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翌日は、朝から霧のような細かい雨が降っていた。
ニュースでは、午前午後とも降水確率七〇%。
空には灰色の雲が厚くのしかかっていて、湿度と不快度数とを上昇させている。
そんな目覚めの悪い朝、青蘭高校二年一組の教室は、いつもより僅かにHRを長引かせていた。
「今日から、教育実習に来た西村です。担当教科は現代文。
二週間の短い間ですが、よろしくお願いします」
担任教師から促されて自己紹介したのは、地味な灰色のスーツに、
少々趣味の悪い柄物のネクタイを絞めた、県内の大学から来た実習生であった。
男、という時点で、二一名の男子は最初から興味を消滅させていたが、
残り一六名の女子も、セットもされていないカラスのような黒髪に黒ぶち眼鏡という、
この実習生の冴えない風貌に期待を裏切られた気分で、心のこもっていない形だけの拍手を贈った。
実習生「西村浩二」。
もちろん、中身は『夜光虫』のリーダー、遊汝であった。
地味でダサい教育実習生、というのがこの変装の主題である。
この学校の中でいろいろと調べ回るには、目立つわけにはいかない。
城島雪美が事務所に訪れた時にもかけていた黒ぶち眼鏡は、
整った遊汝の顔を隠すには丁度いいアイテムであった。
童顔、と言ってしまえばそれまでだが、遊汝はまだ何処か少年ぽさの抜けない、整った顔をしていた。
おかげで、実年齢よりも下に見られることも稀ではないのだが、
眼鏡という小道具を使えば、それなりにインテリ然となるから不思議である。
あいさつを兼ねたHRが終わり、遊汝は二年一組の担任である坂本博之とともに教室を出た。
廊下は、移動教室に向かう生徒や友達と立ち話をする生徒で溢れていて、
すれ違う教育実習生に興味の視線を送る。
それに気づかないふりをしながら、遊汝は自分の少し前を歩く国語教師を見た。
坂本博之は、国語教師という職に似合わない、がっちりとした体躯をしていた。
年齢は三八歳。既に結婚していて、子供が二人いる。
性格的には温厚で明るく、話やすい雰囲気を持った男である。
「分からないことがあったら、どんなことでも遠慮せずに聞いてくれ。
そのかわり、同じことは二度聞くなよ?」
初対面の後にそう言われて、遊汝はこの教師に好感を持った。
にこにこ笑いながらの台詞ではあったが、その実、なかなかに厳しい言葉である。
一度聞いたことは忘れるな。
つまりは、一度で吸収、理解できるように常に気を抜くなということであろう。
こんな台詞をさらりと言える教師は、あまりいない。
他の教師が冗談半分に、
「坂本先生は実習生教育担当だからねぇ」
と言うのもよく分かる。
本人は苦笑しただけであったが、そう言われるのはまんざらでもなさそうだった。
右も左も分からずに来た実習生にしてみても、
坂本のような教師が担当についてくれれば心強いに違いない。
ただ。
こういった教師が側にいることは、調査のために潜入した遊汝にとって明らかなマイナスであった。
個人的には好感を持ったが、仕事面ではやりにくい。
遊汝が初対面からの数時間で見る限り、坂本は洞察力に長けているようであった。
「吉田先生、風邪でも引きましたか」
HRで教室に向かう前、職員室の右隣に座った地理教師にそう声を掛けていた。
何気ない一言だが、その教師は咳をしているわけでも鼻声になっているわけでもなかった。
「そうみたいなんですよ。今朝起きたらだるくて・・・。熱はなかったんですけどね・・・」
多少の変化を見抜く目を持っている。
それは、密かに任務を遂行しようという遊汝には最大のネックだった。
「・・・西村君、これを」
職員室に戻ると、自分の席に腰掛けて、坂本は時間割りの書かれたプリントを一枚遊汝に手渡した。
「今後の予定はこれに従っていくから。今日の一時間目は二年三組だから、
西村君は椅子を持って教室のいちばん後ろで授業を見ていてくれ。
二時間目以降も同じだ。いきなり教壇に立たせたり、ということはないから安心していいぞ」
「分かりました。よろしくお願いします」
遊汝は『実習生・西村浩二』の顔になると、深々と頭を下げた。
「そんな、かしこまらなくても」
笑って坂本は言ったが、前途を多難とする遊汝にとって、
彼は少しも気を抜けない存在であった。
予鈴が鳴った。
坂本は授業で使うテキストと国語辞典を手にして立ちあがった。
渡されたプリントをファイルに挟んで、遊汝は一時間目の教室に向かう坂本の後を追う。
「・・・教師によっては、一年から三年までの面倒を見る人もいるんだが、
僕は二年生だけの担当だから授業自体は楽だと思うぞ。
それでも最初のうちは慣れなくて大変かもしれないが・・・」
『西村浩二』としての遊汝の仕事は、現代文の教師である坂本博之の授業を見学し、
またそれと同時にクラス担任としての仕事を学ぶことである。
実習期間は二週間。
最初の一週間は主に見学中心であるが、二週間目に入ると、
担当クラスの授業を実習生自身が実際に行わなければならない。
遊汝が予習として教育実習生のマニュアルに目を通してみたところ、
テキストと参考書があればどうにかやっていけそうであった。
担当教科に現代文を選んだのは間違っていなかったらしい。
同じ文系でも古典や社会科などになると、下調べの量がハンパではなく、
さらにそれに呼応した知識も必要になる。
本職の仕事を平行させなければならない遊汝には、授業の下調べに時間を割くわけにはいかない。
期間が決められているなら尚更である。
「僕の授業のやりかたは、遠慮せずにどんどん盗んでいいから」
「ありがとうございます」
人のいい言葉にそう礼を返すと、坂本は笑って頷いてみせた。
「どういうこと・・・?」
橙の呟きに、大関は眉を寄せて頭を振ってみせた。
「俺に聞かれてもわかんねぇよ・・・」
実際、大関はそう言うしかなかった。
そもそも、橙自身も本気で回答を得ようと大関に問うたわけではない。
混乱した中から自然に出た呟き。
二人が混乱するのも無理はなかった。
つい先刻彼らが目撃した光景は、日常のワンシーンとして受けとめるには少々不自然すぎた。
「・・・っ、とにかく、学校を出ねぇ?」
考える仕種をして大関が見上げると、橙は僅かに頷いてみせる。
「ん。向こうに気付かれてはいないと思うけど・・・、鉢合わせしたらマズイよね」
意見は数秒でまとまって、二人は足早に『青蘭高校』の校舎を出た。
予定としては、放課後に学校内で一度遊汝と落ち合うことにしていたのだが、背に腹はかえられない。
このまま校舎に残っていることだけは避けたほうがいい、との見解は二人とも同じであった。
「あの・・・封筒の中身、なんだったんだろう・・・」
独り言とも問いかけともとれる呟きを橙が口にしたのは、
校舎から直線距離にして五〇メートル程離れた校門を出た後であった。
前後左右、誰もいないと分かってはいても、学校の敷地を出るまで二人は口を開かなかった。
否、開けなかった。
相変わらず霧雨は降り続いている。
傘を持ってはいたが、ひらくほどの雨量ではなく、
同時に制服に水の微粒子がつくことを気にするほどの精神的余裕もない。
「なに・・・だろうな・・・」
大関はふっくらした唇を僅かに噛んで、つい先刻目にした光景を思い出した。
場所は、第三校舎の裏庭。
大関と橙は、そこに雨の降り込まないコンクリートで囲まれた空間を見つけて、腰を下ろしていた。
運動場とはフェンスと植木で仕切られているその場所に、人影は皆無だった。
そこから見える濡れたグランドも同様である。
この雨の中、部活動を決行するほど熱心な運動部はないらしい。
下校時刻も過ぎた時間、裏庭は静かに雨の音だけが響いていた。
二人が、そんな人影のない校舎裏で落ち合っていたのは、それなりの理由があった。
設定として、二人は実の姉弟ということになっている。
理屈的には姉と弟が学校で立ち話をしていても不自然ではないのだが、
はたして、今時の高校生が、いくら転校してきたばかりとはいえ学校内で姉弟仲良く話をするだろうか。
どうもそうは思えない。
そのあたりを考慮した上で、探した場所であった。
「なんか、新しいこと分かった?」
話の内容は、もちろん調査経過報告になる。
橙に多少期待の混じった目でそう尋ねられて、大関は眉を寄せると小さく首を振った。
「・・・さすがにあの話ばっかりもできねぇしさぁ・・・。かなり、難航中。そっちは?」
「右に同じ、って感じ」
僅かな期待が、やっぱりか、という色に変化して、橙は軽い溜息をついた。
「とにかく、城島先生がほんとに生徒に好かれてた、ってのはよくわかったんだけどね・・・」
隣の席の水谷沙耶を筆頭に、ようやく打ち解けてきたクラスの生徒誰に聞いても、
城島秀二を悪く言うものはいなかった。
城島は生物の教師であったのだが、
その人柄からか生徒から個人的な悩みを相談されることも稀ではなかったらしい。
「あたし、彼氏と別れた時に相談に乗ってもらった〜」
という女子もいれば、
「部活で悩んでた時、ソートー世話になった・・・」
という男子もいる、といった風である。
他の教師からの評判はどうだったのかそれとなく聞いてみても、反応は同じであった。
「わけわかんねぇ・・・」
今の気持ちを一言に集約して、大関は嘆息した。
「なんか、自殺しそうにも思えないし、かといって殺される動機もねぇし・・・」
プリーツスカートの裾に気をつけながら、橙の隣に腰を下ろす。
「後は、遊汝が職員室から情報集めてくるのを待つしかねぇな」
「それから、印刷室の中も、ね・・・」
生徒のみでの入室が禁止されている印刷室の内部は、実習生に扮した遊汝が調査するしかない。
本鍵と補助鍵の有無、さらに、首を吊ったと言われる蛍光灯。
遺書が置いてあったコピー機。
とりあえず印刷室を調べないかぎりは話にならない。
「生徒から情報を、つったって、そう簡単には・・・なぁ・・・」
スムーズに進みそうもない前途に、大関が再び溜息をつきかけたとき。
「・・・誰か来た」
橙はその顔に緊張を走らせた。
口を閉じて、大関は瞳だけを動かす。
微かな足音と、話し声。
二人は中腰になると、息を潜めて音源を伺った。
聞こえてくる声は、男子生徒のもののようである。三人、もしくは四人。
近づいてくる。
「まだあいつ、来てねぇの?」
「ったく、遅ぇんだよ」
そんな会話の断片が聞き取れるほど話し声が近くなって、大関と橙は顔を見合わせた。
これ以上近づいて来られて、見つかるのはマズイ。
どこかに隠れる場所は、と二人が慌てたとき、複数の足音は止まった。
「時間は?」
「ちょうど」
コンクリートの壁に身を寄せて動向を伺う限り、こちらに気付いた様子はない。
浮かし掛けた腰を再びゆっくりとそこに沈めて、二人は聞き耳を立てた。
そうしたことに、特に大した理由はなかった。
敢えて言うならば、好奇心というか、野次馬心というか。
生徒のほとんどが下校してしまったこの時間、わざわざ校舎の裏庭で誰かと待ち合わせをしている・・・。そんな事実に、二人の好奇心が煽られた。
そっと顔を出して伺う。
大関と橙から五メートルも離れていない場所にいたのは、制服を着た三人の男子生徒だった。
特に変わったところなどない、普通の生徒である。
その姿を確認して、大関と橙は再びコンクリートの壁に隠れた。
先刻の口調からして、仲間を待っているわけではなさそうであった。
好きな女の子を呼び出した、というのも違うだろう。
いじめとか私刑?とも考えたが、時間を指定したいじめというのも考え難い。
じゃぁ、何?
「・・・あ、来た」
三人のうちの誰かがそう言ったのは、二人の中で結論が出る前だった。
橙が再びそっと顔を出す。その姿を認めた瞬間、橙の瞳が僅かに開いた。
「きょ・・・」
「・・・?」
聞き取れないほどの微かな声を洩らして固まった橙に、大関は怪訝な表情をして眉を寄せる。
俺にも見せろ、と橙のブレザーを引っ張ると、橙は無言で身体をずらして場所を空ける。
そこから覗いた大関は、次の瞬間、橙と全く同じように凍りついた。
「教頭・・・」
三人の男子生徒の元へ歩いてきたのは、間違いなく、
昨日大関と橙を職員室から社長室まで連れて行った青蘭高校の教頭・岩井だった。
あいも変わらず陰険そうな顔。
それが微妙に笑んでいて、二人はぞっとした。
つい先刻のその光景を思い出して、大関は複雑な表情を作った。
「あんまり、まともじゃなかったよな・・・」
隣を歩く橙を見上げる。頷きを返される。
その後二人が覗き見たのは、男子生徒の一人が教頭・岩井に一台の携帯電話を渡し、
その代わりとでもいうように、A4サイズの封筒を受け取るシーンであった。
当然ながら、青蘭高校は携帯電話の持ちこみは校則で禁止されている。
このご時世だから携帯電話を持たない生徒も少ないが、
見つかれば即取り上げられた上に保護者に連絡がいくため、
教師の目の届くところでは巧妙に隠している。
それを、さも当たり前のように差し出し、
岩井もまた何も言わずにスーツの内ポケットに収めたのである。
次いでもう一人の男子生徒がどこにでもあるような無地の封筒を受け取り、
中を確認すると教頭に頷いてみせた。
その間、ほとんど言葉は交わされなかった。
大関と橙は息を殺してそれを見守っていたが、他に何もなく教頭はもと来た道を戻って行き、
三人の男子生徒も結局最後まで背後から見られていることに気付かず、
校舎の中に入っていった。
つい先刻目の前で展開された出来事が、一体何を意味するのか、二人には全く解らなかった。
ただ容易に想像できることと言えば、少なくとも、二人が見たその光景は、相手…
三人の男子生徒と岩井教頭にとって決して見られたくなかった場面であろうということである。
誰に見られてもいいようなやり取りなら、わざわざ場所を放課後の
誰も居ない校舎裏にする必要はない。
…身体が、冷えていた。
霧雨のせいだけではない。体温が下がっている。
校門からそう遠くないバス停に着いて、橙は時刻表と自分の腕時計を見比べた。
「…ある?」
「ん、あと五分くらいで来る…」
早く、事務所に帰りたかった。
続く。
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ぎゃう〜続きが非常に気になります…。
探偵な遊汝さんがね…想像すると…かっこいい…。
めぐみさん、どうか宜しく★載せるの遅れてごめんなさい。(苦)
ご感想もお待ちしております。
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