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[MASK=2=]
息をつく暇もない日々が何日が過ぎて、気がつけば、京は独りきりになっていた。
住み慣れた部屋が、妙によそよそしく、冷たく、――広く見える。
トシヤの葬儀は、内輪だけで、ひっそりと行った。
訃報を出した相手の大半は、学生時代やバイト先の友人たち。
けれど彼らにも、トシヤの死因は明らかにしていない。
…できれば、隠し通すつもりだった。最後まで。
隠して、乗り越えて、いつかは忘れてしまおうと決めたのに、それでも、耳の奥から離れない言葉がある。
――…MASK…が…っ……
トシヤが最期に遺した単語。
MASKというのは、恐らく、彼がハマってしまった麻薬の名前だろう。
それらしい症状はあまり見せなかったけれど、最期の様子から推測するなら、幻覚系だろうか。
けれど、MASKなんて、聞いたことのない名前だ。
――それより何より、トシヤは何を伝えようとしたのか。
何故京に、その名を教えたのだろう?
そもそも、トシヤが麻薬に手を出し始めたきっかけは?
それに、麻薬中毒にしては異様な苦しみ方をしていたし、あんな死に方、するものなんだろうか。
(…何も、分からん…)
残された疑問ばかりが、日々、京の胸を圧迫する。
夢にも思わなかった、早すぎる死別。
聞いたこともない麻薬。
(…トシヤ……)
今になって改めて、存在の大きさを思い知らされる。
身を投げ出したトシヤのベッドの上で、独りでに涙が零れるのを抑えられない。
――MASKの存在が憎い。
自分からトシヤを奪い去っていったモノ。
あのトシヤを、そこまで囚えて離さなかったモノ。
今までに嫌った、憎んだ、どんな他のものよりも憎んだ。
なのに、抑え切れそうにない興味があることも否めない。
あの日トシヤが買ってきた“MASK”は、その日のうちに処分してしまった。
けれど今となっては、馬鹿なことをしたと思う。
少しでも取っておいて、警察なり何なりに届ければ良かったのだ。
「MASK……」
声に出して、その名をなぞってみる。
――ややあってから、京は、ベッドサイドに投げ出したままだったトシヤの携帯に手を伸ばした。
XXX
「…あんたが、薫?」
薄暗い夕闇に紛れる歓楽街。
その裏路地をいくつか入ったところで、京は、その売人に会った。
――もしかしたらと思って検索した、トシヤの携帯のメモリー。
“薫”という見慣れない名前がそこにあった。
…手がかりになるのなら、誰でも、何でもよかった。
危険だろうと、たとえ罠だろうと、かまわない。
そんな気持ちでかけた電話での話は、拍子抜けするほどあっさりと運んだ。
「ああ。京くん?」
それほど長身というわけではないが、紫に染めた髪と、どことなくヤバそうな雰囲気が、
周囲から浮いたように見せている。
そんな薫の斜め後ろに、寄り添うように佇む人影がひとつ。
ほっそりとした彼を見つめる京の視線に気づいたのか、薫は、口唇の端だけで薄く笑った。
「こいつは、パートナーのシンヤ。そんなに警戒せんでもええって」
なあ、と、彼――シンヤに笑いかける。
金に近い色の髪を揺らして、シンヤは曖昧に首を傾げた。
「それで…どのくらいいるん?」
「えっと…相場とかは?」
「1g10万」
さらっと言われ、京は思わず返す言葉を失う。
トシヤが“バイト増やさなきゃ…”みたいなことを言っていたのは覚えていたから、それなりの額は覚悟していた。
けれど、普通に街で買えるんだから、たかだか1g1万円とか、そんなものだろうと思っていたのだ。
10万なんて、さすがにそんな大金は払えない。
「…高い…」
そしてややあってから呟いた一言は、不満というよりも困惑の色合いに近かった。
そんな京が面白いのか、薫は、切れ長な目を細めて笑う。
「新種の相場なんてそんなもんやろ?」
「知らへんもん…麻薬の相場なんて」
「それでよく買いに来たなあ。誰の紹介?」
薫の何気ない質問に、心拍数が跳ね上がった。
…トシヤのことを聞くためにここに来たのだから、これは、願ってもいない絶好の機会。
なのに、トシヤの名前を口にするのがまだ辛くて、京は何秒かの沈黙を作ってしまう。
「何や知らん奴から聞いた、とか言うなや?」
「いや…トシヤ、っていう奴から…」
怪訝そうな薫に、震えを抑えた声で、できるだけさりげなさを装って答える。
と、その瞬間、彼の目に今までとは違う色が過った。
それに気付いた京がシンヤの方を窺がうと、彼も微妙にその無表情を崩して、薫の出方を窺うような眼をしている。
「トシヤのこと…知っとる?」
「…ああ、まあな…」
意を決して問い掛けると、薫は曖昧に頷いてシンヤを振り返った。
一言二言ひそひそと話をすると、彼のカバンから、小さな包みをいくつか出させる。
京がもう一度トシヤのことを口にしようとした、そのタイミングを遮るように、薫は包みを差し出した。
「金はええから、持ってき。それと…次からは、こいつんとこで買ってくれ」
「え?」
訳が分からずに、京は条件反射でそれらを受け取る。
一緒に渡された名刺に目を落とすと、別の売人のものらしい名前と電話番号が書いてあった。
「金はええって…そんなこと言われても困るわ!」
「初めての客やし、トシヤの紹介なら、それくらいのサービスはしたるわ」
「“それくらい”で済む額やないやろ!? 何でトシヤの紹介やからって…」
「隠さんでもええよ。トシヤの弟の、京くん」
「…あ…」
何で知ってる――そう問い詰めようとして、京はぎりぎりのところで思いとどまる。
京がトシヤの弟だと知っているということは、トシヤと何らかの関わりがあったことを意味しているに違いない。
そしてトシヤは、あまり自分のことを話すタイプではなかった。
その二つからは、この薫という男が、トシヤとある程度の近しい付き合いをしていたということが窺える。
「じゃあ…、トシヤのことも知ってるんやろ? トシヤがいつから、何でMASKに手出したのかとか」
冷静に、できるだけ冷静に問い掛ける京に、薫は答えない。
ポケットからタバコの箱を出して、その内の一本に火をつける。
「何でもええから、教えて欲しい。あんたが知ってる、トシヤのことなら何でも」
懇願だった。
今彼を逃してしまったら、また一からの出直しになってしまう。
絶対に、逃せない。
なのに薫は、やはり答えてくれる気はなさそうで。
――そうしてややあってから、薫は、紫煙の立ち上るタバコを足元に落とした。
爪先で火を消して、こちらを振り向く。
凍てついたような、表情のない眼で、京を見つめて。
「…守秘義務」
それだけを言い残して、薫は踵を返した。
「……っ…」
何故だろう。その男から、本能的に危険を感じた。
路地裏に消えて行く背中を、一歩も追いかけることが出来ないくらいの恐怖。
「シンヤ!」
角を曲がるすこし手前で、薫が相方の名を呼ぶ。
振り向いて僅かに頷き、シンヤも体を反転させる――その一瞬前に、彼は、一枚の紙切れを京の手に押し付けた。
そしてそのまま、薫の消えた方へと走り去っていく。
その細い後ろ姿が視界から消え去った瞬間、気付かなかった雑音が耳に入ってきた。
繁華街、歓楽街の路地裏らしいざわめき。
カラスの鳴く声。
こんなにうるさい場所だったのかと、初めて気付く。
「…何や…一体……」
今になって吹き出してきた冷や汗に、京は掠れた声でそれだけを呟いた。
押し付けられた包みと名刺をカバンに突っ込んで、シンヤに渡された方の紙切れを開く。
そこには、電話番号だけが書き殴られていた。
XXX
シンヤと話してみる決心がついたのは、夜も更けた頃だった。
番号をプッシュして、呼び出し音に耳を澄ます。
何コールからあってから、シンヤの声が聞こえてきた。
『…はい…』
「あ、シンヤ…? 京やけど」
『…ああ』
ちょっとあってから、思い出したような反応。それだけで、他には喋らない。
沈黙が生まれて、電話の向こうが意外と静かなのが分かった。
もう家に帰っているのだろうか。
「あの…トシヤのこと、何か知っとるん?」
『…薫くんが、かなり気に入ってた』
「気に入ってた?」
『MASKで死んだって分かって、ショック受けとるよ。
アレが……のクスリだって…………トシヤ…こと、かわいがってたから』
京が問うと、意味の探りにくい言葉でシンヤは答える。
時折ノイズが入って、聞き取れない部分もあった。
けれど、その僅かに皮肉めいた口調から、彼の言葉の真意は何となく窺える。
「可愛がってた…って…」
『しょっちゅう呼び出して相手させてたやん。そういうこと』
「な…っんで…」
何でもないことのように肯定されて、思わず問い返しそうになる。
今更ながらに、今回のことの異常性を思い知らされた気分だった。
麻薬だけじゃなく、男の相手までしていた?
そんなこと、ますます信じがたい。
京のそんな動揺を余所に、シンヤは続ける。
『京くんも、使ってみたら? そしたら、トシヤの気持ちが分かるかもよ』
「そんなこと…っ!」
淡々とした言葉。
それに反論しようとした瞬間、電話の向こうから、誰かの怒鳴る声が聞こえてきた。
シンヤが何か言い返して、続け様に、言い争いに縺れ込む。
相手の声をよく聞いてみれば、どうやら薫のようだ。
『痛っ!』
「シンヤ!? シンヤ、どうし…」
最後に遠くから悲鳴が聞こえて、どうしたのかと問う間もなく、電話は切れた。
慌ててリダイヤルでかけ直しても、電源を切られたのか、応答メッセージが流れるばかりだ。
「…そんなこと言われても、役に立たんわ…っ!」
シンヤとの話だけでは、ほとんどの謎が解けないままだ。
そんな言葉で毒づく。
そうしたって無駄だと分かっているのに、そうでもしないとやりきれない思いだ。
…もう、これ以上探っても、知りたくないことしか掴めないような気がする。
これ以上、自分の中のトシヤを汚したくない。
前のままの、優しい、普通のトシヤでいてほしい。
…せめて自分の記憶の中では、そのようにいさせてあげたい。
なのに、そんな願いを嘲笑うかのように、現実は重く京の心にのしかかってくる。
「…薫の、相手」
実感が伴わないまま、自分に言い聞かせるように、反芻してみた。
それに触発されたかのように、シンヤの言葉が耳に蘇る。
――京くんも、使ってみたら? そしたら、トシヤの気持ちが分かるかもよ
その声に誘われるように、京は机の上に放り出したままだった包みに目を向けた。
薫がくれたMASKだ。白色ガラスを砕いたみたいな粉末には、見覚えがある。
――京くんも、使ってみたら?
「誰が…」
――そしたら、トシヤの気持ちが分かるかもよ
脳裏から語り掛けてくるのは、最早シンヤの声ではなくて、もう一人の自分。
口唇は抵抗の言葉を紡ごうとしているのに、腕はそれとは独立した別の生き物のように、
包みに、トシヤが遺した注射器に手を伸ばす。
――使ってみたら? そしたら、トシヤの気持ちが分かる……よ
白い粉。
ただの、白い粉。
これを水に溶かして、この注射器で吸い上げて、あとは腕に刺すだけ。
トシヤがそうしていたように。
そうすれば、トシヤの気持ちが分かる?
分かる…?
――分かる……よ
(ありえない)
そう、ありえないと分かっている。
ただ、トシヤの辿った道をなぞるだけになってしまうということも。
そればかりか、残される者の悲しみも分かりきっているはずなのに、京の指は包みを握ったまま、
一向にそれを離そうととしない。
(…トシヤ…)
―― 一緒に堕ちよう
思い出す声。
脳裏にこびりついた、消せない言葉。
(…一緒に堕ちよう)
XXX
(…ああ、)
薄れゆく意識の中、ぼんやりと思う。
上昇感と下降感の混ざったような、微妙な浮遊感。
軽い吐き気を感じた。けれど体と脳を支配するのは、それを遥かに上回る恍惚。
クスリの力なしでは、一生手に入れられなかっただろう。
これが、トシヤを虜にした快楽。
―――――――――――――――――――――――――原作:Hikaru.M&雪緒、書いた人:雪緒
MASKとは結局なんなのか?!トシヤと薫は一体どういう関係だったのか?!
真相は続きを 【のち】」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」」