ツッコミを入れた。
分かってるって、と遊汝が笑う。
「そんなでかい仕事じゃねぇだろ。だいたい、警察が自殺って断定してんだ」
『夜光虫』に舞い込んでくる依頼は、実に多種にわたっていた。
組織長がどういう基準で選んでいるのか定かではないが、
人探しや浮気調査のようなものから会社の汚職調査まで、
統一性はほとんどない。
「大きい仕事」か、「小さい仕事」か。
零名には、最初にそれを尋ねる癖がついてしまっていた。

「じゃぁ、なんで、わざわざ調査を依頼したのかな?」
実際の年齢よりも下に見られる、独特のしゃべり方で零名は疑問を紡いだ。
警察が自殺だって断定しているなら、それでほぼ間違いないんじゃないか、と思ったのだ。
いくら昨今、警察は信用できないと言われていても、なんの根拠もなしに断定はしないはずだ。
そう伝えると、遊汝は小さく首を振ってみせた。
「いや、それがな、…」
返答は、最後まで言葉にならないうちに遮られた。

「ただいまーっ」
先刻『依頼者』が出て行ったドアが開くと同時に飛び込んできた、明るい声。
おかえり、という遊汝と零名の声に迎えられて部屋に入ってきたのは、
食料の入ったビニール袋を両手に抱えた2人の男だった。
この2人を形容するに、派手、という言葉以外に似合う言葉はないかもしれない。
一人は、前部の髪を黒のまま残して、後部の髪が金色。もう一人は鮮やかな緑。
一部に、同色のエクステンションまでついている。
この2人が街を歩けば、さぞかし目立つに違いない。

「昼メシ、買ってきたよっ」
言ったのは、黒と金の髪をした男だった。
コードネームは、橙。
年の頃は、零名と同じく二十歳前後だ。
秀麗だが、それ以上に活気を感じさせる顔を笑顔で飾って、ビニール袋をテーブルの上にどさりと置く。
「ついでに、夕メシも買ってきた」
橙が抱えていたものとほぼ同量の袋をそのとなりに置いた男は、大関といった。
橙と零名よりも2つほど年上だが、一般的に言うと童顔の部類に入るだろう。
コードネームのわりに身体は小柄で、笑うと特に瞳が細くなって愛嬌のある顔になる。
もちろん、この2人も『夜光虫』のメンバーであった。遊汝が接客をしている間、
昼食の調達に出かけたのである。

食べ盛りの男の食事、5人分。
大量になるのも無理はなかった。

「わーいっ、おなかすいたっ」
語尾にハートマークでもつけそうな勢いで、零名がいち早くビニール袋の中をのぞき込んだ。
「零名、メシ食う前にはちゃんと手を洗う!」
「あーいっ」
「橙、お茶取って?」
「グラスは? 足りる?」
「ねぇねぇ、いっちゃんはぁ?」
「あ、先に食ってていい、ってさっき電話あったよ」
食欲は、万物に勝る加速剤である。
たとえそれが超高級レストランのステーキでも、コンビニの弁当でもさほどの変わりはない。
応接室が一瞬で食堂に変わって、にわかに賑やかになる。
先ほど客を迎えていたテーブルの上に、まだ温かい弁当が4つ広げられた。
もう一人の分は、ちゃんと割り箸も添えられて、誰も座っていないソファーの前に用意される。
「っていうか、遊汝。メシ食うときぐらいそれ、外せ」
遊汝の頭を指差して言ったのは、大関だった。
ん? と一度不思議そうな顔をして自分の頭に手をやった遊汝は、
「あぁ、忘れとった」
黒髪をおもむろにひっぱった。
ずる、と頭皮ごと髪の毛が外れたように見えたそれは、実はカツラなのであった。
その下から現れたのは、他の3人に引けをとらない、鮮やかなピンクの髪。
ついでに黒斑眼鏡も外して、遊汝はテーブルの上に置いた。
これも、完全なる伊達眼鏡だ。
「さすがにこの頭で客人迎えるわけにはいかねぇしな」
当たり前である。
カツラと眼鏡で人相は驚くほど変わる。
どう見ても真面目な会社員風だった遊汝は、今や完全なる別人と化していた。
メンバーが、これだけそれぞれに派手な髪の色をしているのには、それなりの理由があった。

人が、初対面の相手の顔を憶えようとするときには、法則がある。
潜在意識の問題で、無意識のうちにいちばん目立つパーツを頭の中に記憶するのである。
鼻が大きい、だとか、身長が高い、など。
「一度見たら忘れない顔だよね」というのは、その人が持つ顔のパーツが
個々に目立って印象に残りやすいからである。
彼らは、それを逆手にとっている。
髪の色が派手ならば、相手はその色を基準に憶えようとする。
次に会うとき、髪型と色ががらりと変われば、まず気づかれない。それが狙いなのだ。
こういった仕事をするには、正体がばれないことが第一条件なのだから。

「じゃ、いただきまーすっ」
弁当を配り終えた零名の、無邪気な声が合図であった。
いっせいに動き出す、4人の手。
壁の時計は既に2時をまわっている。この時間までオアズケにされれば、腹が減るのも仕方ないだろう。
しばし、幸福な時間が流れる。
「ごちそぉさまっ」
「うわ、橙ちゃん、早っ」
脅威の早さで、1人前の弁当と調理パン1個を胃の中に収めた橙がウーロン茶で一息ついたのと、
再び外へ繋がるドアが開いたのはほぼ同時であった。
「ただいま」
その声に、傍目から見ても瞭然なくらい目を輝かせたのは、零名だ。
「いっちゃん、おかえりーーっv」
今度は本当にハートマークがついた。
『夜光虫』5人目のメンバー、樹であった。
まず、目に付くのは赤紫の髪。
それを無視すればその顔がなかなか美形であることに気づくだろう。
身長もそれなりにあり、身なりを整えて街を歩かせれば年頃の女の子が
5人中3人は振り返るかもしれない。
「どうだった?」
厚焼き卵のカケラを飲み込んで、遊汝が問うた。
城島雪美がここへ来る前、遊汝は樹にひとつ頼み事をしていたのである。
その成果を尋ねた遊汝に、ソファーに腰を下ろした樹は整った眉を寄せて小さく首を振った。
「ん、あったけど…すごくちっちゃな記事だけ」
手渡したのは、新聞記事のコピーが2枚。
隣りから、橙が遊汝の手元をのぞき込む。
「私立高校教師、印刷室で自殺」との見出しをつけられた小さな記事だ。
もう1枚には「遺書を残して、教師が首吊り」とある。
「これ…今回の仕事の…?」
首を傾げた橙に頷いてみせて、遊汝はメンバーを見渡した。
「…とりあえず、樹もメシを食え。詳しい話はそれからだ」
『リーダー』の顔になった遊汝に、4人はそれぞれにうなずいた。


続く。





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